@1 「二〇一五年一一月の夜の話をしよう」
近いうちに泉は先生と呼ばれる人物に会う予定を立てていた。先生は泉にとっての恩師であり、また、実際の学生時代に通っていた塾講師の職を持つ本当の先生でもあった。彼は彼女をことを慕い、尊敬し、又真剣に愛してもいた。学生時代の彼は独特の魅力があった。虹彩異色症を持った日本人。それを別にしても、彼の存在にはやはり一際輝くものがあって、恋人の関係を持った女は何人もいた。ただ、それも純粋な処女とか、彼のことを思ってマスターベーションをする気の弱い女とかが二三人いただけだ。泉はそれが何ゆえか気に食わず、ことをせずまま彼女らの前からは忽然と姿を消しているのだ。彼は少し汚れている人間とする方が、自分も気が楽だからと悠長な理由を羅列して、自分の胸中にあるわだかまりを相殺し、そうやっていくことで勝手な自己観念を押し殺してきたのだ。ただ、先生の場合はそうにもいかなかったが。
「もしもし、先生ですか? ええ、泉です。ああいえ、先生が時間に遅れてくることはなかったので、少し心配してしまって。ええ、ええ。分かりました。僕の方はここでまっているんで、終わったら来てください。それでは、お仕事の方頑張ってください」
洒落た喫茶店の店内に若者が一人。泉だった。茶髪とその光彩異色症を除けば、彼にはこれと言って飛び出た場所はない。ただ清純を保った普通の一般人である。普通の店内で客と呼べる人間は彼しかおらず、その他はウェイトレス(なぜかウエイターは一人もいない)が数人いるだけだった。とは言え、ロボットもいるが。
彼が先生と会うときは、その日の夜、泊まるべきホテルを絶対に予約しておかなくてはならなかった。彼らは一晩だけ夜を共にする。それは、先生きっての頼み事だった。高級料理店の店先で、自分たちを優雅に見せながらマナーを守って少量の料理を食べ、一滴を零しただけで数千とするワインを飲むよりも、二人だけの時間、そして空間を共有してコンビニで買ったような安いワインをグラスに注いで飲むだけの方が良いと、彼女がそう言ったからだった。無論先生は最初の方は謙遜して、いわゆる三ツ星レストランだの、本場フランスで料理を学んできた凄腕コックが厨房を勤める高級料理店だのという所を調べ、そしてそれなりには件数を当たってきた。しかし、それも猫が鯛を鯖や鮭の魚だと認知して食べることと同じ。やはり最後には庶民に合うのは庶民の料理なのだと二人が確信を持って合意し、今のところの企画に型がはまっているのだ。
二〇時を少し回ったところで、泉が言う先生はやってきた。レディースのスーツの上にカーディガンを羽織っただけの格好だ。それを見ると、やはり相当急いできたのだろう。額には数滴の汗が浮かんでいる。冬の外は寒いのに、と彼は思ったが、口には出さなかった。彼女はどちらかというときっちりと時間区分を行う人間だ。利己的で犀利な頭が物を言う。予定に支障をきたすことは殆どなかったのだ。特に泉と会う時間の設定だけは。
「一時間オーバー。ごめんなさい」と先生は席に着く前に言った。小さなショルダーバッグを先に置くと、それからそれを詰めるように泉の対面に座る。「なんでも好きなもの頼んでいいよ。今夜は私の奢り」
彼女はそうして微笑んだ。泉はその美しく綺麗に整った顔立ちを見る度、心が震えるのだ。心底感動している証拠かもしれない。
しかし、彼女のその通しについては断りを入れた。仕事で遅れたのは仕方がない。それに誇りを持ってしている仕事で遅れたのならば、多分それは名誉なことだ、と。彼もそうして笑った。それから、多分先生が自分と同じ立場に立ったのならば、そうやってことを済ますのだろうと想像もした。その想像の中でさえ、やはり先生は人間の感情がある笑いをしているのだ。温かな、陽射しを思わせるその笑顔で。
さすが、と彼女は言うと、オッドアイのウェイトレスを呼んで、淡々といつも通りの注文を並ばせていく。ミルクココアにホットコーヒー砂糖少な目。それにミックスサンドと海老のフリット。デザートには和風アラカルトを一つ。二人で食べるのには結構な時間をくいるが、それを常としていたため、いつしか慣れてしまったのだ。
「そういえば、今日は何の日だか覚えている?」と先生は言った。
「何の日だろう」と泉は素っ気なく言う。興味は窓の外に見える、対岸のコンビニの様そうだった。
「二〇一五年の一一月二三日。あなたが私を押し倒した日」
「覚えていない」と泉は言った。「たとい覚えていたとしても、多分そのことに関して僕は口を割らないでしょう」
「高校生の分際で睡眠薬を盛った話なんて確かにしたがらないよね」と先生は言った。悪魔のささやきが、そしてその雰囲気が彼女にはあった。「血気盛んな若者だったのに」
「今ではもう興味がなくなってしまったんですよ。あの頃みたいに先生を女として見るには年を食いすぎた」
「まだ二十歳なのに。随分大人びた発言をするようになったのね」
人間のウェイトレスが先にミルクココアとホットコーヒーを席に運んできた。ミルクココアは先生の前に置かれ、ホットコーヒーは泉の前に置かれる。彼女はそれをゆっくりと啜る。泉も真似て飲んでみたが、やはりいつもと変化ないコーヒーである。
「それにしても時が過ぎるのは早い」と先生は言った。
「月は相変わらず一つのまま」と泉が言った。
「やはり二つにはならない」と先生はコーヒーに口を付けて言う。「けれども並行世界には月が二つある」
「そしてありとあらゆる数字は素数に変換される」
「やっぱり、素敵」
先生は窓の外を見ていた。けれども月は、やはり一つのままだったのだ。