@4 「私が殺しをする理由」
部屋のベッドの上に、いつの間にかいた。紛れもなくそれは自分であるのに、それはなぜか自分ではない気がする。掛けてもいないのにクラシック音楽が部屋の中で木霊していて、煩わしかった。どうにもこの世界という場所には、余計なものが一つか二つかは己の身の隣に座っているものだ。
蒸し暑い部屋の中の熱気に嫌気がさして、エアコンのパネルを探すより早く夜風を迎え入れるため窓を開けた。生憎、ビジネスホテル内の窓だったため、半分ぐらいしか開けられなかったが、それでも無法者のように風は部屋の中へ差し迫ってきた。パジャマに着替えていた自分の体に、痛いほど冷たく浴びせかけるそれは、気持ちも良くあって、寒すぎて痛くもあった。
そこから見える眺望は、駅の端側の一角に、大部分を占める駐車場の辺りだった。夜行バスが今しがた出ていくのが見える。人は乗っているのかわからない。しかしそれは、分からなくともよいのだ。
ふと視線を歓楽街の方へと移すと、全身黒づくめの男が天を仰ぎながら歩道をあるって行くのが見えた。八角帽を被り、全身を覆うロングコート。シルバーのペンダントに、茶の腕時計。遠くともそれらはきちんと視認できた。街灯の下を歩くその男の風貌は特徴的で、殺しを生業としている人間にしか、つきようのない雰囲気をまとっているのだ。どうにも、同じ職業柄の人間と見えるのだ。それも私より数段格が上。ただ、この広い世の中ならそういった者が何百人としていても不思議ではないのだろう。数の暴力で論理を捻じ曲げている感覚は否めないが、そういう風に規定づけるのが今は一番いいのだ。人生が長いことは誰よりも自分が知っているのだから。
インターホンが鳴った。それから、依緒ちゃんと呼ぶ守さんの声が聞こえる。時刻は十一時を回っている。しまったと思ったのが、もう遅かった。守さんに声を掛けることすら忘れたまま、急いでパジャマを脱いだ。化粧台の上に置いてあるコンビにの袋から、デザートや天然水を掻き分けて黒のストッキングを見つけ出し、袋を無惨に引き裂いて中身を取り出す。そしてそれを履き、アルミケースに入れてある黒のタイトスカート、それに胸部分に意味不明な英語が印字された黒のパーカーに袖を通す。新しい服ともあって、素材は若干固くもあったが、無視した。財布と部屋の鍵をパーカーのポケットに突っこんで、ドアを押し破る勢いで開けた。
「ドアを開けるときは外にいる人間の気持ちも考えないとね」
守さんは苦笑いしながら少し遠めの場所に立っていた。顔が紅潮して赤くなっているのが、その一瞬だけ自分でもよく自覚できた。
静かにそのドアを閉めて彼の元へ歩っていくと、自分でも知らぬ間に手を繋ぐことを催促していた。最初彼はその行為に躊躇いを覚えているのか、少し狼狽えてからそれに応じてくれた。その時彼がにっこりと笑ったのが、多分私を理解した第一歩目なのだろう。
エレベーターを使ってフローリングに向かい、少し外出する旨を係員に伝えて鍵を渡した。清楚なその女性はどこか歪な笑顔で私を送ってくれた。多分それは、私が今いかんとしがたい行為に身を投じようとしているのではないかという危惧から出ている表情なのだろう。それに対して心で言わせてもらうと、彼は絶対にそんなことをしない。する人ではないと分かっているからこれから一晩を過ごすのだ。別にそれは卑猥とか、ユーモラスなジョークでもない。偏にそれは、私が信じるところの真実であるのだから。
夜な夜な居酒屋やコンビニが軒を連ねる街道を歩く。道行く人は私のことをどう見ているかは知らないが、大半の人間は私の方へと視線を向けていた。偶に無関心な人間もいたが、この金髪が靡いているうちは、大方の者はこちらへと眼差しを向けるのだろう。そして、隣の彼も同じく。長身痩躯でジャージにニット帽姿の男。私の知るところ悪い人ではなさそうなのだが、なぜだがその格好でいると容姿関係なく悪辣な人物に見えてしまうのだ。
「路上で薬を売る人間も多く出てきたよ」と守さんは言った。「売る人間の心は廃れていって、買う人間の勇気を委縮させるんだ。あんなもの、腐ってやがる」
守さんが指さした先におそらくそれを使っているであろう者がいた。駅の駐輪場の鉄柵に凭れかかっている人間の体型は、痩せているという表現がミスマッチで、体の大部分が腐り落ちているかのような形容だった。皮だけになった顔は頬骨が今にも皮を突き破って外に崩れ落ちてきそうで、腕は殆どミイラのように衰えていた。見るだけでも痛々しい。しかし、それがこの世の中なのだ。
「警察も手におえないんだ。メタンフェタミンやアンフェタミン、コカインやクラック。“アダム”からヘロインまで」
どこかに、違和感を感じた。後ろで気配がしたので、振り返ってみたが何もなかった。溢れているのはコンビニから出てくるサラリーマンの群れだった。
「法で規制してもそれを掻い潜る新しい薬物が出てくる。いたちごっこなんだ。でも、それにおいて僕は弱いものを寄ってたかって獲物にするのはどうかと思うんだ。強いものは確かに、路上の薬売りなんかに声を掛けてそれを買い取ったりはしない。過程を経て売った薬 物の金額は高額だとは思うが、手っ取り早く売って数を稼ぎたいのがやはり人情というところ。だから彼らは世の中に取り残された人間の金を巻き上げるんだ。もう奴らには死しか望める道はないのだから」
歩き始める。彼の歩調はゆっくりで、それに合わせた。足の長さが違う分、私が普通に歩いても彼のそれと同じだった。
大通りを抜けて閑静な住宅街に入っていた。そこら一体の地形は少々複雑で、道に適度な勾配があるかと思えば十字に入り組む迷路のような道がある。今はトンネルの歩道を歩いていた。
「でもね、僕にもきちんとした夢があるんだ。路上の無名ミュージシャンとして終わる気はさらさらない」
「じゃあ、どんな? その夢は大きいの? 小さいの?」
「大きいさ。世界的人気をはくして収入の大半は無名の者に捧げるんだ。偽善だって言われても構わない。そうすることで人々から見放されてもそれはそれさ。またストリートミュージシャンから世界にのし上がって見せるさ。名誉も金も捨てて無心でね」
彼は笑った。オレンジ色のライトに照らされながら。そして私は、そういうきちんとした夢を持つ人間の言葉に、なんの返答も出来なかった。この方生きてきて十六年。親からも友からも見放され、廃れた心に殺人ときてしまえば、夢なんてものは大方信じられなくなるものだ。
「依緒ちゃんにも何か夢はあるの?」と彼は言った。一番恐れた質問だ。
私は狼狽えた様子を見せつつも、きっぱりと今はまだ目指しているものがない、と言った。彼は残念そうな風を醸し出して、そっか、と言った。夢を持たない人間は、それゆえ、つまらないのだ。
「ああ、ほらあそこに自販機がある」と彼は言った。
トンネルを抜けた傍に、それはあった。物音一つしない住宅街に音響するその機械音が、どうにも耳を抉る感覚を残す。
「何が飲みたい? “丁度”三百円がポケットにあるんだ。なんでも好きなものを言うといい」
私はなんの謙遜もせず、一番上の段にあったお茶を指さした。
彼は、奇遇だね僕も同じものを選んでいたんだ、と言ってはにかんだ。ただ、そのはにかみが、子供ながらの笑い方と、大人ながらの悪魔さがあった。
彼はそのお茶の下のボタンを押すと、機械からは物音一つさえしていないのに、取り口から一つ二つとそのペットボトル容器を取り出した。そしてその一つを受け取る。彼は笑顔で遠慮せずにいいよ、と言った。
キャップを回して取り、それに口づけようとした瞬間だった。
「すみません、夜分遅くに申し訳ないんですけど、道をお尋ねしてもよろしいでしょうか」
後ろの方で声がしたので振り返ってみれば、夜の闇に紛れて黒づくめの男が地図を片手にこちらを見ていた。背は高くがっちりとした体型で、長身痩躯な守さんに比べれば幾分か男前だった。
気が付くのに時間はそう要さない。ホテルで見た時の、あの男だ。
「すみません、最近こちらに引っ越してきたものですので、地理的なものはあまりわからないのです」と守さんは言った。奇妙な程冷静だった。
「いえいえ、それはないでしょう。こんな夜分に女を引き連れて辺鄙な住宅街まで来ておいて、最近こちらに越してきたといういい訳は通用しませんよ」と黒づくめの男は言った。
守さんはため息を吐いて私の耳元で待っていて、と小さく囁くと、今まで繋いでいてくれた手を離し、そちら側へ歩いて行った。
「少し不安なので、離れて教えても大丈夫ですか?」と守さんは言った。
「大丈夫ですよ。こんな世の中だ、私のことに何を言われても不審ではないし」と黒づくめの男も言った。そしてその言葉が嘘だということを、今なぜか瞬時に感取した。
「ところで、あの女の子が持っている飲み物、なんか、ラベルのところに貼ってありませんか? シールみたいな」
黒づくめの男は言った。
「ああ、ああ、業者がなんかをミスったんでしょう。いいから早く、要件を。どこに行きたいと?」と守さんは言った。その後ろ姿はどこか苛立っているように見える。
「でも気になるんですよ。あのラベル。アルファベットが書いてあるようにも見えるし、なんかの記号が書いてあるようにも見える」
守さんがその男に近づいて行った。右手に光るものが握られている。しかし私の目は、黒づくめの男が言ったそのラベルのようなものを必死で見つけ出そうとしていた。ボトル容器を一周させてないことを確認すると、今度は底を見上げた。するとそこにはあったのだ。ビニールのテープに記号のバツが表示されているものが。あった、と声を上げようとしたのも束の間、私の目の前で、そして眼前で、彼が倒れたのだ。 守さんの死を悟った私は、その時の緊張感と恐怖感に苛まれ、幼稚な現象の発作が起こりだしていた。誰かに抱き付きたいとか、頭を撫でてもらいたいとか、思いっきり泣きじゃくりたいとか、そういう体のもの。
黒づくめの男が憤怒を露わにした表情を晒すと、倒れた守さんを足蹴りしてこちらに向かってきた。逃げようとかは思わなくなっている。頭にその考えが浮かんだにしろ、それがすぐに泣きたいの四文字に変換されるのだ。地面にへたり込んだ私が注視しているのは、その手に握られた刃渡りの大きいナイフ。そしてやはり、血が付いている。
「それを飲んだか?」と男は案外優しげな声で私に呟く。「飲まないほうがいい。多分それはMDMA入りだ」
目を丸くさせてその容器を見る。どうみても普通のお茶であることに変わりはないのに、雰囲気と目の前で起こった惨事の張本人からでた言葉だと考えると、信じざるをおえなかった。
「君がこの男とどんな関係を保っているのかは知らないが、こいつは死んだ。天木茂は地獄へ行くのだ」
天木茂という言葉を聞いて、一気に感情の起伏が解き放たれた。私から背を向けて歩こうとしていく彼の姿に思いっきり力を入れて抱き付いた。そして、静かすぎる住宅街に反響する声で泣きじゃくった。殺されてもいいから多分私はこのままでいるだろう、とそう考えて。
太ももに感じる生暖かい液体の感触が、対象天木茂の血だと知らず、私はとうとう彼を抱こうともせずに、膝を地面につけて泣き崩れていた。
死ぬ程度の痛みを覚悟する勇気が、やはりその場の私にはあったのだ。薬指の開かれた傷口が目の前にあるというのに、私はもうあの時のことを忘れているのだ。弱いから忘れる。弱いから死ぬ勇気を出してしまう。典型的な弱者の考え。
ああ、死んでしまう。白木依緒の命運はここで尽きるのだ。