南インドの港町
南インドでは、5月に入っても豪雨が続いて雨季のようであったが、気温は依然高いままで、かえって蒸し暑い不快な気候になっていた。一方、北インドでは気温40度を超える、雨季直前の蒸し暑い快晴の日々が続いていた。
しかし、この世界の人々は、もう既に気温のことを話題にするヒマはなさそうだった。崩壊した東アジア諸国の沿岸部で発生した新型インフルエンザが世界中に広まってしまったからである。昔はインフルエンザといえば冬の乾燥期の流行というイメージだったようだが、この時代ではもはやそれは通用しない状態になっていた。
今回も渡り鳥の間で流行していた強毒型が、人間にも感染するタイプに変異したようで、これまでと同様、強毒性のまま空気感染による人での流行が始まった。しかし、今回は発展途上国を中心として事前のワクチン接種や備蓄が進んでいなかったために、大流行を抑えることができないでいるようである。先進国では、かろうじて経済崩壊の中でもワクチンの備蓄がある程度は進んでいたようであるが。加えて、被災地からの1億人を超える難民のインドや東南アジアなどへの流入による混乱で、ウイルスの拡散に拍車をかけていると、タミル語のニュースが盛んに伝えている。
ここの町でも、新型インフルエンザが猛威をふるっているために、町の通りは人通りもまばらで閑散としていた。感染率は2人に1人、人工呼吸器や治療薬の不足で、死亡率は30%にも達していた。さらに、助かっても脳障害を残す患者が多いようである。ワクチンを接種している欧州や米国などでは、死亡率は200人に1人以下に抑えられているようであるが、それが新たな国際対立や国境封鎖の要因ともなっていた。経済基盤の弱い太平洋島嶼国の中には、津波の被害も加わって音信が途絶えた国すらも現れ始めたと、ニュースのキャスターが興奮気味な顔で伝えている。その中には、かつての先進国だった日本も含まれていた。世界中で全人口70億人のうち30億人が発病し、これまでに9億人が病死した可能性があるという試算も紹介されていた。一方で、世界各地で大発生している黒カビによる、作物の立ち枯れ病が、深刻さを増して、食糧不足が本格化しそうだと、次のニュースでキャスターが伝えている。そのために、これまでコスト高で不振だった宇宙産の作物が注目されてきているらしい。元々、この作物は、畜産や養殖コロニーでの餌自給のために導入されていたのだったが、今や、人間の食料になりつつあった。
そのため、軌道エレベータに近い南インドでは、にわかに食料品や薬品への注文が殺到して、景気に沸いていた。労働者は新型インフルエンザからの生還者ばかりである。死にかけたはずなのだが、もうそんなことは忘れたとばかりに忙しく食事を手でかき込んで、電気トラックやトレーラーに乗り込んで出発していくのを、ナンが泡立てられたミルクコーヒーをすすりながら感心した表情で見ている。ちなみにこのミルクも宇宙産である。天井から4,5つぶら下がった扇風機が回転して穏やかな風を行き渡らせている店内には長机とそれに沿う長イスが適度な間隔で配置されており、そこにぎっしりとトラック運転手や近くの工場の労働者らが座り、飯を食べたりチャイ、コーヒーを飲んでいる。南インドの食事なので、北インドとは雰囲気が異なるのがナンには興味深いようである。ナンの肌の色はどちらかというと白いので、周りのインド人からは浮いて見えるが、そこはいつもの認識阻害魔法を使っているのだろう、何ら違和感なく一緒に長イスに座って、泡立てたミルクコーヒーをすすりながら、備え付けのテレビのニュースを見ている。
閑散とした町で唯一活気に湧いているこの食堂からも、道端に倒れて腐敗している、かつて人だったものがチラホラ見えて、体にまとわりつくような独特な悪臭を放っているが、誰ももう、関心を払っていないようだ。結構肥え太った野犬やカラスなどが興味を示す程度である。その横を、大型モーター音を立てて、30トン積みトレーラーが雨で泥だらけになった道を爆走していった。
ニュースは、ようやく天気関連の話に移った。しかし、大して関心はないようで、欧州の気温が40度を超えたと、さらりと告げてCMになった。それを合図にして、さらに大勢の労働者達が席を立って仕事に戻っていく。ナンも一緒に席を立って、食堂の外に出た。巨大なトレーラーが次々と始動して、動き出すのを興味深そうに見ている。その時、ナンのポケットからチリリンと鈴の音がした。
「う」
ナンが、苦笑して鈴をポケットから取り出した。
「やれやれ、坊主をご指名ですか。女王様」