光の方へ
一
カーテンを閉めると、昼でも部屋が夜になる。
倉田悠はそのことを、祖父が死んでから初めて知った。それまでは朝になれば自然に起き上がり、カーテンを開け、光の中に一日を始めていた。だが今は違う。朝が来ても体は動かない。光が怖い、というより、光の中に出ていくことが怖い。光の中には人がいて、人はいつか死ぬからだ。
祖父が死んだのは、五月の終わりだった。
盲腸だった。盲腸で死ぬ人間がいるということを、悠はそのとき初めて知った。救急車で運ばれて、手術室に入って、それきり帰ってこなかった。医師の説明によれば、腹膜炎を併発したのだという。処置が遅れた、と母は泣いていた。
葬儀のとき、悠は棺の中の祖父を見た。
それが、すべての始まりだった。
棺の中の祖父は、祖父ではなかった。顔の形は同じだ。皺の刻まれ方も、白髪の生え際も、間違いなく祖父のものだ。なのに、それは祖父ではなかった。何かが抜けていた。正確に言えば、何かが抜けた後の、祖父に似た何かが、そこに横たわっていた。
蝋人形だ、と悠は思った。
その瞬間から、その言葉が頭を離れない。
人は死ぬと蝋人形になる。
動かなくなるだけではない。笑いもしないし、怒りもしないし、悠の名前を呼びもしない。ただ横たわって、ゆっくりと冷えていく。生きていた頃の面影をそのまま残しながら、完全に別の何かになってしまう。
その事実が、怖かった。
祖父が怖いのではない。死そのものが怖いのでもない。あの「変貌」が怖かった。人がそうなるという事実が、頭から離れなかった。父も母も、友人も、先生も、そしていつか自分も、あの蝋人形になる。それは確実なことで、誰も止められないことで、それなのに誰も怖がっていないように見えることが、悠には理解できなかった。
学校へ行けなくなったのは、六月の初めだった。
理由は上手く説明できなかった。怖い、と母に言ったら、何が怖いの、と聞かれた。うまく言えなかった。蝋人形、と言ったら、母の顔が歪んだ。それ以来、その言葉は口にしないようにしていた。
七月になっても、部屋にいた。
カーテンを閉めた部屋で、天井を見ていた。天井には何もない。だからこそ、天井を見ていた。何もないところを見ていると、少しだけ考えが止まる気がした。
二
日向葵が初めて来たのは、七月の中旬だった。
インターホンが鳴って、母が出て、しばらくして部屋のドアをノックされた。
「悠、お友達が来てるよ」
友達という言葉に、悠は少し驚いた。今の自分に友達が来るとは思っていなかった。
「誰」
「日向さんって子。一個上の先輩らしいじゃない? 図書委員会のつながりって言ってたわ」
日向葵のことは知っていた。同じ中学の三年生で、学年を問わず顔が広く、廊下を歩くだけで空気が明るくなるような人だった。悠と直接話したことは、ほとんどなかった。図書室で一度、隣の席になって、少し話した程度だ。
なぜ日向先輩が来るのか、分からなかった。
「会いたくない」と悠は言った。
「そう言うと思って」と母は言った。
「でも、玄関で待ってるって言って聞かないの」
しばらく黙っていた。天井を見た。何もなかった。
仕方なく、悠は起き上がった。
玄関を開けると、日向葵が立っていた。制服ではなく、白いワンピースに麦わら帽子。夏休み前の、平日の昼間だった。彼女は悠の顔を見るなり、「やあ」と言って、あっけらかんと笑った。
「久しぶり」
「……なんで来たんですか?」
「会いに来たんだよ?」
「だから、なんで」
「なんとなく」
なんとなく、という言葉の軽さに、悠は少し呆れた。自分が引きこもっていることを、彼女は知っているのだろうか。知った上で来たのだろうか。
「明日、暇?」
と葵は言った。
「暇かどうかは関係ないです」
「関係あるよ。暇なら一緒に来てほしいから」
「どこに?」
「商店街」
悠はしばらく葵の顔を見た。屈託がなかった。困っている様子も、気を遣っている様子も、ない。ただ商店街に行きたいから一緒に来てほしい、それだけを真顔で言っていた。
「行きません」
「なんで」
「外、出たくないので」
「なんで」
なんで、と聞かれると困った。蝋人形、とは言えなかった。
「……怖いから」
葵はその言葉を聞いて、少し首を傾けた。怖い、という言葉を笑わなかった。だからといって深く掘り下げもしなかった。ただ、「そっか」と言って、「じゃあ明日の十時に来るね」と言った。
「来ても開けません」
「開けなくていいよ。玄関の前で待ってるから」
そう言って、葵は帰った。
悠は玄関に立ったまま、しばらく動けなかった。
三
翌日の十時ちょうどに、インターホンが鳴った。
悠は布団の中にいた。出ないつもりだった。だが十分経っても、二十分経っても、インターホンは鳴らなかった。葵が帰ったのかと思って、こっそり窓の隙間からカーテンを開けて外を見ると、玄関の前に葵が立っていた。麦わら帽子をかぶって、スマートフォンを見ながら、ただ立っていた。
待っている、という感じではなかった。そこにいる、という感じだった。
悠は三十分ほど葵を見ていた。葵は動かなかった。暑いはずなのに、帰る気配もなかった。
悠はため息をついて、着替えた。
玄関を開けると、葵は振り返って「来た」と言った。責める口調ではなかった。ただ来た、という事実を確認しただけのような声だった。
「三十分待ってましたよ」
「知ってる」
「帰ればよかったのに」
「待つって言ったから」
それだけ言って、葵は歩き始めた。悠は少し遅れてついていった。
外は明るかった。七月の日差しが容赦なく降り注いでいて、悠は少し目を細めた。一ヶ月以上、まともに外の光を浴びていなかった。光が皮膚に当たる感覚が、少し痛いような気がした。
商店街は、自転車で十分ほどのところにあった。
アーケードの下に入ると、急に空気が変わった。日差しが遮られて、代わりに人の声と、食べ物の匂いと、陳列された商品の色が、一度に押し寄せてきた。
八百屋のおじさんが大声で値段を叫んでいた。魚屋の前に主婦が二人立って、何かを相談していた。駄菓子屋の前に小学生が群がっていた。総菜屋の揚げ油の匂いが、アーケード全体に漂っていた。
悠は立ち止まった。
多すぎる、と思った。音も、匂いも、人も。一ヶ月以上部屋にいた体には、この密度が重かった。
「大丈夫?」と葵が振り返った。
「……少し、待ってください」
悠はアーケードの柱に背中をつけて、ゆっくり呼吸した。葵は急かさなかった。隣に並んで、商店街の奥を眺めていた。
しばらくして、悠は歩き始めた。
四
商店街の中ほどに、古い花屋があった。
葵が吸い寄せられるように入っていくので、悠もついていった。狭い店内に、色とりどりの花が並んでいた。百合、向日葵、ガーベラ、名前の分からない花がいくつも。水の匂いと、花の甘い匂いが混ざって、独特の空気が店内に満ちていた。
葵は向日葵の前で立ち止まった。
「好きなんですか、花」
「好きというか。見ると元気になる」
「なんで? どうせ枯れるのに」
「浪漫がないねぇ。今、この瞬間生きてるからいいんでしょ? 花は咲き誇り、枯れていき、次代に託していく。そういうものだから」
悠はその言葉を聞いて、少し止まった。
生きてるから。
「花も死ぬじゃないですか」
思ったより早く、その言葉が出た。
「これは切り花だから、すぐに死ぬね」
「それでも好きなんですか」
「うん」
「なんで」
葵は向日葵を一本手に取って、しばらく眺めた。
「だから……今、咲いてるからなんだよ。」
悠は黙った。
「今咲いてることと、いつか死ぬことは、別の話じゃない?」
葵はそう言って、悠を見た。責めているのではなかった。ただ、そう思っている、というだけの顔だった。
悠は何も言えなかった。
その言葉が、胸の中に落ちた。落ちて、そこで止まった。すぐには意味が開かなかった。でも何かが、確かに刺さった。
葵は向日葵を一本買って、店を出た。悠はその後ろをついて歩きながら、さっきの言葉を何度も繰り返した。
今咲いてることと、いつか死ぬことは、別の話。
祖父の棺を思い出した。蝋人形になった祖父の顔を。でも今度は、その前のことも思い出した。祖父が生きていた頃のことを。縁側で将棋を指した夏の午後。誕生日に手打ち蕎麦を作ってくれた、不格好な蕎麦の味。笑うと目が細くなって、顔中に皺が寄った。
あの人は、生きていた。
確かに、生きていた。
鬱陶しい先輩のおかげで気がつけた。その事実は癪だが、得たものは大きい気がした。
五
商店街を出て、帰り道を歩いた。
葵は向日葵を肩に担いで、鼻歌を歌いながら歩いた。悠はその隣を、少し遅れてついていった。
途中、自動販売機の前で葵が立ち止まって、「何がいい」と訊いた。
「いいです」
「奢るよ」
「優しすぎです。舐められますよ?」
「来てくれたから」
悠はしばらく迷って、「じゃあ、麦茶」と言った。葵はコインを入れて、麦茶を二本取り出して、一本を悠に渡した。
二人は縁石に腰を下ろして、麦茶を飲んだ。
「先輩
「うん」
「さっきの、花屋で言ってたこと」
「うん」
「あれ、誰かに言われたんですか」
葵は少し考えた。
「おばあちゃん」
「去年死んだんだけど」
あっけらかんとした口調だった。でも、一瞬だけ、目が遠くなった。
「入院してたとき、病室に花を持っていったら、そう言ってた。切り花はすぐ死ぬのに持ってきてくれたの、って言ったら、今咲いてるんだからいいじゃない、って」
悠は葵の横顔を見た。
「不躾ですが……悲しくなかったんですか」
「悲しかったよ? めちゃくちゃ泣いた」
「でも、怖くなかったんですか」
葵は悠を見た。
「怖かった。今も少し怖い」
「じゃあ、なんで」
葵はしばらく麦茶の缶を見ていた。
「おばあちゃんが死んだとき、おばあちゃんが生きてたことは消えないじゃん、って思った。死んだからって、一緒に食べたごはんの味が消えるわけじゃないし、教えてもらったこととか、笑った顔とか、全部残ってるじゃん。だから」
葵は缶を傾けて、残りを飲み干した。
「死ぬことより、生きてることのほうが、多分ずっと長い話だと思う」
悠は何も言わなかった。
ただ、目の奥が熱くなった。
泣くのを堪えた。泣いたら負けだと思ったわけではない。ただ、この感覚をもう少し自分の中に留めておきたかった。
蝋人形のことを考えた。棺の中の祖父のことを考えた。あれは確かに怖かった。今も怖い。でも、あの怖さは何かを失った怖さだ、と悠はその瞬間に気づいた。祖父がいなくなることへの怖さ。もう声が聞けない、もう笑顔が見られないという怖さ。それは恐怖ではなく、喪失だった。
そして喪失は、何かがあったことの証明だった。
将棋の午後。不格好な蕎麦。目が細くなる笑顔。
それは消えていない。
六
家の前まで戻ってきたとき、葵が向日葵を差し出した。
「これ」
「え」
「あげる。部屋に飾りな?」
「カーテン閉めてても、花は咲くから」
悠は向日葵を受け取った。茎が太くて、思ったより重かった。花びらが顔の近くに来て、かすかな青臭い匂いがした。
「ありがとうございました」
「また来ていい?」
「……来ても、すぐ開けないかもしれないです」
「引きこもりは変わらずか……」
笑っていた。
「待つのは慣れてるから、徐々に図書館に来てくれたらいいな。入り口の花壇、私が手入れしてるから……その手伝いをしてもらいたいところではあるかも。
じゃあね」
葵は手を振って、帰っていった。
悠は玄関の前に立って、向日葵を持ったまま、しばらく空を見た。
七月の空は青かった。雲が一つ、ゆっくり動いていた。
部屋に戻って、カーテンを開けた。
久しぶりに光が入ってきた。埃が光の中に舞って、部屋がやけに明るく見えた。花瓶を探して、台所から持ってきて、向日葵を一本挿した。
窓際に置いた。
向日葵は、光の方を向いていた。
悠はその花を、しばらく眺めた。今咲いている。いつか枯れる。でもそれは別の話だ。
祖父のことを思った。今度は棺の中ではなく、縁側の祖父を思った。将棋の駒を並べながら、「悠、こっちへ来い」と手招きする祖父を。あの声は、今も耳の中にある。
消えていない。
悠は窓の外を見た。夏の光が、通りを白く照らしていた。自転車が一台、通り過ぎた。遠くで子どもの声がした。
世界は動いていた。
自分もその中にいる、と悠は思った。怖いことは変わらない。蝋人形のことも、まだ頭の隅にある。でも、それよりも先に、今日葵と歩いた商店街のことを思い出した。揚げ油の匂い。向日葵の青臭さ。麦茶の苦み。縁石に並んで座った、夏の午後。
生きている、ということの手触りが、指の先にあった。
悠はカーテンを開けたまま、向日葵の前に座った。
窓の外で、風が吹いた。
了
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