09話 猫耳と狐耳
「分かりました! 実際の運用に近い条件でテストしますね」
自信がなくて筆石先輩の顔を見る。静かに見つめてくる眼鏡の奥の黒い瞳はただ作業を見つめているようでも綾乃の仕事を見張っているようでもあり、ここまでの作業があっているのかどうかは読み取れない。
危ない事やよっぽど大ポカをしそうなら多分止められると思うし、合ってるんだよね。そう思う事にして、綾乃はアイとの作業に意識を戻した。
「アヤノさん、他のテストケース設定に関して、安全を保証できる範囲で私が自動的に設定することをアイは提案します」
「お願い。私がやるよりも、アイちゃんの方が絶対良さそうだし、任せるね」
「任されました!」
ケーブルを介したアイ本体とダイブ装置の通信は十数ミリ秒で確立し、テストランモード起動宣言のコマンドをダイブ装置に流し込む。
ダイブ装置がアイに応答。”コマンド受諾。返答あるまで待機せよ” ダイブ内部で、さきほどより少し厳しい診断プログラムが走る。装置の各種センサーから列挙される情報を元に、正常に動作が可能かチェックされ、アイに二つめの返答。
”内部ハッチが開放状態のため続行不可”
「おっと! アヤノさん、ハッチを閉鎖する必要があります! 閉めていいですか?」
「筆石先輩、いいですか?」
「OK。ハル、やるわよ」
『了解』
筆石の四肢にハルのマニピュレーターが再び絡みついて行く。筆石はハッチの内側の取っ手を持つと、開いたハッチを押して閉めていく。
「あっ……」
自分で閉めるつもりでいた綾乃は、仕事を奪われてその場に立つしかなくなってしまった。すると筆石はそんな綾乃の声に気付いたのか、ハッチの取っ手から手を離す。
「……やってみる?」
「やってみます」
さっき閉めようとしてくれたのは、筆石先輩なりの心遣いなのかもしれないけれど、ハッチを閉める作業ならば私も四課で研修受けてます。実物を触るのは初めてだけど、言われた手順通りにさえできれば。
重厚な金属製のハッチの前まで歩み寄る。厚さ二十センチはダテじゃない。いっぱいに広げた手の幅ほどの厚さがある。
研修で言われた手順を思い出しながらハッチの操作を確認する。あれ。
二重になっているハッチのうち、外側のハッチは外側にスライドするようになってて、内側からは閉められない。普通は外から閉めてくれるオペレータがいると研修で聞いたけど、私と筆石先輩がダイブルームにいたら、外のハッチを閉める人がいない。
筆石先輩に聞いてみようと振り返ろうとして、綾乃はひらめく。
そういえばさっき、筆石先輩は真っ先に内側のハッチを最初に閉めようとしていた。てことは、内側を閉めるだけで十分ということでは?
正解の確率が十分高いと踏んだ綾乃は、内側のスライドハッチの取っ手を握り、右から左へ軽く押してみる。少し力を入れたくらいでは、ハッチはびくとも動かない。
「ふぅん――!」
全身の体重をハッチにかけるように押しても、わずかに動く気配を見せども、頑として動かない。押し出そうと踏ん張る足がジリジリと後ろにズレていく。
笑ってしまいそうなほどに、自分の力ではどうしようもありませんでした。ハッチを閉めるどころか、そもそも動かせないっていうね。
「アヤノさん、私も手伝います」
綾乃一人では作業が困難だと判断したアイが駆け寄って、綾乃の隣、ハッチのヒンジに近い側に並んで手をついた。
「ありがとう。せーので行くよ」
「はい」
せーの! 掛け声で押され、ハッチがゆっくりとスライドしはじめる。スライドしきったハッチを、外側に押し出すように閉じる。振動が足元を伝わった。
綾乃は一息ついてすぐに閉じたハッチをロック、しっかり閉じたことをロック音、それから実際に動かないか力を入れて確認。後者の確認も、もちろんアイちゃんとやりました。
筆石先輩、私とアイちゃんでやっと閉められるハッチを一人で開閉するなんて、見た目以上にバカ力を持っている。強いなぁ……
さっきハルが先輩の身体に巻き付いていたのは、サポーターみたいな役割のためかもしれないと思いつつ、でも一人で閉められないくらいには体重は私のほうが軽いもんねと、一人心の中で高らかに勝利宣言。
私だってハッチくらい閉められるんですよ。綾乃は嬉しげなドヤ顔を筆石に見せつけた。それに対し筆石は綾乃の心中をどうも理解できないらしく、不思議そうな、いうなれば変な物を見つけた猫のような表情で綾乃を見つめるのであった。すると、綾乃は一転、筆石の微妙な表情が、自分が何かミスをしたのではないかと徐々にドヤ顔を崩しつつ、不安になってハッチをもう一度見る。大丈夫なはず。
「内部ハッチは正常にロックされました。テストモード起動準備完了です!」
アイの本体がダイブ装置からのケーブルを介して受信したメッセージを、アイはアヤノに分かる言葉に変えて伝える。
自分の思っていたことを知ってか知らずか、伝えられたその報告に綾乃は安堵。
「ありがとう。続けて」
「テストモードを起動します!」
ダイブ装置の空間内にモーターが動いているかのような低い駆動音が響く。しかしそれも数秒ほどすると消え、ルーム内に静寂が広がる。
動く音が聞こえなくなり、綾乃の不安はぶり返す。やっぱり外側のハッチは、どうにかして閉めなきゃいけなかったんじゃないだろうか。
「スキャン完了です。指示通り、自動設定で進めます」
綾乃の中では、アイの報告が自分の心の頼りになっていた。
本体のノートPCとダイブ装置の中で、人間が介在するよりも圧倒的に速く、テストに関する情報がやり取りされていく。ノートPCのディスプレイには、テキストベースのコンソール画面が表示され、人に読ませる気など微塵も感じられない勢いで、テキストの入力、その応答のやり取りの記録が下から上へ勝手に流れていく。
静寂に慣れつつあった綾乃は、ハッチの外側から、かすかに外で音が鳴っていることに気がついた。何の音かなと耳を澄ませた綾乃は、急に何かが動く大きな音にビクリと肩を震えさせた。同時にガスタービンの様な高音が最初は静かに、段々と大きくなっていく。
「おお、動いた動いた」
そう筆石が呑気な口調で言う。
そして高音が大きくなるにつれ、部屋に変化が表れ始めた。 ダイブルームの壁、床、天井が淡く緑色に輝きはじめ、そして部屋の頂点から辺に向かって緑色の光が走り始める。そして輝きが増して来た時唐突に、それは現れた。
「すごい……」
ダイブルーム一杯に広がる薄い緑色の光の、一辺が十センチほどの三次元格子。空中の埃が照らされてあちこちで星の様に輝く。
「ところで筆石先輩、今テストしている装置って、何をするための装置なんですか?」
「これは――」
「生体改変装置に異常ありません。間もなく処理が開始されます!」
筆石が何か言いかけた言葉に被せてされたアイの報告の直後、改変が開始された。部屋の壁の四方向から淡い光の幕がせり出してくる様に動いて来る。その光景に綾乃は一瞬押しつぶされる様な錯覚を覚え、思わず目を閉じた。全方向から空気を吹き付けられるような感覚。例えるならクリーンルームに入る前にエアシャワーを浴びた時の様な。
装置が出していた高音が静かになって行き、聞こえなくなった。恐る恐る綾乃は目を開く。
「テストは問題なく終了しました」
「ありがとう。お疲れ様」
強い風みたいなものを浴びたからだろうか、プールで耳に水が入ったときのような違和感がある。
そっと目を開けると、両手を後ろに回した白衣で白髪のアイが、自らの役割を完遂したと言わんばかりの自慢げな顔で、背筋を伸ばして綾乃を見上げていた。
見た目的に色々派手なことをした割には、周囲がガラッと変わるような変化はない。セータイカイヘンソウチのテストとは何だったのだろう。まさかさっきのド派手な光景を生み出すためだけの、ただの演出装置ではあるまい。
「あ、こういうこと?」
目の前に立つアイの足元に目を落としたとき、自分の服装が変わっていることに気がついた。
今朝突然点検しに行こうと言われた綾乃は、点検する格好としては最適ではないが、そのままオフィス用のスーツを着用して来ていたはずだった。
「すごい……」
それがいつの間にか、質の高そうな厚手の白い生地にすみれだろうか、花柄のあしらわれた浴衣を着ていた。
厚手の生地の重みを感じながら袖を持ち上げて眺める。木綿に染められた若紫色のすみれ。ちょっと高そうな装いに綾乃の気分は徐々に高揚していくが、足元を見てその感情は一気に恥じらいに変わる。
「……っ!」
古風でなかなか良いと思っていた綾乃の評価を崩すようなミニスカート。太腿の半分も隠れればよく仕事してくれたと評価せざるを得ない短さの丈は、さすがに恥ずかしい。何このひどい服装!
せめて前だけでもと、慌てて両手でスカートを押さえつけて、そのとき背後にいた筆石先輩の顔を見る。
そこには、コスプレのような衣装を身にまとった筆石が暖かい、だけども何処か悟りきった様な表情で、どこか諦観を含んだまなざしで綾乃を見ていた。
彼女の服装は巫女服。その独特の光沢と滑らかな質感はその衣服が絹等の繊維で出来ている高級な布で作られているとわかるものであった。しかしその形態はそれとはまったく逆で、袴の丈は太腿の中ほどまでしかない所謂ミニスカと呼ばれる物で、また白衣に当たる肌着の襟は花魁めいて大きく肩を出す様に開かれており、その下には水着のような黒いインナーが見えていた。足袋はニーソックスの様に膝上まで伸びており、雪駄に至っては何故か微妙にヒールになっている。これで神に仕える巫女だとのたまえば、心の広い八百万の神々でさえ揃って笑顔でビンタをかますだろう。
しかし何よりも綾乃の目を引いたのは筆石の頭に生え、微妙にへにゃりと外側に向かって垂れた狐の耳。
特徴的だった黒髪のポニーテールが解け、眼鏡も掛けていない女性。眼鏡をかけた状態しか見ていなかった綾乃は、数瞬の間この人が誰であるか認識できなかった。
「先輩……」
もしかしなくても、先輩のほうがよっぽどキツい装いじゃないだろうか。綾乃は思った。黒い髪の中で浮くようにして目立つ赤茶けた色のケモミミのコスプレで扇情的な巫女のような服装。
おまけに彼女の両足の間から見える、文字通り狐色の先端が白いふさふさの尾までついている。
筆石は自らの精神衛生保護のためにホワイトアウトしかける思考回路を押さえて平静を装う。しかし首から下に広がるのはあまりにも無慈悲な姿をした自分の姿。いや頭にも何か生えてるけどね。
確かに自分は身だしなみに気をつけている方とは言えないが、かといってこんな格好をさせられることに嫌悪感や恥じらいを感じないかと言えば、そんなことはない。普通に恥ずかしい。
経験と現在の恰好から推察して、テストケースとして使われたのは一時期ライトノベル界で流行したハイファンタジー系の物だろうと彼女は結論づけた。
それにしても、だ。
ハイファンタジー系の作品に潜った事もないわけではなく、それなりの変身もした事は有る。だが、それでもこの格好は完全に彼女の想定の範囲を超えていた。彼女は現実逃避を図り『こういう服ってどうやって着るんだろうなぁ』などという思考に飛んでいきそうになる脳をフル稼働させて、この事態をどう収拾するべきか思考する。普段ならすぐに出せるであろう簡単な答えも、思考の濃霧の中ではなかなか見つからない。
こんな格好にも関わらず、その割には妙に肌触りが良く、着心地が良かったのが余計憎たらしかった。
「……何も言わないで。この仕事をする上で、必要な事ではあるから……」
それに、と彼女が何処か影の差した表情のまま続ける。
「あなたのそれも、中々可愛らしいわよ」
そう言って、彼女は何処か悲し気な笑みを浮かべたのだった。
例えばダイブ先の世界がハイファンタジーなら、スーツ姿で世界に出れば確実に目立つ。それを避けるための装置が、今テストしたものなのだろう。
「そう、ですよね……ひぎゃっ!」
それは自分が可愛らしいと言われたことではなく、この装いの目的の理解を口にした綾乃だったが、直後に身体のどこでもないどこかを掴まれ、引かれる強烈な感覚に悲鳴を上げた。
咄嗟に後ろを見れば手早く片付けを終え、本体のヒンジの取っ手を左手に掴んだアイが、反対側の手でフワフワした猫の尻尾のようなものを、笑顔で握っていた。
「おー、毛が柔らかいですね! アヤノさん可愛いです!」
「うそ、しっぽついてる!」
まさか。耳の位置に手が触れても、その位置にあるべき感触がなかった。そのまま手をゆっくり頭頂へと撫でると、柔らかくペコペコする異物。指でなぞれば、耳元でその音が聞こえる。
聞こえ方が変だった理由は、このコスプレでも紛い物でもない、本物の猫耳が自分の身体にくっついていたからだった。
「うえぇぇ……」
引っ張ったら外せるかもしれないと無駄な期待を抱いて、耳を引っ張り、尻尾を引っ張る。そして得た結論は、「引っ張ると痛い」ということと、それが自分の身体の一部に、紛れもなく組み込まれているということだった。
「テストも終わりましたし、他にテストがなければ会社に戻りましょう!」
「いやいやアイちゃんちょっと持って。それはおかしい、おかしいよアイちゃん!? こんな姿のまま会社に戻れないし、恥ずかしすぎて家にも帰れないってば! ていうか私の大事なスーツどこ!?」
「スーツは消滅しました。耳がピクピク動いて可愛いです!」
「消滅!? 私予備のスーツはまだ仕立ててもらってる最中で、代わりがないんだよアイちゃん!」
「そんなこと言われてもー」
自分の耳をアイが興味深そうに片手でペコペコしながら言い放つ。入社後に予備のスーツを用意をする自分の甘い危機意識を自省しつつ、自分のスーツがこんなミニスカ浴衣になってしまう事態に頭を抱える。
そうじゃん、猫耳じゃイヤホンもヘッドホンもつけられないじゃん。当たり前のことながら、通勤中に音楽を聞くことのある彼女にとっては、少々一大事な事実に目が回る気分だ。
「アイちゃん、元に戻して」
「アイはもう動かす権限を持ってないです」
「テスト失敗したのね……色々詰んだ……」
綾乃はその場に座りこんで、自分の背中から出ている尻尾を手で触る。筆石先輩に申し訳ない気持ちになる。設定はアイを信じてほぼ一任したはずなのに、結果は失敗。どうしてこうなった。フルオート設定にしてやらかすなんて、自分でも相当だと思った。まさか内部ハッチの締まり具合が悪いとこんな結果になってしまう、なんてことはないだろうし……むしろ一任したのが悪かったのだろうか。
「綾乃さん」
声に反応して綾乃が振り向くと、筆石が光の消えた瞳で綾乃に話しかけた。自分の姿があまりにもショックだったのだろうが、それを仕事として無理矢理受け入れたが故の感情消失であった。
「はい」
「さっき綾乃さんは音声による指示で『一回』って起動回数をセットしちゃったけど、本当は『一セット』って言うべきだったのよ。改変と、元に戻す『二回』で『一セット』だからね」
筆石の尻尾がぎこちなく揺れる。同時に彼女は引き攣った笑いを浮かべた。
「あ、あー……そんなこと言ってましたっけ私」
自分の言った言葉を一字一句覚えているわけではないが、アイちゃんにそんなことを言ったかもしれない。アイは私の指示に忠実に従ってテストをしたまで。
アイのコンピュータらしさを知っておきながら、その指示の仕方に注意を払わなかったのが、今回の自分の失敗の原因だったのだ。それでも。
「普通に融通きかせてワンセットでもいいじゃん……ぽんこつ」
しゃがみこんで三角座りの綾乃は顔を伏せて言う。
人間の姿を操って、人間らしさをまとう理不尽なアイに、綾乃は理不尽だとは思っていても、理不尽を呟かずにはいられなかった。
アイは呟きを認識したが、その言葉に応えることはない。
「大丈夫よ……もう一度最初からテストモードで起動して一回起動させれば戻るから……」
そう言う筆石の瞳から、涙が一粒だけほろりと零れる。
「今チェックしている装置は生体改変システムっていってね……どういう物かは……まぁ、この状態を見てくれれば大体わかるわよね……」
目から生気が完全に失われ、死んだ魚の様な目をした筆石が半ば呟くような声で語る。普段のハキハキした様子からは想像も出来ない姿だった。
「はい……」
自分が特課に配属されて、筆石先輩からイジられることを愉快だとは思っていなかったが、このときばかりは、何度も見た怪しげな笑みを浮かべて、面白そうにイジってほしかった。
燃え尽きて灰になったような雰囲気をまとった、妖艷な姿の先輩。それが自分のやってしまったことに対する結果なのだ。
「ダイブする先がね、うふふ。ファンタジーのね、こういう小説だったりすると、流石にスーツのままダイブするわけにはいかないからね。その作品に合わせて衣服と肉体自体も変化させるのよ」
こういう風にね。そう言って筆石はヤケクソ気味にくるんと一回転して見せた。彼女の巫女服と呼べない様な巫女服の袖がふわりと舞う。そうやって一回転して止まると、それが想像以上に心に来て、自然と口から渇いた笑いを漏らした。
「……まぁ、初めてで起動させられただけで十分よ。やってみろって言ったのは私だしね」
責任は自分にある。それでもって綾乃は十分な結果を出して、それで十分だ。
――それに。
「綾乃さんの恰好、アイも言ってたけど中々悪くないわよ」
「装置のことは分かりました……ありがとうございます……」
吹っ切れた様子の先輩のフォローは、思ったよりも傷つきやすい先輩の印象が焼きついた綾乃の心に余計に突き刺さった。両腕の中に顔を深く埋めた。自己紹介の失敗を面白げに茶化してくれたときのように、今回も茶化してくれたら良かったのに。先輩のありがたみを感じた綾乃のわがままな心は、今となってはそっとしてほしい気分だった。
「むー……」
元気のなさそうな綾乃に、筆石はどうにも歯の奥に食べかすが詰まった時の様な、定食の量が思ってたより少なかった時の様な。筆石はその感情を少し玩んで、それを理解した。
そうだ、自分はまだ満足できていないのだと、不満なのだと。折角こっちが開き直ったというのにうじうじされるのはつまらない。そしてそれからの彼女は早かった。
「えいっ」
筆石は流れる様な動きで綾乃の横を通って屈み、そして綾乃の尻尾を掴んだのだった。
「にぎゃっ!」
綾乃は三角座りの状態から反射的に前へ飛び出し身を捩り、筆石の手を振りほどく。
「何するんですかゾッとしたじゃないですか!」
尻餅をついた状態で掴まれた尻尾を擦りつつ筆石を見上げて抗議する。トホホで涙をちょちょぎらせていたのは、何も筆石だけではなかったらしい。
「いやぁ、触り心地よさそうだったから、つい」
そんな綾乃に筆石はあっけからんに答える。先程までの様子が嘘のようであった。
「先輩の尻尾で満足してください! 私より絶対ふわふわしてるじゃないですか!」
筆石の足の間から見える狐の尾は、細長い自分の尾よりも明らかに柔らかそうだった。すると筆石は分かっていないと言わんばかりにやれやれと首を振る。そうして自分の尻尾を少しぎこちなくも動かすと片手で握った。
「わかってないねぇ、自分で自分のを触っても意味ないじゃない」
そう言って尻尾を離すと両手をわきわきと動かしながら綾乃に向けてくる。
「さぁ綾乃さん、おとなしくモフられなさい!」
「ちょっと先輩っ、アイちゃんとめて!」
綾乃は半ばワラにもすがる思いでアイを呼ぶ。
すると今まで棒立ちして二人の様子を目で追っていた見ていたアイが、綾乃に近づく筆石の前に転びそうになりながらも黙って割って入り、真剣な表情で両手を広げ立ち塞がった。それを見た筆石は不敵に笑う。
「ほほう、アイ。私に逆らうとは」
「アイはオペレータの命令に従っているだけです」
「成程、そうだったわね。ふふふ、こうなればあなたもモフも――」
『そこまでです、フミカ』
唐突に響く機械音声。次の瞬間紐のようなものが彼女の四肢に巻き付き、動かなくなった。
ハルは筆石の四肢にマニピュレーターを固定し、人工筋肉が一定の収縮をした所で状態をロックした。その結果彼女の四肢はギプスで固定されたかのように動かなくなった。
「え、は、ハル!?」
『開き直ったからと言って調子に乗りすぎです。少し痛い目を見なさい』
そういうとハルの本体である首輪が赤く光り、表面にホログラムの『LOCKED』の表示が現れた。
アイは広げた両腕をゆっくり下ろして振り返り、庇った綾乃を見下ろして手を差し伸べる。綾乃がその手をとると、アイは少し荒っぽく彼女の腕を引き上げた。
「ありがとう」
彼女の言葉のあとの一瞬の不自然な遅れののち、アイは筆石そっくりの悪そうな顔をして微笑む。
表情のレスポンスが遅れたその一瞬で、アイの本体であるRS-01はRatatoskr システムに標準搭載された、ダイバー向けの健康管理モジュールが自動起動し、演算を終了させていた。
「アヤノさん意見具申です。フデイシさんに仕返ししましょう」
綾乃はその言葉に自分の心が一瞬沸き立ったように感じたが、すぐに先輩に仕返しなんてして良いのだろうか、今後の仕事に影響が出ると困るかもしれないと思ってしまい、アイの提案に素直に乗ることはできなかった。
なによりも、そんな自分の制止が効いている間に、獣人な先輩にやり返す――モフり返すことに対しては、綾乃はあまり乗り気ではなかった。
「ハルさんは、私が何か仕返しするとしたらどう思いますか?」
すると、一瞬の間の後、ハルが回答した。マニピュレーターに一瞬光が流れる。
『貴方のしたいようにどうぞ。ただしフミカに対する『危害』と判断した場合は制止させていただきます』
「そう……私がしたいようにしていいんだ」
綾乃は仕返しすること自体に気乗りしていないわけではない。
先輩の保護者役のハルがそういうならば、多少の仕返しはしてもいいんだろう――私も入社して色々と借りがあるし。ハルの言質が取れ、そんな考えが彼女の中で支配的になる。
ちょいちょいと、アイを手招きで呼んで筆石に聞こえないように耳打ちをする。アイは「分かりました」と小さく答えて、バックグラウンドでハルとの無線通信を要求した。ハルはセキュリティシステムを再確認し、コアデータを切り離したのち無線通信に応じる。
筆石に内緒で行われた無線通信ののち、アイは綾乃に小さく舌を出してすぐ引っ込めた。
「じゃあ、もふもふが大好きな先輩をモフモフにしちゃおっかな」
「え、え、ちょっと待って綾乃さん、『に』って何? しちゃうってどういう事ぉ!?」
冷や汗をだらだら流しながら狼狽する筆石。いつの間にか床にマニピュレーターで縛り上げられる体勢になっていた。
「お猫様がいいですか? お狐様がいいですか?」
筆石への答えと言わんばかりに質問して綾乃は微笑む。アイはダイブ装置のコンソールパネルを開き、先程と同じように白いケーブルでアイの本体と装置の接続を、不器用な手つきで試みる。
「……せ、せめて、お狐様でお願い」
そう、筆石は引き攣った笑みを浮かべながら言ったのだった。
「分かりました。お猫様ですね」
綾乃はまだケーブルをコネクタに接続できていないアイに歩み寄って、筆石には目もくれず言いながら、ケーブルを取り上げカチッと接続。饅頭怖い理論の変形である。
「私はテストランに不慣れなので、もしかしたら全く別の姿になっちゃうかもしれないですけど、恨むならハルさんを恨んでくださいね」
「おのれえええ! 裏切ったなハルキゲニアぁぁぁぁぁ!」
『コード四〇三。回答拒否』
筆石の悲痛な叫びとハルの棒読みの回答がダイブルームに響いた。
普段白衣を着た研究者風の装いとはいえ、決壊したように飛び出た筆石の入魂の怒声は、綾乃を萎縮させるには十分。作中作では時折キャラクターを演じることもあるらしい、ダイバーとしての資質を感じさせる迫力だった。
「アヤノさん、テストランの命令をください!」
しかしここまできたら最後までやり遂げるしかない。綾乃は覚悟を固める。私がこれからすることは、仕返しにしては十分かわいいものなのだ。
「アイちゃん、もうやっちゃって」
綾乃は先輩の様子が少し怖かったが、平静を装ってアイに冷たくテストランの命令を下す。アイは権限を付与されたと解釈し、テストラン起動宣言コマンドを送りこむ。生体改変装置のテストランのための自己診断が始まった。
「くっ、殺せっ……!」
筆石がノリノリなのか覚悟を決めたのかよく分からない言葉を、絞り出すようにして言う。
それと同時に再び大きくなる機械音。そしてすぐに部屋全体に緑色に輝く格子が部屋に満ちる。そして再び光の膜が部屋の四方から押し寄せる様に動いて来て――
「……へ?」
恐る恐る筆石が目を開くと、そこには元の人の姿に戻った筆石と綾乃がいたのだった。
「よかった。ちゃんと戻れました」
綾乃は自分の着ている服が、ここに来たときのスーツと同じものかどうかを確かめてそう言った。
彼女は最初から、筆石先輩を動物に変身させるつもりなどなかった。出会ってまだ日が浅い先輩を動物に変えてしまうほどの度胸も自分にはなかった。
ただ、元に戻るならば自分の手で元に戻したかったし、その過程で仕返しとしてアイとハルに協力してもらって一芝居打ったにすぎないのだった。
「はぁ、はぁ、はぁ……た、助かった……」
全身に冷や汗をかいた筆石が床に突っ伏して震えたままの声で言う。
『これに懲りたら悪戯は今後控えることですね、フミカ』
そう言いながらハルはマニピュレーターのロックを解除し、解きながら筆石に言う。
すると彼女は、まだ力の入らない手を床につきながら起き上がると、その瞳の奥に悪餓鬼の様な眼光をたたえながら、まだ引き攣る表情筋を無理矢理動かして不敵な笑みを浮かべた。
「だが断る!」