@1 「私たちが望んだ世界」
珈琲を淹れていた。安物でインスタントのを。けれども千早はそれで満足していた。
下半身の疼きと上半身の気怠さ。滅多にならなかった二日酔いの吐き気。加えて退屈も混ざった尋常ではない疲労感。日曜の午前中は誰もいない事務所のソファーで寝そべって過ごした。
筒井や依緒たちは出かけていた。これも筒井の粋な計らいで、普段から子供の面倒を見て休みのない千早に休暇期間を設けたのだ。彼らは仕事をして稼いだ費用で県外へ一週間の外泊をしにいった。無論最初は千早も誘ったが、彼女がそれを断ったためにできた、たった一人の孤独な休暇期間であった。昨日の午前中に彼らは出発し、彼女は空港までの道のりを送った。それからその足で昔ながらの女友達と飲み交わし、そのまま夜のムードでホテルに泊まったのだ。
今思えば、と彼女は考えた。昔から酒癖が悪く、飲んだ後に何度も後悔してきたことを感じれば、昨晩のことだって簡単に回避できたではないか。親友だからと言って女同士の体の縺れ合いというのも如何なものかと思う。昨日はそこまでで済んだからよかったが、どちらかが親しい男でも呼べばどうなっていたことか。考えただけでも恐ろしい。
千早は水を求めた。いつもなら鈍感な男たちと言うのも、女が困っていたり、気持ち悪がっていたりすれば助けを差し伸べるものだった。彼女はその考えでかすれた声で水、とそう言い、所望した。けれどもその声は蕭然な事務所内に物静かに響くだけだった。彼女は眼もとに当てた腕をどかすと、天井を見ながら悄然と立ち上がった。あくまで彼女は一人の休暇を与えられた身なのだ。まずその期間は事務所にいる人間や仕事関係の人間とは会えない。無論彼女から押しかければ話はまた別だが、今の彼女にその行動力は微塵もない。
簡易な台所でコップに水を入れて飲んだ。髪もばさばさで服もグレーのパジャマのまま。気づけば彼女は、朝起きてから体の不調を訴えてばかりで朝食も、歯磨きも洗顔もしていなかった。自分の姿を手鏡でちらと一瞥してみると、やはり不衛生だと感じるだけだった。しかし、彼女は今から朝の手入れをしようとは思わず、携帯電話を取り出し時間を確認した後、彼女たちが普段使っている寝室に入った。事務所の玄関には「休」と書かれた木札を下げ、鍵も掛けた。表向きではここは法律相談事務所なのだ。今までその要件をもってここを訪れた人間はいないが。
千早が簡易ベッドで寝はじめた丁度昼頃、来客が訪れた。最初、その者は事務所のインターホンを押さず、玄関のドアを何度かノックしただけだった。ノックしたということは、どうやら法律相談事務所を訪れた人間ではないらしい。彼女は意識朦朧とする中で、二回だけ続けざまにノックした音を聞いていた。けれども、やはり彼女は出なかった。
三時頃、近くの学校から帰路に就く小学生たちの明るい声が聞こえた。笑ったりしている声だったが、千早にとってそれはとても不快な音楽か何かに聞こえた。事実、彼らは笑いつつも歌っていたのである。
そして来客が訪れた。今度はノックではなく、インターホンを押す来客が。高い音が、部屋中に響いた。彼女はその音に嫌悪感を抱き、早々に無視した。ベッドから出る気にもなれなかったのだ。依緒に出てもらおうとしたが、今日は誰もいない偶の休日。これならば多少うるさくとも、例え母親の真似事をしてようとも、疲労を蓄積させて仕事をしている方がまだましだ、とそう彼女は思った。休んでいるときの楽園は、誰にも邪魔されない筈なのに。戦場からはとっくに離脱している筈なのに。
やがて六時を伝える音楽が都内に響いた。駅前をスーツ姿で歩く人々の波が瞼の裏にまるでスクリーンに映る映画のように鮮明に映る。彼女はそれを聞き、ようやくベッドから起き上がって大きく背伸びと欠伸とをした。その頃にはもう来客が来ていたことなど忘れて、異常な空腹感を覚えているお腹を摩りながら、コップに水を注いで飲んだ。ただ、どうにも彼女は水道水を美味しいと感じることが出来ずにいた。それ以前に水に美味しいか美味しくないかなど価値観を付ける方がばかなのだ、と思っているような人間だった。それが水の品定めなどできる筈もなく、天然水を異常に飲みたがる筒井の素行には初期では以上に腹を立てていた。けれども今ではそんなことも一個人の趣であるとして、合理的な反射で覆いかぶせているが。
夕食は適当にインスタントのラーメンで済ませた。お湯を入れてから待つまでの時間、夜にまた何処かへ遊びに行ってしまおうかと考えていた。ただ唖然とそれを考えていると、ゆうにインスタントラーメンの所要待ち時間を超えてしまっていて、食べるころには麺が伸びきってしまっていた。ただ彼女はそれについては何も思わなかった。そして水同様に、美味しいだとか不味いだとか思いはしなかった。
パジャマを脱いでシャワーを浴びた。裸体の彼女は、彼女自身から見て冗談にも美しいとは言えなかった。人並みの体型を彼女は持っていたが、薄すぎる陰毛と形の整っていない小さな乳房。右肩にある小さなほくろ。私が自分の事を好きだと思える未来はあるのだろうか、と彼女は思った。
それから千早は、出かける気もないのに出かける時のような準備に励んだ。誰かが千早の事を急かすように、それは突発的で身支度自体に掛ける時間も少なかった。
それらすべてが終わり、七時になろうとしていた時、来客が三度訪れた。今度は、ノックに咥えてインターホンも押し、千早さんと呼ぶ声もあった。
彼女の脳に直接語り掛けるようなその声。鈴だった。
千早は何事よりもそちらに気を掛けることを優先した。走るという言葉よりは瞬発的に跳んだと言った表現の方が正しく、玄関の鍵を開け、ドアノブを捻った。
「突然ですみません」と鈴は開けられたドアからそっと離れて言った。「少しだけお話がしたくて」
千早が彼女の姿を見た時、最初のうち、言葉が出なかった。出そうとしていた単語が喉奥に引いてしまった感覚を彼女は覚える。やがて脳が麻痺したように彼女は鈴に近づいてその冷たな頬を擦るだけしていた。老いた女が孫に接するが如く、その目は優しく表情は恍惚としていた。しまいにはその鈴の華奢な体に抱き付き、未成熟な胸にその顔を当てがったのだ。寒空の下、雪が降る。しばらく二人の顔にはしばしば小さな雪が着地していた。ずっとそうしていたかった千早だったが、咄嗟になってその行動を止め、紅潮した面持ちで「中へ入って」と言った。こんなに寒いのに何故顔が赤くなっているのだろう、私の体がそんなに温かったのだろうか、と鈴は他人事のように思っていた。依緒が思考の敏感さを呈する中、鈴はその思考の中に独特の丸みを持っている。育った場所は同じだけれども、その中で学んだことの殆どは違っている。
鈴はソファーに座った。彼女がこの事務所を訪れることはこれが初めてのことで、彼女は所内の物を珍しい小動物でも見るかのように目を追わせていた。千早がそのような行いをしている人間を見たことがあると思ったのは、駅前にいたどうみても田舎育ちと言える格好をした者の事だった。
彼女はお茶を淹れて鈴に差し出した。「熱いから気を付けて」そう言って。それから彼女もソファーに座った。鈴は対面に人の存在があることに多少右往左往している様子だった。手を何度も組みなおしたり、自分の頭を何度も擦ったりなど。話すべきことがあるのに人の存在があるから緊張して声が出なくなる。彼女のコミュニケーションに置いての一番の妨げとなる障害だ。元よりそれは先天的ではなく、後天的なものではあるが。けれども彼女の努力も見られたのだ。先ほどの『突然ですみません』という言葉。千早が考える所では、彼女がセーフハウスの仕事の傍ら、何千何万回と発音してきた練習の成果であったのだろう。今日千早に会ってそれを言うのだと自分に言い聞かせ、追い込み、汗をかき、半ば拷問に近いような試練を掻い潜ってきたのだろう。だから千早も、そんな鈴に敬意を示して話をしなければならなかった。
「丁度ね、出かける準備をしていたところだったの。どこにも行く当てはないのだけれど」と千早は言った。幼子に話しかける母親のような優しげな声。それに幾分か心を緩ませて、ほっとした面持ちを見せる鈴。
「私が来て、アテが出来た」と鈴は言った。はっきりとした声ではなかった。それは多分、普通の人間が聞けば不明瞭で滑舌の悪い齷齪とした声だと言うが、千早は大分それに慣れていたので、何の問題もなく聞き取れた。
千早はにっこりと笑うと、そういう事と言って人差指を立てて見せた。彼女自身にとっては何の意味もない行動だったが、鈴にとっては全てが意味のある行動に見えるらしく、他人のする一挙一動を絶えなく目で追っているのだ。だからしばらくはその人差指をじっと見つめていた。そのまんまるとした目、まるで暗闇にいる猫のよう、と千早は思った。
もう多分その頃には、鈴は何用でそこへ来たのかと言う事を、半ば忘れかけていた。