深海を泳ぐ魚について
散歩道で、ペットショップの店先にあるアクアリウムの中を泳ぐ原色の色をした魚を君は綺麗だと笑った。
11月ももう終わりが近づき、きっとアクアリウムの水よりも僕達が囲まれている空気の方が冷たいんだろうと言うと、
だから、と言って手を繋いだ。君は少し嬉しそうに
「この手は魚には無いんだから。まさか鰓を繋ぐ訳にはいかないでしょ?それだけで、魚に生まれなくて良かったって思うの」
僕は、少し呆れながら君の手を僕のポケットに突っ込んだ。
「魚に生まれたかったって話はしていなかったはずだけど」
彼女…茜は27歳で、僕が学生時代に本屋でアルバイトをしている時に知り合った。
僕は学校を卒業すると、割とまともな会社に就職をして一般的なサラリーマンになったのだけど、彼女は本屋でのアルバイトを続けていた。
「社員にならないの?」と聞くとそういう話は何度かあったけど、断ったと言う。
付き合って1年になるけれど、茜の考えている事は良くわからない。
「アルバイトの方が君と時間を合わせやすいでしょ?」と言うけれど、僕の休みの土日にも平気でシフトを入れる。
「だって、土日に出られないとシフトを削られちゃうんだから、仕方無いのよ」
そういって少し申し訳無さそうな顔をする。
27歳といえば、もう立派な大人なんだ。
だけど、そういう時の茜の表情は頼りなく、そして僕が側にいないとダメなんだろうなあ、と
思わせられる。
「ほら、遅れるよ」
僕は茜の手を引いて、少し早足に散歩道を行く。
散歩道はいつもならグルッと回って僕の家にたどり着くのだけど、今日は違うのだ。
茜の個展・・・正確には茜とその友達の個展が目的地。
個展のチケットが出来上がった日、「恥ずかしいから来なくていいよ」そう言いながら茜はそれを手渡してくれた。
「来なくていいと思うなら渡さなければいいのに」と言うと、茜は眉間に皴を寄せて、
「渡さなきゃ渡さないで面倒でしょ」と言う。確かに僕は後から聞かされるのは嫌いな性格なので、それは正しい事だと思う。
「どんな写真なの?」と、僕が聞くと茜は面倒くさそうに、「あなたが知らない平日の写真よ」と言った。
彼女が写真を撮るのが好きな事は知っていたけど、こんな風に個展を開く程本格的に写真を撮っている事は知らなかった。
お互いのコミュニケーションの問題か。
彼女は喋りたがらないし、僕は聞きたがらない。そういう関係性の上に成り立っていた彼氏彼女の関係。
それ自体が希薄なものだとは思わないけれど、こうして客観的に見てみると希薄なものだったのかもしれないと思う。
僕は茜の肩を抱き寄せて、その暖かさを確かめた。
「いきなり何するのよ」と言う彼女の声は柔らかくて、僕達は僕達らしくあればいいか、思えた。
僕はそのチケットを手帳に挟むと、個展の日にチェックを入れた。
「絶対に行くから」彼女の瞳を覗きこみながらそう言うと、彼女は少し嬉しそうだった。
それが確か10月の初めだったんだっけ。
それから、僕と茜の関係は少し変わった。
僕にとって彼女とは?という事を考えた時、深海を泳ぐ魚の事を思うようになった。
元々はそれは自分自身の事を考える時に浮かぶイメージだったのだけど。
深海。陽の光の届かない位、深い海。
岩と水に囲まれた無機物の世界。もちろん僕はそんな所の事を全く知らないし、あくまでイメージでしかない。
完全な闇の中を泳ぐ魚。その事について考える時、僕は気が狂いそうになる。
深海魚は瞳が退化してしまっているという。見る必要の無い世界。
一体、そこに他者はどのように存在しているのだろうか?
岩と水に囲まれた無機物の世界の中に、同じ深海に生きる他者が溢れているのか、それとも他者に出会う事すら稀なのか。
例えば同じ種類の魚に出会うことは?
そう考えると、深海は恐ろしいし、興味深くもあった。
僕は恋愛について経験が豊富だというわけでも無いし、乏しいというわけでもない。
ただ、留められないという欠点がある。
どんなに近しく、文字通り繋がっていた相手とさえ、別れてしまえば相手について考える事は殆どありはしない。
薄情、そういってしまう事も出来るし、引きずらない分楽だとも言える。
そして、それは恋愛に関わらず僕そのものでもある。
留められない。現在感じる感情すら過去になってしまえば思い出せない。
正確にいうのなら思い出せないわけではなく、他人事のように思えてしまうという事だ。
無感動。低体温。そんな言葉で表されるのには辟易するが、否めない。
欠落してしまっているのだろうか、と不安に思っていた時期もあるが今ではそれも諦めがついた。
そして、幸いに他人が外から見て気付く類のものでは無いし、僕が生活するに当たって大した差しさわりでもない。
地上には人間が溢れている。出会いと別れも同じように。
希少種だとすれば別だけど、僕は人間だ。
交差点で足を止めると同じ種類の生き物が沢山、同じように足を止めている。
僕はそれに安心する。ここは深海じゃないんだ、と。
深海に泳ぐ魚について。
僕がもし深海を泳ぐ魚だとして、何年も闇を彷徨い続けて、そして自分と同じ種類の、しかも幸運な事に異性の魚と巡り合えたとして
そこに先立つ感情というものは一体何なんだろうか。
好き、嫌い。美醜による選別、年齢や趣味嗜好・・・勿論魚にそんなものがあったとして、だ。
そんなものを思うよりも先に喜びが沸くんじゃないかと思う。
同時に、失いたくない、と。
終わりの見えない孤独は永遠とも思える位長く頼りない。そんな時間がようやく終わるんだ。
出来れば、寄り添っていたいと思うんじゃないか?
勝手な想像だけど。深海魚がそれについて何か異論があるとしても許して欲しい。
僕は人間でしか無いのだから。
茜も人間だ。けれど、それまで僕は一度も他人について考える時に深海を泳ぐ魚の事を思う事は無かった。
深海を泳ぐ魚のイメージについても、彼女に出会うまで考えもしなかったような事を思うようになった。
出会った後の2匹の魚達について、彼らがその後一体どうなっていくのだろうかという事についてだ。
僕はそれまで2匹の魚が出会った時点のことまでしか考えていなかった事に、初めて気付いた。
会場は路面に面したカフェに併設されたこじんまりとしたギャラリーだった。
店とはガラスで仕切られていて、飲み物を飲みながら眺められるような配置になっている。
僕達は入り口に立っていた女性に挨拶をして、ギャラリーの中へ入った。
彼女と共同で個展を開いたのよ、と茜が言った。
気のせいか、彼女は少し笑いを我慢していた気がした。
ギャラリーの中には壁一面、という訳でも隙間が目立つという訳でもなく写真が配置してあった。
「悪くないな」と僕がいうと、茜は当たり前でしょ、と笑った。
僕は壁に掛けられた写真を見ながら、その中でも作者に茜の名前がある作品だけを追っていることに気付いた。
写真の中にある、彼女を探していたのだった。無意識に。
「あなたの知らない平日の写真よ」
茜が僕にチケットをくれた時に言っていた言葉を思い出す。僕の知らない。
そんな事を知りたいと思った。写真の一部は僕と茜の散歩道の景色だったし、一部は僕達のアルバイトしていた本屋の
近くの景色だった。そして、僕の知らない景色も多く含まれていた。
微笑んでいる少女、丸まった猫と、枯葉を踏むコンバースの靴。桜の花と木漏れ日。
泣き出しそうな空と、読書する老人や幸せそうなカップル達。
それは僕の知っている景色では通り過ぎてしまうものだった。
僕は茜の瞳を通して、それらを見ているような気持ちになった。なっただけかもしれないし、それは錯覚だったのかもしれない。
幾つかの写真を眺めた後、入り口の女性が僕を見て笑ったわけが解った。
間抜けな、僕の寝顔に添えられた彼女の手がワンフレームに写された写真。
写真の中の彼女の手は、子供に触れるように優しく感じられた。
振り返ると、茜が恥ずかしそうに笑っていた。
「だから、恥ずかしいって言ったのに」
「君だけじゃくて、僕も恥ずかしい思いをするとは思わなかったよ」
僕は自分の声が、自分でも驚いてしまう位優しい事に気付いた。
茜はねえ、と耳を引き寄せるフリをしてキスをした。
僕達は決して人前でベタベタとするカップルでは無いし、ましてや人前でキスをしているカップル達に眉を顰めていた位だったのに。
コーヒーを口につけたまま、僕達を見ていたおばさんには悪い事をしたけれど、それは悪い気分では無かった。
この先に、何度同じようなキスをするかはわからないけれど。
入り口に帰り、受付の女性に「いい写真ばかりですね」と言うと、彼女は笑って
「茜ちゃんの写真の人ですよね」
茜は「そう、この人が私の彼氏なの」と言うと「薫ちゃん、大学の時の友達」と彼女を僕に紹介した。
僕達はカフェのテーブルに座った。ウェイターが来たので、僕と薫さんはホットコーヒーを、茜はホットココアを注文した。
「ココアの美味しい季節なんだもの」
注文が終ると、茜はそう言ってギャラリーの方へ視線を移した。
僕と薫さんもつられて同じ方を見た。
「あなたの写真、本当は飾ろうか迷ったの」
茜はそういうと、机の上で落ち着き無く手を動かした。
「だって、あなたがあれを見てどう思うか不安だったし」
薫さんが「盗撮だし」と付け加えて笑った。
茜は笑い事じゃないわよ、と言ってむくれた様子だった。
「でも、嬉しいよ」
僕がそういうと、茜は「何がでもなのよ」と嬉しそうに笑った。
「アイスコーヒーにすれば良かった」と薫さんが言った時、ウェイターがやってきて、飲み物がテーブルの上に並べられた。
「アイスにします?」と言ってウェイターが微笑んだので、薫さんは慌てて「いえ、ホットでいいです」と手を振ったので、
僕達は笑った。僕と、茜と、ウェイターの3人だ。
ウェイターも「君が茜ちゃんの写真の人?」と聞いたので、「ええ。写真を撮られていたことは知らなかったけれど」
と言うと、「残念だなー、茜ちゃん彼氏いなければと思っていたのに」と冗談を言ったので僕は失笑した。
茜は残念でした、と僕のホットコーヒーと半分飲み終わった自分のホットココアを交換した。
「何?」と聞くと、「甘いのはもういいの」と言って僕のコーヒーを飲んで笑った。
薫さんが「私は彼氏いないけど?」と言うとウェイターは苦笑いして、それは知ってると応えた。
話を聞くとウェイターも茜と薫さんと同じ大学だったようだった。
もっとも、茜は薫さんと同じゼミで、薫さんとウェイターは同じサークルだったという事だった。学生時代はお互いを知らなかったらしいのだけど。
「葉山って言うんだ」と、ウェイターは自己紹介をして隣の席の空きカップを持って引き上げた。
「うちは、タルトが美味しいんだ」というウェイターに「試してみますよ」と言うと、嬉しそうに笑っていた。
カフェを出ると、茜がギャラリーを眺めている時に薫さんが「また遊びましょうよ」と言って僕に電話番号を渡してくれた。
「茜には内緒よ」というので、「それは出来ません」というと、笑って
「そういう人だと思った」と言った。茜が戻ってきたので別れの挨拶をした時、茜に「あんたの言ってた通りの人だった」と言った。
「さっきのどういう意味?」と茜に聞くと、「そのまんまの意味じゃないの」と嬉しそうにスキップで帰り道を歩き出した。
夕陽が少し明るくなって、もうすぐ本格的な夜が訪れそうな時間。時計を見るとまだ5時を少し過ぎた位なのに。
彼女と付き合い出したのも確か同じように夜の訪れの早い季節だった。昔バイトしていた本屋に久しぶりに行った時、まだ働いていた
彼女と再会した。懐かしさもあって、彼女の仕事が終るのを待って近所のレストランで食事をして、そして次会う約束をした。
あの時、僕は一体何を感じて居たんだろう。
こんな風に惹かれて付き合いだした訳では無かったのは覚えているし、でもどうしてか彼女と付き合いたいと思ったのは覚えている。
そんな感情に名前が見つけられ無いとしても。
僕は彼女を後から見つめ、改めて可愛い人だなあと思った。
例えばそれを運命と呼ぶとして。
僕達は深海で出会った魚だったのだろうか。
彼らは、お互いをどんな風に認識して、そしてどんな風に恋をするのだろう。
或いは恋と言う感情は彼らにとって不要なもので、傍から見る僕達がそこに描く幻想なのかもしれないけれど。
彼らはお互いに交わり、そして種を残す。その連綿とした流れの中に生きるのだろう。
だったら。
僕達が深海で出会った魚だとすれば、その理由など求める事が無為なのだろと思う。
たった2匹。
どれだけの暗闇の果てに出会ったのだろう。それを考えると気が遠くなる。
彼らの身に自分達を当て嵌めて考える事がナンセンスだとしても、例えば僕はこんな風に彼女に出会うまで26年の月日を費やしている。
一体どれだけの時間を生きるかは知らないけれど、とても長い時間だと感じる。
彼女にとっても同じだろう。そんな時間の果てに出会った。
深海を泳ぐ魚たちと異なるのは僕達が人間だという事で、同じ種の仲間なら溢れるほど回りに存在している。
今、交差点で立ち止まる人達の中にいて僕はその中に埋もれてしまう事も出来る。
それでも茜は僕を見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきてくれる。
僕達は、僕達のとるべき形で巡り合った魚のようだ、と思った。
そして、これから先も二人で泳いで行くのだろうと信じることが出来る。
茜に深海を泳ぐ魚の話をする時、彼女はどんな顔をするだろうか?
僕が彼女の写真を見た時と同じように親密さを覚えてくれるのだろうか?
今はわからない、けれど。