@2 「ヘルマン・ヘッセが恋をするように」
コップ一杯に注がれた水を見て、鈴は不安そうな顔をした。
「何もそんな顔をしなくてもいいのよ」
千早はさも慣れた手つきで財布から先ほどバーテンダーに両替えしてもらった百円玉十枚を抜き出し、自分の手持ちに五枚、鈴の手持ちに五枚になるようにそれを分配した。けれども鈴は不安な顔でいるままだった。心持それは先ほどよりも深刻な体を見せ始めている。その拭えない危殆の在処は、どうやらそこではないらしかった。
千早は夜分の騒がしい店と言うのが、どうにも自分に合っていないことを自覚していた。生まれつき私は多分人とおしゃべりをしながら食事をしたり、勉強をしたりするのは苦手だ、と彼女は子供のころから思っていた。そのころは、それは所詮苦手であって、大人になれば克服できるものだ、などと甘く考えていたが、それこそが落とし穴だった。成人して今の生業を見つけてからも、それは治りそうにない。治るどころか現在進行形で悪化している。彼女は元来、一つのものに集中すると他の事が煩雑とした物音に聞こえる特殊な体質を持っていた。しかもそれは音だけ。勉強しながら友達と喋るなど、一生自分には出来ないことだと悟った彼女は、学生時代に友ではなく学業を取った。それでも昔から両親には温かな愛情ある育て方をされていたため、人とのコミュニケーションの取り方には苦労はしなかった。友は彼女が寄らなくても、彼女に寄ってくる形でどんどん出来ていったのだ。彼女が学業に専念しようとも、他はそれを認める人々であって、決してそれを邪魔しようとはしなかった。だから、勉強には誘わず、息抜きの旅行などには彼女は幾度となく誘われた。そこで彼女はバーなる店の存在を知った。そこは彼女にとっての聖地ともいえるべき場所だった。もともとはレストランやファミレスで夜を摂る予定だったのが、生憎どの店もオフシーズンの客が引っ切り無しに往来する満席の店ばかりで、夜だけはご飯を抜きたくはないという友人の言葉もあって立ち寄ってしまったのが裏路地にひっそりと建っていたバーであった。最初、彼女以外の者はその店内の雰囲気にお洒落だとか、ロマンチックだとか言い合っていたが、少量の酒を口にすることも、次第にその淡々と流れるジャズにも飽きがきて、誰もが喋らなくなってしまっていた。そのことを幸と感じるものが彼らを除いてたった一人、千早だけが思っていたのだ。店内にあった雑誌を読むことに集中していても、ジャズの音楽は彼女の脳内で綺麗に反響するだけで、雑音は与えない。それだけではジャズの影響かと思われるが、やはり違ったのだ。バーテンダーが気さくに彼女らに話しかけることも、店内の客が静かに喋ったり、社交的な笑いをする声も、彼女になんの影響も与えなかった。文字を読みつつもそれらははっきりと彼女の耳に入ってきたのだ。それ以後、千早は一人で行き通う状態にもなった。なんの変哲のない生活に、突然として舞い降りた天使の楽園を、彼女は手放さそうとしなかったのだ。
だから千早はバーに鈴を招いた。千早自身が身を持って体験した事を、鈴も体験できないだろうかと提案したのだ。そしてそれは案外にも、鈴自身が暗示を掛けられたように、不安がる面持を残しつつもその重たそうな口を開くのだ。
「いい、雰囲気のお店ですね。ここ」と鈴は言った。
千早はその店には通いなれていたので、何も言わずともノン・アルコール・カクテルのシンデレラが彼女のいるテーブル席に運ばれてきた。好青年らしいバーテンダーはついで鈴にも注文を取った。鈴は口ごもったが、オレンジジュースを、と小声で言った。千早はそれを見て、小悪魔風に笑った。
「表面張力。知ってる?」と千早は言った。
「表面を小さくしようとする液体の性質」と鈴は言った。学説的なことは、淡々と言い放てるらしかった。
なら話が早い、と千早は言った。またもや笑みは小悪魔の様だった。そしてそれは様になる。
「それを使った簡単なゲーム。互いにこのコップにコインを入れ合って、水を溢れさせたら方の負け」
千早の言う事に、鈴は耳を傾けていた。丁度その頃、入店した当時に流れていた曲が終わりを告げ、また別の曲に入った。
千早は鈴にお手本だと言って百円玉を一枚手に掴んでコップにそっと入れた。水は溢れなかった。水中に気泡を含んで落ちていくそのコインの姿がどことなく、パラレルワールドに向かう人間の姿の様だ、と鈴は認識していた。けれども間髪入れずに千早は鈴に次を要求した。ちなみに一回につき入れるコインの枚数は決まっていない、という言葉を付言して。
鈴はギャンブラーの片鱗すら持ち合わせていないただの少女で、こんな行為を面白みとして受け入れられる筈がなかったのだ。千早にとってはたんなるゲームの一つに過ぎなかったが。
「負けたら今回分は奢りで」と千早はシンデレラを微かに口に含めていった。そのカクテルの色は鮮やかなオレンジ色をしていた。ついついそれに目を追わせてしまう鈴。言葉の意味がどれほどの重みをもっているか、彼女はまだ認識していなかった。
結果、鈴は一枚だけコインを入れてしまう。しかし水は溢れなかった。
鈴は純粋無垢な声色でやったという声を上げた。しかし神妙な顔つきをしている千早を見ると、やはり大げさには嬉しがれなくなる。
千早はコインを二枚つまんだ。それから深呼吸して、半ば強引に投げ入れる形でコップに入れる。そして、結果零れてしまう。大層残念がったのは当の本人だった。千早さんの普段の冷静な人柄からも考えられないほど、大きな賭けに出たのか、と鈴は思った。それからバーテンダーが台拭きとオレンジジュースを持ってきた。
「中に入っている四百円はチップで。それと友人にピザを食べさせたいから、モッツァレラとオリーブのピザをお願い。そんなに急がなくても大丈夫だから、きちんと焼いてちょうだい」
バーテンダーはかしこまりましたと言って、コインの入ったコップを下げ、台拭きで水を拭った。千早はその間、カウンターの奥にあるワインの銘柄を隈なく見ていた。鈴は店内奥に入っていく青年のその横顔をじっと見つめているだけだった。
「ここの料理は一流ホテルのシェフが作るような料理ばかりなの」と千早は言った。「値段は張るけど、常連さんの千早さんだから、なんていって幾分かは値段を差し引いてくれるの」
「常連さんで、しかも綺麗だから」と鈴は言った。普段なら絶対に言う事のない冗談(あるいは本音)を、彼女は言って見せたのだ。千早は照れ臭そうに笑った。笑ってから二人はお互いの顔を見合わせた。双方とも、その顔は美しいのだと感じ合っていた。
店内に流れていたしっとりとした感じの一曲が終わりを告げた。やがて深い無音の世界が二人の間に訪れる。次に曲がループして掛かったのは、それから少し間を置いてからの数分後だった。
「恋をしたことはある」と鈴は訊いた。静かで、厳かな声。
「多分、ある」と千早は曖昧に言った。
鈴は首を傾げた。彼女はその質問に、イエスか、ノーかで答えてもらいたかったのだろう。千早は少し焦った。けれども、言いつくろう間もなくして、鈴はまたもや問う。
「ヘッセのような恋をした?」と彼女は言った。
千早は答えられなかった。代わりに彼女のその深い闇を持った眼の奥底を、まるで海底にある王国を探すかのように単語一つ一つの意味を当てもなく詮索していた。
「ヘッセは知っているけれど、彼がどのような恋をしていたかは分からない」
「分かった」
鈴はそう言うと、深呼吸を何度か繰り返し続けて、落ち着いた面持ちになって次のように話した。
「恋のことを話すと――この点ではわたしは一生、少年のようなものであった。私にとって、女性への愛はつねに心を清めてくれる崇拝、心の悲哀から祈りの手を青空に差しのばしてまっすぐに燃え上がる炎であった。母からの影響と、また自分自身の漠然とした感情から、わたしは女性たちすべてを、未知の、美しい、なぞめいた種族として、生まれつきの美しさと調和のある性質とによって私たちよりもすぐれており、星々や青くかすむ山々のように私たちから隔たり、神々により近いように見える故に神聖視しなければならない種族としてあがめていた。しかし人生の荒波がこの気持にふんだんに辛子を加えたので、女性に対する愛は甘味と同じほどの辛味をわたしになめさせた。女性たちは依然として高い台座の上に祭り上げられてはいたが、女性に礼拝する司祭としての私の厳粛な役割は、あまりにもあっけなく、物笑いにされた道化の、悩ましくもこっけいな役割に変じたのである」
千早はことのほかしばらく口を開きっぱなしにしていた。鈴はそんな彼女を横目に、オレンジジュースで喉の渇きを潤していた。
「ヘッセの郷愁の一部分」と鈴は言った。「千早さんがセーフハウスの使用人だったころ、その話を寝る前に何度もしてもらったのをいつのまにか覚えた」
鈴はそれを至極当然のことのように話したが、並の努力では、その文面を一字たりとも欠けず(それにつっかえず)言う事は難しい筈だった。それに彼女は幾分かコミュニケーション能力に至っては障害を持っているのだ。そんな少女が、と千早は驚嘆すべきしかなかった。
「私が子供のころ、千早さんがよく読んでくれた本」と鈴は言った。「私もあなたみたいになりたかったから、セーフハウスの使用人を勤めている」
鈴は言い終えた後、オレンジジュースを少量口にした。それから「勤めていた」と、さも訂正を強調するかのように付言した。
千早は鈴がセーフハウスに入って間もないころ、その中の使用人を勤めていたのだ。対象殺しはそのころ、まだ課せられていない。学生時代を修了した後の数年間はセーフハウスの人間たちと歩みを共にした。一緒に成長してきたつもりだった。そんな中で鈴と言う一際傷の強い少女がやってきたのだ。自ずと彼女の視線は自然に鈴に集まるようになった。彼女が美しくあるのもそうだが、同じ匂いを感じたからだった。人間は互いの匂いによって関係の良し悪しが直感的に推察できる動物である、と彼女がどこからかの書物を紐解き知識として頭の引き出しに入れて置いていたのだ。まさかそんなところでそれを実感できるとは思いもしなかったが。初期の鈴の状態は非常に危険であった。目は虚ろで殆どの食事に手は付けず、誰もが一目見て彼女の顔色を悪いと指を差す。そのような症状を持つ(いずれも各々の過去は違うが)人間はセーフハウス内に何人かはいたが、彼女の場合はかなり深刻な部類に入っていて誰もが進んで彼女の世話などはしたがらなかった。同時期に依緒は鬱からの回復の兆候が見えていた。元気になっていく人間と、沈みゆく人間とを比べた時に、殆どの使用人は依緒の看病に申し出た。患者に癒しを求めてしまっていたのが、そのころの使用人の悪態だった。千早も依緒を最初の方は担当していたが、段々として鈴のことが気になり始めてきた時期があった。彼女こそ、鈴の看病に進んで申し出る唯一の存在であった。もう担当が変わることはないだろうと、千早は思っていた。多分鈴が目にしている世界には、もう私の存在もただの雑音に過ぎないのだろうと。けれども生活を共にしていると、自然と彼女の方が鈴に近寄っていく存在になっていった。その頃にはもう、脳は匂いで関係性の良し悪しの分別がついていたのだろう。発見当時の現場から見て、少女はレイプされたのだろう、と鴫原からは説明を受けていた。ならばその傷を癒すためにはは夜通し考えていた。彼女は彼女なりに懸命な努力を身を呈して行っていた。それが段々と認められ始めてきたとき、使用人やら利用者やらの視線は自然と鈴の方向へと向かって行った。鈴が自然と彼らと打ち解けていたっのだ。朝礼終わりに鈴の部屋の毛布などを片付けていると、大抵は大広間では誰とも喋らない(喋れない)鈴は逃げるように自室へ向かってくるのだ。その日は来なかった。心配した千早は大広間へ向かったのだ。すると、パジャマ姿のままで鈴は依緒との会話を楽しんでいたのだ。会話の間に見える少女らしい笑顔が、本当に素敵だなと千早は思っていた。それ以降は、殆どの時間を依緒(幼稚化で定期的には会えなくなったりはしたが)と過ごしたり、年の離れた婦人と喋ったりなどしていた。一時は末期かとも思われていた症状も徐々に回復の傾向に至っていたのだ。そして、彼女自身の過去の問題に取り組むべき時期が、やってきたのだ。真摯な対応をと、鴫原は言った。その意味は過去に試練があるのであれば、それを思い出させてでも乗り越えさせてくれ、ということだった。けれども千早は別の道を選んだ。それは、過去を風化させる道だった。忘れさせて第二の人生を歩ませようとしたのだ。それを提案した時、鴫原は苦難の顔をしてみせたが、担当の千早くんに全て一任する、と大層厳粛な声で言い放ったのだ。だから彼女はできるだけ満喫しているその生活を保ちつつ、ある一定の期間を過ごさせることに重きを置いた。完全な消滅は望まず、過去の影を踏ませつつ希望の光を見せることを丁寧に行った。例えばだ。彼女は鈴が寝る前、ヘルマン・ヘッセの本を朗読して聞かせていた。鈴本人たっての希望であった。「難しい字があるから読めない。だから声に出して聞かせてほしい」という事だった。そこで彼女が意図的に読むのが、郷愁の第二節冒頭部分であった。
「恋のことを話すと――」
いつも毎日それは朗読された。鈴は何も文句を言わず毛布を被りながらそれを聞いていたのだ。やがて鈍真なる愛に、心をときめかせていくことになる。そして今日に至るのだ。