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鍋の残った汁の匂いが事務所の部屋に立ち込める。油臭かった。一人起きていた筒井だけがその悪臭に嫌気がさしたので、凍える風を諸共せず窓を開けた。
月は雲で隠れている。光は届いていない。時々、遠くの方で車のエンジン音が聞こえた。多分、それらは悠々と車道を走っているのであろう、と彼はぼやけた視界の中で思った。生憎、免許証を彼は持っていない。この集団内で持っているのは千早だけだった。
皆寝てしまっている。依緒は泉の膝の上で。千早と環は共に寄り添って寝ている。そのどちらにも掛布団が掛けてあった。筒井の所為である。
ふと環の顔が、目に入った。幼く、そのふっくらとした顔。栗色の長髪に、幼さゆえの艶のある唇。ただやはりどこか大人びている風貌があった。目に見えるものは確かに小学生あたりの年齢の風だが、雰囲気やオーラといった点は悉く大人びているのだ。彼が入ってきたばかりの依緒の寝顔を見て、それを若いと見て取ったのは挙げておかしな話でない。それの頬を摩って無に至ったのも、その頃である。けれども環は何かが違う。彼女が彼の膝の上に乗ろうとも、どうにも家族とかそういった団欒を興じられる一員にはなりそうにもないのだ。聞けば、彼女はある団体で孤児として育ち、その後民営のセーフハウスに容れられ幼少期を過ごしたらいい。そこでこの組織の話が行って、不覚にも彼女はセーフハウスの職員にそれを話してしまったらしいのだ。話すこと自体が組織の法に触れるような気もするが、彼女の場合は特殊だった。職員が反対するどころか、それを慫慂したのだ。だから彼女は決心してやってきたのだという。この世界へ。
「こんばんは」
ふいに挨拶がやってきた。依緒からだった。
「起きちまったか、いや、起こしたか」と筒井は言う。
環に触れようとしていた手を依緒はじっと見つめていた。
「その子子供じゃない」と依緒は言った。「私と違う」
「お前は病気なんだ。薬だって飲んでいるんだろう? 違うのは当たり前なんだ」と筒井は言う。「でもな、確かにこの子は違う」
依緒はこっくりと頷き、筒井の傍へ寄った。そして千早にしたそれと同じく、袖を掴んで引っ張った。
それから少しの間、二人は物言わずして環の表情を伺っていた。何偽りなくそれは寝顔であるのに、彼らは悪魔の機嫌を取るようにしてそれを延々と覗き込んでいる。ある意味不可思議な光景であった。
しばらくして筒井が空の笑いをして見せた。そして馬鹿らしいと言った。
「これから家族同然になるやつの寝顔を延々と拝見していても始まらないよな。馬鹿だな俺たち。こういうことには千早が敏感だが、相談してもどうにもならないし。今は俺たちがゆっくりと暮らせることを願おう」
依緒は頷いた。けれども袖口を引っ張る力は増していくばかり。なにか物欲しげにしているその表情は、鍋と筒井を行ったり来たりしている。
コンビニでも行くかと筒井は呟いた。すると依緒は袖口をおもむろに引き離し、その体によく似合った黒色のコートと毛糸の帽子を被ってきた。順次ことは上手くいっているのか、と筒井は月のない空を見て思っていた。