05話 胎動
「お、ちょうど長い話も終わったかな」
話が終わったその時、ちょうど本田がおぼんに人数分の湯のみと急須を持って戻ってきた。おぼんを自分のデスクの上においてから湯のみを出しお茶を入れてから課長の机に置く。
「はい課長。行ったり来たりお疲れ様です」
「ん、ありがとう。僕ももう五十代半ばだけど、まだまだ動ける気がしてるよ」
課長はデスクのパソコンから視線を外さず答え、彼が置いた湯のみを早速手にとる。熱々のお茶からあがる湯気が、彼の眼鏡を白く曇らせた。
「それからこれ、綾乃さんの分」
「ありがとうございます」
アイと一緒にパソコンの設置作業をしていた綾乃は、彼の方を振り向いて片手を差し出して受け取る。陶製の湯のみだ。綾乃は物が当たって倒さないよう、隣の空席にそれを置いた。
「で、君たちはお茶いるかな?」
綾乃の席にお茶を置いてから二人の方を向き直り尋ねる。
赤井は、一瞬机上の空のマグカップに目をやると、
「いらん」
本田に向かってそう一言だけ返した。
「ほいほい。筆石さんはどうする?」
「私もいりません。まだ紅茶残ってるので」
筆石は紙コップを持ち上げて見せた。それを見た本田は『今日はお茶人気ないね』と肩をすくめて持ってきたコップを戻しに行った。
お茶をすする音と紙をめくる音、椅子のきしむ音、アイと綾乃のヒソヒソとした話し声以外には、聞こえてくるのは特別課の前を通る足音と、会社の前の道を走る自動車の走行音だけ、というある種静けさとも言える空気がオフィスに降りた。その頃合いを見計らったかのように、デスクに据えられた電話が聞きなれたコール音を響かせた。
ワンコールが終わるより早く、半ば反射的に赤井がその受話器を取る。電話機本体を見ると、内線のランプが点灯していた。
「特課赤井――」
赤井が名乗るのを殆ど待たず、電話口の相手がよく知られた出版社名をあげ、資料送付の確認電話が来ている旨とその外線番号を伝えてきた。
「ああ。うん。資料送付の確認で、二番ね」
赤井は取り次ぎ内容を手短に復唱して、フックボタンを押し一旦電話を切る。そしてそのまま、外線二番のボタンを押し、受話器を首に挟んで机上のメモパッドを手元に引き寄せ、付属のペンを手に取った。
アヤノさんお願いしまーす。そんなアイの声が綾乃の机の下から響き、向かい合う机との隙間から、パソコン用の太い電源ケーブルを突き出す。
お願いされた当の本人は、動物の尻尾のように振れるその電源コードを手で捉えつつも、口数の少ない赤井が電話を取っているその様子を見ていた。
えー!? 今プルルのプルしか鳴ってなかったのに取っちゃったよあの人!?
「お待たせいたしました。株式会社ダイバー業務特別課、赤井が承ります」
しかも不機嫌で無愛想な声をしていたのに、お客さん相手だと超爽やかな声になってるし!
「はい、いつもお世話になっております。この度は資料送付の確認のお電話と伺っておりますが――はい。はい」
赤井は電話口の相手の声に耳を傾けながら、要点をメモしていく。
「確認いたしますので、少々お待ちください」
赤井は相手の返事を聞いて一旦通話を保留に入れ、素早く自分のPCから課のメールボックスに来ていた出版社からのメールを確認する。そこに書かれていた暗証コードと手元にあるお客様番号を使い、会社のサーバーから出版社の送付したという依頼作品の詳細資料を呼び出す。
通話を再開すると、相手はすぐに応答した。
「確認いたしました。はい。確かに承りました――」
続けて、この後予定している打ち合わせの日取りについて最終確認をしようと、デスク上のカレンダーに目線をやった所で、電話口の相手が先んじて今後の予定を問い合わせてきた。
「はい、間違いありません。当日はよろしくお願いします……はい?」
依頼作の原本ですか? 思い出したように付け加えられた言葉に、赤井は思わずそう問い返してしまっていた。曰く、今朝十時までに届くように依頼作品の原本を発送したとのこと。赤井は自分の右袖を引いてそこにはめた腕輪を見る。その辺りの意思疎通は完璧で、腕輪には現在の時刻が刻印されていた。十時などとっくに過ぎている。
「確認いたしますので、今しばらくお待ちください」
そうクライアントに伝えて電話を保留に入れ、赤井はディスプレイの間からいつもの様にサポートAIのハルと何やら言い争っている筆石に声をかける。
「今度の原本、今日十時までに入るはずって言ってるんだが――ちょっと確認してくれるか?」
「あ、はい。了解っす」
筆石はそういうとハルに指示を出す。それにハルは渋々応じた。コンピューターから社内ネットにアクセスし、目的のファイルを探し出す。
『フミカ、原本を確認しました』
「赤井さん、ありました」
「ん。ありがとう」
言うが早いか、赤井はクライアントとの電話を取り直す。
「お待たせしました――はい。確かに届いています。はい――はい。それでは、打ち合わせ当日に。よろしくお願いします」
失礼いたします、と一言添えて、赤井は受話器から回線が切れたことを示す音が聞こえるのを待って、フックボタンを押し込んだ。
「話のテンポとテンションがやたら高い奴だったな」
元の無愛想な低い声で誰にともなくそう零し、赤井は受話器を置いた。
「とにかく、やっとまともな資料が来たぞ」
「おー来たか。どれどれ」
そう言いながら本田が席に座る赤井の後ろからPCの画面を覗き込んだ。
元々お酒に強い質ではない赤井は、鼻を突く酒臭さに顔をしかめ、酒気を避ける様にわざとらしく体を逸らす。
「おおっとすまんすまん」
「あんたはお茶よかカフェインだな」
謝りながら申し訳なさそうに頭をかく本田に、赤井はそう言って資料を五部印刷にかけて席を立つ。
「勝手に使っていいぞ」
最後に立ったまま印刷実行ボタンをクリックして、赤井は本田に声をかける。印刷機の下に歩いて行った。
「そうさせてもらうとするよ」
背中にかけられた本田の言葉に答えるでもなく、赤井は印刷機のそばで次々と吐き出されてくる最新資料を順に手に取り、その都度斜めに目を通していく。やがて一部全てが印刷し終わった所で、机に落として紙を揃えると、その束を課長の席に持って行った。
「最新資料です」
「ん、ありがとう」
課長はパソコンから目を離し、腕を伸ばして赤井の資料を受け取るなり、さっそく眼鏡を額に上げて内容の閲覧を始めた。赤井は課長の席を後にし印刷機の前に戻ると、印刷が始まっていた次の一部を手に取って再び読み始める。
「んーざっと見た感じはやっぱりなんとかなりそうだな」
何気なく発したような本田の言葉に、赤井は目を通していた資料から目を離し、アイだかピカイアだかいうサポートAIと一緒にディスプレイの接続をしている新人の方に目を向ける。多分本田が言ったのは、綾乃と筆石を組ませるという話を踏まえての言葉だろう。
「あ、それが今度の資料ですか?」
歩いてきた筆石が赤井が目を通していた資料をのぞき込む。赤井は自分の持っていた資料の中から一部分を取り分けて、黙って筆石に差し出した。
「ありがとです。ハル、資料をスキャンして」
筆石の首から延びるマニピュレーターが資料の表面を撫でる様にスキャンしていく。スキャンをしながら、筆石はふと気になった事を言った。
「そういえば課長って私と言ノ葉さんが組む事、彼女に伝えて有りましたっけ?」
「僕は言ってないよ。課長が言ってくれたんじゃないかな?」
資料を読んでいた課長は、自分が呼ばれたことに気がついて資料から目を離して顔を上げる。
「とりあえず伝えておいた方がいいんじゃないですかね? 私がしてもいいですけど」
筆石は横目で言ノ葉を見やった。
当の彼女は、ケーブルを片手に、挿せる端子を探している。どうやらパズルの最後の一ピースのようだった。
自分が彼女に伝えるよりも、責任者に伝えてもらった方が問題は少ないのでは無いだろうか? まだ新人の言ノ葉を見て、彼女はそう判断する。筆石は資料を持ったまま、課長の所に歩いて行く。
「課長、新人の言ノ葉さんにダイブする旨を伝えて頂けないでしょうか?」
「うん?」
「いえ、やっぱりダイブの人員の通達はこの課の責任者の課長にやってもらった方が問題がないので」
「ああ、そうだろうな」
聞き流すように課長は答える。三年ほど同じ職場で働いているが、彼女はいつも上司に対してでさえ歯に衣着せぬ言葉を口にする。
河合が新人の言ノ葉の相手を筆石に任せたのは、彼女の力とそのハッキリした性格を買ってのことだ。
裏を返せば彼女が「上司を選ぶ部下」であることは間違いない。課長にとっての彼女の性格は、家族の小言を聞き流すより心に波風が立たないほどに慣れたものである。
そんな彼女が遠回しな言葉選びをするなど、河合には想像できない。彼女がそんな言葉を口にするときは、よっぽどのことだろう。幸運なことに、そんな筆石に今まで遭遇したことは今まで一度もない。
「で、資料は――」
とはいえ。課長が上げていた眼鏡を下ろし、首を伸ばして綾乃の席を確認する。資料は渡されていないようだ。右を見れば赤井がプリンターの傍で印刷されてくる資料を手に取りながら目を通している。まだ全員分刷りきれていないのだ。
立ち上がる素振りを見せた課長に気が付き、赤井は手の中に溜まっている印刷資料の束から再び一部を抜き出して課長の席まで歩み寄った。
「新人の分です」
「どうも」
差し出した資料の束を課長が受け取るのを待って、赤井はそのまま丁度最後の一部を吐き出し始めた印刷機の下に戻る。
机の上で資料を整頓した課長は、引き出しからステープラーを取り出して隅で留める。
少し離れた場所で作業している言ノ葉を何度も呼びつけるのは、彼にとっては少しばかり気後れしたようだ。カラカラとイスのキャスターが音を立て、彼は彼女に歩み寄る。
「言ノ葉さんにこれね、資料」
彼女はケーブルの接続を終えて、パソコンの起動テストをアイと始めたところだった。
課長が差し出した紙束を受け取り、一、二枚ペラペラと捲る。何かの資料のようだ。
「えっと、これは……?」
「うちで受けることになってる改変案件があってね。これはその案件の資料」
「あ……ありがとうございます」
この資料は自分と何の関係があるのだろう。まだ実績のない綾乃にとって、課長から平然と渡された資料は、心の緊張を高めるには十分だった。
「腕試しも兼ねて、君と筆石君でダイブして仕事をしてもらおうと思っている。アマチュアからの依頼を受け付けることもあるんだけどね、今回はプロの作家が依頼者だ。やりがいがあるだろう?」
早速きましたよこれ……
心の緊張が高まる綾乃。さらに追い打ちをかけるように、課長の「プロの作家が依頼者」という言葉が頭に強く焼きつく。
依頼で早速腕試しされるのは、ありうるかもしれないと頭の片隅で覚悟していたけど、依頼者がプロ作家なの!? 失敗したら明らかヤバいの分かってるよね!?
適性検査の答え方がまずくて変に高い適性が出たのかな……
「あの、こんな大事な依頼、私みたいな素人が受けちゃって大丈夫なんでしょうか。もし失敗とかしたら――」
今からでも遅くない。やりがいとか正直どうでもいいから、別の依頼を回して欲しいと願う綾乃である。
「ちゃんとした作品は、逆にやりやすいよ。特にアマチュアからの依頼だと、話になかった――失念していた大事なことが後々障害になって想定外の事態が起きたりとか、色々と曖昧で計画を立てられなかったりとかするから。通常課が能力によって一課から四課に分けられるのは、そういうトラブルに対処できない社員が危険に晒されるのを防ぐためだ」
「はぁ」
では、特課は通常課に換算すると、一体何課相当なのでしょうか。綾乃が今一番聞きたい疑問だが、それを聞いてしまうと逆に緊張してしまうかもしれない。
聞かないほうが精神衛生上得策だという考えに支配され、口にするのを控えた。
「何かあったら筆石さんがカバーしてくれると思うし、依頼そのものも至って平和な学園もの。若い子向けの作品だし、むしろ言ノ葉さんにとって好条件だよ」
言ノ葉綾乃は、物語や小説が大好きでこの会社に就職した。
たとえ仕事であっても、物語の世界に文字通り飛びこんでいける。夢のような仕事だ。この会社を就職先に見つけた瞬間から、その魅力的な仕事に心をときめかせていたし、ダイブできる日のことを想像して、ワクワクして寝つけなかった夜は、数えきれないほどあった。
そして今日。実戦一発目で、綾乃にとっての大型案件が言い渡された。気さくで話しやすい課長で良かったと思っているが、好条件という彼の言葉に、綾乃の現実的な不安がどうしてもそれに疑いを持ってしまう。
「まあね、不安になるのも分かるけど、これも仕事のうち。筆石さんもいるし、さほど困ることはないはずだ」
そんな綾乃の心中を察してか朗らかに言う課長。
「あと僕の個人的な偏見なんだけどね、言ノ葉さんの好きそうなお話だと思うよ、今回の依頼」
やれるだけやってみなよ。励まそうと挙げた課長の片手は、いささか不自然な挙動をしたが、結局手を挙げるに留まった。
じゃ。自信に満ちた笑顔を見せて、綾乃に背を向け立ち去っていった。
――肩を叩いて部下を励ますことさえ、セクハラ、訴訟だとリスクになりかねない、世知辛い世の中である。こんな世の中に誰がした!
課長が綾乃との話を終えて離れた頃、印刷の終わった最後の一部を手に取り、赤井は自分の席で画面上の資料に目を通している本田の下に向かった。
「ほら。あんたも自分の席で読んだ方がいいだろ」
「ん……それじゃあ戻るとするよ」
差し出した資料を受け取って本田が自分の席に戻るのを見送りつつ、赤井は自分の分の資料を机の上に置いて課長に声をかけた。
「課長。総務に原本を取りに行ってきます」
「ん、気をつけていってらっしゃーい」
席に腰掛けた課長から、軽い返事が返ってくる。まるで子供をお使いに送り出すかのような言い草だったが、赤井は特に気に留めることもなく、ではと不愛想な返事を返して踵を返し、そのまま扉の向こう側に消える。
河合課長の気さくな笑顔は、確かに綾乃を勇気づけた。しかしまだ不安を無視できない綾乃の表情は、なんとなく重い。
「あ、ちゃんとパソコン起動しました!」
アイが光るモニタから綾乃へ振り向いて言う。
当の綾乃は突っ立ったまま、自分がダイブするという資料の一ページ目を眺めていた。
「アヤノさん?」
一緒にダイブすることになっているという筆石に目を配る。筆石が資料を呼んでいる姿が目に映る。すると、筆石は視線を肌で感じ取ったかのように、すぐに綾乃の方を向いた。
筆石と綾乃の目が合う。すると筆石は何か悪戯を思いついたような子供の様な笑みを浮かべる。
次の瞬間、指だけではなくマニピュレーターも利用した筆石の渾身の『変な顔』が炸裂、綾乃は盛大に噴き出した。
「アヤノさん」
「んふふ――うん?」
誰かが自分の袖を掴んで引っ張ったのに気づいた綾乃は振り返る。
パソコンがちゃんと起動しました。アイは抑揚のない声でそう報告。ジト目気味のアイに綾乃は我に返った。
「ごめんなさい。ぼーっとしてました」
課長の眼鏡が光った。