北米の氷原
北米大陸は一面の氷原と化していた。遠くに白銀の山脈が見える。
空は久しぶりの晴天だが、氷河期特有の厳しい北風が吹きすさんでいた。氷原に薄く積もった霜の層が風で吹き飛ばされて地を這う様子は、無数の白蛇がうごめいているようだ。
霜の破片は空中にもある程度舞い上がり、それが太陽の光を受けてキラキラと不規則な輝きを見せている。
氷原の上には何もない。どこまでも地平線の向こうまで平坦な氷原が続いていて、蜃気楼の上に白銀に輝く山脈がぼんやりと浮かんで見える。地の白と天の青の世界である。
その氷の大地の真ん中にナンとクー博士の姿が見えた。加えて2名の人間大のドラゴンの姿もあった。強風に翼がとられることなく、すっくと立っている。皆、防御障壁を展開しているようで、この北風も何ともないようだ。
クー博士が氷の大地の上を数回飛び跳ねて、うなずいた。
「ずいぶん氷の厚さが増したな、ナン」
ナンも同じようにその場ジャンプをしてから答える。
「うむ。年々厚くなって、いずれはあの山脈も氷の下に埋まるじゃろうな。陸地の半分ほどが氷で覆われてしまった故、太陽からの赤外線が反射されて地球が温まらぬ。降り積もった雪は溶けずに、氷に変わっていくばかりじゃよ」
しかし、クー博士には異論があるようだ。
「ただ、今回は大気中に結構な量の温暖化ガスが残っているから、その動向次第では意外と早く氷河期が終わるかもしれないよ。人間もかなり生き残っているようだし、熱帯には文明が残った。数百年後にはかなり様相が変わると思うよ、ナン」
ナンが意外な顔をした。博士も実は人間に関心を持っていたらしい。それなりだが。考え直してみれば、興味のない世界にここまで彼が付き合う事はないだろう。
「なるほどのう……ウィザードの君がそう言うなら信頼性がありそうじゃな。うむ、そうなることを期待しよう」
やがて、ドラゴンが身じろぎをして背中の翼を少し寛がせた。彼らは人間と違って、動作がストップモーションのようだ。完全な静止を繰り返しながら動いている。何となくだが、鳥の動きに似ているような。
そんな2体のドラゴンが揃って氷原の一点を凝視し、ナンに告げた。
「準備完了だ。ナン、始めてくれ」
ナンが、それを聞いてうなずいた。
「うむ。因果律回避10秒、空間確保4キロ立米」
氷の大地が一瞬で解けて湖になり、その中から全長600メートルもの巨大なドラゴンが飛び出してきた。透き通るような青い空を覆うように、巨大な翼を羽ばたかせる。
轟音と地響きが鳴り響き、暴風が吹き荒れ、ドラゴンが持つ特有の魔法場が急速にナンが設けた結界の中に充満していく。
凍てついた空気を砕くような咆哮をして、アイスクリームを入れるコーンの形に広がる巨大な炎の息を吐き、氷原に立つ4名を見据えた。
2体の人間サイズのドラゴンが、これまた湖を波立たせるような咆哮をして実体化した。彼らも同じくらいの巨大なドラゴンとなって、飛びかかり絡まりあう。
たちまち炎に包まれる3頭のドラゴン。咆哮が重なり合い、氷原の氷をその声だけで粉砕するほどのすさまじい音になっている。いつぞやの巨人の笑い声と同じだ。
クー博士が冷や汗をかきながら、赤い瞳を鋭く光らせた。術式展開を4つ同時進行させている。かなり耳障りな高音の詠唱を4重奏しているので、これまた騒音を助長しているといっていい。
しかし彼の口は1つしかないのだが、音源は4つである。
「よし、抑え込んだ。転送してくれ」
「うむ」
ナンがうなずくと、絡み合った巨大なドラゴンたちの姿がパッと消えた。結界を設けているにも関わらず、空間のあちこちで火花が上がっていく。
ドラゴンたちが消えたのを確認してから、ナンが巨大な結界を消去した。湖はそのうち氷に戻るだろう。
クー博士が汗を拭った。
「ふう……疲れる仕事だよ。私は本来、研究職なんだけどなぁ。うわわ、少し食らったか」
彼のジャケットの一部が焼け焦げていたり、石化している。
ナンがその状態を確認した。
「石化効果もある火炎息か、珍しいのう。じゃが、そのくらいで済んで良かったわい。クー博士の防御障壁が全て吹き飛んだから心配したぞ。圧縮言語で4つの魔法を同時に詠唱しても、ギリギリだったな」
クー博士が珍しく憤ったような声を上げた。
「まったく、ドラゴンどもめ、秘密主義もいい加減にしろ。報酬は高額だけど何の説明もしてこない」
そこへ、人間型で見事な羽翼と鋭い角を持つドラゴンが1人、空から音もなく降りてきた。
髪の毛は輝くばかりの白色だ。それが彼の動きに同調してサラサラと動いていて、背景の透き通るような青い空にとてもよく映える。見事だが相当の威圧感を発する翼と立派な角さえなければ、超絶的な美青年である。
「それだけ悪態がつければ心配ないな。坊主、ご苦労」
クー博士がさらに不機嫌になった。赤い瞳がどんどん濁っていく。
「高見の見物とは良い身分だな、ドラゴンさま。我々ウィザードに依頼せずとも、君たちだけで対処できるはずだろう? 我々が苦労している様を見物するための依頼かい」
ドラゴンが、くく、と笑って、大地に降り立った。
氷の破片が優雅に舞い上がってドラゴンを包む。先ほどのドラゴンたちと異なり、動作が非常に滑らかで優雅である。
「そこのウィザード。口が悪いと、因果律が崩壊して飛ばされても助けてやらんぞ。君たちに依頼するのは、我々が集まるだけでこの世界を壊しかねないからだ。ドラゴンの魔法をこの世界で使うなどできると思うのかね。それに、君たちの力量に応じて依頼を出しているから、問題はなかろう。服が焦げて石になったのは、君の未熟と不注意にすぎぬ」
まさしく上から目線でクー博士に説明するドラゴンである。
「むむむ。一介の研究者にそこまで言うかね。これだからドラゴンは……」
クー博士もさすがにそれ以上は文句を言わなかった。実際その通りである。
横にいるナンは、このやり取りを聞きながら笑いを堪えているようであるが。
「貴方が出てくるという事は、相当のドラゴンだったのじゃな」
ナンが礼をしてドラゴンに話しかけた。ナンが『貴方』と呼ぶくらいだから、相当な魔力を持つドラゴンなのだろう。
ドラゴンが鷹揚にうなずいた。
「ああ、かなり歳を経た者だよ」
この動きもクー博士にとっては快い所作ではないようだ。博士の眉間のシワがさらに深まった。
「今頃、向こうで大暴れしてないかい? ドラゴンさま」
ドラゴンが、くく、と再び笑った。馬鹿にしているようでは、なさそうだが。
「分かっていないなウィザード。さっきのは、再会を喜びあっただけだ。長い仕事だったからな。今頃は宴会でもしているだろう」
ナンが素直に納得した。
「そうじゃったか。どのような仕事なのかは聞かぬが、ご苦労様でしたと伝えてくだされ。あの女王さまもそう伝えてくれと仰っておった故な」
ドラゴンが微笑んでうなずいた。それだけで周囲の氷雪がキラキラと輝く。
「伝えよう。では解散してくれ」
そう言うと同時に、ドラゴンの姿がパッと消えた。
ほっとしながらもクー博士が毒づく。
「偉そうに。元は魔法兵器だったくせに」
ナンが微笑んで博士の方を見る。
「300万年前の魔法大戦の反省から、我々は多くの異世界を創造して、魔法兵器を含めた全ての魔法生物や種族に割り振った」
クー博士がキョトンとした顔になった。
「何だよ、いったい」
ナンがそのまま話を続けた。
「我々の多くもエルフやセマン、バンパイアなどに変わったし、各世界の王や神になった者もおった。あの姉妹や死者の国の神などのようにな」
「知ってるよ。歴史で習うだろ」
ナンがうなずいて笑った。そして、少しおどけた口調になった。
「ドラゴンは巨人の世界に組み込まれたのじゃが、誰が統治しているか知っておるかいの」
クー博士がキョトンとした顔のままで答えた。
「誰も知らないだろ。だから秘密主義だっていわれるんだ」
「そうじゃな。元々、世界を変えるくらいの強力な魔法兵器じゃからな。我々の誰もあの世界に行かなかった。誰もな。じゃがしかし、ちゃんと統治されているじゃろ」
クー博士の瞳が赤く輝いた。
「おい、ナン。何か知っているな」
ナンは微笑んだままで話を続けた。細い目がさらに細くなったようだ。
「例えば……さっきの羽翼のドラゴンなんじゃが。あんなタイプの魔法兵器は、魔法大戦当時に作られておらぬのじゃよ」
博士が驚いた声をあげた。
「なに?」
ナンが氷原を見渡した。カエル顔にも見える坊主頭が日差しにテカテカ光っている。
「世界は、かくして何度も崩壊するわけじゃが……耐え抜いて開花する文明もある」
クー博士の赤い瞳がキラリと輝いた。同時に冷や汗もかきはじめている。
「あいつ、我々の文明じゃない奴なのか? おいおい、大変だぞそれは」
ナンが笑って、指をそっと自分の口に当てた。
「じゃから、あまり悪口は言わぬ事だ」
「うひゃー。でも、そんなファンタジー誰も信じないだろうな。私がバカにされるだけか」
そう言って氷の上でひっくり返っている博士を、微笑んだままの顔で眺めていたナンであった。
そのナンが再び氷原の彼方に視線を投げた。
「願わくば、今の文明が我々の後輩になりますように……さあ、戻ろうかの。今頃はポーラが大変な事になっておるじゃろう」
了




