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道化師の夜  作者: 陸奥
#2 「私が殺しをする理由」
6/16

@1 「リーズナブルな痛み」

 がんじがらめになった時が、ようやくして動き始めた。当然であるのに、それはなぜか懐かしく感じる。

「天木茂、三十歳。妻子持ちで妻は専業主婦、子供は小学生。彼自身は不動産に勤めていて、ほとんど何不自由なく暮らせているらしい」と筒井さんは言った。「対象情報はそれのみだ。今回の仕事は依緒のものだ。俺たちも可能な限りの手伝いはするが、殺害は依緒がするように。今までと何一つ変わらない。そしてそれが条件だ」

 私は生唾を飲んだ。この世界に足を踏み入れ、確かにそれの覚悟は多かれ少なかれ、出来ていた。不釣り合いで不合理でなにかの螺子が外れたようなこんな現実で、私たちはそれらを行わなくてはならない。だからそれに不満を言う様では、愚者と言われるのだ。戦場で銃撃を受けたと騒いで泣く奴がいるだろうか? いたとしてもそれがただたんの愚者であることに変わりはない。

 私は頷いて、今一度以上なスピードで分泌された口内の唾を飲みこむ。生暖かい液体が喉を通り過ぎる感覚を私は感じ取る。嫌な感じだ。

「もう一つ、条件を」と私は言う。「今回に限らせて、この仕事は私一人の力でやります」

 ソファーに座っていた三人が私の方を見た。ただ、事務机に座って珈琲を啜る筒井だけはFAXで送られてきた書類に目を通していた。

「と、言うと」と筒井が言う。やはり、数多の場面に身を投じてきた年季者の雰囲気が、こういったとき彼に味方している。

「これが三回目の仕事だけれども、一回目も二回目も、ほとんどここにいる人に助けてもらってやったこと。私がその内で行ったことは対象の首にナイフを突き立てたことぐらい。でも、筒井さんや泉さん、千早さんはほとんど自分一人で誰にも気づかれずに仕事をしている。何食わぬ顔でこっちに戻ってきているけど、全部分かってる。血の匂いが。する。だから、私もやってみたい。一人で」

 筒井さんはしばらく何も言わなかった。隣に座っている千早さんは、頭を撫でてくれていたが、本心から出た行動ではないとすぐに分かる。彼女のその偽善じみた行動の匂いは、やはりすぐ嗅ぎ付けられる。

「言いにくい、別の部屋で話す」と筒井さんは言った。それから隣の特別応対室へと向かう。私も後から入って部屋の鍵を閉めた。応対室の間取りは簡単なものだった。中央のガラス机を挟んで二つの椅子が左右に並べられているだけ。シンプルでいてリーズナブル。これでいい、これだけでいい。

 彼は異様な様を見せつつ、右側の席へと座った。だから私も左側の席へと座った。

「決断は、良かれと思う。ただ、やはりその決心は弱いだろう」

 いつもとその口調は違う。硬い、それでいて独特な軟体さを秘めている。言い表せないが、そう言った感じ。

「どの程度の決断が筒井さんに認められるかは知りませんが、私なりに決断はしました」

「『私なりに決断』とは」

「どんな困難があろうとも立ち向かう勇気」

「そのほかにどんな?」

 私は言い躊躇った。

「死ぬ勇気です」

 筒井さんは難儀な顔をすると、ジャケットのポケットから折り畳まれた黒い帯状のものと、万年筆を取出し、私をじっと見つめた。

「死ぬ勇気じゃだめなんだ。死なない程度の痛みに耐える勇気だ。対象は俺たちを殺すなんて真似はしない。作為的に俺たちを罠に嵌め、死の一歩手前の痛みを感じさせるんだ。何でか分かるか? 組織内の恨みを買うが代償に、裏でひっきりなしに鼓動する恐れを暴発させるんだ。言い換えれば奴らは戦場に残った死体の腕を、敵陣営に渡らせるんだ。ただ恐れを誘発させたいがために」

 筒井さんは立ち上がると、私の背後に立ち、その帯状の布で目元を隠し後ろで縛った。

「取ろうとするな。これを取った瞬間、お前の勇気は恐れに変わる」

 私は何も言わなかった。言うまいとしていたのだ。今現在の思考において、言葉は全て、畏怖に変わる。だから心で留めていた。喉元へも来させはしない。

「右手の甲を見せるようにして、広げてテーブルの上に置け」

 彼はそう言った。だから私はその通りにした。あくまで彼の言う事には従わなければならない。それがどんなに惨めであっても、酷であっても。

「声を出すな。声を出せば痛みの八十パーセントは消えるが、そうしてしまえばお前は声が出ない時の苦痛を感じられなくなる」

 声が出ない時の場面が、私にはまったくとして分からなかった。ただ、ぼんやりとした所、舌を切られたとか、恐怖のあまりに声がでなくなったとか、そういったある意味非現実的なことを予想していた。

 小指の第一関節辺りにぴたりと、冷たい感触が奔った。そこから微弱な痛みも感じる。最初は万年筆のペン先を指に突き立てられただけかと思った。多分これから肉を抉られるのだろうと、先ほどの説明で予想はつく。恐怖に勝たなければならない。絶対的な決心を、私はしなければならない。ただその痛みはゆっくりと、本当にゆっくりと感じられてきた。まだ出血はしていないから、皮膚はの膜をペン先はまだ破っていないのだろうと考えた。ただその厄介な思考が、またさらなる苦痛を呼び起こしていく。痛みを感じたその後の自分を考えようとするのだ。

 けれどもその思考さえもが遮られた瞬間というのが、私にはよく痛感できた。

 小指にペン先を乗せられている感覚はあるが、別の戦慄を奔らせた痛みが一つ右側の薬指に伝わったのだ。何かが刺さっている。私の指に何かが刺さっている。

 鈍い疼痛が指から奔り、それは次第に腕から肩へ、頭から脳天へと伝わって全ての神経という神経を尖らせる。

 声は出ない。というよりも、自分で考えている叫びが、思っている絶叫が出なかったのだ。それら全ての感覚が指にシャウトされている。どんなに怖くとも、私は私自身で受けた痛みを感じ取らなけらばならない。死をも覚悟せねばならない。それが命運ゆえなら。

 格好つけるような考え方をしてみたが、痛みを紛らわせるために足もじたばたさせた。空いた左手で自分の頬を擦ったりした。顎から滴っているのが自分の唾液であることはすぐに知れたが、今現在、汚いから行動をそちらに優先させるなんて思惑は出来ない。頬を擦った後、右手の手首を思いっきり握りしめたりもした。けれども無意味。痛みは引かない。引くどころか刺された一瞬はその頭角を見せただけで、痛覚はそれをより一層増長させていった。

 痛みに耐えるうち、視界が開けた。右手が乗せられていたテーブルは血が充満し、こぼれ出ている部分もあった。涙が止まらなかった。開けた視界もすぐに閉ざされた。その行動が、私自身が行っているものではなく、眼球自体がその光景を拒んでいるように思えた。だから瞼が呼応するように閉じた。小刻みな体の震えは痙攣に変わっていく。血だまりから手を起そうと試みたが腕が動かせなかった。私はただ背もたれに完全に身を委ねて喘いでいるしかなかったのだ。

「死なないからこそ恐ろしいんだ。死ねないから恐ろしい」

 やっとの事で目を開く。筒井さんが手の甲を空中で広げているから見てみた。そして、驚きこそしなかったが、彼にもあった。多分、私と同じ試練を受けたであろうその傷が。ぽっかりと空いたその穴が。

 血だまりに滲んだ万年筆の黒色と鮮血の鮮やかな赤色。それに、無色透明な私の涙が自然と混ざり合う。決して美しいなんて思わなかった。それは恐ろしく残酷で、無慈悲だ。今となって私が兢兢とするのは痛みなんかじゃない。私が思うそれらは、死ぬ程度の痛みに向かう勇気と、痛みを素直に受け止める自分自身のことだ。

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