11話 ロールケージ
「はっはっは、そうか、もう聞いちゃったか。初ダイブの直前に教えてあげるのが慣例なんだけどね。はっはっは。まあいいや」
ダイバー社屋の屋上に設けられたベンチに座る私とアイの隣に、河合課長が足を組んで腰掛けて笑う。
装置の点検が終わって、綾乃が約束通り筆石先輩に連れて行ってもらったのは、個人経営の本場のカレー屋だった。カレー屋と聞いて、白米にルーがかけられているものを想像していた私の前に、バスケットに入った巨大なナンがドンと置かれたのだ。多少度肝を抜かれたが、なかなか貴重で美味しい体験だった。
帰社するとまだ昼休みの社屋の中で、偶然河合課長と鉢合わせになって、少し話でもしようかと課長の誘いで屋上に向かったのだ。
「で、言ノ葉さんはどう思ったかな? この仕事を辞めたいと思ったかな」
「ダイブすることが、ちょっと怖くなりました」
両手を組んで前かがみになって顔を自分に向ける課長の顔を見る。目尻にシワができた瞳に象のような優しさが見える。
課長はそれでいいんだよ、と言った。
「そうでいてほしいんだ。過ぎたるは猶及ばざるが如しと言うけどね。事故はその気持ちを忘れる頃にやってくるんだ。うちは百人弱程度の会社だから、未帰還者が顔見知りって場合もよくある」
「そう、ですよね」
「未帰還者が出るたびに通常課は静まりかえるし、研究開発部だってそれは変わらない。穴が空くほど点検や確認をしていても、ことが起これば誰しもメシが喉を通らなくなる」
これは、僕の個人的な意見なんだけどね。課長はそこまで言って、ベンチの横に置いていたペットボトルの緑茶で喉を潤した。
気の抜けた一息をついて、課長はまた私に目を向ける。
「実際に仕事をするダイバーは、地球で普通に暮らすだけじゃ体験できないような、貴重で幻想的で、壮大なことを体験できる。やみつきになる。お給料も不満が出ないくらい出る。会社としても福利厚生も融通がきく」
「だから、それと引き換えに『必ず帰ってくる』ことを約束してほしい。帰ってこれなかったら依頼は未達成になる。お客さんに下げる頭もないし、お客さんも自分の依頼でそんなことになったなんて聞きたくない。お客さんからすれば、自分が殺したも同じ。キャラクターを殺すのと目の前の人間を殺すのじゃ、同じ命でも感じる重みは違う」
もしその約束を守れそうにないなら、僕は辞めてほしい。それが言ノ葉さんとそのご家族のためだし、僕のためでも、会社のためでもある。ダイブの許可も出せない。
河合課長はそう言って、私に「どうかな、ダイブはできそうかな?」と尋ねた。
ダイブすることが怖くなっていたのは本当のことだけれども、一度自分で決めた仕事を目前にして辞めてしまうことには、後ろ髪を引かれる気持ちがあって、私の心はまだ揺れていた。
「…………。」
答えに詰まっていると、課長の顔が徐々に緩んできて、白い歯を見せた。
「やっぱり実際一度ダイブしてみないことには、できそうか判断がつかないよね。だから、ダイブ直前である意味脅して、一度帰ってきたところで考えてもらうのが慣習なんだ。騙し討ちで悪いけどね。そのために、最初のダイブで未帰還になりそうな子は、山内課長の研修でふるいにかけられて辞めることになっている。一度試して考えてごらん」
「そうします」
「僕も部下の命を預かる身、下手な采配はしていないつもりだ。いい返事になることを期待しておくよ」
課長は声を上げてペットボトルを握り立ち上がって、お手洗いに行くついでに中に戻ると言って背を向けた。
「ああそうそう。筆石にはロールケージ付きのクルマを勧めておくよ。言ノ葉さんが安心して乗れるようにね」
歩む途中で振り返り、課長は声を上げてそう言って中身入りのペットボトルを持つ手を掲げた。そして、なんて返せばいいのか迷う綾乃の返答を待つことなく、河合は屋上から姿を消した。
綾乃は、彼女の隣で本体を膝の上に乗せて、静かに座っていたアイに目を向ける。
「アイちゃん、ロールケージって知ってる?」
「えっと、クルマが横転したり、事故を起こしたりしたときに、乗員が潰されないよう空間を確保するパイプフレームのことです。改造パーツです!」
「そう。ありがと」
……河合課長。違う、そうじゃない。
そもそもあんな運転をしないように言ってほしかったのだ。危険運転前提の対策じゃなくって。
綾乃のまっとうなツッコミが心の中で炸裂し、彼女に嫌なものを見てしまったような表情をさせた。
そして彼女が次に突っ込んだのは、クルマの乗り方も知らないくせに、クルマのマニアックなパーツの名前を知っている、知識が偏りすぎのアイのことだった。箱入り娘というか、ちょっと常識が外れているところが、どことなく筆石先輩や河合課長の雰囲気を感じさせる。
「あの、アヤノさん。アヤノさんが辞めちゃったら、きっと私はまた備品倉庫の中に戻らなくちゃいけないんです。私は古くてボロだし、使い勝手も良くないから、倉庫で朽ちて捨てられちゃいます」
「…………。」
「だから、えっと、次のダイブに備えて、アヤノさんが辞めた場合を仮定して、私がどうなるか予測を立てる練習をしてみました! 以上です!」
「……それは、どうなんだろうね」
アイは、本当はヒトなんじゃないかと思った。
RS-01という本体の向こうには、RS-01役の人がいて、私にドッキリを仕掛けているんだと言われたほうが納得しそうだった。
「仮定ったら仮定なんです!」
「はいはいアイちゃん分かったから」
アイがそう強調したとき、暖かい日差しと相対するように、まだひんやりとした風が吹き上がる。風に舞い上がった薄桃色の鱗片は、言ノ葉綾乃の足元に舞い降りて、二人の視線を集めた。
「……それは何の花びらですか?」
「これはね桜だよ、アイちゃん」
綾乃は足元のまだ湿っていて柔らかく、ひんやりするその花びらを、アイの手の上に乗せた。
五月十四日、昼休みも終わりが近づいた屋上での出来事である。