大賢者との食卓
エイブラムの弟子たちが用意してくれた夕食はとても美味しかった。
カレンの作ってくれる料理には今一歩、いや、二歩くらい及ばないが、それでも客人をもてなすため、材料は吟味されていたし、手も込んでいた。
これは比べる相手が悪いだけで、カレンの料理スキルが凄すぎるだけなのである。
僕は食卓に並べられたチキンソテーやシーザーサラダなどを食べる。
無心で食べる。
それくらいお腹が減っていたのだ。
その姿を見て目を細めるエイブラム。
なんでも彼には孫がおらず、元気に食べる少年を見るとつい嬉しくなってしまうのだそうだ。
「もっと食べなさい」
と、自分の分まで分けてくれる。
有り難いことであるが、さすがに胃袋が悲鳴を上げる。
しかも僕が腹ぺこキャラだと誤解してしまったニアまで分けてくれる。
メルビル家の教えに、
「ご飯を残したものは地獄に落ちる」
という言葉があるので残すことはできない。
僕が無理をしてニアの分まで食べているとエクスが茶化してくる。
「間接キスだね」
と――。
さすがにそんなことで頬を染める年頃ではないが、一国のお姫様の間接キスと考えると意識してしまうものがある。
僕はこれ以上意識しないように、エイブラムから分けてもらったおかずとニアからもらったおかずを混ぜる。これでどちらがどちらか分からない。
エクスは「馬鹿だね、もったいない」というが、意識して食べられなくなる方がよっぽどもったいなかった。
その後、僕は夕食を食し終えると、裕福な商人のように出っ張ったお腹をさすりながら、談話室へ向かった。
エイブラムに呼び出されたのだ。
なにごとだろう、と思ったが、ルミナスが説明してくれる。
「お師匠様は、遠方の地からこられた客人に話を聞くのが好きなのですよ。学者ですからね。色々な知識を仕入れたいのです」
「遠方?」
とは僕の故郷のことだろうか。たしかにこの迷宮都市から遙か遠方にあるけど。
僕の故郷、リュスホール地方はこのエルンベルク王国の辺境に当たる地だ。
学者にとって聞きたいことが山ほどあるのだろう。
もっとも、僕はその地に住んでいたけど、学術的なことには興味がないので、おそらく役に立てない。
案の定、僕はエイブラムを失望させる。
「レズス川の源流にケルピーの群れが住んでいるとは本当か?」
「さあ? 源流がどこかも知りません」
「ロズナンドの砂丘地帯にいる大ワームが草食性というのは本当か?」
「砂丘なんて近寄ったこともありません」
「大英雄エクシールが実は女だというのは本当か?」
「僕の生まれる前の人ですし」
なにひとつ満足行く答えが出せない。
というか、エイブラムは僕よりもリュスホール地方に詳しいくらいだった。
リュスホール地方の人口、農工業生産高、在地の貴族、生息モンスター。すべて把握している。小貴族である僕の実家の所在地まで把握していた。
これはかなわない。さすがは荒野の大賢者。
エイブラムは紳士にして寛容な人物であるが、ひどく落胆したようだ。
夜風に当たってくる。
と、壁にかけられていたローブを取る。
それを必死でとめる彼の弟子たち。
なにをあんなに必死でとめているのだろうか、分からない。
夜風に当たって気分転換をするのは、学者にも必要なことだろうに。
そう思っていると、ルミナスが説明してくれる。
「お師匠様は、世界一の方向音痴なのなのです。もしもこの館をひとりで出たら、二度と帰ってこられないでしょう」
「まさか、ニアじゃあるまいし」
と、ニアに聞こえないよう言ったが、ルミナスの表情を見る限り、事実のようだ。
彼女は心底残念そうにこう言う。
「お師匠様は誰も足を踏み入れたことのないような遠方の地やダンジョンの奥深い場所のことはよく知っているのに、自分の住んでいる地区のことはなにも知らない。そういう方なのです。研究にばっかりかまけて、散歩さえされませんからね、普段は」
「……世の中にはそんな人もいるのか」
僕は改めてエイブラムの変わった面を見つめると、せめてお弟子さんと散歩に行ってください、と諭した。
僕の説得が通じたわけではないだろうけど、エイブラムは渋々それを認めると、ギルドを出た。
僕たちもそれに続く。
ドラゴンの解析を頼んだ僕らの用件は済んだ。
ここに留まる理由はない。
僕とニアとルミナスは途中まで一緒に街を出ると、それぞれ帰るべき場所へ向かった。
ニアは定宿にしている貴族の屋敷に。
僕は間借りをしているフェンリル・ギルドに。
それぞれ帰った。
別れを惜しむことはなかった。
また近いうちに再会できるだろう。
誰もそう口にしなかったのは、それが既定の未来だからだった。
賢者エイブラムは夜風に当たりながら消えた別れた若者たちのことを思う。
前途有望な若者たちだ。
我が弟子であるルミナス。彼女はあの若さですでに学者として完成されている。
近い将来、大きな発見をし、この迷宮都市を代表するような学者へと育つだろう。
その主であるユーフォニアも凡庸ではない。
個人的武勇もあるが、部下を引きつけるカリスマ、他者を魅了する器、どれをとっても王者の風格があり、もしも男子に生まれていれば、この国の王になっていたかも知れない。
それほど希有な少女であった。
そして――、
彼女たちが連れてきた少年。
名をクロム、姓をメルビルといっただろうか。
今日、ルミナスたちは竜のサンプルを持ってきたが、それよりも素晴らしいものを彼女たちは持ってきてくれた。
伝説のSランク聖剣を使いこなす少年。
どんな武具をも装備してしまう少年。
それだけならばエイブラムもここまで心をときめかさなかったかもしれない。
だが、彼はこのエイブラムが作った深紅のゴーレムをたやすく倒した。
その弱点を一目で見抜き、自分よりも遙かに強いゴーレムを倒した。
エイブラムは冒険者に一番必要なのは、「知力」のステータスだと思っていた。
どんなに筋力が高かろうと、どんなに魔力が高かろうと、知力が低ければ意味はない。
そう思っていた。
少年のステータスを思い出す。
少年の知力の値は『C』であった。
けして高い数値ではない。
だが、このステータスで読み取れるのは外面的な数値だけだ。
知力といっても様々な項目に分かれる。
知識、記憶力、教養、知謀、そして知恵、それらをすべてひっくるめて知力と呼ぶ。
あるいは少年の知力は、知恵に特化しているのかも知れない。
生きるのに必要な知恵に秀でているのかも知れない。
知識は本を読めば補える。記憶力は学者にものを尋ねればいい。
教養や知謀は他者の力を借りればよい。
しかし、知恵だけは人に頼れない。とっさのとき、一番必要になるのは知恵であった。
あるいは少年は、知恵だけならばこの大賢者であるエイブラムを上回っているのかも知れない。そう思った。
「英雄に一番必要なのは知恵という名の叡智なのだ……」
ぼそりとつぶやくエイブラム。
それをかすかに聞いた弟子は怪訝そうな顔をする。
彼に今思ったことを説明し、クロムがやがて英雄になることを伝えてもよかったが、やめた。
彼が注目されるのはまだ早い。あまりにも早い時期に英雄と認定され、世間から賞賛され、甘やかされてその才能を枯らしていった過去の英雄候補たちを思い出す。
クロムがその列に加わるとは思えないが、それでも用心したかった。
自身に残された寿命を思えばエイブラムが最後に見届ける英雄は彼になるのかもしれない。
そう思った。
それに――
と、エイブラムは夜空を見上げる。
今宵の蒼月はとても美しい満月であった。
エイブラムが感じたことはこの月だけが知っていればいい。
そんな詩的なことを思いながら、弟子に連れられ、夜の散歩を楽しんだ。
久しぶりのイスガルドの街は、まるで異国のように情緒豊かであった。




