中央シベリア
欧州、ロシア、カナダを猛烈な熱波が襲い、砂混じりの熱風が南から吹きつけてきていた。
すでに世界は相当に混乱していた。ラジオからは熱波による死者の増加と、作物を枯らしていく疫病、新型インフルエンザとその他に少なくとも5種類現れた未知のウイルス性肺炎による同時流行のニュースが流れている。
「アジアも酷い有様になっているはずじゃが、もうニュースにならぬか。ここシベリア辺りはもう、地図上から消えたような扱いじゃなあ」
ナンが古いラジオのアンテナをたたんで電源を切った。内乱状態になっている東アジアや東南アジアの情報は、聞こえてこなくなって久しい。
ここは中央シベリアの北極圏の森。大河の上にナンとクー博士、それに1人の若いエルフの女性が防御障壁を展開して浮遊していた。そのエルフが森を見て絶句している
(この森、病気で腐り始めています。あ、お坊さま、また)
増水して濁流となっている大河の岸が溶けていくように崩れていく。永久凍土が急速に溶けていて、ひどい泥沼に大地が変貌したためだ。針葉樹林がばたばたと支えを失って倒れて、増水した川に流されていく。
空には真っ黒な雲が湧き上がり、かなりの速さで北へ流れていた。広大な針葉樹の森の中から湧き上がった上昇気流が、黒い煙状になって上空に昇っていくのが見える。
空からは雷がひっきりなしに落ちて、まるで熱帯の集中豪雨のような様相を見せている雨と雹である。上流でも豪雨なのだろう、大河の水位が目に見えて上昇していく。
その荒れる大河の上の空中に浮遊する3人は、それぞれが防御障壁を展開しているので雨や雹、雷は当たっていない。しかし、あまりの洪水と雷の轟音で声が互いに伝わらないために、仕方なく念話を使っていた。
(気温が下がり始めたぞい、クー博士。嵐が降りてくるぞ。記録密度を高めるが良かろう)
上空を見上げていたナンがクー博士に念話をしかけた。
(採集準備だね、ナン。了解だ)
クー博士も念話で返信をする。そして相変わらず年季の入った、ごついジャケットの中から小瓶を取り出した。やっぱり今日も、クシャクシャの髪が大きな帽子に抑えられて好き勝手な方向にひん曲がって伸びている。それでも毎回シャツやズボンが違うのを見ると、それなりに服装には気を使っているのだろうか。
一方のエルフは亜熱帯の世界の住人なので、非常に軽装である。毛糸の帽子をかぶり、薄手のキルトのようなジャケットを羽織っているが、これは春用の品だろう。すらりとした体格に似合う、すっきりとした簡素な巻きスカート姿でサンダルを履いている。
素材は革や綿麻、絹などの自然由来のものしか使用されていないようだ。しかし精霊魔法を帯びているのだろうか、ほんのりと輝いているように見える。染料も草木染めの延長のようなものを使用しており、かなり地味な色合いである。
ただ、毛糸の帽子からのぞく鮮やかな金髪が、その地味な服装に華やかさのワンポイントを与えている。その効果で野暮ったくは見えない。
そんなエルフの細長い右耳がピクリと反応した。
(森がよろめいて倒れていく)
相当に動揺している様子が念話の思念波からも伺える。しかしその景色も雲が分厚くなりすぎて、暗い陰りを増していくばかりだ。そして風向きが南から北向きに逆転した。
ナンが上空を見上げる。
(空間捕縛。因果律回避2秒。準備完了したぞい、クー博士)
クー博士が武骨な顔を高潮させた。
(来るぞ、ナン。8,000年ぶりの氷の暴風だ)
(精霊場はあの時よりも大きいぞ、クー博士。これはさらに前の12,000年前の嵐に匹敵するぞい)
ナンが穏やかながらも低い声で訂正する。彼も久しぶりの嵐に緊張しているようだ。
若いエルフは緊張が高まってかすかに震えている。その様子をすぐに察したナンが、エルフに向かって微笑んだ。
(あの時アンタのご先祖も、相当緊張しておったよ)
エルフがそれを聞いて驚いた。エルフは平均寿命が数千年とかなり長命な種族だが、ナンの年齢はその更に上をいっているのだろうか。
(あなたも、あの時、ここに?)
ナンが微笑んだままでうなずいた。
(うむ。奴の肩書きもアンタと同じじゃったよ。王立図書館の司書さんよ)
その時。突然大粒の雨が、雹を伴った氷の砲弾の嵐に変わった。直径10センチ以上はある雹が、真っ黒になった上空から飽和攻撃のように降り注いでくる。
その直撃を受けた木々が砕けて、洪水の轟音に負けないほどの破砕音を響かせ始めた。
エルフが悲鳴を上げそうな顔になっている。3名の防御障壁も衝突して砕け散った氷の破片に覆われて、互いの姿がよく見えない。ナンもさすがに顔を真剣なものにして、砕けていく森の木々を観察していた。
(ほう、これは……)
(成層圏からいきなり降りてきたな。すごいぞ)
クー博士が興奮した顔でナンに告げた。どことなく嬉しそうな声であったので、エルフが怪訝そうな目で博士を睨んでいる。
その瞬間、世界が凍結した。
エルフが防御障壁の中で息を飲むのが分かる。それを複雑そうな顔で見たナンが手を上げた。
(では、術式開放)
クー博士の小瓶に空間が流れ込み始めた。彼の防御障壁の外にひょっこりと浮遊している小瓶に、氷の暴風が吸い込まれていく。
たちまち容量が一杯になり、すぐに転送されてクー博士の手元に戻った。完全に凍りついているので、さすがにクー博士も素手では触れることができないようだ。
小瓶に吸い込まれていったんは静かになった氷の暴風は、ものの数十秒で完全に復活して全てを凍てつかせてしまった。鳥が凍って枝から落ちてそのまま砕け、その大木が凍結しながら砕けて嵐に吹き上げられていく。
エルフが顔を蒼くさせて、その一瞬の変化を見届けた。
(森が爆発している……)
ナンが、努めて穏やかな声でエルフに話しかけた。
(水分が凍結すると体積が1割ほど膨らむじゃろ、この暴風による気化熱もあって、それが木の細胞全てで一瞬で起こるとああなるのじゃよ、司書さん)
クー博士も感心した様子でつぶやく。
(上級凍結魔法を見ているようだよ、ナン。加工せずとも、そのまま軍の兵器級魔法として使えるぞ)
凍結したトナカイ1000頭と犬や人が、砕けながら嵐の突風に吹き飛ばされて防御障壁に当たった。たちまちガラスのように粉々に砕けてしまう。クー博士がクシャクシャ頭を無造作にかいた。
(やれやれ、どこから飛んできたんだ)
(陶器の人形みたい)
エルフも思わず、非現実的な光景を目にして口を開いた。それを見てナンも穏やかな声で話しかける。
(そうじゃな。上級凍結魔法が恐ろしいのは、物質の動きを遅らせてしまうことじゃな。故に、対抗魔法も伝達速度が遅くなって間に合わなくなる)
その時、エルフが展開している精霊魔法による防御障壁が2枚ほど砕けた。エルフの顔から血の気が引いていく。ナンが冷静な口調で指摘した。
(司書さんよ、防御障壁維持に意識を向けなされ)
しかしエルフは慌ててしまい、うまく修復できないでいる。そのうちに他の防御障壁まで次々に冷気で砕かれてしまい、あっという間に自分の最後の防御障壁に穴が開いてしまった。
「あっ」
エルフが思わず小さな悲鳴を上げた瞬間、ナンがエルフを新たな防御障壁で包んで助けた。結果的に二人とも同じ障壁に包まれることになる。
恐怖で蒼白な顔のエルフの肩に優しく自分の手を乗せて、ナンが微笑んだ。
「こういう場合ではな、前もって準備しておいた遅延発動キーの呪文を連続して使うと良いぞ」
見ると、穴から侵入した冷気でエルフのジャケットの背中の一部が凍っていた。それをすぐに溶かしてやりながら、ナンが話を続ける。
「エルフの世界は温暖じゃからのう。冷気には不慣れだろうて。用心することじゃ」
「は、はい」
そう答えたが、エルフはまだ動悸が止まらないようだ。息もまだ整っていない。
その様を関心のない様子で横目で見ていたクー博士が、小瓶を閉めた。満足げに小瓶を眺めて、赤い瞳をキラキラと輝かせる。
(うん。いい素材が採集できたよ。マイナス90度はあるかな。100度台かもしれないな)
ナンがエルフの肩に手を乗せたままで、なおも激しさを増す氷の暴風を見つめる。そのついでに、クー博士の感想を補足した。防御障壁がなければこの轟音で聴覚がおかしくなっていただろう。
(それにこの暴風だ。普通の生物はそれこそ生気を吹き飛ばされて凍ったようなものじゃな)
暗闇の中で気がつくと、一面の氷の世界になっていた。荒れ狂う氷の暴風は無数の氷の砲弾を生み出し、病気で腐っていた森を根こそぎ砕いてしまったようだ。洪水だった大河も今では瞬間凍結されて、川面が暴風に削られている。
暗闇の中なので今は分からないが、恐らく日が差すと何もない凍結した荒野が四方の地平線のかなたまで広がるだけの風景になるだろう。
その様子を見下ろしながらナンがつぶやいた。
「前回は2ヶ月弱続いた。今回も幸運じゃったよ」
エルフがそのつぶやきを聞いて、ひどく驚く。
「これが幸運ですか」
ナンが苦笑してエルフに細い目を向けた。エルフにとっては、今の世界のどこを探しても幸運というサインは見当たらないだろう。生きて動いている物は全く見かけないのだから、当然の反応である。全て凍結して砕けてしまった。
「うむ。夏に起こったじゃろ? 嵐が過ぎ去っても、まだ冬にはならぬ。降り積もった氷雪も冬までにかなり溶けてしまうじゃろ。まぁ、その代わり世界中が大洪水になるがの」
エルフが深刻な表情に戻った。やはり幸運とは思えないらしい。少しの間それでも沈思していたが、大真面目な顔をしてナンに顔を向けた。
「十分、不幸だと思いますが。お坊様、この嵐はこのまま南下していくのですか」
ナンが機械的にうなずいた。氷の暴風の風下方向に目を向ける。
「そうじゃな。全てを凍りつかせながら、な」
エルフがそれを聞いてまた沈思していたが、やがて顔を上げてナンに再び訊ねた。
「私たちの世界でも、これが起こりえると?」
ナンはエルフとは視線を合わせずに風下を見つめたままで答えた。ナンには、この暗闇の向こうで何が起こっているのか見通すことができるかのようだ。
「さぁ、それは分からぬよ。じゃが……経験しておくことは良い事だとおもうがの。司書さん」
再び、しばらく沈思してからエルフが同意した。
「そうですね。これほどの森の末期の悲鳴は聞いたことがありませんでした。動物たちは一瞬で凍ってしまったので、ある意味楽でしたが」
ナンがそれを聞いて、悲しげな顔のままでうなずいた。風下も同じことになっているようだ。それでも、微笑みを作ってエルフに顔を向けた。
「うむ。来てくれて良かったわい。生命の樹たちによろしくな」
「はい」
小瓶を全てジャケットにしまいこんだクー博士が、元気な声でナンに呼びかけた。
(さて、帰るかね。用はすんだし)




