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あなたの小説、助けます! ~君が失くした物語~  作者: Glyph|↵
#1:乾燥かりい先生「ぶんぶっ!」
13/13

12話 ブリーフィング

 昼休みを終えたいつものオフィス。ブラインドが閉じられて、青白い室内灯の光に照らされた室内には、特課の職員全員が揃っていた。


「はい、これ。一部ずつね」


 本田先輩が彼の机の上に薄く積まれた紙束を、近場の席の人から配っていく。


 いよいよ始まるんだと、正面の席の赤井先輩を経由して手渡された自分の資料を受け取って、そんな実感が湧いてきた。それは、まるで楽しみにしていた修学旅行のしおりが配られたときのような、そうでないような。

 そう簡単に断言できないのは、同時に感じる漠然とした不安感。心当たりは一つ、未帰還の話。

 これから行われる会議では、私がダイブする依頼の内容・現況の確認と、依頼達成に向けての分析と方針の確認、そしてそれらを河合課長が納得、承認して初めて実際のダイブの準備が行われる。


 つまり、無謀なダイブが行われないようにする為の一種の安全対策でもあると、会議前に本田先輩が教えてくれた。


 その話をしていた時、赤井先輩が私と本田先輩の方に視線をちらりと向けていたことには気がついていたけど……なにか言おうとしていたのか、本田先輩に用があっただけか結局確かめるタイミングを逸してしまった。


「二十三・四度ズレて私も回るー」


 私の不安をよそに、空いている隣席に座って足をぶらぶらさせたり、デスクチェアごと一回転したりして遊んでいるアイ。これ本当にコンピュータなの? TPO軸のズレは二十三・四度以上どころじゃない。

 会議中もこんな状態では困るので、本体であるノートPCのマイク部分を軽く指で弾いてアイの注意を引く。


「わう!?」


 脇腹を指で突かれたかのような人間っぽい仕草を見せたアイが私の方を向く。”少しだけ大人しくしてて

”というと、素直に従ってくれる。


 アイの向かいの空席、プロジェクタスクリーンから一番近い席に陣取っているのは河合課長。

 いつも少し離れた課長席でじっと作業をしているので、綾乃は近くで見る課長の体格の良さをひときわ強く感じられた。


「資料は行き渡ったみたいだね。それじゃあ、ブリーフィングを始めようか」


 本田が普段そのままの慣れた口調でそう言って、赤井が席を立って部屋の明かりを消した。ブラインドのおかげで薄暗い部屋に、天吊りされたプロジェクターが投影する青い待機画面だけが眩しい。


「えーっと、画面の切り替えが……これだったかな」


 普段はかけていないメガネをつるを持って押し上げ、口調とは裏腹に少し頼りなさげなようすでプロジェクターのリモコンを確認しつつ、本田は自分のパソコンの画面をスクリーン上に表示させた。


「よしよし。じゃあ、まずは僕から現状の説明をさせてもらおうかな」


 みんな配った資料の最初のページを開いてくれる?

 お馴染みのプレゼン用ソフトの全画面表示ボタンをクリックした後、お願いでもするような調子で出された本田の指示に、紙をめくる音が重なる。その音が聞こえなくなった頃合いを見るようにして、本田は話し始めた。


「今回の依頼案件は『ぶんぶっ!』というタイトルの――まあ、いわゆる青春ラブコメの作品で、えーっと、依頼の内容は、前原稿で主人公と付き合う事になるヒロインを水城透希ちゃんから幼馴染の姫宮灯ちゃんに変えて欲しいというもの」


 ここまではいいよね、と誰に聞くでもなく挟み、本田は続ける。


「依頼作品の『ぶんぶっ!』は一度出版された商業作品だけど、今回の依頼主は名実ともに作者さんっていう、ちょっと珍しい案件になる」


 ここは、言ノ葉綾乃にとっても復習の領域だ。

 いくら小説が作者のものだとしても、一度出版された作品には、出版社の名前がつく。つまり出版社も関わってくる以上、作品の身の振り方は、基本的に作者と出版社で意見を合わせておかないといけない。

 だから、出版元の小長谷さんも先日の依頼時に作者の方と一緒にご来訪されたのだ。


「ただ、出版元の豊倉出版さんからもよろしくお願いしますと一言もらっているし、お得意様の案件って事で、会社(うち)としては半分企業案件っていう姿勢で臨むって話になってる」


 言いながら本田は河合課長に目を向ける。本田と目が合った河合の表情は変わらない。

 本田はそのまま、大人しい青色のタイトル画面からスライドを一枚送り、作品概要のページをスクリーンに映し出した。


「原作者の乾燥かりぃ様のお話では、色々な事情でヒロインが意に即したものではなくなってしまい、今も仕事(執筆)を抱えていて自分で書き直す時間の余裕がないとのことで。前に我が社(うち)が受けた仕事の結果も鑑みて、また依頼して下さったという経緯みたいだね」


 この辺りの話はこの間の顔合わせ(ミーティング)で話してらしたそうだから、僕は議事録と資料で見ただけだけどね。手元の資料で該当箇所を確認しているのか、数ページめくって軽く目を走らせてから、本田は再び顔を上げた。


「そこで今回のダイブの目標は、『主人公の屋敷和真が、文化祭最終日に、同級生の水城透希ではなく幼馴染の姫宮灯と付き合う事になる』になるわけだ」


 そこまで言ってから、本田は思い出したようにスライドを送る。スクリーン上にはヒロインの交代前後の関係が視覚的に残りやすいよう図で示してあった。

 ここまではいいかな、とでも訊くように一拍開け、本田はさらに口調を緩めて続ける。


「まあ、企業案件って言っても、原作者さんからは『原作と違ったラストが見たい』とだけ言われてるし、それ以外の条件はほとんど一任されてるってお話だから、仕事をする上での余裕は結構あると思っていいんじゃないかなぁ」


 最後に苦笑交じりに頬を掻きながら、「黒子に徹する必要もないみたいだし」と呟くように付け足す。


「依頼内容についてはここまで。次は登場人物に関してね」


 資料だと、二ページ目からかな。自分の資料をめくって本田がそう言い、再びオフィスに紙をめくる乾いた音が連なる。


「登場人物それぞれの情報については資料に乗せてあるから、細かいところはそれぞれ読んでもらうとして」


 片手でメガネを支えながらパソコンのキーボードをのぞき込み、本田はスライドを一枚送る。


「時間も限られてるから依頼に深く関わってくる重要人物について、要点だけ説明すると」


 スクリーン上には主人公を取り巻く登場人物の相関図が簡潔にまとめられていた。


「今回の依頼作『ぶんぶっ!』は、タイトルから想像がつくように『星見学園』という作中の学校の新聞部を中心にした物語になってる。この新聞部の所属部員は六名で、さっき紹介した主人公とヒロイン二人もこの新聞部の部員だね。彼らの他に男子生徒一名、女子生徒二名、顧問の女性教員一名、と構成は現状こんな感じかな。登場人物に女性率が多いのはまあ、この手の作品ではお約束ね」


 本田はそこまで言って再び資料をめくり――ふと苦笑いのような親しみを込めた笑みのような、ややあいまいな表情を浮かべた。


「ただちょっと――この子は新聞部でも物語に深く関わってくるとも言えないんだけど、注意しておかないといけない登場人物がいるんだ」


 本田は再びキーボードをのぞき込んで探し出したキーに人差し指を置くと、大きく映し出されたスクリーンを振り返ってスライドを数ページ分飛ばす。映し出されたスライドには『その他登場人物』というタイトルと共に数名分の名前が並んでいた。


「この、真ん中の木咲 瑛里華という女生徒なんだけどね。ちょっと現ヒロインの水城透希に対して思う所が強いというか――多分、強いライバル意識をこじらせたんだと思うんだけど、事あるごとに水城さんに食ってかかるところがあって――」


 唐突な咳払いが本田の言葉を遮った。


「結局どういう事なんだ?」


 本田の隣で、若干あきれ顔の赤井が端的に聞く。本田は今度こそはっきりと苦笑いを浮かべ、「ごめんごめん」と頬をかいた。


「この木咲という女生徒は、水城透希に対して対立的な言動をとることが多くてね。しかもいつも数人の取り巻きがいるから、予想外の伏兵として依頼遂行の妨げになる可能性があるんだ。ダイブ中は動向に気を配っておく必要があると思う」


 本田の「いいかな?」というような視線に、赤井は肩をすくめるだけで返事を返す。その様子を見て、本田は一度満足げに笑みを見せて目線を戻し、ノートパソコンのキーを叩いて次のスライドを映した。そこには、物語の構成を三部に分けた概要が箇条書きされていて、括弧書きでおおよその期間が添えられていた。


「ちょっと長くなっちゃったけど、僕からはこれが最後ね。依頼遂行にあたって、準備等含めても活動できる期間は大体半年とちょっと。新聞部創設が五月ごろ、夏休みの合宿が八月にあって、文化祭が十月ね。依頼作は文化祭最終日がエンディングで、それまでに工作を終える必要があるから、特にダイブする二人は期間中、ちゃんとカレンダー意識しておいてね」


 質問は赤井くんの説明の後に、まとめて。最後にそう残して、本田は赤井にリモコンを手渡した。


「資料はそのまま、配布されたものの24ページ以降を参照してくれ」


 受け取ったリモコンで素早く表示を自分のパソコンの画面に切り替えると、手元の資料をめくりつつ赤井はそう切り出した。


「作品の分析については後で別冊の資料を配布する。ここでは指針についてのみ簡潔に説明する」


 赤井が言うとともにスライドが数ページめくられた。表示された画面には、改変作業についての諸情報が表でまとめられている。


「分かってるだろうが、今回の依頼では筆石と言ノ葉の二名だけでダイブしてもらう。本来なら、依頼内容から考えて、主人公の好意の対象とならないよう男子生徒としてダイバーを潜入させるのが適当なんだが――」


 赤井は一度言葉を止めて綾乃と筆石に目を向ける。赤井と目が合った筆石がそれに反応してニッと不敵に笑った。赤井はその笑みを見て一瞬わずかに眉をひそめ、そのまま続ける。


「――まあ、新人の能力が未知数()()、いくつかの理由から、二人への負担が少ないよう、なるべく普段と変わらず過ごせるような配役をする方針とした」


 機嫌が普通なのか悪いのかよく分からず敬遠気味だった赤井先輩から、自分への配慮という言葉が出てきて、刹那の混乱と一拍の刺激、そして数秒の合理的な納得が、言ノ葉綾乃の中を駆け巡る。


「ありがとうございます……」


 そして畏れ多くもといった様子で言ノ葉綾乃は、小さな声でそう言って軽く会釈のように頭を下げた。


「発案は本田のおっさんだからな。礼ならそっちな」


 綾乃の礼を甲で除けるように左手を振った赤井は、「ともかくだ」と話を戻す。


「本田のおっさんとの総合的な検討の結果、二人は今年から高校生になる双子の姉妹として、新部員またはそれに準じるポジションから工作を行うのが適当だという事になった。学年が違う方が適度な距離間で挑めるだろ」


 それを聞いた筆石は隣に座っている綾乃を軽く肘で突く。綾乃がそれに反応すると、ふざけた感じで小声で言った。


「綾乃さん、お姉ちゃんって呼んでいいのよ?」


「はい、筆石先輩(・・・・)


 筆石先輩の発言と表情が、明らかに純粋なものではないことを本能的に察知した綾乃は、動じずいつもの呼び慣れはじめた呼び方で応える。

 さながらジェットコースターに臆する自分と、面白がる筆石先輩のようだと、彼女は思う。


「……これは男子学生プランでもよかったか?」


 相性がいいのか悪いのか――呼吸だけはぴったりのやり取りを目の前で見ていた赤井は、誰にも聞こえないようにそう独り言ちた。


「提案するプランの説明に戻るぞ」


 筆石のちゃちゃで緩んだ空気を締めなおすようにそう言って、赤井はスライドをめくった。


「まずダイブのタイミングだが、依頼作の開始時点の問題で入学式には間に合わない。そのため五月からの編入する方針で、ぎりぎり三週間の準備期間を見る。準備期間の段取りについてはチェックシートと共に資料に記載してあるため割愛する。ほぼほぼ慣例通りだが、各自読んでおいてくれ」


 特に筆石。赤井はきっぱりと名指しした。


 言ノ葉綾乃は間に合わない理由が、ダイブ装置の性能上の理由だと、この会議の直前に筆石から聞いていた。


 先輩の説明によれば、ダイブ装置で”世界を渡れる”のは、物語の描写がしっかりしている箇所を基準に、前後一ヶ月くらいまでが限界だそう。

 つまり普通の小説であれば、物語のメインが始まって終わるまでの一連の期間と前後約一ヶ月が、ダイブ装置で世界を渡れる期間。今回の依頼作品は五月から描写が始まっているので、先んじてダイブできるのは四月までということなのだ。

 そして学校の入学式は四月の前半に行われることが一般的。つまり入学式までに段取りをするとなると、期間が短すぎる。だから間に合わない。


 ”描写期間が終わって、一ヶ月を過ぎるとどうなると思う? 未帰還者になるの――”

 そう筆石先輩がまた怖い話を重ねて私を脅してきたことも忘れはしない。


「ダイブ直後は二人とも有用なパイプ(人間関係)の構築に専念しろ。ただ、間違ってもこの時点で既存メンバーとの親交だけは避けろ」


「了解。ちなみに理由を聞いても?」


 筆石が質問を返す。彼女の目がスライドと赤井を交互に動いた。


「その時期が最も初期値が鋭敏なタイミングだからな。わざわざ繊細な時に触れるべきじゃないということだ」


「成程、いつものAD回避ですね。ハル、計算しといて。言乃葉さん、気を付けてね。アイにデータは送っておくから」


「はぁ……」


 そもそもADってなんなんでしょう。

 突然習ってもいない装置のテストをやってみてと無茶振りしたり、専門用語を投げてきたりする筆石先輩の平常パスは、やっぱりちょっと新人には重いと思うんです。


 赤井先輩の展開する流れるような話の進みを自分が遮ってしまっていいのだろうか。質問しにくい雰囲気。しかし先輩の「気をつけて」の言葉が、言ノ葉綾乃を質問へと駆り立て、両者の力は均衡する。


「誰か、ADについて言ノ葉君に教えた人いる?」


 はいともいいえともつかない返事をした彼女に、手元の資料を見るため額に上げていた眼鏡を、河合課長はかけ直し、顔を上げて周囲を見回した。

 二、三拍の空白の時間に、誰も声を上げる者は居ない。


「言ノ葉君、分からなかったら流れとか気にせず質問していいよ。流れを気にして失敗されると困るから」


「すみません」


「新人が来るのは久しぶりだからねぇ。誰か教えたげて」


 河合課長は呑気にそう言うと、胸ポケットに入っていたボールペンを取り出して資料に何か書き込みを始めた。それを待たずに筆石が綾乃に話しかける。

 

「アブノーマリー・ダイバージ、略してADなんて呼んだりもするんだけど、小難しく言えば結末の異常発散。簡単に言えば、本来の改変予定と現在の改変状況の乖離が大きすぎて、今後の工作活動で乖離を修正することが困難な状況のこと。こうなると、ダイバーは引き上げて帰らなくちゃいけない。ついでだからいうけど、長期にわたる仕事だと、何気ない言動で大きく未来が変わって異常発散を起こしやすいから注意。ついでに語弊を恐れずにいうなら、『ちょっとの変化で結果が大きく変わる』性質を初期鋭敏性という。最初はいくらでも修正が効くと思ってると、結構痛い目にあう」


 筆石の説明に次いで、走り書きを終えて資料を机の上に置いた河合は、肘をついて虚無に向けた人差し指を振りながら綾乃に補足する。


「あれだよ、パチンコみたいなものだよ。最初のレバーの捻り方のほんのわずかな違いで、アタリかハズレか結果が大きく異なる。こういうのをカオスって呼んだりもするね。もっと言えば、最初のレバーの捻り方のほんのわずかな違いで、挿入した一万円が回らない高級寿司に化けるか、カップラーメンを買うことになるかが決まる」


 レバーをひねる手をクイクイさせながら説明する河合のメガネが、スクリーンの青白い光に反射して、綾乃の目に妖しく映る。

 もしかして課長ってオフだとそういう人なのかな――疑惑に似た何かが綾野の胸を駆け抜ける。


「でも結局お店が儲かる結末に収束するよね。不思議だね!」


 今までじっとやり取りを聞いていたアイが突然割り込む。課長は笑い声をあげ、本田は苦笑い。さしもの赤井も口元が緩むのを抑えきれず、筆石に至っては必死に笑いをこらえていた。主の綾乃は大きな咳払いを一つ。うちのアイが大変失礼いたしました。


「そうしないとお店が潰れちゃうからなぁ」


 ひとしきり笑って、話を戻すけどねと課長は続けた。


「今回の話に当てはめると、主人公が必要な人数の部員を集める過程で主要キャラが集まるわけだ。だけど、本来その世界には存在しない君達が存在し、不用意に活動すれば――例えば先に君たちが部員になってしまう、あるいは入部を仄めかすだけでも、その噂で主要キャラが入部しない可能性だってある。姫宮灯が入部しなければ、その時点で異常発散と認められるかもしれない。逆に君達の存在によって、本来関係しないハズの第三者が部員になり、物語が壊れることも十分考えられる。そういうことだよ」


「分かりました。ありがとうございます」


 礼を言う綾乃に課長は、やはり彼女と一瞬目線を合わせただけで特に返事はしなかった。


「既存のメンバーが全員揃うのは、原稿通りに進めば作中の暦で六月の終盤になるはずだ。この時点でもし課長の言ったような事態になっていれば、十中八九AD(異常発散)と判断されてダイブ中止の沙汰が下るだろうからな。最大限注意を払ってくれ」


 赤井はスライドをめくる。小タイトルは『第二部:夏季合宿』となっていた。


「新聞部形成の期間が終われば、次に重要になってくるのは八月序盤に行われる五日間の合宿だ。物語の構成上も、この場面は大きな意味を持ってくるため、変化を持たせるにはこの時点から変えていく必要がある」


 一旦ページが戻り、物語全体のスケジュール表が映った。その合宿の部分をリモコンに付随するポインタの赤い点が数度まわる。その点が不意に、入部から合宿までの空白期間――事前工作と注釈された部分へと走った。


「この合宿が正念場である以上、当然それまでの二ヶ月満たない期間中に、必要な工作を全て行っておく必要がある」


 七月の中旬から学校が夏季休暇に入る事を考えると、許された期間は実質一ヶ月だがな。赤井はそう付け足す。


「とにかく、その短い期間中に、入部から夏季合宿自体の実現や合宿当日のための仕込み、さらには人間関係の調整もしておかなければならない。入部以前からここまでを見据えて動くことが重要だ」


 それとだ。赤井は一旦体を一同の方に向け、心なしか筆石に目線を向けるような体勢になる。


「この工作は一部表舞台に顔を出しながらの活動になると予想される。くれぐれも作品の雰囲気を壊すな」


 特に筆石。案の定というべきか、赤井は再び名指しした。


「善処しまぁす」


 任せなさいとでも言わんばかりの表情で彼女は言った。上着の下からハルのマニピュレーターが伸びて彼女の頭を小突く。そして続く、電気信号による会話と言う名のお叱り。筆石ははいはいとうんざりしたように返事を返す。

 そんなコンビに不安を感じている事を隠しもせず、赤井は小さく息をついて、スライドを合宿の詳細な日程に切り替える。


「あくまで改変前での話だが、合宿中の日程と主な出来事はこのようになる。いくつかこの後の展開を左右しそうな事案が散らされてはいるが、本田のおっさんと話し合って、その中でポイントは一日目の夜に行われた枕投げ、そして三日目の肝試しだろうという結果になった」


 理由については議事録の後にまとめておいた。参考のため、一度目を通しておいてくれ。赤井はそう言ってスライドを変え、今度は第三部を表示する。内容は文化祭だ。


「夏休みが明けたのち、一月ほどで文化祭が催される。今回の依頼作品で最後の仕上げに当たるイベント事だ。物語上ではクライマックスにあたり、改変前原稿でも展開・描写ともにかなりの密度で描かれている。すべきことが極端に多く、祭りの雰囲気のためにちょっとした原因で事態が動くことも予想される。そのため、文化祭及びその準備期間に入る前に、最後の一押しだけで事が進むよう状況を整えておく必要がある。一応依頼作を参考にチェックリストを用意してはおいたが、基本的には現場での柔軟な対応が求められるだろう」


 一気にそこまで言い切って、一瞬の間を空ける。特別意見や質問が出ないことを確認して、赤井は続ける。


「当然のことだが、途中の改編が上手くいかなかった場合のリカバリも、ここがデッドラインになる。ここで依頼に即した結果が認められない場合、そこまでの工作が水泡に帰す。たとえここまで順調であっても、油断するなよ」


 作中での描写部分については以上だ。赤井はそう前置いてスライドを『事後処理』のページに移した。ページの内容はほとんど黒文字のあっさりしたもので、下の方の『未帰還事故を念頭に、最後まで気を張る事』という一か所だけが赤字で強調されていた。


「文化祭で結果を確認次第、速やかに転出準備にかかる。これもチェックリストは添付してあるが、現場の判断で柔軟に行ってくれ。転出まで依頼の成否は分からない。十分時間に余裕はあると思うが、事故のないよう気を張って行うこと」


 そして再びページはめくられ、持ち込み物品と題された一枚が映された。


「最後になるが、今回の依頼達成にかかる持ち込み物件については、星見学園学費等納入費,食費光熱費等生活費,交際費及び工作にかかる諸費用として現地通貨にて五百万円相当を用意するものとし、住居等に関してはあらかじめ外的工作によって使用可能としておくものとする。以上が用意した草案だ。何か質問は?」


 はい、と部屋に響く声が上がった。真っすぐ挙がる白い手。筆石だった。彼女の視線はスケジュール予定表に注がれている。


「ダイブは複数回を?」


 彼女の視線が表を上から下に動く。赤井が説明した高校の行事が幾つも並んでいた。


「ダイブに必要な期間が随分と長いみたいですが」


 依頼内容と期間を考慮すると、必然的に複数回の予定で組むことになる。彼女の質問に、そう赤井は前置きした上で続ける。

 分からないことをそのままにしようとする傾向のある新人への、彼女なりのサポートなのだろう。


「ダイブの頻度は従来通り、作中時間基準でおおよそ一週間に一度とする。何らかの理由で帰還回数が増えたとして、月に五回帰還すると仮定すると、半年で三十回ほどになる」


 まあ、ちょっと長い出張くらいに思えばいい期間だろ。新人にもイメージしやすい様に締めて赤井は口を閉じた。


「成程、最悪長期戦になるかー……」


 眉の間に軽く皺を寄せ、資料を見ながら筆石は呟いた。


「他に質問は?」


 場の全員に向けての言葉だと分かるように、赤井はわざわざ全員を目線でさらった。


「…………あの、」


 自信なさげな控えめな声が一つ。言ノ葉綾乃。


 誰も質問などないと言わんばかりの静寂の中で質問をするのは、勇気のいることであった。

 こと進行役が近づきがたい雰囲気のある赤井先輩であれば、なおさらのことだ。


「ダイブするのは、いつ頃になるんでしょうか。半年空けるとなると、家族とか知り合いに連絡入れておかないと心配しそうなので……」



 半年。

 それだけの時間を物語の現実で過ごすその間、言の葉綾乃という存在は、この現実から消滅する。

 通信の発達した現代では、たとえ出張でどんなに遠い場所――海外はその典型例だが――どこにいても、特別な場所でない限り連絡はできる。

 だが、言ノ葉綾乃と筆石文香が行くのは、そんな”近場”ではない。事象の地平面の先の遠い場所なのだ。


「うーん、いつ頃ダイブするのかについては、俺たちが出した作戦を課長がOKしてから決めるから、なんともだけど。承認をもらってから十日以内には行くよ。急ぎだと翌日だったりとかも」


 おっと、とどこかのんびりと本田が呟いた。


「そういえば、きちんと説明してなかったかな?」


 思い当たる節はあった。現場で改変作業を行うとすぐに常識となってしまうが、作中世界と現実世界の時間の流れる速さは違うのだ。確か各担当課の新人教育マニュアルにもこのことは書いてあったはずだけど――本田は自分が教育係になった頃の記憶をぼんやりと思い出す。そういえば、久しぶりの新人で完全に頭から抜け落ちていた。


「えっとね――」


 言い出したはいいものの、本田は言葉に詰まる。綾乃にもわかりやすいよう上手く説明出来る自信が本田にはなかった。ただ時間の流れが違うと言っても、正しくはないだろうし……理系の事は理系畑の人間に。俺には荷が重い。


「俺も赤井くんも仕組みについては詳しく分からないから――すみません、課長。えっと、ダイブ先と現実の時間のアレ、説明お願いできますか?」


 業務特課(ここ)に来る前は開発部だったという筆石くんに振ることも考えたが、なんとなく赤井くんがいい顔をしなさそうなので課長にお願いする。最後の"アレ"は我ながら情けないが、中年サラリーマンが説明しようと四苦八苦する様を思えばまあ――トントンだ。


「ん、僕?」


 そう発して自分に指を向ける課長。世界、そして時間のアレと言われて思い浮かぶのは、ただ一つ。そう、”アレ”だ。

 なぜ本田が彼女の教育係をしていて適任である筆石ではなく態々自分に振ってきたのか、その意図が分からなかった。

 部下の案を聞くこの会議でつい今しがたADの補足説明をした身として、上長が過度に口を挟むことを快く思わなかった。かといってそれを一々問うて場をかき乱すのもまた本意ではない。


「えーっと、ダイブ先の世界、つまり他の世界と、こちらの世界では『時間の進むスピード』が違う。ちょうど二車線をそれぞれ走る二台のクルマを『世界』としたとき、そのクルマの走行距離が『進んだ時間』になる、といえばイメージがつくかな?」


 流れる時間の速さは、世界それぞれによって違うんだ、彼はそう説明する。


「平均して、相対的にこっちの世界の方が約十倍も遅い。クルマに例えると、この世界は時速一〇キロメートルで走ってて、周りの世界はだいたい時速一〇〇キロメートルで走っているわけだ。つまり、こっちの世界が一〇〇メートル進む間に、ダイブ先の世界ではおおよそ一〇〇〇メートルほど進むことになる」


 ……つまり、作中期間の半年がおよそ百八十三日とすると、現実世界では十八・三日の経過になる、と。河合課長は説明してくれた。

 ただ、その時間の速さは常に同じとは限らなくて、あるときは十倍違っていても、別の時は七倍だったり十二倍だったりする。そして時間の流れの違いはその世界ごとに、ダイブする都度変わるので分からない。それはつまり、ダイバーはダイブ装置を使って事象の地平面という目隠しをした状態で、走るクルマに飛び移っているということなのだ。


 結局、現実世界の期間の十分の一くらいの期間がかかる。

 そんな経験則的な目安は立てられるけれど、正確な期間は分からないのだ。

 

「今回は規模的に大きいから数日、頑張って一週間程度なら『時間のゆらぎ』のせいにできるから、それまでは準備の猶予を与えることができると思うよ。詳しいことは筆石君に聞いて」


「ありがとうございます」


 綾乃は一礼しながら、とにかく今回は三、四週間前後の出張と思って準備しておこうと決めた。


「質問はそんなもんか?」


 綾乃が納得したらしい様子を見て赤井が一同を見渡す。


「ああ……そういえば筆石君、ダイブ装置の検査についてはどうだったかな」


 河合課長は背筋を伸ばしながら尋ねる。

 彼も技術に生きた人間の端くれ、部下を預ける装置の健康状態の概要については軽く知っておきたかったのだ。


「各種機器、問題ありませんでしたよ」


 筆石が持っていたクリアファイルから三枚のA4サイズの紙が綴じられた報告書を取り出す。報告書には各種機器のチェック結果を管理コンピューターが出力した物が書かれていた。


「前から気になってた格納容器の三番重力コイルの反応も、ちゃんと直ってましたよ。技術部はやっぱいい仕事してるっす」


「そうか」


 彼女から報告書を受け取った河合は、彼女の話を聞きながら報告書を流し読みする。彼女が一味違う(・・・・)人材であることは確かだが、こと技術に関しては、河合は彼女に大きな信頼を寄せていた。

 もっとも、河合自身も技術部への信頼は篤く、わざわざ筆石に検査結果について報告させる必要はないとも考えていた。

 つまり彼にとって、これは彼女と会話するための口実だった。


「なるほどねぇ……運転の方はどうだったかな? 僕のタイムを更新できてるといいんだけど」


 報告書から目を離し、上目遣いに筆石を見る。皮肉気味な口ぶり、どことなく睨んでいるようにも見えなくはない角度と表情。それは彼にとっては織り込み済みの演技であった。

 そんな河合の様子に気付かず、筆石は子供の様に喜々として語る。


「いやぁ、三秒一四、まだ届かないですよ」


 やれやれ、と言った感じで彼女は手を振った。


 そういうとこニブいんだよなぁ……

 河合は心の内側でぼやきながら、ソフトに彼女の軌道を修正する。ニブいことは悪いことばかりではない。そういったところへ配慮をしないというのは、ある意味貴重な人材なのだ。


「僕が言うのもなんだけど、バンは横転しやすいからね。あまり無茶してもタイムは縮まらないよ」


「成程ー……」


 筆石は頭の中でバンの力学的な挙動を簡単にシミュレートして、限界の理論値を大まかに立てる。なるほどその通りだった。


「ハル、後で走行時のデータ、見直させて」


「クルマを変えたほうがいいよ。ロールケージがついてるやつなら、車高も低いし強度も高い。重量が増えるのが嫌かもしれないけどね。ボディが頑丈になればサスも君に応えてくれる。なにより安全だ」


「そんな高価な車、ウチにありましたっけ?」


 筆石の疑問に、傍で聞いていた本田が「あー、そういえばあったね」と口を挟んだ。


「教育用とかで一台、備品庫にあるの見せてもらったことあるよ。作品によってはカーチェイスシーンとか、演出しなきゃいけないときもあるからね」


 ロールケージって言うのかは知らないけど、安全のためって色々ついてたなぁ。本田は誰に言う様子でもなく天井を見ながら呟く。


「バンを潰して死ぬのと、練習用のクルマを潰して生き残るのと、どっちがいいかは聡明な君なら分かるはずだ。そもそも潰す前提の中古のボロ車の改造だしね。筒三つ(三気筒エンジン)だしパワーはないけど、安全にいいタイムを出せるようになったら寿司の一つでも奢ろう。もちろん天然モノでね」


「それもそうっすねー……分かりました」


 彼女の少しドライな反応に、こんなはずではなかったんだけどなぁ、と一瞬首をひねる。


 天然モノの魚介類は早々手に入るものではない。一時期、ゴミを海洋投棄していた時代の負の遺産と言えばいいだろうか。自然が消化しきれなかった有害な物質が海流に乗り、世界中を漂っているのだ。

 おかげでどこの寿司屋ももっぱら養殖業者から仕入れたものが主流だ。養殖の難しい魚は幻の魚になり果て、一部の魚は自然から消え失せた。五十五歳の河合が物心つく以前から、既にそんな環境だった。


 養殖も企業努力もあって、もちろん味は悪くはない。

 だが、養殖も天然の生産力には敵わない。養殖でさえ高価なのだ。自然の海から穫れる安全な魚(・・・・)などプレミアの付いた格別なもので、裕福層しかありつけないものになっている。


 そんな貴重で高価な食事を奢ろうというのに、彼女のこの反応。別に下心で誘ったわけではないが、気落ちしたのは言うまでもない。


「まあ、クルマの慣性に振り回される体験をしておくと、本番での生存率も上がると思うよ」


「これから色々慣れるべきことが多い新人に余計な知識付けないでください、課長」


 河合課長の最後に加えた一言に、珍しく赤井が反応した。赤井はそのまま、ややきまりの悪そうな様子で首の後ろを乱雑に掻いてから、綾乃を一瞥する。


 一方、ドライビングテクニックのアドバイス的な意味合いで筆石に言ったつもりだった河合だけに、赤井の発言の理解に一拍の時間が必要だった。ああ、言ノ葉君に対して言ったともとれるか。

 どっちに解釈されても構わない、という結論に達するまで、彼の表情は終始変わらない。


「教育用っていっても基本は希望者だからな。好き好んで乗る職員も少ない」


 好き好んで乗るもんでもないしな。言い訳でもするかのように呟いた赤井の表情は、嫌なものでも見たかのようにややしかめられていた。

 必要な項目はこんな所でいいですか、課長。話を戻すために言ったであろう赤井のセリフも、話題をそらすような響きが混じる。


 練習車に乗る職員が少ないことは課長も認めている。そしてその現状に危機感を覚えていた。即ちそういう状況に対する技量・経験が不足している。それが未帰還者を生む一因になる。


「ん、いいんじゃないかな。予定通り進めるように頑張ってねー」


 それはそれ、これ(今回の依頼)これ(別の話)

 軽い口ぶりで答えた課長の下唇が少し険しそうに少し突き出ていることに気付いた者はいない。



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