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道化師の夜  作者: 陸奥
#3 「煙草の匂い・香り」 
14/16

@4 「ただ彼は特別な存在で」

 閑静な住宅がを抜け、工業地帯へ出た。駅からもここまでは距離があり、普段は近づかない場所だったが、泉にとってはその場所ももう見慣れた場所になっていた。

 元は工場の排水を流すために明治期に作られた川も、今ではその役目を果たしていなかった。かつての日本の高度経済成長期には、職工たちにとっての全盛期で日夜工場に入りびたりで汚水を川に流していたらしく、川というよりは下水道に近かったと言われていた。鉄くずが浮かび上がって虹色の薬品が汚らしく土壌を汚染し、水を汚し土地を荒らしていく。市民がそれを黙認していたというのも、そこには元から住宅街など存在せず、市民と言える人間も極僅かで、文句を言う輩はいなかったのだ。だから延々と彼ら職工は不必要なものを川に流し捨てていった。そしてついにはそこからは生物と言えるものはいなくなったという。経済が発展し続ける間に、犠牲になっているものは自然だった。

 やがてバブルがはじけ、工場を受け持った会社側の倒産が相次ぐ。それを凌いで残った企業も、最先端を行く工場機械化の波に煽られ、廃業を免れなくなってしまった。やがてその地帯は忘れ去られていく。工場を破壊して土地を確保する余裕も、当時の彼らには無かったのだ。それだけの重機や人手を扱う費用などあれば元より再建に使っている筈だが。

 人の記憶のうちにその地帯がなくなっていくと、川は綺麗になっていった。誰の手も借りずに、時が流れていくとそれは勝手に美化されていったのだ。昔は屑が浮かぶ水面も、今では紺碧の空色が映っている。星々の煌々とした輝きが見えると、水中にいる生物が川面に波を立て波紋を作っていく。空が揺れていた。

 川に沿って建てられた工場も、壁面が所々ひび割れを起こしていたり、蔦が這っていたりもしていた。腐った木材が置いてある小屋もある。かつてはそこから原木を引いて薪などに使っていたようだが、今ではそれを見る影もない。

 

 長い女の髪の毛のように枝を垂れ下げた柳の木が、その和風邸宅の庭にあった。石垣で覆われたそれは庭園で、砂利の散りばめられた場所に置き石が表戸から玄関まで等間隔に敷かれている。一角には鯉が泳ぐ池があり、端には小さな風呂小屋が建てられていた。土と藁を混ぜた物で壁を作った小屋だ。それを見る度に彼はやはり古めかしい場所だ、と思う。

 立てつけの悪い表戸を横に引いて庭園内に入る。邸宅の大きさを一層際立たせる敷地の面積。これほどの立地を持つ人物を、彼はその家主以外知らなかった。

 泉が玄関戸の正面に立つ頃、雨が滴り落ちてきた。雨水が草木の葉を叩く音だけが周囲に響く。滑り落ち、零れた水滴が彼の肩を濡らす。飄々と吹く横風が雨の軌道を変え、彼の方向へと向かわせる。濡れまいとして彼は颯爽と扉を開けて家屋の中へ図々しく入っていった。

 玄関に靴が何足も置いてある。それも子供が履くような大きさから大人のまで。それぞれが組になって小奇麗に置かれていた。両脇には靴箱もあった。その上にはふくろうから招き猫、観葉植物の小さなサボテンや果ては七福神の木彫り人形まで、置物が所狭しと飾られているのだ。

 玄関から正面に通ずる居間へ行くまでの廊下が、暗がりに寂れていた。居間の電気は点いている。子供の声がしていた。途中に何個もの部屋の襖が対になって並んでいる。洋風の設計で和風の屋敷を作ったかのような構造だった。

 しばらくそこに佇んでいると、一室から出てきた女が泉に気づき、彼に近寄った。

「夜分にどうされたんですか? 泉さん」と女は言った。「ずっとそこにおいられで?」

 彼は首を振ると、彼女に微笑んで鴫原さんはいますか、と訊いた。女は頷いてこちらへと先導し、二階へ案内した。二階へ上がったすぐの部屋が客室で、その奥が家主の鴫原と呼ばれる人物の部屋だった。二階にある部屋だけは質素な洋風づくりで、どこかミステリアスな雰囲気を感じさせる。

 泉が鴫原の部屋へ案内されると、女がまずドアをノックし、泉さんがお出でになられました、と言った。部屋の中にいる鴫原と呼ばれる人物は、低い声でお通ししなさいと言った。女はそれを聞くと、泉に中へ入るよう促し、ドアを開けた。それから彼は部屋の中へ足を踏み入れた。

 両脇に本棚。手前側に原稿用紙や手記された用紙などが置いてある机。脇には革のソファーが一つだけおいてある。それも年季物で、所々の黒革が剥がれてしまっていた。その奥にある書斎机と組になった椅子に座っている白髪で皺の寄ったの男がいた。泉が言う鴫原だった。

「毎度毎度、汚くて申し訳ないな。君以外の来客は基本的に客室で応対していてな。こちらの部屋の掃除をつい怠ってしまう」と鴫原は言った。

「構いませんよ。仕事をしている人間の部屋に、外部の者がいちゃもんなんて付けません。ここは個人の場所ですから」と泉は言った。

 鴫原は手に持つ万年筆のキャップを閉めると、泉にソファーへ座ることを勧めた。彼は躊躇いもせず、そこへ座った。

「君から訪ねてくるのは珍しい。私は今時分、結構驚いているのだよ」と鴫原は言った。それからポケットから携帯電話を取り出し、使い慣れない様相で電話を掛け、お茶を頼むと言った。「いやはや、こういった物があると便利だ。そのせいで大分階段の上り下りがつらくなった気がするがね」

 二人は笑った。

「セーフハウスを機能させている時点で、結構な労力は使いますし、それだけの楽はしていいんじゃないでしょうか」

 鴫原が携帯電話を書斎机に置くと、それを眺めて苦笑した。

「ちょっとはビジネスが捗るよ」

 しばらくして先程泉を案内したものとは違う女が、お茶を運んできた。エプロン姿のその人物を、泉は知らない。

「新しく入ってきた方ですか?」と泉は女に言った。というのも、彼はこのセーフハウスに足繁く何度も通っていたので、中にいる人物の顔と名前は殆ど覚えしまっていた。彼らとの交流を持つ機会もあったし、泉の名は彼らの中にも知れ渡っている。

 泉にそう問いかけられて、女は齷齪とした様子でお茶を彼の前の机に置いた。それから助けを求めるように鴫原の方を見た。

「泉君にはまだ紹介していない子だね」と鴫原は言った。

 女は鴫原の傍によって、俯く。

「君も知っている通り、ここには親に捨てられたり、身元不明の人間をある一定期間だけ“匿う”施設だ。本来のセーフハウスとは違う意味で私は言っているが、私が作ったここの定義は「安全な施設」だ。ここに国境はない。外国の子供だって私が匿っている。すでに君が知るところ、二三人はいるだろう。いずれも、ここにいるのは実状被害を受けた人間ばかりだ。そしてその多くは子供だ。子供が暴力の標的にされ、それの多くは親が子供を授かった以上すべき規則を反故にしてなるもの。それ以前に、未成年者が子を孕んでここに助けを求めてきたケースもある。彼らは新しく生まれてきた命を何だと思っているのか。私はその真意を問いたいんだ。そして、何の罪もなくして被害をこうむった彼らを助けたいと思っている。最初の頃、友人はそれを聞いて偽善者だと私を罵ったよ。無論縁など切ったさ。偽善と言うのは勝手だが、罵られたことに関しては許せなかった。私の信念に対して罵倒することは、新しく生まれてきた命を罵倒することと同じ。しかし多くの人間は私の言うことを信用しなかった。だからこんな山奥に立派な体を繕って家を建てたのさ。結局のところ、人間から信用を買うために努力しなければならないことは財を蓄えることさ。皮肉なことにな。おそらく今では誰もが私の「安全な施設」と、その概念を概ね受け入れるだろう。なればなるようになる。私は自分の信念を貫いたまでだ」

 泉は女を見た。女は泉の視線を感じてか、足が震えていた。

「ここにいる彼女も犠牲者だよ。まあ、不況に煽られた家族が一家心中を企んでね。彼女は生きたいと思う一心で家族と離れたんだ。それからが問題だったんだよ」

 女は力なくそこにへたり込んだ。目が虚ろで、泉はそれを介抱して自身が座っていたソファーに寝かせた。

「彼女がこういった風になっているということは、あなたのその話の中に答えがあるのですか?」

 鴫原は頷いた。けれども、彼女を部屋から出したり、話を止めようとする意志は、彼には無かった。

「杉本鈴。御年十五だ。普通の人間なら学生時代を満喫している頃なんだがな。彼女の場合はそうもいかなかった」

「その話は残酷ですか?」

「いわずもがな。人の一生に置いて傷を受けた話と言うのは、それも残酷なものなのだよ。君なら分かるだろう」

 泉は黙って。ソファーに横たわる杉本の近くに寄り添った。

「話は彼女から聞いた分だけ話す。家族と離れたあと、彼女は県外へ渡った。どういったかは定かではないが、事実、私はそこで彼女を発見しているのだ。鈴はどうやらホームレスと河原で一週間ほど過ごしていたらしい。しかしな、そいつが悪の元凶だったらしく、彼女の体を金儲けのために使ったんだ。近くの高校の不良や宗教関係の人間、はてに暴力団関係の奴にも手を及ばせたらしい。そいつは借金をそれで帳消しにされて、今では立派な一般人だ。私が鈴を見つけたのが十一月の寒い夜だ。散歩がてら公園を歩いて、公衆便所に立ち寄ったのが正解だった。一番奥の個室から異様な臭気と、血なまぐささが匂いたっていたんだ。急いで開けたよ。そうしたら、裸で床に座り込んでいた彼女がいたんだ。意識はあった。それからここにいる男を一人呼んで、すぐに来てもらった。通常、そう言った人間は普通の病院に運んでは手間がかかるゆえに、私の行きつけの病院に駆け付けたんだ。ぼったくりともいえる値段は取られるが、腕はいいからな」

 泉は生暖かい唾を飲みこんだ。異常なほど分泌されるそれを止める術を彼は知らなかった。

「医師が検査を終えて、彼女の体を隅々まで洗っているのを見た時はぞっとしたよ。私の父方が死んだときにもそのような光景を見たことがあったんでね。彼曰くは、彼女はまだ生きていて、麻酔の余韻があるうちに体を綺麗にしておく、だそうだ。私には彼がしていることは理解できなかったがね。

 それから医師から診断を言わされた。まず、子宮損壊によって子宮は完全に取り去ったということ。それに、打撲傷が何ヵ所も、火を押し付けられたことによる火傷。それもバーナーか何かで完全に皮膚が融けるまでの。右手は物を持てたりはするが、投げたり回したりする行為は完全に制御されるということ。脳の問題らしい。骨の損壊はないが、靭帯はやられているとも言われた。私はそれを聞かされた時、これが人間のできる所行かと耳を疑ったよ。いずれも作為的に行われたんだ」

 杉本は立ち上がった。その時にも気持ちが悪いのか、ふらついた足取りだった。けれども彼女は部屋からは出ていこうとせず、あくまでこの屋敷内の使用人らしく振舞おうとしているらしい。

「鈴も彼女自身の運命を克服しようとしているんだ。今立ち上がったのが証拠さ。私だって君にこれを説明するのは辛い。けれども君も数少ない理解者の一人として存在するように、私はその願いを込めてこれを話したんだ。鈴もそれを分かってくれている。あまりしゃべりこそしないものの、彼女は秀明で物わかりはいいんだ。私が思うところ彼女に対してのケアは今のところ誰よりも深く丁寧にやっている。家事を手伝いたいと立候補したのも彼女からなんだ。彼女は運命を克服する気でいるんだ。だからこそ、私はそれを応援したいんだ」

 泉の意思は何ら変わりはなかった。彼女のそのエピソードを聞いて、気持ちが悪いとか、残酷だとかは思わない。ただ、彼は彼女と似ている待遇を受けていると感じていたのだ。

「依緒も、同じような子です」

「依緒は立派にここを巣立っていったよ。それに、君の事務所の長である筒井さんもこの間、顔を出してくれてな。あのお方も立派な方だ。依緒の事もきちんと面倒みていると言っていたし、何よりも君が付いてくれているそうじゃないか。彼女も君に溺愛しているとかなんとか。」

 泉は微笑んだ。

「調子の方は?」と泉は杉本にむかって言った。「答えてくれれば嬉しいな」

 彼女も言葉を発せればいいということを切に感じていながら、その場に適した単語を、語句を頭の中から引っ張り出せずにいるのだ。泉もそれを直感的に分かっていたため、長くとも待った。まるで初対面の依緒と話している気分だ、と彼は思った。

「君の言葉でいい」と泉は言った。

 顔を赤らめながら杉本は小声で「まあまあ」と言った。

「もっと自信を持たないと」と泉は言った。心底嬉しそうな顔をしている。「それと君の淹れてくれたお茶は美味しかった」

「あり、がとう」と杉本は言った。躊躇いつつも、考えず。

「鴫原さん、家族が増えたような気分です」

「ここにいる人間誰しもがそう思っているよ」

 二人は笑いあった。それにつられて、杉本も笑った。

 下の階にいる人たちも笑っているような気が、彼にはしていた。


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