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その季節  作者: あかあかや
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北インドの街パトナ近郊

 北インドは、熱波が立て続けに襲うために灼熱の大地と化していた。空気も乾燥して、細かい粉塵が漂い埃っぽい。雲1つ見当たらない空も粉塵のせいでやや黄色がかっている。この時期には、建物の壁一面にコブのように設置されたエアコンの室外機が熱風を吐き出しつつファンを回しているはずなのだが、停電のせいで稼動していない。しかし、まだ幸いなことに湿度が低いので、日陰に居たり、夜間になると少しはマシになる。湿度が極端に低いので、喉の渇きや目の乾きには悩まされるが。大通りは相変わらずの大混雑であったが、特に大小の病院の前は、相当な人ごみになっていた。猛烈な陽射しの直撃を受けているために、倒れる人が続出して、騒ぎをさらに大きくしているようだ。

 涼しければ道路上で反芻している白い牛たちも、この暑さではさすがに見かけない。自動車やバイクも、このところの経済危機で燃料が入手できなくなってきているので、いつもより半数以下にまでその数を減らしていた。クラクションをけたたましく鳴らすのは変わらないが。その中を人ごみにもみくちゃにされながら、ナンと博士が小瓶を持って、空気採集を行っていた。


「こんなものかね博士」

 小瓶に大量の空気が流れ込んでいくのを確認しながら、ナンがクー博士に訊ねた。

「うむ、これだけサンプルが入手できれば十分だよ。ありがとうナン」

 クー博士が礼を言って笑った。やはり、フィールドワークがよく似合っている。しかし、ごついジャケットに大きなリュックを担ぎ、直射日光に曝されているのに、彼らは全く何ともないようだ。汗もかいていない。周辺の通路いっぱいに満ちて歩いている数百人は下らないであろう人間たちにも、ナンと博士の異様な服装は注目されていないようだ。

 ナンがうなずいて、小瓶のふたを閉めた。中身を確認する。

「魔法微生物兵器でも作るのかい?クー博士」

 クー博士が乾いた笑いを返した。

「それもいいが、ワクチンなどの薬の材料となるだろうな。戦乱の世界も多いからね、魔法生物兵器なんかを開発するよりも、風土病を流行らせて、その予防薬や治療薬を売りつけるのが安くて安全で儲かるそうなんだよ。これもどこかの世界で風土病になるかもね」

「なるほどね。そう言えば、この世界の人間も必死でワクチンを作っているようだよ」

 ナンのそのセリフには、ふうん、と無関心のままで採集した微生物かウイルスの分析作業を続けるクー博士。しかし、少し心に引っかかる点があったのだろうか、小瓶のラベルに情報を書き込む作業の手を休めないままナンに話しかけた。

「魔法が使えない文明では、大変だろうな」

 ナンがつぶやくように口を開いた。

「300万年前のような魔法微生物兵器を作るような人はいないがね」

 ここで、クー博士の赤い瞳が少し輝いた。でも、作業の手は休ませていない。4つ目の小瓶のふたに保護シールのような封印魔法をかけた。小瓶の輪郭がぼやけて半透明になった。

「そうか、ナンは見たのだったね。もはや君だけだろうな」

 ナンが昔を思い出しながら、新たな小瓶の中に空気を誘導させる。ガラスのような小瓶なのだが、空気ろ過フィルター機能でも備わっているのか、小瓶の底から空気が勢い良く噴出している。狙った微生物かウイルス株だけを入ってきた空気から選択的にろ過して小瓶の中に留める仕組みのようだ。

「あれはやっかいだったよ博士。微生物のくせに3枚の障壁を持ち、分身魔法を使いこなした」

「おお」

 ここでようやく、クー博士の手が止まって、ナンを見た。しかし、ナンの回想はここまでだったようだ。

「しかし、博士。この世界もあの津波で経済が崩壊し始めているから、ワクチン製造も大変だろうな」

 クー博士が、少々がっかりしたような顔をして、ナンから最後の小瓶を受け取って、さっきまで続けていた封印作業もせずにジャケットの中に突っ込んだ。この世界の津波も経済も関心がないらしい。

「さて、ナン。私は戻るよ」

「ああ」


 自分の世界へ転移するための、ゲート魔法を発動させながら、その待ち時間の暇つぶしをしていたクー博士が、何かを思い出したようだ。ナンの顔を見る。

「あ、そうそう。ナンの予想通りだったよ。あの地震で海底の固形メタンが海面近くに浮上しているな。気化して大気中に噴出している。止まる気配はまだないな」

 ナンの顔が曇った。

「そうか。スイッチが入ったようだね」

「ああ。メタン濃度は、多分20%増しになるだろうね。今後は障壁プログラムを少し修正する必要がありそうだよ」

 そう言い残して、クー博士の姿が消えた。


 病院の周辺道路にはチベット系や中華系のボロボロの難民がぎっしりと詰まっていた。病院の中に入れずに溢れたのだろう。自国民の治療を優先するための、仕方のない措置らしい。炎天下の直射日光に曝されている大勢の難民達を見ると、新型インフルエンザに感染して重態の人だらけである。ウイルス性の肺炎のようだ。ナンと博士はどうやらこの病原体を採集していたらしい。瓶がいくつも必要だったことから、数種類ほど同時に流行しているのかもしれない。


 ナンが、そのまま彼らの間をふらふらと歩き回って様子を見ていると、ある難民の群れから読経が聞こえてきた。チベット系難民だろうか。周辺には他にも同族系の難民があちらこちらに固まって集団で座り込んでいるのが見える。その読経を聞いていたナンが、穏やかながらも悲しい表情になった。

「今のうちに赤道へ逃げなさい。その程度の読経では誰も助けにはこないよ」

 そうつぶやいたナンに、読経を続けていたその難民が驚きの顔をナンに向けた。周辺の他のチベット系難民には反応がないことから、どうやらナンがつぶやいたのはその難民の支族の言葉だったのだろう。もちろんナンはその支族出身ではないし、面識もない。期せずして彼の魔法が発動してしまったのだと思える。

 その支族数十名が一斉にナンに話しかけてくる。しかし、ナンはそれを受け流して、道路を横断して人ごみの中に消えていってしまった。なおもナンに向かって何か叫んでいる難民達であったが、ものの数秒で忘れてしまったようだ。再び輪になって座り、読経を先ほどと同じように皆で唱えはじめた。

 その時、彼らの持っているラジオからヒンディー語の定時ニュースが流れてきた。中国やその沿岸諸国から1億人余りの津波被災難民が東南アジアやインドへ押し寄せて社会問題となっているというニュースだった。一瞬、それが聞こえたのかナンが立ち止まったが、やがてごった返す人ごみの中に消えていった。

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