嵐のあと
部屋を聾していた恐ろしい風音は、その訪れと同様に、唐突に消えた。
テーブルの上に有ったものは床に散乱し、周囲はひどい有様になっていた。
そして、つむじ風が去ったあと、そこにシャナンの姿は無かった。
「先日捧げられるはずだった者、”シャナン”を引き取りにきた」
先のカラスの発したその言葉どおり、シャナンは、領主に連れ去られたのだろう。
そして、その言葉が意味すること、これを冷静に考えることはとても苦痛が伴うことだ。
先日、生贄の召喚を受けたのは、シャナンだった。
そしておそらく。
シャナンはそれを、ニーナと偽り、ニーナを生贄の代理に立てようとした。
己の生死に関わる問題だ、それ以上は、とても考えたくない。
そんなことを考えていては、とてもじゃないがやりきれない。
食事部屋を出て、とぼとぼと廊下を歩く。その足は、なんとはなしに玄関へと向かっていた。
そのとき、ぼうと考えていたのは、玄関を修繕しなきゃ、とか、そんな思いだったのだろう。
そうした気持ちの淵に落ち込んだ中で、それを見つけたときは、何もいえなかった。
玄関前の床の上に、倒れこんでいる娘。
それはニーナの姿だった。
倒れこんでいたニーナは、意識を失っているだけで、命に別状はないようだった。
すぐさま僕は、小鉢に水を汲んできて、ニーナの口にそれをあてがった。
水を一口二口含ませてやると、ニーナはそれを喉を鳴らして飲み込む。慎重に水を含ませていたが、ニーナの飲み込む勢いが強すぎて、むせ返らせてしまう。
ニーナは自力で上半身を起こすと数回咳き込んだ。
落ち着いたところで、ニーナは体を抱え込んでいた僕に気づいた。気づくや否や、僕の首に手を回して抱きついてくる。
抱きついて、僕の肩に寄せられたニーナの顔を見ることはできなかったが、ニーナが声も無く泣いているのは伝わってきた。
ニーナも、そして僕も、気持ちを落ち着けて考えられるようになるまで、いくらかの時間が掛かった。
どれだけの時間が経ったのか、ようやくニーナは、抱きついた手を解き、僕と向かい合った。
泣きはらした瞳は痛々しかったが、気持ちは落ち着いているようだ。
そこで、なにかを伝えたそうに、少し考えて。
意を決すると、僕の手を取り、胸元近くに引き寄せた。
そして、僕の手のひらを上向きにする。
ニーナは、左手で僕の手を支えたまま、その手のひらの上に、自分の右手の人差し指をなぞらせた。
僕の手のひらで、いくつかの文様を描いていく。
僕は最初、それが何なのかわからなかった。
「…ハナし………」
幾度もいくども、それを繰り返す。
「…ハナしす……」
「…ハナしする…」
「おハナしするね」
ニーナは、筆談で僕に語りかけていたのだった。
ニーナと『カイワ』したこと。
ニーナは、シャナンが生贄を偽って、自分を祠に連れてきたことに気づいていたようだ。
けども、それを自身の運命と受け入れたようだった。
また、ニーナも、シャナンと同じように、贄の儀式についての知識も持っていたが、それを僕に言い出せずにいて、ゴメン、と僕に謝りたかったのだそうだ。
僕とニーナは、玄関前で座り込みながら、そうやって、たどたどしい『カイワ』を繰り返した。
この屋敷で過ごしてきて、お互い話せずに、ずっと積もり積もってきたことを、今ここで話しているわけで、それはとりとめもなく、そして際限もなく続くような『カイワ』だった。
その『カイワ』の途中、明けさらしのままとなっていた玄関に、一人の男が現れた。
先日、シャナンと話しているところを見かけた、行商人風の男である。
僕にはもう、その男の用件は、概ね想像がついている。
「次の贄の日取りが決まりました。ユイさん、明後日の早朝、虚階の祠にお越しください」