台北の岸辺
1000キロに渡る日本の太平洋岸とハワイや太平洋島嶼国が、数時間に渡って高さ20メートルの津波の波状攻撃を受けて壊滅してから、5日後の巨大都市台北。
ここは相変わらずの活況を誇っていた。明るい夜空にも関わらず、緑色のオーロラが空一面にたなびいているのが街の中からでも分かる。
しかし沿岸は赤潮で覆われて、さらに最近では猛毒の藻類の大発生が加わっていた。沖合いではクラゲが大発生したせいで漁獲量が皆無になり、漁船の姿は今ではもう見えない。
それ以外の作業船や輸送船の従業員も、風で舞い上がる猛毒の藻類の破片を吸い込んで中毒症状になって倒れる者が相次いでいた。今では、動いている船舶は片手で数えるほどに少ない。
沿岸は真っ黒い藻類でびっしりと覆われて、それが急速に黒カビにとって変わっていた。
クー博士の言が正しければ、この黒いカビは1種類ではなくて4種類ほどのカビの複合体であるわけだが、見た目は一様に黒いので見分けがつかない。
当然ではあるが、沿岸に住む人はいなくなっていた。ビーチも閉鎖されたままである。
人気の海鮮料理レストランは食材の確保に苦労しているようで、閉店している店も見受けられる。それでも陸上養殖と、最近では宇宙養殖が盛んになっているので、品数は減っているが何とかやりくりできているようだ。
この台北は外洋に近い島嶼なので、環境汚染の度合いは中国大陸の沿岸都市に比べるとマシのようである。
繁華街のあちこちに設置されている見上げるように巨大な画面のテレビでは、もっぱら音楽番組を延々と流しているが、中にはニュース番組を映しているものもあった。時々、画面にノイズが走る。
そこでは、日本の名古屋の高級住宅街が竜巻で削り取られて崩壊している風景が、繰り返し映し出されていた。まるで何かの映画の一場面のようだ。
その周辺に広がるスラム街での火災はまだ収まらず、被害の程度もいまだに判明していないようである。恐らくは、水も食料も尽きているだろう。
先日の台風は猛烈な雨をもたらし、洪水も起きているようである。高潮と相まって洪水の勢いが強まったのか、木造家屋や耐久性が低い鉄筋コンクリートの建物はほとんど全て洗い流されて瓦礫の山と化している。3、4階建ての建物も基礎が洪水で破壊されたのか横倒しになっていた。
ここ台北の街を道行く人たちは、当初はその非現実的な風景に驚いていた。が、今は新たな余震で台北までくるかもしれない津波に対して、敏感になっているようだった。
日本での地震はやはり3ヶ所でほぼ同時に発生しており、それぞれがM8級という情報だけが何度もテロップで流れている。この値は日本の地震観測網が機能しておらず、遠いアメリカなどでの観測値が適用されているので、実際には誤差があるかもしれない。
ただ救いだったのは、衛星網のおかげでアメリカ大陸の太平洋沿岸には、津波警報が出されてから実際の到着までに1日程度の時間があったことで、被害がある程度は抑えられたということだろうか。
しかし、海抜10メートル以下の国土しかない太平洋島嶼国では、多くの島が津波に洗い流された模様である。これも、その後の情報は入ってきていない。
その巨大な画面のある大通りの大衆レストランに、ナンの姿が見える。もう夜になり、派手なネオンがきらめく大通りは大勢の行き交う人でごった返している。
その人混みをすぐそばで観賞しながら、2人の美人がプラスチック製の安い丸テーブルに運ばれてくる様々な料理をおいしそうに食べていた。顔が似ているので姉妹なのだろう。
顔立ちは南欧系だが、箸使いもうまくこなしている。2人ともに背丈は170センチを少し上回るくらいで、漆黒の髪は軽くウェーブがかかり、彫りのやや深い顔に嫌味でない程度に絡まっている。
姉らしき女性の方は少し背が高く、髪もロングでスレンダーな体型をしている。
もう一方の妹とおぼしき女性はセミロングで姉よりも強めのウェーブが全体にかかっている。こちらは姉よりも人懐っこい雰囲気を持っているせいか、スレンダーではあるが何となく丸みが感じられる。
姉妹ともに深海の青さをたたえた瞳をしており、尋常ではない気品と威厳が備わっていた。もちろん、それは人間のもつものではない。
しかし彼女たちの座っているすぐ横に控えている、巨大なクモは一体何だろうか。何かしらの認識阻害魔法を使っているのだろう、道行く人たちやレストランの客には見えていないようであり、近づく者もいない。
おかげでそのクモのいる周辺だけは人混みに埋まっておらず、適度な空間をナンや姉妹に提供していた。
その美人姉妹は大いに注目を引いているようである。服装は周辺の中国人に合わせたさっぱりとした洋服なのであるが。男女年齢を問わずあまりに注目を浴びているので、姉妹が苦笑している。
「魔法は使っていないわよ。体質ね。あ、このクエの香草蒸し、おいしい」
そう言って、出てきた海鮮料理を次々に平らげる姉妹だ。手元には紹興酒や白酒だろうか、数種類の酒類がグラスに注がれている。
一方のナンは中国茶だけをすすって、姉妹の食べっぷりを感心した様子で眺めている。
やがて一皿をきれいに食べ終えた姉妹が、ナンの視線に気がついた。
「こんなに美味しいのに。アンデッドってバカよねぇ」
「すまぬな。イプシロンの女王さまよ。至らぬところばかりじゃよ」
ナンが恐縮した顔で頭を下げた。何となくバツが悪そうな感じで、茶をすするスピードが上がっていく。
それを見て姉妹が笑った。
「あ、ごめんね、悪気があったわけじゃないのよ。だって、普通の亜人じゃ魔力に差がありすぎて、すごく気を使うし、アンデッドは趣味が悪いしさ。魔法使いは勘違いしてるのが多いから面倒なのよねー」
そう一方の美人が言うと、横の美人もうなずいた。
それだけで、このドブの臭いすら漂ってくる繁華街の空気が、バラの芳香を持つ空気に変わって浄化された。夜でも元気に飛び回っていたハエが、瞬時に消滅したのに気づいた人がいただろうか。
「そうよね、連中の教科書じゃ悪役ですものね、私たち。魔法を使えるのは誰のおかげなのか理解できているのかしらね。お坊さんぐらいしかいないのよ。気を使わなくていい人って。あ、きたきた」
もう何皿目になったのか……感心した様子で次の大皿を運んでくるレストラン給仕人を、いち早く確認する美人姉妹だ。
今度の皿は上海蟹の山盛りだった。殻を叩き壊すためのステンレス製ハンマーと、ナプキンも付いてくる。そのハンマーを浮き浮きした顔で受け取って、早速茹で上がったばかりの蟹を叩き壊し始めた。ガシャンゴシャン、バキンという音が盛大に上がる。
工事現場と化したテーブル上を、ナンが見つめながら告げた。
「机ごと壊さないでくだされよ。その机は弱い素材でできておる故」
見る見る蟹ガラの残骸が机上に山積みになっていく中、嬉々とした表情でハンマーを振るいながら蟹を食べている姉妹が頬をふくらませた。
「分かってるわよ。この微妙な力加減が、スリルがあって楽しいんじゃないの。机とハンマーを傷めないようにしながら、蟹ガラだけを壊すのって難しいんだからね」
「あと、このお店もね。姉さん、次はマテ貝の炒め物よ」
早くも次の皿の話を始めた姉妹に、呆れたような顔をするナンであった。
それから2時間弱経って、ようやく箸を置いた姉妹が発酵薬草茶をすすって一息ついた。
「あー、おいしかった。ねえ、お代は大丈夫よね」
ナンが素直にうなずく。
「うむ。それは大丈夫じゃよ。結構な金額になっておるが、女王さまの予想範囲内じゃ」
「あら。だったら、遠慮せずに、ツバメの巣のスープをもう1回頼もうかしら」
「まだ食べるのかの?」
さすがに驚くナンに、クスクスと笑いあう姉妹である。
「冗談よ。食べる順番というものがあるでしょ。それを外したら美味しさは半減するものよ。じゃあ、次はバーに行きましょうか」
会計をナンが現金で済ましている間、姉妹が大通りに出ていく。時計やネックレスを売る屋台を物色して冷やかしていると、すぐに大勢の男たちが言い寄って来た。
しかし大グモに阻まれているせいもあるのだが、彼女たちに近づくことができないでいるので不思議がっているようだ。そのうちに、何か背筋を走るものがあったのだろう、そそくさと退散していった。
そんな連中を横目で見て、姉妹が目配せして微笑み合う。
やがてナンが姉妹のいる場所にやって来た。その姿を見て、ようやく屋台の冷やかしを止める姉妹である。そのままレストランから大通り沿いに歩いてすぐの、アイリッシュバーに入っていった。
カウンターはすでに満席だったが、姉妹が店に入った瞬間に3名の客が急用を思い出したかのような勢いでカウンター席から立ち上がって、会計をし始めた。
その空いたばかりのカウンター席に座る姉妹とナン。早速、シングルモルトウイスキーの銘柄を物色し始める。カクテル派ではないようである。
店内は薄暗いのだが、たちまち銘柄を指定して楽しげに姉妹で話し合っている。ナンは適当にタリスカーを頼んだようだ。
温暖化が進んでいるこの世界では、アイルランドも例外ではない。泥炭層が気温の上昇で消化されて変質してしまっているので、実際はさらに北のフィンランドやロシア産になっているものも多い。
混雑している店内だが、数分もすると3名にそれぞれのグラスが差し出された。それに早速口をつける姉妹。ナンは口をつけずに香りだけを楽しんでいるようだ。
たちまちショットグラスの半分ほどを飲んだ姉妹の姉と呼ばれた方が、ナンの顔を流し目で見ながら話しかけてきた。
「良いわよねー、この魔法禁止世界。私たちに触れても何ともないのよ。調整するのに苦労したでしょ」
「はぁ」
ナンが適当にうなずくと、妹がため息をついた。
「姉さん。私たちが改変した世界でしょ。あのままでは魔法場汚染がひどすぎて廃棄しないといけないほどだったんだからね。ソツクナングさんはただの管理人よ」
ナンが頭をかいて謝った。
「すまぬ。管理がうまくいかず、このような有様になってしまったわい」
姉が微笑んでナンの謝罪を聞き流す。
「いいえ。基本的に私たちは世界の基盤しか創れませんから、どうしてもバグが発生してしまうのですよ。ソツクナングさんのせいではありません。むしろ、あんな状態だった世界を、よくぞここまで生命あふれる環境に回復したものだと感心しますよ」
ナンがさらに体を縮めて恐縮する。
「もったいなくも、ありがたいお言葉じゃな。褒めてくれる人が少なくてのう、ははは」
妹も同じ言葉を口にした。
「本当にもったいないよねえ……」
もちろん、ナンの言葉とは別の意味だろう。
その時、カウンターの向こうで男女数名が騒ぎ出した。罵りあいの大声が聞こえてくる。どうやら金銭を巡るトラブルのようだ。
「うるさいなぁ」
姉妹がそろって視線を向けた。たったそれだけなのに、いきなり数名の男女が凍ったように固まって動かなくなった。当然、罵りあいの大声も出なくなる。そんな事になっているのに、他の客は気づいていないようだ。
さすがにナンがすぐに凍結状態を解除してやった。
元の生命ある状態に戻って、キョトンとしている男女。何が起きたのか理解できていないようだ。そしてバーから逃げるように出て行った。
ナンだけが彼らを見送る。姉妹は2杯目のシングルモルトを喜々として注文していた。
「女王さま、気をつけて下され。この魔法禁止世界の設定にも限度があるんじゃよ」
ナンがあえて声を潜めて姉妹にささやいた。別にそうしなくても構わないのだが。
しかし、それなりの効果はあったようである。姉妹の口がへの字に曲がった。それでも美貌には何ら影響は出ていない。
「うー、もっと強く設定できなかったの?」
姉の方がまず口を開いた。もう2杯目のシングルモルトもほとんど無くなっている。
「貴方ほどの魔力の持ち主を基準にするとだな、ワシや、この世界の住人は皆、窒息してしまうぞい」
アンデッドということだから、ナンに関しては別に窒息も何も関係はないのだが。
しかしナンがそう言うと、姉妹が機嫌を直して微笑んだ。
「もう、根性ないわね」
それから2時間余り。シングルモルトウイスキーを次々に楽しんで、最後にアルマニャックで締めた姉妹がカウンター席を立った。無言で付き添っている大グモも、読んでいた魔法書を文字通り消去して姉妹の後をついていく。食事も酒も取っていないようだが、何ともないようだ。
「これも想定内の値段だったかしら?」
姉がナンに訊ねると、ナンが微笑んだ。
「さすがに予知能力が冴えておるのう、女王さま。予算ピッタリじゃったよ」
妹の方がクスリと笑った。
「あらら。ピッタリなの? じゃあ、予知は外れたわね、姉さん。最後の饅頭屋台の分を残しておかないと」
「うー……そうね。本当にピッタリだったの?」
姉が残念がると、ナンがニコリと微笑んだ。
「そうだと思いましてな。饅頭2個分程度のお金を浮かせるように、ここの会計と交渉しておいたぞい。ほい、女王さま。饅頭代じゃ」
そう言って、ナンが硬貨数枚を姉妹に渡した。
一瞬、キョトンとした顔をした姉妹だったが、すぐに笑い出した。
特に妹には受けたようだ。バラの花吹雪がバーの中で舞いだした。さすがにどよめく客たちだが、次の瞬間には何事もなかったかのように穏やかな雰囲気に戻った。
そのバラの花が舞う雰囲気の中を、姉妹が悠然と歩いてバーを出ていく。その後ろについたナンが、バラの山で埋まったバーの床を元の状態に戻していった。
大通りには多くの屋台が軒を連ねていて、姉妹がその中の饅頭屋台を色々と物色して回っている。あれだけ食べて飲んでいるのだが足取りが軽い。きゃあきゃあと騒ぎながら、どの饅頭にしようかウロウロしている。
その姿はどうみても女王の品格ではない。ナンも大グモもそれを手持ち無沙汰気味で眺めていた。
十数分かけて選んだ饅頭を1個ずつ買った姉妹が、それを早速口にほうばりながら海岸の公園へ向かって歩いていく。立ち入り禁止の札とバリケードがあったが、姉妹が近づくと勝手に壊れて消えてしまった。
そのまま散歩するような足取りで海岸へ向かう。大グモとナンも後をついていった。防毒マスクをした警官が巡回しているのだが、彼らには認識されていない様子である。
海岸の公園には誰もいなかった。真っ黒い藻とカビがびっしりとはびこっている上、観葉植物や芝さえも枯れてしまっている。猛毒なはずなのだが姉妹一行には関係ないようで、あまり気にもしていない様子である。
公園のすぐ隣は夜の海面が広がっており、対岸の高層ビル群の夜景を水面に映して壮大な絵巻を見せていた。沖合いの海は薄くぼんやりと光っているようだ。恐らくはクラゲが発光しているのだろう。
腐敗臭もかなりしていたのだが、姉妹が近づくとなぜか消え去って清らかな空気になっていった。
同時に姉妹の歩く先にはびこっていたカビや藻、枯れ草さえも自動的に消え去って、姉妹のための清潔な歩道が出来あがっていく。
その上を姉妹が饅頭をほうばりながら気楽な足取りで進み、海岸まで出た。そこから広がる見事な夜景に目を細める。
「……今までたくさんの文明を見てきたけど、この文明はキラキラしていてお気に入りだったのよ。エルフたちや魔法使いは環境が悪くなったとか騒いでいるし、この世界でも欧州では思い切り悪者にされていたけどね」
ナンがそれを聞いて口元と目元を緩めた。
「蛇の女王じゃからなあ……」
姉妹が頬をふくらませる。もう饅頭は食べてしまったらしい。指についた饅頭の皮をなめている。
「ほんとよね、失礼しちゃうわ。ま、でも美味しいお料理もお酒も楽しめたし、こうして最後の夜景も見ることができた。お坊さん、ありがとうね」
そう言って微笑んだ姉妹の顔は、やはり女王と呼ぶにふさわしい気品と美しさに満ちたものだった。
「楽しんでくれたなら良かったわい。ワシも安堵しておるよ」
ナンも片膝を軽く曲げて礼をする。言葉使いがいま一つだが、仕方がないというところか。
姉妹も微笑んでうなずいた。
その時、夜空を覆っていた緑色のオーロラが突然発光を強めて、さらにピンク色に光りだした。それが夜空をピンク色に染めていく。
と同時に街の電気が一斉に消えた。非常灯だけが点々と灯っているだけだ。
悲鳴があがって騒然となる。近くの窓を閉め切ったレストランの席についていた若いカップルも暗くなったのに驚き、さらにスマホも通信ができなくなっているので騒いでいる。
姉妹が残念そうな表情になった。
「始まったわね」
ナンもうなずく。
「うむ」
そのやり取りを横で控えて見ていた大グモが、8つあるつぶらな目をキラリと光らせて初めて声を出した。
「コクヤングティ第1女王陛下、パロンガウホヤ第2女王陛下、発生します」
姉妹が、ため息をつく。
「そう。じゃ、帰るわね」
「うむ。女王さま、道中気をつけるんじゃぞ。酔っぱらっておるのを忘れてはいかんぞ」
ナンがそう言うと、姉妹がクスクスと笑みをこぼした。
「ふふ、転ばないように気をつけましょう。もう1回くらい来れそうかしら?」
ナンが時計を取り出し、フタを開けて時間を確認した。
「そうじゃな……もう少しだけなら余裕がある、かの」
姉妹がうなずく。それは、ナンの能力の程度を確認したということであろう。及第点は出してくれたようだ。
が、妹の方がいたずらっぽい笑顔を見せてツッコミを入れてきた。
「それ、後で調整をしなさいね。私たちが来たせいで30ほど係数や勾配が変化してるわよ」
ナンがまじめな顔でうなずいた。
「むむむ……プログラムの修正をするか」
姉がそのやりとりを聞いて微笑んだ。
「じゃあね、お坊さん。そこに隠れている魔法使いさんにもよろしく」
そう言い残して、姉妹とクモの姿がパッと消えた。
ふぅ、と息をつくナン。
少ししてから、公園入り口のほうにあったバリケードの外にいたクー博士が、マントを脱いで姿を現わした。
そのままナンのいる海岸までテクテクと歩いてくる。こちらに歩いてくるクー博士のさらに背後には、数十名の武装した半透明の人影も見えていた。
「お前さんでも疲れるかい? ナン」
「そりゃそうじゃろ。不機嫌にさせたら世界が大混乱になるぞ。下手すれば世界ごと消滅してしまうわい」
そう言って、ナンが首や肩を回した。アンデッドでも肩凝りがするのだろうか。
クー博士がキラリと赤い瞳を輝かせて肩をすくめた。
「その代わり次の瞬間、女王たちも因果律崩壊でこの世界から弾き出されて、しばらく迷子になるけどな」
不意に、ズシンと地面が大きく揺れた。縦ゆれだ。
クー博士が東の海を見る。もう仕事をする顔になっていた。
「来たか。女王の予想通り、沖縄舟形海盆が震源だな。しかし、あの姉さん……異世界の未来まで分かるのかね」
ナンも東の海を眺めた。
「イプシロンじゃからな。神と呼んでも差し支えないくらいだわい」
ナンの目が細く閉じられていく。
「……うむ、先日の同時地震が引き金になったのじゃな。恐らくは、あの同行していた大グモ殿の予知能力だ。あの種類のクモは大地と1億年余りに及ぶ深い縁があるし、力もある。あのイプシロンの女王のそばにいて何ともない程じゃからな。何よりも、あのクモ殿もこの最後の夜景を見たがっておったし。ああ今、海盆に近い島が崩れて沈んだぞい」
それから数分もすると、海が急速に沖に向かって引き始めた。ようやく都市にも警報が出たようだ。にわかに街の方角から騒ぎが湧き上がって、大きくなってきた。
クー博士がごついジャケットに両手を突っ込んで、引いていく海を興味深げに観察しながらナンに訊ねた。
「さて、そろそろ来るな。どのくらいだと思うかい? ナン」
ナンの顔に険しさがのぞいた。相当遠くまで見ることができるようだ。
「あの高層ビルと同じくらいの高さになるじゃろ。そのくらいの水の精霊場を感じるぞい」
クー博士の顔からも緊張感が表れる。しかし赤い瞳の輝きは増すばかりだ。
「そうだね。では、もう一仕事頼むよ、ナン」
ナンがうなずいた。
「ああ、空間捕縛設定、2キロ平米、因果律回避3秒。いいぞ、始めろ」
クー博士が小瓶を開けて投げる。と、瞬時に消えた。テレポートしたのだろう。
暗闇の向こうから巨大な津波が壁となって迫ってきていた。大量のクラゲが発生しているのだろう、津波自体がぼんやりと光っている。




