軌道エレベータのステーション下部
インド洋に浮かぶガン島から、天空高くそびえ立つ軌道エレベータは、この気候変動の最中にあっても、倒れることなく宇宙からの食料品や医薬品、充電した電池などを地上へ供給し続けていた。
しかし今日は、タンカーも輸送機も全く見当たらない。巨大なエレベータ施設には誰もおらず、電気も止められている。それだけでなく近くのガン島で働く人影も全く見えない。2つともまるで廃墟になってしまったかのようだ。さらに、高さ50m程度の追加の防波堤が急遽設置されて、それがガン島の沿岸をぐるりと囲んでいる。そのいかめしい防波堤が、廃墟の印象をさらに強くさせていた。巨大なタンカーを数隻も横付けできる港をその基部に持つ巨大な軌道エレベータ施設自体も、いつもとは違い、ゆらゆら動いている。まるで長周期の地震波を延々と受け続けているかのようだ。近くのガン島へ渡されていたアンカーが外されたせいで、エレベータ施設の姿勢制御が失われたせいであった。
よく見ると、施設の構造上重要な区域に1つ1立米以上もある無骨なユニットがぎっしりと詰め込まれている。近づいて見ると、タイマーがセットされていて、既にカウントダウンが始まっていた。
その軌道エレベータの上空、高度35,800キロ弱の宇宙空間には、このエレベータの本体であるステーションが浮かんでいる。静止衛星軌道上に浮かぶこのステーションは、下界の港に横付けされていた巨大タンカーを横に3隻ほど並べたほどの巨体を誇る。とはいっても、そのほとんどは倉庫なのだが。地上側の施設は完全に停電となって、その機能を停止して誰もいなくなっていたが、ここステーションは電気が今も通っていて、窓から伺える内部では多くの人が行きかっているのが分かる。
このステーションの重心にあたる場所から地球側に向かってエレベータケーブルが伸びており、反対側の宇宙側にもバランスを保つために同様のケーブルが伸びている。エレベータケーブルの形状はロープ状ではなく、非常に薄いフィルム状で、幅はステーション側が大きく、地球側が細くなっている。数は360枚あり、それらが輪になって配置されていた。輪の中心には巨大な昇降機があり、エレベータケーブルという、その薄いフィルムを、裏表からタイヤで挟んでいる。つまり、360本のケーブルを昇降機の外側に配置して動かす仕組みのエレベータのようだ。それは真上から見下ろすとちょうど花びらをつけたタンポポの花のようにも見える。ちなみにこの昇降機は1000トンの貨物を運ぶことができ、今はステーションに接続されている。明かりが全く見えないことから、現在はこの昇降機には電気が通っていないのだろう。
そのステーションから地球側へ1000キロほど降りた地点では、数十台の遠隔操作型の汎用作業ロボットが突貫工事でエレベータケーブルの切断作業をしていた。ロボットはクモのような姿の多足駆動で、クモの糸ならぬワイヤーを四方に伸ばしてエレベータケーブル本体に接続し、それを伸縮させることでかなり自由に移動できている。ロボットが忙しく作業をしているのを、そばで見ているのは、ナンと、宇宙服に身を包んだ樽のような姿の小人であった。小人の宇宙服は海に潜るダイバーのような印象だが、姿勢制御システムや空気タンク、宇宙線から身を守るための分厚い防護服に強烈な太陽光から目を守るヘルメットなどが全くない。そのくせ水中を泳ぐように自在に宇宙空間を移動できている。ナンはいつもの気楽な服装で当然肌も宇宙空間にさらしているのだが、いつもの障壁に守られているせいなのか、地上を歩くように自在に移動できている。小人の方は、障壁の展開は見られないが、代わりにオーロラのようなものを周辺に発生させている。どちらも、忙しく作業をしているクモ型ロボットの知覚センサーには全く反応しないようだ。
ロボットの作業を興味深く観察していた小人が、ナンに大声で話しかけた。別に大声でなくても無線システムなので十分にナンに伝わるため、この大声は彼の地声かもしれない。
「ほう、これが人間世界の宇宙交易路かよ。いい素材だ。魔法なしでここまで強靭な素材を実用化できたのか。うんうん」
そう言って、小人がエレベータの巨大なエレベータラインをパンパン叩く。もちろん音は発生しない。何となく嬉しそうだ。で、すぐにナンに質問をぶつけてきた。
「で、なぜ切断するのかね?坊さん。この強度なら、下の嵐ではびくともせんぞ。太陽のコロナ質量放出による爆発も終わって、オーロラも出ておらんし、電気機器への悪影響もかなり緩和されておるのだが」
ナンが苦笑する。技術屋は世情に疎いというのは本当のようだ。
「エレベータは大丈夫でも、運用する側の人間に問題が起きたようですよ。もはや社会秩序は失われましたから、宇宙からの荷を地上へ降ろして配達する仕事も無くなりました。代金の支払いが保証されませんから当然ですね。政府や軍も機能麻痺を起こしていますから、このエレベータを管理できなくなったようです。何年間も放置することになりますから、メンテの問題も生じますし、こうして基幹部分だけ残す決定が下された。とニュースで言っていましたよ」
小人が残念そうにうなって、腕組みをした。
「そうかね。まあ、確かにこの素材では宇宙線による経年劣化は避けられないからな。何年もメンテできないとあれば仕方がないか。劣化が進んでエレベータケーブルがちぎれたら、バランスを失って、このステーションも宇宙へ放り出されることになるからな。1000キロほど残すというのも、姿勢制御のバランスを維持するためだろうな。ちょっとずつ切り離していくことで姿勢制御ロケットなどの推進剤を使う手間を減らすことができるからな」
ナンはこうした機械には詳しくないのだが、とりあえずうなずいた。
「バランスといえばドワーフの技師さん。そのバランスを保つために反対側も同時に切断するそうですよ。その一連の作業のために、宇宙コロニーやら衛星やらを退避させるので大変みたいですね」
そんなことはもうドワーフと呼ばれた彼は知っているから、先ほどのセリフがあった訳だが、ナンはやはり理解できていなかったようだ。しかし、ドワーフも別にどうとも思っていないようである。そのままドワーフと呼ばれた小人が、宇宙の先へ伸びているエレベータを遠望する。1000キロ先に浮かぶステーションの向こうに広がる漆黒の宇宙空間に、確かにいくつか点のような光る物体が見える。
「ああ、遠くに浮かんでいるあの筒か。いくつもあるな。うん、賢明だな。これからの地球上では食料生産は難しいだろう。気候の振れ幅が作物栽培の適応範囲を超えるからな。苗を植えても収穫前に熱波や寒波に襲われたらおしまいだ。宇宙産が重宝される時代になるだろうな、って、そうか、もうケーブルを切るから意味ないか」
ドワーフがゴーグルに装備されていたスコープを、元の位置に収納しながらうなずいた。
「で、坊さん。この世界の人間は月に避難したんだろ?ま、重力制御ができていないようだから、苦労すると思うが」
ナンが首を少し傾けて月を眺めた。
「そうですね、ざっと見て1万人というところですか。心理状態はかなり悪いようですね、初めてですから無理もありませんが」
ドワーフ技師がニヤリと笑った。
「ふふん、魔法が使える連中には、オレたちのように魔法が使えない者の気持ちは永遠に分からんよ。逆もまたしかり、だがな」
そして、眼下に広がる地球に視線を移した。既に地球の大部分が、真っ白くて分厚い巨大な台風状の雲で覆われている。
「坊さん、あの雲の下では、この瞬間も膨大な数の人間が死んでいるのだな」
「ええ、技師さん。そう言えば、あなた方ドワーフの世界も工業社会ですよね」
ナンが訊ねると、ドワーフが大笑いを始めた。
「こいつら人間と一緒にするなよ。素材は違うが、宇宙交易路は何本もあるし、月にも届いている。火星にもあるし、今は土星衛星にも建設中だ。素材も、これより強いし自己修復機能もある」
そう、ひとしきり自慢してから、大きな目を輝かせてナンを見た。
「宇宙開発は面白いぞ、坊さん」
「はあ」
ナンの方は、あまり宇宙には関心がないようで、適当な相づちを打つ。ドワーフ技師は、なおも自慢げに話を続けている。
「エルフや魔法使いどもは、魔法に凝り固まっておるからな。地球から出ようとは考えないだろ。この地球が不変だと信じている。元世界が今こうなっているのを見てもな」
そして、急にまじめな顔になった。
「坊さんよ。この人間社会も、いい線まで来ていたが、残念だったな」
ナンは、せっせと作業を続けているロボット達の邪魔にならないように、位置を変えながら答えた。
「今回は、トカゲの尻尾切りをして、エレベータの被害を最小限に留めて、嵐が過ぎたら復旧するつもりでしょう」
「しかし、この嵐が過ぎると、世界は氷に覆われていくはずだ。復興する力があればいいが」
ドワーフの言葉には、ナンの考えにかなりの疑問があることが伺える。技師なので、工業的な復興には、膨大な努力が必要だと思っているようだ。そしてそれは真実でもある。魔法と違って、呪文を唱えればいいというモノではない。
ナンも、一応そのことは理解しているようで、静かにうなずいて、軌道エレベータを眺めた。
「しかし、そうしなければ、この社会は消滅するでしょう。最後の望みの象徴ですよ、これは」
「なるほど。最後の綱という訳か、文字通り」
そう言ってドワーフ技師もうなずいた。
エレベータケーブルの連結が爆発と共に切れた。相当強力な爆薬を使っているのだろう、視界が何度も真っ白になる。空気がないので、爆発音は一切聞こえないが、ナンやドワーフ技師の周辺が少し輝いた。相当急いでいるのか、ロボットの収納もそこそこのようだ。いくつかのロボットが爆発に巻き込まれて宇宙空間へ弾き飛ばされていった。
ドワーフ技師が腕組みをしてうなった。
「ううむ。核分裂を使った爆弾か。まあ、この強度のケーブルを一斉に切るには、手頃ではあるな」
「尻尾を切りましたね」
ナンがつぶやく。きれいに切断された面を見せながら、自由落下の加速度をつけて巨大なエレベータケーブルが落下していく。たちまち空気を押しつぶすことで発生する断熱圧縮による熱で、地球に近い側のケーブルが赤く光り始めた。その、長さ35,000キロ弱の巨大なエレベータケーブルが、インド洋に向けて明るく燃えながら落下していくのを見ながら、ドワーフ技師が腕組みをした。
「まあ、質量が大してないとはいえ、でかいからな。下の島国への被害は相当なものになるな。エレベータケーブル自体は比重が軽いし海に浮かぶだろうから、船の航路にも大きな支障がでるだろうな。ま、ステーションは無事に残ったから、その見返りはあるだろうがな。さて、仕事だ。浮遊している素材を採集するかね」
そう言って、ドワーフ技師が宇宙空間に散らばっているエレベータケーブルや作業ロボットの破片を収拾し始めた。それを見送るナンがかろうじて聞こえるような声でつぶやいた。
「見返り、か」




