謎の老婆
真っ黒で何も見えない空間。男はただただそこが、一体何処で、自分がどういう状況にあるのか分からないまま茫然としていた。
「こっちだよ、こちらにおいで」
声が聞こえた。味気なくどこか掠れた声である。声からして誰だかは解らない。恐らく自分の知らない方なのだろう。
とにかく、どうしたらいいか分からない男はその掠れた声の方向へひたすら進み続けた。するとどうだろうか、真っ暗なその空間にオレンジの灯りが燈っているではないか。すがる様な思いで男はその灯りの方向へひた走る。
「やぁ、待っていたよ」
そこにいたのは、ランプを持った老婆であった。何故このようなところに老人がいるのか。そのとき男は意に介しなかったが、この老婆は一体何者で、どうして自分を導いたのかは最後までわからなかった。
「この暗闇の中じゃ怖かっただろう。さぁ一緒においで。もう大丈夫だ」
「すみません、一つ聞いても宜しいでしょうか」
「ああ、なんだい」
「ここは一体何処なのでしょうか」
「ここかい……ここは、死後の世界の狭間みたいなところだねぇ」
「死後? 僕はこれから死ぬんですか?」
「いや、まだアンタは生きてるよ。ただ、これから生き返るかもしれないし、本当に死んじまうかもしれない」
「それは困る! 僕にはまだかわいい娘も妻もいる。それにまだ家のローン払い終えてないんだこっちは!」
「あたしゃ、知らんよそんなこと。そんなに俗世のことが気になるならこんなところにいないでさっさと行くよ」
「何処へ?」
「地獄さね」
やっぱり死ぬんじゃないか。男はその場に座り込む。
「別に行きたくないならいいんだけどねぇ……ただずっとそこにいると天使さんが迎えに来て天上に送られちまうよ」
老婆と共に行けば地獄行き。居座ってれば天使が迎えにやってくる。どちらにせよ死ぬのであれば天国のほうがいい。そのとき男は死ぬことにした。
「全く、人の話を聞きなさいな。地獄には獄門塔っていう大きい鉄塔があってね。そこの頂点は俗世と繋がっているんだよ。だからそこまで辿りつけば、家族に会えるかもねぇ……」
不気味な笑みを浮かべつつ老婆は言った。しかし、それは何だか自分を地獄へ落とそうとする誰かの陰謀のような気がしてにわかには信じられぬことであった。それに地獄とか死後の世界とか、あまりにも現実味が薄く、尚且つ胡散臭い。果たしてこんな婆の言うことをいちいち真に受けていて良いのだろうか。男は少し考え込みある一つの結果を出した。
「夢だ。これは夢なんだ。死後の世界とかあるわけないじゃないか、馬鹿馬鹿しい」
もう、あれこれ考えるのも阿呆らしくなった。男は開き直り老婆に尋ねる。
「地獄とはどんな場所なんだ?」
「行ったことがないから、よく解らないねぇ」
「ああそうかい。聞いたこっちが馬鹿だったよ。じゃあ婆さん、地獄とやらまで案内してくれや」
「くひひ……じゃあついておいで」
会話にならない会話。鳴らない電話が前に置いてあり、それは地獄とのホットラインだという。一体、何の話だ。男は老婆の持つ灯りに導かれ地獄を目指した。生への壮絶な旅への始まりであった。