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道化師の夜  作者: 陸奥
#3 「煙草の匂い・香り」 
12/16

@2 「それはそれは寒い夜だった」

 彼女が最初にそれを机上に置いた。ノートのような物だ。泉はそれをベッドの上からぼんやり眺めていた。彼はそれが何かを認識することは距離があってできなかった。しかしどうにもそれを眺めていて胸騒ぎがしたので、先にシャワーを浴びてくるなどと口実を背に、そこから抜け出した。

 彼はバスルームでいつ事が起きても良いように、体を隈なく隅々に至るまで洗った。それから洗面台に向かって用意されていたホテル側の剃刀で髭を剃り、ドライヤーで髪を乾かして、バスローブを着用し、しばし汗が引くのを待った。体の火照りが納まってきたと感じると、グレーの部屋着に着換えて、彼が思う準備の全てを済ませた。そして、先生の待つ場所へと向かう。

「先生、上がりましたよ」と泉は言った。「シャワーしか浴びてないんで、ユニットのお湯は新しいままですよ」

 先生はベッドの上に彼女の部屋着を綺麗に折りたたんで用意していた。部屋の淡い光に照らされた彼女の顔は、一層優艶に見える。その気になれば、やはり彼ならば誘うことも出来た。一緒のベッドで寝ましょうよ、とでも言えば、彼女も承諾するのだろうが、彼は分かってそれをしなかった。彼女とは恋愛の関係とか、それを超えた家族の関係とか、そういった欲を絡ませ合いながら生きる付き合いはしたくなかったのだ。気が向いたときに先生と話をし、気が向いたときに食事をする。そういう楽観的な付き合いでいいのだ、と彼は感じていた。人間が思う本能とは、千差万別である筈なのに、彼と彼女の本能は自ずから同様なのだ。

「気を遣わなくても大丈夫なのに。泉君はいつもそうするのね。彼女さんの趣向?」と先生はいたずらに笑って言った。

「残念ながら、まだ独り身で」と彼も笑って言った。「早くしないとお湯が冷めてしまいますよ。さあさあ、早く早く」

 泉は先生の肩に後ろから手を掛け急かした。彼女はまんざらでもなさそうにその手を退かすと、急に初恋をした中学生のような齷齪とした様相を見せ、慌ててバスルームへ小走りで行ってしまった。泉が苦笑を呈すも、彼女がそれを知るよしもなかった。


「乾杯」と泉が言う。青年らしいしっかりとした声色。

「乾杯」と先生が言う。若い女らしい気の張った声色。

 グラス同士が触れ合って、ガラス特有の高い音がした。ワインの水面に波が現れるも、彼らはそれを視認できずに啜り飲んでしまう。

 常に従って、部屋の電気は消され、彼らが愛用する小さなキャンドルランプだけが煌々と部屋中を灯していた。

「ねえ、一つ質問していい?」と先生は言った。

 泉は頷く。

「可愛いっていう単語と、美しいっていう単語、どう使い分けてる?」

 泉は少し考えた後、答えた。「言葉で発するときは可愛い。文章とか、文字で表現するときは美しい、ですかね」

「さすが泉君。された質問にはすぐに自分の意見を簡潔にして答えられる」と先生は言った。「でもね、多分それは違う。私が思う可愛いっていうのは、容姿とか、顔とか、いわゆる外面だけの女。でね、美しいっていうのは心が綺麗な女の人を言うのよ」

「僕にはよく分かりません。初対面の女性には可愛いということを連呼すればいいんですか?」

「安い女ならそれで満足よ。イケメンな男が自分の事を可愛い、可愛いとかって褒めてくれるんだもの」と先生は言った。アルコールが回ってきたのか、いつしか饒舌に口を滑らせていく。「でもね、美しい女っていうのは全く別。外面は売っても、心は売らない。男が心をきちんと取り出してきたとき、そのバーター取引は成立する。建前を弁えている彼女らだからこそ、それに応じて美しい心を見せ始める。

 でもね、誰もこんなこと言わないんだよ。人の脳の仕組みについて専門家は物議を醸すけど、人の心については誰も話し合いたがらない。法則とか、思考とかは一応論ずるんだ。でも、人の心の奥深くは探求しようとは思わない。だから私はそれを覆したいの。天動説から地動説へと移り変わったように、パラダイムシフトを起こしたい。普通の歴史とか言語分野の学習はいつしか終わって、学びの分野は人の心になるの。なにもそれは道徳とかだけじゃない。誰しもが劉備になれるわけじゃない。徳を積んで聖人になるのは選ばれた人間だけで十分なの。少しぐらい悪を学ぶ人間がいてもおかしくはないのよ。正義を尊ぶ者には選ぶ道が、信じる道があって、悪人にもそれらがある。それがないのは狂人よ。だから狂わせては駄目。人の世界に取り残されていくような人間は作っては駄目。五分と五分でそれは成り立つのに、なんで数式を狂わすような人間が現れるのだろう。私は、そういう枠組みがどうなっているのかを知りたい。どうにも、どうにも」

 先生がその長い話を終えると、空のグラスをランプの隣に置き、灯っていたその火を消した。辺りは完全に闇に支配される。やがて、音だけの世界がやってくる。

「こうやってどう思うかは分からない。でも目が見えない分、肌は敏感になるの」と先生は言った。どうやら、ベッドに押し倒されているのは泉のようだった。「もう寝ましょう。ゆっくり寝て、明日への扉を待つの。こうやって、男の人と寝る夜は、気分が高揚するの」

 そう言った先生に対し、泉の考えは恣意的で、寝れば朝陽がやってくるというものだった。場を飲み込めてないというのはあるが、今はその宙に浮いた片手が持つワイングラスを気にしている。しかし、それも自然にどうでもよいと考えてきてしまって、空かどうかも分からないまま、それを床に放った。水の流れる音はしなかったので、大分気は楽になった。

 先生のような堅ぐるしい人間こそ、自分を解放した時の恩恵は強いようだった。事ここに至れるのは、今回が初めてではない。それ以前に、定型上ベッドが二つあり、スペースも十分にあるホテルにこそ泊まってはいるものの、半分以上それは活用されていないのだ。

 先生の柔らかな乳房の感覚を間近に受け、寝息が首元を通り過ぎるも、彼はどうにもその気になれずにいた。彼はいつもながら思っていた。これが彼女の演技であったらどうしようかと。本気で彼女が誘ってきて欲しいと思っているのに、何も言わず、思わず通り過ぎている自分はやはり無気力ではなかろうかと。

 その内、彼女との付き合いも止めてしまうだろう。そう思いながら、その赤く紅潮気味の頬を手で摩り、お休みなさい、と呟いた。

 目を瞑ると、彼女の声が聞こえた気がした。馬鹿野郎、その戯言が。

 泉は思った。やはり彼女の心は美しい、と。


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