太古の悪魔ディアブロ
幻覚……?
なのだろうか。
先ほどまで誰もいなかった安楽椅子に少女が座っていた。
真っ白なドレスをまとった人形のような少女。
彼女は半透明に透けており、およそ現実感を感じさせない。
まぼろし、
あるいは、
幽霊、
そんな言葉が頭に浮かんだ。
どちらかは分からないが、不思議と恐ろしいとは思わなかった。
それを証拠に腰にある剣に手が伸びない。
もしも彼女が幽霊、それも悪鬼や悪霊のたぐいならば、呪い殺される可能性もあったが、彼女はそんな存在ではないような気がするのだ。
おそるおそるコンタクトを取る。
「あ、あの、お嬢さん」
で、いいのだろうか。
少なくとも彼女は年下で、いいところの令嬢に見えた。お嬢ちゃんよりはお嬢さんの方が適切だろう。
そう思ったのだが、彼女は一向に気にすることなく、言葉を返してきた。
「そこに誰かいるの?」
彼女は周囲を見渡すようにささやく。
僕には彼女が見えているが、彼女には僕が見えていないらしい。
まるで視線が交わらないし、彼女の気配も感じることはない。
目の前にいるというのに、互いの息吹を感じるくらい側に近寄っても、彼女は僕を知覚することはなかった。
彼女は一方的にしゃべる。
「……そこに誰かいるのね。わたしには分かるわ。なにか聖なる力を感じる」
聖なる力とは聖剣のことだろうか。
「とても温かい力を感じます。とても穏やかな心も。きっと、あなた様はお優しい勇者さまなのね」
彼女はにこりと微笑む。
しかし、すぐに真剣な表情になるとこう言った。
「わたしの名はカロア。この工房の主の娘。偉大なる魔術師シンシナークの娘。
わたしには幼きころより、自分ではない誰かと交信する力があった。
異世界の人間、
すでに死んだ人間、
過去の人間、
未来の人間、
この世界の人間ではない人と話すことができた。
あなたがどの種類の人間に分類されるかは分からない。
でも、あなたはきっとこの工房にいる。
この場所にいる。
そんな気がするの」
正解、と言いたいところだが、口にしても彼女の耳には届かないだろう。
だから黙って彼女の次の言葉を待った。
「この工房にいるということは、異次元に隠したこの工房が現世に現れているということ。
つまり、それはこの工房に封印した悪魔が目を覚ました、ということでもあるわ。
お願い。
この工房に封印されている悪魔を世界に解き放たないで。
もしもやつが解き放たれてしまったら、この世界に厄災が訪れるでしょう」
厄災? 悪魔?
この小さな工房にいったい、なにが隠されているのだろうか。
そう思い、彼女の言葉に耳を傾ける。
「その悪魔の名前はディアブロ。古代に封印された悪魔。
やつは人を殺すためだけに存在する化け物。
良心を持たない生き物。
やつを倒すには――を使い、やつの弱点に槍を突き立てるしか――」
彼女の声がぼやける。
ノイズのようなものが混じる。
元々薄かった輪郭が失われていく。
どうやらこれ以上、彼女とコンタクトを取ることはできないらしい。
そう直感したが、その勘は当たった。
彼女もそれに感づいたのだろう。
言葉が早口になり、緊迫を帯びる。
「ともかく、この工房に隠してある――を探して。
そしてそれでディアブロを殺して。
復活したばかりならばまだ付けいる隙がある。
もしもやつがその力を取り戻したとき、この世界は――」
そこまで言い終えると、彼女は完全に消え去った。
僕は誰もいなくなった安楽椅子を見つめる。
しばし、安楽椅子を見つめていると、後方から声がした。
「やった! やったわ! ついに霊視の眼鏡を見つけたわ!!」
その声はカチュアのものだった。
どうやら目当ての眼鏡はあの部屋にあったらしい。
彼女と合流すべく、先ほどの部屋へ戻る。
彼女は僕を見つけると、その場で軽く飛び跳ね、僕の胸に飛び込んでくる。
「やったわ! やったわクロム君、これで私の願いが果たせる! 私の思いが成就する。やっとあの人に会える!!」
彼女は力一杯僕を抱きしめてくる。
その喜びようはまるで宝くじが当たったかのようだった。
いや、僕でさえこんなにも喜ばなかった。
彼女は全身で喜びを表現していた。
「もしも、ここに知らない男の人がいたらキスしたいくらい嬉しい!」
そんな言葉を連呼している。
そして、僕の顔を見つめると、
「失礼ですが、あなたはあたしの知り合いですか?」
と聞いてくる。
「いいえ」
と答えれば情熱的なキスをされそうなので、
「カチュア、気をしっかりして」
と言うしかなかった。
彼女は、そうね、そうよね、と、うなずくと、深呼吸をする。
「はー、ふー、喜びのあまり取り乱していたわ。あたしはまだ霊視の眼鏡を手に入れただけ。問題なのはその眼鏡をどうやって使うか、だもの」
多少冷静になったカチュアに僕は言う。
「そうだよ。それを地上に持ち帰るまでが目的のはず。油断し、帰りでなくしたり、命を失うことも多々ある」
僕はフェンリル・ギルドに掲げられている標語を口にする。
「遠足は家に帰るまでが遠足。クエストは地上に帰るまでがクエスト」
そのありきたりな標語は彼女の心を捕らえたようで、こくんとうなずくと、手に入れた眼鏡を後生大事にしまい、こう言った。
「それではあらためまして、冒険者クロム君、このカチュアお姉さんを無事、地上まで連れ帰って貰えますか?」
「もちろん」
僕も彼女と同じように笑顔で答えると、撤収準備を始めた。
その間、彼女は幸せそうに眼鏡の入った鞄を抱きしめていた。
本当に幸せそうなのでこちらまで嬉しくなってしまう。
そうなると、先ほど本棚の裏で起こった出来事を話しづらくなってしまう。
この工房で出逢った不思議な少女のこと。
彼女が予言したディアブロなる悪魔の復活。
そのふたつのことは彼女の依頼はもちろん、その人生にも関係のないことであった。
ならば話さない方が賢明かな。
彼女の魔術師としての知識や腕は借りたいところであるが、このことを相談するのはリルさんだけでいいかもしれない。
そう思った僕はだんまりを決め込む。
やはり彼女に事情は話さない方がいい。
そう決断した僕は、笑顔を作り直すと、そのまま一階へと戻った。
しかし、数十分後、僕は彼女に事情を話すことになる。
そうならざるを得なかったのだ。
なぜならば帰り道、第三階層へ続く道に、血にまみれた冒険者の死体が転がっていた。
身体を切り刻まれたもの。
五体不満足なもの。
頭部を潰されたものもいる。
まるで悪魔に殺されたかのようなむごい死体が転がっていた。
その中のひとり、唯一の生き残りが、最後の力を振り絞り、僕たちにメッセージを残した。
「あ、悪魔だ。悪魔が現れて俺たちを襲っていった……」
その言葉を聞いてカチュアもなにかを感じ取ったようだ。
彼女に詳細な事情を話すことを誓った僕は、生き残った冒険者を抱え、足早に第四階層をあとにした。
一応、効果があるかは分からないが、第四階層の入り口にある掲示板にこんな伝言を残した。
「この階層には悪魔がいる。気をつけて」
これ以上、悪魔の被害者を出さぬよう、足早に地上を目指した。




