02話 おはようございましゅ
「――えー、では改めて。今日からこの課で君達と働くことになる、言ノ葉綾乃さんだ」
「四課から来ました……えっと、よろしくお願いします……」
先ほどの威勢のよいあいさつは何処、まるで別人のような弱々しい声。ダンボールを抱えた綾乃の耳はトマトのように赤い。
「まぁまぁ、あれくらいの失敗なんてしてないも一緒だ」
「はい、すみません」
「言ノ葉さんは、四月の適性検査で、通常課よりも、特別課に適性があると判定された。私もそのうち人員を補強したいと思っていてな、新人研修が終わり次第、うちの課に転属してもらうようにしてもらった。つまり期待の新人ということだ」
「はい」
「あー、無理をしろと言っているわけじゃない。四課じゃぁ、新人まとめてあのオバサンにしごかれたかもしれないが、うちはこの通り少人数で楽しくやってる課なんでね」
社内で「四課のオバサン」といえば、それはほぼ山内桐子、通常課の一つである四課の課長を務める、五十代の名物オバサンのことを指す。
「イスに座れば口が開く」とは誰が言った言葉だろうか、仕事はテキパキこなすが、思ったことはすぐ口に出るし愚痴も出る機関銃なのだ。
しかし山内課長は、ただのうるさいオバサンでは終わらない。ダイバーとして入ってきた新人が最初に配属される四課で、彼らを教育し、一人前のダイバーになるための基礎を固める、その実力は確かなもの。長年の経験からくる的確な指導と判断は、カリスマ的人気の源である。
そんな仕事一筋の山内課長、結婚は未経験。ときおり、機械に疎いことと並べて自虐ネタをかますことでも知られる。
ダイブ先の世界で、山内課長が情報端末に「近くの美味しいお店!」と何度も連呼した話は、四課で勤務したことがある人なら誰でも知っている笑い話だ。
「まぁちょっとばかし騒がし過ぎるかもしれんけどな。肩の力を抜いて気楽にやってくれればいいさ」
空いてる机を適当にカスタムして使ってくれていい。河合は荷物を抱えた綾乃を見て言う。
綾乃は、はいと頷き、島形に集められている六つの机を見渡す。奥の離れた位置にある課長の机の他に、使われている机は三つ。そのそれぞれに四課で見慣れた社員共通のデスクトップPCとモニターが置かれ、その周りを私物――分厚い技術書やガム、鏡、コップほどの小さな観葉植物などなど――個性的なラインナップで囲んでいる。
「じゃあ、あの、ここで……」
男性二人が横に並ぶ席の隣と、彼らの向かいに座る白衣の女性の隣――ほとんど考える余地もなく綾乃は荷物を筆石の隣の机の上に置いた。
「じゃあ、僕は言ノ葉さんの相棒を用意する手続きをしに研究開発部に行ってくるから。二十分ほどで戻ってくる」
河合は鍵の掛かった自分のデスクの引き出しからファイルを取り出しつつ言い、脇にファイルを抱えてデスクの鍵を指で回しながら、部屋を出ていった。
「俺は本田一木、見ての通りおっさんだ。ダイブの方は主に力仕事関係を任されてる。これからよろしくな」
「よろしくお願いします」
本田が席が近かった赤井より先に声をかける。その後隣の赤井の肩に手を置いて『んでこっちの無愛想な奴が赤井だ』と紹介した。
「よろしく」
課長が出て行ってからずっとPCに向かってキーボードを叩いていた赤井は、綾乃をちらりと見つつそう一言だけで済ませた。
「や、新入り」
綾乃がデスクにつこうとした時に、彼女の隣から声がかかった。白衣を着た女性、首の辺りから紐のようなものが四本伸びていてデスクの上のPCに繋がっている。確か筆石さんだったっけ。綾乃は此処に来る途中で課長から君が頼れそうな女性が一人いるという話を思い出した。先程は眼鏡をかけていたような覚えがあったが、今は外している様だ。濡れた鴉のような色をした長い黒髪を無造作に後ろで束ねている。お手入れをしたらすごく綺麗になるのにもったいない、綾乃は思う。
「えっと――」
「私は筆石文香。同じ特課の――って見りゃわかるか。言っとくべき事はそんなとこかな。まぁ、よろしく」
「あー、はい」
この人はあまり話し慣れてないのかな、ちょっと地味そうな印象を綾乃は抱いてイスに座る。はぁ。力が抜けて少し緊張がほぐれる。
今日は大事な転属初日だから失敗しないようにって、気合い入れてきたのに、緊張して最初の最初で大ポカやらかして。めちゃくちゃ恥ずかしかった。思い返したらダメ、自分!
脳裏で勝手に再生され、ふたたびこみ上がってきた恥ずかしさを、首を振って必死に抑える。
でも、周りの人は失敗なんてなかったかのように流してくれたみたいだし、いい人っぽいし。
お局様みたいな人がいたらどうしようかと不安になっていた綾乃は、今いる面々の様子を見てまた、安堵のため息――
「フフフ、見てたよ新人、なかなかいい挨拶だったじゃない」
うわぁーこれ部署内でしばらく語り継がれるやつじゃん――!
んもー! 撃ち抜かれた綾乃は、再び机に置いたダンボールの上でうつむいて顔を隠す。恥ずかしさが津波のように襲ってきて思わず足が震える。葬り去りたい黒歴史、ここに爆誕。
「おー、紅くなった紅くなった。初々しいってのはいいねぇ! まぁ、”アレ”ですっかり皆の印象に残ったと思うから、まぁ、アリじゃない?」
隣で筆石さんがカラカラと笑う。
ソウデスネ……喉を鳴らすような小さな声しか出なかった。なんか筆石さんは地味そうとか、ちょっと困った時に頼ったら色々教えてくれそうとか思って隣に座ったけど、人生最大級のミスだよ。
今からでも許されるなら、さっきのやり取りに全く無関心な赤井さんの隣に移動させてほしい。それとなく自然な風を装って、持ってきたダンボールごと席を移動させていただきたく存じます。
恥ずかしさを紛らわせるために、綾乃の頭の中では火消しの作業が急ピッチで進められていた。
『未来を予見する最もいい方法は過去を顧みること。学ぶのは大事ですよ』
隣の筆石から聞こえてきた筆石とは質を異にする、性別不明の音のような不思議な声。資料らしきものを読んで、難しい顔をしている赤井を見ていた綾乃は、彼女の方を向いた。まるで私のことを言われているようで、ドキッとしたのだ。
「まぁ、そういうこったな。無理しなくてもゆっくり進めばいいさ」
「あ、はい」
本田のフォローに頷くも、聞いたこともない声の方に興味をとられ、結果として本田の親切をないがしろにした返事をしたという失態に、綾乃は気づいていない。
「えっと、今のって――」
「あぁ、それは本人? が説明したほうがいいんじゃない、ハル?」
隣の席の筆石が言う。彼女の首から伸びる紐状の物がスルスルと伸びる。
『はじめまして、ダイブサポートAIプロトタイプ、個体識別名『ハルキゲニア』です。以後お見知りおきを』
紐状の物の先端がぺこりと頭を下げた。
「ど、どうも、はじめまして。ええっと、ケニアさんでいいのかな?」
『ハルと呼んでください、その方が呼び慣れております』
「じゃぁ……言ノ葉綾乃です。ハルさん、よろしくお願いします」
『ハルでいいです。宜しくお願いします』
筆石の首に向かって頭を下げ、敬語で挨拶する光景はさながらシュールそのものであるが、綾乃は至って真面目だった。
「あの、ダイブサポートAIっていうのは初めて聞いたのですが、研修で習ったダイブ時に使う端末とは違うのですか?」
「あぁ。サポートAIってのは要するに…………ダイブ時に色々手伝ってくれるAIのことだな」
『AIですから、ただの情報端末とは違って能動的に情報処理やデータベースの検索、または状況から考えられる行動の提示などのサポートも行う事が出来ます』
「……まぁざっとこんな感じにサポートしてくれるってわけだ」
「へぇ、初めて知りました」
「ちなみに俺のはこれだ」
そう言いながら本田はシャツの胸ポケットから白い宝石のついた指輪を取り出して見せた。
本田が指輪型の端末を手に持ち、腕を伸ばして綾乃に近づける。彼女は両手で机に体重をかけ、前に乗り出して机越しに顔を近づけた。
「わぁ……すごく綺麗ですね。宝石屋さんに並んで置かれてても全然分からないというか、ただの宝石と言われたほうが納得しちゃいそうです」
「白雪っていうんだ」
外周に波模様が一筋彫り込まれたシルバーのリングの頂点に、指の幅ほどの大きな白い六角形の宝石が埋まっている。濁った石英の結晶のような、透明感がありながら不透明な白。石の中で、光が何かの粒に当たって、時折銀色にキラめく。
「名前そのままの白い雪みたいな石が綺麗だろ? まぁ宝石部分は勿論ダミーなんだがな」
「ということは、赤井さんも持ってるんですか?」
筆石さんも本田さんも持っている。となれば、赤井さんが持っていると考えるのも自然な流れ。
サポートAIへの物珍しさからくる興味で聞いた綾乃に、赤井は「ん? ああ……」と書類から顔をあげる。
「ちと口うるさいやつだけどな」
赤井がわずかに持ち上げてみせた右腕の袖口から、それらしい簡素な腕輪が覗いていた。小慣れた手つきで袖口のボタンを外して引いてくれたために見えた腕輪は、全体が鈍く銀色の金属光沢を放つ長さ六~七センチ程度の物で、輪の両淵に細く金色のメッキが施されていた。
『私はその都度最善の指摘を心がけているつもりです。赤井さんのお気に召すことは非常に稀なようですが』
腕輪からなのだろう。オフィスに筆石さんとは違う女性の声が響いた。大人っぽいような落ち着いたような、あるいは不機嫌なような、はきはきとした低い声だ。
「リスク回避ばかりでは何もできんからな」
赤井は腕輪にそう反論すると、火中の栗を拾う事の必要性をうまく理解できてないらしい、と誰にともなくそう言った。
「へ? あ、そうですね」
実際の業務の経験もない綾乃は、赤井に同意を求められても返す言葉はなく、突然のフリにあたふたしながらも、笑顔でなんとか返そうと試みる。赤井はそんな綾乃の様子を見留め、何かに納得したように微かに頷くと、再び机上の書類に目を落とした。
『ダイバーの安全を確保することも私の務めの内です。それにあなたの場合――』
「はいはい分かった分かった」
続けようとするAIの言葉を、赤井の声が遮る。人間であれば不満そうな顔をして押し黙ったり、更に反発したりするのだろうが、沈黙してしまった腕輪は前者だろうか。
「ま、サポートAIも色々ある。どうやって割り当ててるのか知らんが、AIの性格なんてものはダイバーに合わせて作られやしないからな。割り当てられたもので頑張る他ない」
言葉を遮られてから黙ったままの腕輪を一瞥した後、綾乃に「相方に恵まれるかは時の運だな」とだけ付け足し、綾乃の反応を待つでもなく、すぐそばで二人の推移を立ったまま見守っていた本田を仰いだ。
「いいか?」
「へいへい、りょーかい」
一匹狼なとこは新人の前でも相変わらずか、と思いながら本田はやれやれと肩をすくめた。
「まぁ君のもこんな感じの来ると思うから。期待してていいんじゃないかな?」
本田は白雪の入っている胸ポケットを示して言う。
「サポートAIって、結構しっかりしてるんですね」
「まぁしっかりしててもらわないと困るしね」
それにしても、筆石さんのAI、ハル。赤井さんのAI。こんなAIが私にもつくならば、私でもちゃんと仕事ができそう。AIの性能が予想以上に良くて、綾乃の仕事に対する不安を払拭していく。本田さんの白雪は分からないけれど、二人のAIがああなのだから、きっとこういう感じのAIが渡されるのだろう。
はぁ……本田さんのAIのデザイン、いいなぁ。
羨望のため息。白銀の世界をそこに凝縮したような、あの白の輝き。そんなAIの名前は白雪。なんてニクい。あんなに大きくなくていいけれど、割り当てられるAIのデザインは、あんな感じのものがいい。
そこまでドンピシャなものじゃなくても、例えば――みんな身につける形のものだから――ネックレス型なんかだったらいいな。
赤井さんのシンプルな腕輪も悪くない。筆石さんの首輪型の変な紐なのかクラゲなのかイソギンチャクなのかよく分からないやつは……うん、似た者同士、似合ってると思う。私は嫌だけど。
人知れず謂れのない非難を受けるハルであった。
「えーっとそういえば綾乃くんは、ロッカー……」
本田の視線の先には、綾乃の机上のダンボール。さっき課長は、ロッカーについて何も触れていなかったはずだ。綾乃は入って間もないとはいえ、四課にいた頃に使っていたロッカーの私物も持ってきているだろう。
「ロッカーですか?」
「課長からロッカーについては何も聞いていないのかい?」
「いえ、まだなにも……」
彼女は後ろを振り向く。席の後ろに並ぶロッカー。言われてみれば、ここのロッカーはどうしたらいいんだろう。課長から聞いた話を思い返しつつ綾乃がそう返すと、隣の席の筆石が何かを思い出したように「あ」と口に出した。
筆石がちらりと綾乃を一瞥して言う。
「その件なんですが多分、課長その事忘れてるっす」
「あー……でも戻ってきたときに言えば、ロッカーを割り当ててもらえるよ。あそこは確か空いてたはず。中身が見えにくい場所だし、ちょうどいいんじゃないかな」
綾乃は本田が指差す、部屋の角のロッカーの列の端を向いた。本田の言う通り、一番壁際のそのロッカーは扉を開けると丁度両側から中身が見えにくいようになっているし、彼女の私物を入れておくのには丁度いい。彼女にとっては最高の条件だろう――そのロッカーのすぐそばに不気味なオブジェがあることを除けば。
ロッカーの扉の後ろに、吸い込まれるかのような存在感で鎮座している奇妙な像。全体的に黒く、光を反射しない素材で出来ている為か、そこだけ景色が切り取られたようにも見える。円盤状の台座と思われるパーツから、これは木をモチーフにしたものなのだろうか、二本の太い幹の様な物が絡まりながら伸び、上部でほどけてさらに枝分かれしている。いくつかの枝の先には、人の頭より一回り小さい大きさの実らしきものがくっついている。
木のようにも見えるが、しかし見ようによっては人にも見えなくもない。夜中の暗いオフィスにこいつが鎮座していたら変な声を上げそうだ。
……いやね、存在に気づいてからずっと気になってたよ。あの見ているだけで不安になるオブジェ。地面から生えた癒着した黒い人を引き伸ばして縄を綯うようにねじってある、持ち込んだ人の心の闇が垣間見えるダーク置物。このオブジェを置くとき、誰も止めなかったのかな。
すくなくとも、あそこが空いているということは、みんな気味悪がって使わなかったということだろうから、空くべくして空いていたんだと思う。
「ありがとうございます。課長さんが戻ってきたら聞いてみますね」
にこやかに答えた綾乃の心の内では、ババなんて引いてたまるかと、反発心にも似た黒い念が渦巻いていた。