06話 アシストグリップ
私が資料を受け取って二日後の五月十日。
初めてのダイブが、まさかのプロの作家の依頼によって行われることになるという事実を、現実のものとして受け入れる時間的な余裕はなかった――依頼を達成するための作業は、主に手慣れた先輩たちの手であれよあれよという間に進められ、ただ私は取り残されないよう状況を把握することだけで必死だった。
会議室の時計の針は、午前十時三十分。河合課長と筆石先輩と一緒に、U字型にテーブルが並べられたその片側に並んで座り、次のステップ――作者と顔を合わせての話し合いが始まるのを待っていた。
「はー……」
緊張する。この二日間で私がやったことは、大きく分けて三つ。
乾燥かりい先生の依頼作を隅々まで読みこんで、どういった作品なのか、どういう人物がいるのか概要を理解した上で、依頼の概要を把握することが一つ。
特課揃って、各自黙々とデスクで娯楽本のページを捲る音と、本田さんが淹れてくれたお茶をすする音だけが聞こえる奇妙な光景。傍から見れば休んでいるように見えるけれども、もちろん仕事の一環。楽しんで読むのと仕事で読むのとでは、疲れ具合がぜんぜん違う。
頭を働かせて読むと、作者の言葉の選びや描き方がよく練られていると、素人ながら感心。
二つめは、各自が読みこんだ作品と依頼の理解を確認しあい、どういうアプローチで依頼を達成するかについて特課での会議に出席すること。新入りの私は話を理解するだけでも大変だった。
そして三つめは、祈りを捧げること。生まれてこのかた二十三年、一貫して無宗教の私が、人目をはばかり丑三つ時。近所の道路に面して置かれている地蔵に、伏して依頼成功を祈願したのは、大学受験以来のこと。
ちなみにその地蔵さまは実は交通安全を祈願するものだったというのは、今朝地蔵について調べてくれたアイから聞いたお話。……前回受かったし今回もなんとかしてくれるはず! 地蔵・イズ・ベストマイフレンド!
「どう? 会議には付いて行けそう?」
隣に座った筆石が、リンゴジュースのペットボトルを器用に片手で開けながら綾乃に尋ねた。
「はい。たぶん大丈夫です」
綾乃は机の上に開かれた、少々目立つノートパソコンを見る。RS-01――アイの本体。
私はアイを使って会議の記録をとるようにと、河合課長から指示を受けた。
記録にまとめる人が、一番流れをよく理解できるからね。そう課長は言っていた。
会議の記録のとり方もナビゲーションします!
テキストエディタが表示されている画面の右下で、二等身のイラストにデフォルメされたアイが手を振る。その横に、そんな張り切った吹き出しが飛び出した。
私の聞いた話が確かならば、アイが会議に出るのはこれが初めてのはず。
「ありがとね」
そう私が呟くと、画面のアイが笑った。どうやら内蔵のマイクで音を拾っているようだ。なるほど、これで会議の音声を聞いて、アイも密かに参加しようという魂胆らしい。
定刻数分前。
不意に会議室にノック音が響き、軽い音を立てて開かれた入り口の扉から赤井が顔を覗かせた。
「課長、豊倉出版の方がお見えになりました」
そう言って一瞬河合課長と目くばせをしたかと思うと、赤井さんは身を引きながら「どうぞ」と来客に促すように手の平で室内を示す。肝心の来客の姿はこちらからは扉の陰になっていて見えなかった。
ついに来た!
会議室のドアが開く音がするや否や、河合は来客を迎えるべく椅子から立ち上がって入り口に向き直る。筆石と綾乃も、河合に続いて立ちあがった。
初めて対面する顧客の姿に、上昇する綾乃の心拍数。まるで酸素を来客に吸い取られたかのような息苦しさがする。
紹介され入ってきた来客の一人、貫禄滲み出る五十代くらいの男は、泰然自若たる構えで、深々と口を開く。
「豊倉出版、編集部の小長谷と申します。此度はどうか、宜しくお願い致します」
……あの、課長。お手洗いに行ってきてもよろしいでしょうか。
*
緊張の会議から四日後のこと。ダイブ装置の点検をしに行くからついてきなさいと筆石先輩に言われた。
「本田さん、ホントに行かなくていいですか?」
いざ出る段になって、指にかけた社用車の鍵をもてあそびながら出入り口の把手に手をかけた筆石が、おもむろにそう言ってオフィス内を振り返った。筆石について出ようとした綾乃とアイも、それにつられて振り返る。三人の視線の先には、河合課長と赤井が席を外したオフィスで、前のめり気味に一人パソコンの画面に向かう本田の姿があった。
ああうん。作業途中らしく、本田は少し画面に気を取られながらも、そう答えて筆石に目線を返す。
「午後からの承認会議の資料がね。それに一緒に行っても難しい機械の事とか分からないから」
苦笑交じりにそう言った本田に、筆石は「OKです」と苦笑を返して把手を引いた。
「頑張ってください」
「ああうん。ありがとう」
そのまま本田と一言交わし、「行くよ綾乃さん」と声をかけて把手を綾乃に譲る。
「それじゃあ、行ってきます」
「ん。行ってらっしゃーい」
笑顔で送り出してくれた本田に、綾乃は頭を下げて振り返る。見ると、綾乃が本田と挨拶を交わしている間にアイはちゃっかり筆石の後にくっついていっていた。
「あ。綾乃さん」
見失う前に二人に追いつかないと。駆け出すくらいの気持ちで追いかけようとした綾乃を、本田が思い出したように呼び止めた。
「はい」
ちょっと焦れつつ振り返った綾乃に、本田は何かを言いかけて――やめた。
「えーっと……気をつけて行ってらっしゃい」
「? ありがとうございます」
なんでわざわざ呼び止めて、もう一度行ってらっしゃい?
少し不審に思いながらも、綾乃は筆石とアイの背中を追った。
建物に背を向けるように駐車している会社所有の白いバン。典型的なザ・社用車。運転席のドアに、筆石先輩がキーを差し込んだ。
ダイバーの社屋にはダイブ装置はない。少し離れたところに装置があるのだと、私を誘ったときに筆石先輩が言っていた。
確かに近場ではないとなると、お茶を淹れる余裕さえなく、自販機で買ったお茶を飲みながらパソコンに向かって作業する本田先輩が断りを入れたのは、当然の話だと綾乃は思った。
「アヤノさん、嬉しそうです」
自分の本体を大事そうに抱えたままスライドドアの前で止まったアイが、自分も嬉しそうな笑顔で綾乃に言う。
「うん、まあね」
ダイブ装置の点検よりも。私には少し嬉しいイベントがあった。「お昼とかどう? 美味しい店が途中にあるのよ」と、装置の点検に行く話のついでに誘われたのだ。
私が特課に配属されてから、明日で一週間。入社して初めての先輩との外食! 誘われたことが嬉しかった。
「私も、会社の外に出るのは初めてなんです!」
「そうなんだ」
顔をほころばせたアイに答えて、私は助手席のドアを開けて乗りこんだ。
シートベルトをつけて、一拍おいて、クルマのエンジンがかかる。ふと気づくと、まだアイはバンに乗っていない。
「アイちゃん?」
不思議に思って窓を下ろして顔を出すと、アイが私を見て首を振る。
「その……どうやって車に乗るのですか?」
箱入り娘のアイちゃんでした。
バンは県道を少し走って、すぐに山に入った。自動車一台が通れるだけの細い道。この先行き止まりと書かれた古びた看板を通り抜け、昔に整備されたきりなのだろう、割れたアスファルトの道を揺れながら山を登る。
数分もしないうちに、緑色のフェンスと閉じられた錆びた鉄の門にたどり着いて、停車する。
”私有地につき立入禁止 -株式会社ダイバー-”
門に括りつけられた看板は光で色褪せ、赤錆びた水の流れた跡が残るけれども、ここから先はダイバーの私有地であるとはっきり宣言していた。
筆石先輩は車から降りて、南京錠を解錠して門を開けた。門の向こうからは、未舗装路になっている。
「さて、ここからは会社の私有地、公道じゃないわよね? ハル」
『……ええ』
車に戻ってきて、シートベルトをつけるなりそう言うと、ハルはためらいつつ肯定した。筆石先輩はアクセルを踏み込んだ。
「えっ、ちょっと先輩!?」
「『時は金なり』って言葉、知ってる? ちょっと運動するだけよ」
「『人の命は地球より重い』って知ってますか先輩!?」
シフトレバーの頭に手を添えて、口角を上げる筆石先輩。
筆石先輩、ハンドルを握ると人が変わる――じゃなくて私有地に入ると人が変わる人でした!
「大丈夫よ、ちょっとタイムが気になってるだけだから!」
マッドな笑顔を見せ、コリコリとシフトレバーを操るやいなや、今まで従順だったバンのエンジンが甲高い雄叫びを上げる。
「課長に言いつけますよ!」
『残念ながら言乃葉さま、フミカにドライビングを教えたのは河合さま本人です。そして当面のフミカの目標は河合さまの記録を超える事でして』
あの温厚そうな課長に仕込まれたって!? 嘘でしょっ!?
先輩がお昼に外食しようと誘ってきたのは、この為だったんだ! 上下に激しく揺れる車内で、舌を噛みそうになりながら上げた抗議の声も、筆石先輩にはただの楽しい悲鳴でしかないのだろう。
「マニュアルはいいわ。オートマのトロいギアチェンになんか付き合えない」
今まで車の天井についている取っ手はお飾りだと思っていました、言ノ葉綾乃です。こういう人の運転に付き合うためのものだったんですね! その存在のありがたみを肌で感じつつ、死んでも離さないつもりで握る。
路面の砂利が巻き上げられ、泥除けにチリチリと当たる音がする。あ、今ゴツンって言った! ゴツンって音がしましたよ先輩!!
咆哮を上げるエンジンの一瞬の沈黙。身体が左に振られ直後急減速。シートベルトのロックが掛かる。ギアの入れ替わる音。タイヤはゴリゴリと音を立て、小刻みに振動する車内。
横滑りしながら転がろうと大きく傾く車体。フロントガラスいっぱいに広がるのは、カーブの内側の竹林の幹の数々。思い出したように吠え立てるエンジン。筆石先輩の握るハンドルがせわしなく右、右、左、右。
「あっ、あっ――」
後部座席のアイちゃんは、両手でしっかり自分の本体を抱えながら振り回されている。
「おっと」
カーブを抜け、未だ動物の尻尾のように左右に振れる車体後部に、アクセルが弱まり、せわしなくハンドルが回される。
落ち着いてすぐまた次のカーブに向けてバンが突進していく。
「ダートはFRで走ってこそだと思わない? 別に四駆でもいいけどさぁ!」
「先輩もうやめてください!」
「まあ、山道を攻めるにはバンの足回りがフニャフニャすぎて好みじゃないんだけどね」
もうやだこの先輩。私の声届いてない。