@5 「アテナが笑う頃」
どこかに私の存在があると思う。それは生きているとも、死んでいるとも言えないで、果てはその両方とも示しが付かないのだ。日差しが私の眼を貫いてきて、初めてその世界に降り立ったかのような感覚を覚えた。起きた場所が、またビジネスホテルの部屋の中だったから驚きだ。ただ私は化粧台の椅子の上で寝ていた。それも、誰のものともわからない黒の厚手のコートを掛けられて。一瞬の恐怖を覚えたのも、バスルームからするその水音を聞いて、また別の新たな感情が湧いた。誰かがいるのだ。私の知らない誰かが。
風呂場を背にして、初めて自分が裸にワイシャツ一つだけを羽織っていることに気がついた。鏡に映った自分がなんと異常な人間に見えることか。まだ成熟していない裸体は見るに堪えないし、この金髪でさえ長身の外人に比べれば、低身長の私に似合う筈はないのだ。
昨日の夜(おそらく)の服装は、きっちりと折りたたまれてベッドの上に置いてあった。生憎、事務所の家事の殆どは千早さんに任せていたため、私にはその畳み方が綺麗だとか、あるいは汚いだとかの区別は付けられなかった。けれども多分他人からも見てそれは十二分に綺麗だと言えるのだろう。それの畳み方にしろ、ベッドメイキングの方にしろ。
下着をケースから漁り、身に着けてから、色合い関係なしにまた新しい服を引っ張ってきて、適当にそれらを着こなした。途中途中、合間合間に自分を鏡に映して、勝手に納得して頷きながら。残る問題は、やはりバスルームに誰がいるのか、だ。
念のため、ナイフをベルトにひっかけて置き、いつでも抜ける状態にしておく。抜身の刀身は相手にも見えるよう、わざとシャツを柄の内側に入れて置いた。それだけでも相当の抑止力になるのだ。これはあくまで殺人用の武器ではない。自己防衛のための武器なのだから。
その刀身に目をやっていると、一人の男がバスルームから姿を現した。二十歳前後の顔だちは、非常にクールだ。体も余分な肉は付いていない。どちらかというとスポーツマンの体だ。腰にタオルを巻いているだけの状態で彼は、私の方にじっと目をやり、しばらくそうしていた。私も腰に差したそれを見せているゆえ、話しかけるのは容易ではなかった。
やがてモーニングコールと思わしき電話のコールが鳴った。横目でちらと時計を見ると、六時半を指している。コールが鳴っている以外は、とても静かな六時半だった。
そうしているうちに、男は躊躇わずに前進してきた。その真っ直ぐな視線は何か明確な目的をもっているようで、どうにも恐怖感だけは覚えなかった。ただ、やはりそのナイフの柄には手を掛けている。本気で危険だと思えば彼に突き立てる勇気さえあるし、殺す覚悟もあった。問題は、彼がどのような行動を取るか、だ。
しかし、私の予想に反して彼が明確な意を持ってこちらに向かってきた目的というのも、その受話器をとることだったのだ。彼は今起きたなどと電話口のホテルマンに言って放つと、ありがとうと付言して受話器を元の場所へと置いたのだ。
それをし終えた後の彼との距離は、僅かに微量の空間を置き据えただけだ。
「駄目じゃないか。起きているのだからモーニングコールは取らなけらば。たといありがとうと言う言葉が偽であっても彼らにはそれが励みになるんだ。仕事をしている人間に対してもっと感謝せねば」と彼はため息を吐いて言った。
彼はその素行がまるで当然だと言わんばかりにして、私のことを子を叱るような目で見ていた。自分が裸であるということはやはり気にしていないようだった。
「ごめんなさい」と私は言う。
ごめんなさいと、それを小声で言ったのも、自分の意志ではない。どこか、彼の意志に突き動かされて言ってしまったのだ。
「ああ。しかし、僕も謝らなければならない。唐突に話をするようですまいなが、君が一部の人間からオリュンポス十二神の『アテナ』だと言われているのを聞いて、どうしても気になってしまったのだ」と彼は言った。そして、平然と腰に巻かれたタオルを取って一度全裸になり、壁に立てかけられたスーツケース内から下着を手に取って身に着け、後はそれを連続して機械的な動作、手つきで終えるといつのまにか紺色のスーツ姿に成り代わっていた。柄のない青色のネクタイを締めるまで、私はただ茫然とそれを眺めているだけだった。
「少し長い話をする。君はどちらに座る?」と彼はベッドと化粧台の椅子を指さして言った。私は素直に、ベッド側にゆらゆらと座っていった。だから彼は私の方へ椅子を向けて背中をきっちりと立てて座った。
「やはり疲れているようだね。手短に終わらせる」と彼は言った。「まず第一に自己紹介よりも早く、君に謝らねばならない。先ほどと同じく、『アテナ』という別称が気になってね。昨日の夜に起こったあの出来事の後、ここに連れてくるまでに君の体は乾いた血で汚れてしまっていたんだ。ああ、あの天木茂のでだ。そして何度も君を起こそうとしたんだ。それで、一度は起きたんだが、私の知るところによると、抗うつ剤の副作用か、幼児化。その時の君がまさしくそれだったんだ。それもまさしく赤ん坊みたいな。君を一人にしておくと泣き崩れていてしまってね。昨日は外の自販機にも行けなかったんだ。毎日欠かさずアルコールは体に流しておきたかったんだがね。
それで、体を洗わせようにも君は一人で行動できない。しかし、血の滲み具合はその金色の髪にまで及んでいてしまっていたんだ。私が彼を殺したとき、君がすがりよってきて、それから泣き崩れ、地面に倒れてしまったんだ。まあ、血だけでなくて君自身もショックが大きすぎたのか、失禁もしてしまっていたんだ。それを放っておける筈がなくて、ここに連れてきたわけさ。
それで、重要なのがここからなんだ。許せ。私は君の衣服を脱ぎ取って、一度裸体にし。それからきちんと私の知るところの汚れた部分を洗ったのだ。血もきちんとふき取った。性別の違う人間にそういったことをされるのが嫌だという人間がやはり多いものでな。しかも君は若い。年頃の女だ。私も迷った。代わりに、シャンプーもリンスもボディーソープも私のを貸してやった。身だしなみだけは気にしていてね。風呂の用具だけは自前で揃えているんだ」
ふと髪に手をやって、その香りを嗅いでみた。甘い。それは薬品で強いた甘さでなくて、上品な気品のある甘さの香りだった。微かなレモンの香りもする。
「それに、君には何を着せたら良いのか分からなくてね。部屋の温度をできるだけ温かくして、私のシャツを着せたんだ。最初はそのままベッドに寝かそうとしたんだが、どうにも君がドライヤーを掛けてから椅子の上で寝てしまっているようで。そのままにしておいたんだ。本当にすまない。これを君に話すべきかと迷ったが、やはり私は自分には嘘を付けなかったんだ。不快に思ったのならば謝ろう」と彼は深く頭を下げた。しかし、私の気にするところ、そんな部分ではない。ある意味で、一番恐れたところが、そしてそこにあるのだ。
「『アテナ』、は…」
彼は黙った。しかし、その重たそうな口は瞬間に開けられる。
「オリュンポス十二神の中の一人。私が気になったのは、芸術や戦略や工芸を司る女神としてではなく、ヘスティア―、アルテミスともに並んで著名な三大処女神としてだったのだ…」
生唾を飲む。
「ここまでにしよう。依緒さん」と彼は言った。「あなたはもう帰って休むべきだ。私の存在など、知らないほうが良かったのだ。ただ、あえて一つだけ言わせてもらえるのならば、私もあなた方と同じ穴の貉だ。けれども、“仲間かどうかはわからない”。今後、対象はどのような手段をこうじてくるか分からない。多分、危険を伴うようになってくるだろう。それでも、僕たちはやっていかなければならいんだ。僕たちは偽りの強者だ。“ピエロ”の偽装をした弱者なんだ」
「名前、だけ。名前だけ訊いておきたい」
「法水とだけ名乗っておこう。ただ、黒死館は知らないがね」
法水さんは立ち上がって私の手を取ると、
「さあ、チェックアウトだ。そして終わりからスタート地点に戻るんだ。僕が君を事務所前まで送っていこう。筒井さんとは長い付き合いだ。少しだけ話がしたい」
電車で一息ついているうち、考えていた。まごうことなき、法水さんが言った『アテナ』のことについてだ。そして、幼児化のことについても。けれども、色々と思案しているうちにどうでもよくなってきてしまった。馬鹿だと自覚しているから、深く物事にはのめりこんでいけないのだ。そうして、私は私を失っていくのだ。そうだ、二年前ぐらいのように。