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大人は全速力で走らない

 大人になると、足の速さは長所ではなくなるらしい。

 子どものころは、それだけで少しだけ誇らしかった。運動会では役に立ったし、クラスでも『速い奴』として目立っていた。


 けれど社会に出てから、足の速さを褒められたことは一度もない。


 代わりに求められるのは、主体性とか、責任感とか、時間管理とか、そういうものばかりだ。

 そして残念なことに、私はそのどれも得意ではない。


 仕事は遅い。

 説明も下手だ。

 気の利いたことも言えない。


 準備にはやたら時間がかかるし、会議では何を言えばいいのか分からず、結局ほとんど黙っている。

 子どものころ、クラスで一番速く走れたことなんて、今の仕事には一ミリも関係がない。

 もし会社が徒競走で評価してくれる場所だったなら、私はもう少し胸を張って働けただろう。


 気づけば、何年も全速力で走っていなかった。

 大人になると、全力で走る機会は驚くほど減るようだ。


 理由があれば、私はまた全力で走るのだろうか?


 その日も、残業のあと一人で夜道を歩いていた。


 街灯はまばらで、住宅街の道は妙に静かだ。

 遠くで犬が一度だけ吠え、すぐにまた静けさが戻る。


 ふと前を見ると、道路の真ん中に何かが立っていた。


 最初は人影かと思った。

 だが近づくにつれて、少し様子がおかしいことに気づく。


 背が低い。

 頭がやけに大きい。

 体が細い。

 そして、街灯の下でじっとこちらを見ている。


 ……宇宙人だった。

 

 私は立ち止まった。

 宇宙人も、こちらを見ている。


 数秒、沈黙が続いた。


 そして宇宙人が、こちらに一歩近づいた。


 その瞬間――


 私は走った。


 全速力で。


 何年ぶりだろう。

 心臓がうるさい。

 息がすぐに苦しくなる。

 足が地面を蹴るたび、靴底が乾いた音を立てた。


 大人になると、全速力で走る機会はほとんどない。

 けれどどうやら、宇宙人に追いかけられる時だけは別らしい。


 小学生のころは、よく走っていた。


 昼休み。

 校庭。

 鬼ごっこ。


「逃げろー!」


 そんな声が飛び交って、みんなで砂ぼこりを立てながら走り回っていた。


 あの頃は、全速力で走ることに理由なんていらなかった。


 息が切れるまで走って、また走った。


 私はちらりと後ろを振り返った。

 宇宙人が追いかけてきていた。


 私は必死に走る。

 まるで鬼ごっこだ。


 私はあの遊びが得意だった。

 ほとんど捕まったことがなかった。


 鬼に追われると、私はわざとスピードを落とした。

 わざと距離を詰めさせて、そこから一気に引き離す。

 自分の足の速さを見せつけるように。


「お前なんかに捕まるわけないだろ、ばーか」


 そんなふうに煽って、また逃げる。

 今思えば、ずいぶん性格の悪い遊び方だった。


 でも、あの頃の私は本気で思っていた。

 自分は捕まらない、と。

 自分は何でもできる、と。


 ――今の私はどうだろう。


 会社では仕事が遅い。

 上司には何も言えない。


 鬼ごっこでは無敵だった足も、社会に出てからは一度も役に立ったことがない。


 息を切らしながら、私は思った。


 いつからこんなダサい人間になったんだろう。


 私はダサくなかった。

 私は無敵だった。

 私はカッコよかった。


 あの頃は、俺が一番だった。

 

 俺は走りながら、後ろを振り返る。

 宇宙人がこちらを追ってきている。


 スピードを緩め、必死に追いかける宇宙人に言ってやった。


「お前なんかに捕まるわけないだろ、ばーか」


 大人になると、足の速さは長所ではなくなる。

 だが少なくとも今だけは、足の速さは最高の才能だった。


   ◇

 宇宙では、足の速さは重要な能力だった。


 少なくとも、生命体を捕獲する任務においては。


 生命体は、よく逃げる。

 危険を察知すると、すぐに走る。

 そして走り出した生命体を捕まえるには、それ以上の速度が必要になる。


 だから偵察員の訓練では、まず走らされる。


 走る。

 ひたすら走る。

 地反吐を吐いても走る。


 速い者は優秀な偵察員になる。

 遅い者は――別の部署へ回される。


 そして残念なことに、私はその『遅い者』の方だった。


 訓練ではいつも最後尾。

 同期の連中にはよく笑われた。


「お前、本当に偵察員か?」


 そして、私は地球へ派遣された。

 優秀な者は、もっと重要な星へ送られる。

 地球は、簡単な任務とされていた。


 原始的な文明。

 低い技術水準。


 この任務に失敗すれば、私は左遷する。

 

 そして今、私は走っている。


 全速力で。


 目の前を逃げる地球人を、必死に追いかけながら。


 地球人は振り返ると笑いながら言った。


「お前なんかに捕まるわけないだろ、ばーか」


 私はその言葉を聞いても、特に何も思わなかった。


 昔からそうだ。

 訓練でも、競争でも、私はよく負けた。


 同期の連中にもよく言われた。

 

「お前には無理だ」


 だから、引き離されることに慣れている。

 捕まらないなら、それでも仕方がない。


 私は速度を落とした。

 ……どうせ捕まらない。


 すると、目の前の地球人はまた振り返る。

 そして笑う。楽しそうに。


「ほら、来いよ!」


 ……なんなんだこいつは。

 どうして、あんな顔で走れるんだ。


 走ることは、辛くて、苦しいことのはずだろ。


 私は走りながら、ふと昔のことを思い出した。

 幼体だったころ。


 偵察員ごっこをしていた。

 

 捕まえられないように必死に逃げる者。

 それを全力で追いかける者。


 偵察員に憧れていた私は、いつも追う側だった。


 いつか本物の偵察員になって――

 どんな相手でも捕まえられる存在になる。


 それが、あの頃の夢だった。

 走るのは楽しかった。

 ただそれだけで、胸が熱くなった。


 楽しそうに走る地球人は、あの頃の私と同じ目をしていた。


 私は、止めそうになった足を再び加速させる。

 次の一歩が、少しだけ速くなった。


 走ることが好きだった。

 私も、この地球人のような顔をして走っていたことがあったはずだ。


 引き離されるたびに、地球人は距離を縮めて振り返る。

 まるで、俺をどこまでも引き上げるように。


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