【全年齢版】ニコ・ドーキンの幸せな午後
ムーンライトノベルズに投稿した作品の全年齢版です。
よく晴れた昼。
公園のベンチに腰掛けているニコ・ドーキンは今まさにサンドイッチにかぶりつこうとしていた。
前から一度食べてみたいと思っていた、職場の前にあるパン屋の名物サンドイッチだ。
サクサクに揚げられたカツと、惜しげもなく挟まれた瑞々しいレタスがなんとも食欲をそそる。
いつも昼時は長蛇の列ができているが、今日は昼休憩のタイミングが早かったからか店内は比較的空いていてゲットすることが出来た。
「いただきま」
念願のサンドイッチ、口はもう迎える準備ができていた。
が、直前でそれは奪われた。
「ぎゃっ!?」
一瞬何が起こったか分からなかったが、視線を上げると大きな鳥が翼を大きく広げて飛び立っていくのが見えた。その脚にはサンドイッチのパンがしっかりぶら下がっている。
唖然としながらニコは自分の膝上を見た。
「……嘘でしょ」
スラックスの上に、鳥が持ち去ったパン一枚以外が無惨にぶちまけられていた。
カツ、レタス、パンにたっぷり塗られた特製ソース。
ニコはしばしサンドイッチだったものを眺めるしかできなかった。
もう元には戻らないとわかっていても、しばしニコは動けなかった。
こういうところが小さい時から変わらない自分のダメなところだ。
飲み物をこぼしてしまった時も、高い花瓶を落として割ってしまった時も、現実に驚いてしまってしばらく動けなくなる。「見てないで布巾持ってきなさい!」
そう母や先生に怒鳴られてようやく自分のすべきことを思い出すのだ。
年を重ねるにつれてある程度は咄嗟に動けるようになったけれど、こうしてたまにアクシデントに固まってしまう。
「あいつ、唯一の楽しみを奪いやがって」
ようやく現実を受け止め始めて、ニコは膝上に散らばったサンドイッチの残骸を集めて袋に入れた。
それにしても、果敢に人間に挑んだわりに奪えたのはパン一枚とは、あいつも情けないものだ。
メインのカツもレタスも置き去りにしていった鳥に、少しだけざまあみろという気持ちが湧いてきた。
「はぁ、午後もあるのにパンツ汚れちゃった」
せめて膝上にランチョンマットを敷いていればよかったのだが、今日に限って持ってきておらず、特製ソースが膝上に散っている。
特製ソースがたっぷりだったことが今だけは恨めしかった。
シミにならないうちに早く洗い落とさなければならなかったのに、ショックでモタモタしていたからもう取り返しが付かなそうだ。
「どうぞ」
目の前にハンカチが差し出された。
濡らして軽く絞ったのか、紺色のそれからは少し水が滴っていた。
「あ……」
ニコが顔を上げると、そこにいたのはノア・シンクレアだった。
ニコが事務をやっている騎士団の騎士で、ニコも何度か顔を見たことがあった。
ノアが入団した時、それは騒ぎになった。
騎士養成学校を主席で卒業したというだけで十分話題になったのに、ノアは容姿も整っていた。すらっとした背格好に通った鼻筋、揃った歯、切れ長な目、整髪料できっちりまとめられたゆるくウェーブしたブロンド。
女性陣が色めきだったことは言うまでもない。
ニコも年頃の女性として胸が踊らなかったといえば嘘になるが、所詮自分には関わりのない人種だろうとすぐに冷めた。
同い年というのにどうしてこうも違うのか。
ちなみにノアが自分と同じ25歳だと知っているのは、事務員という職権を濫用したわけでなく、ノアが同い年の会に参加したと風の噂で聞いたからだ。
風の噂で聞いたというのは、ニコはその会に参加していないからだ。
そもそも同い年の会が開催されたのも後で知った。
誘われても行ったか分からないけど、声くらいかけてくれても良かったのに。
苦い気持ちを思い出していたニコは、差し出されたままのハンカチを見てハッとした。
「ど、どうも」
慌ててハンカチを受け取る。
目の前のことからどれくらいの間意識が飛んでいたか分からない。
ノアの反応を見たかったが、今まで遠くから数回しか見たことのない整った顔をなかなか見上げることができなかった。
ノアは何も言わないから、多分そんなに長い時間ハンカチを持つ手を待たせたわけではないだろう。
ニコは受け取った濡れたハンカチで膝上を拭った。
シミは取れないだろうけど、少しくらいはマシになるはずだ。
「すみません、助かりました。あの、このハンカチは洗って」
「その必要はありません。そちらで捨ててもらって構いませんから。それとこれを」
言い切る前にぶった斬ってきたノアにニコは眉をひそめた。
しかし、差し出された紙袋をみてニコはきょとんとした。
「これは?」
「僕はもう一つあるので」
そういって紙袋をニコに押し付け、ノアはその場を去ってしまった。
「なんなのよ。あ……」
去っていくノアを目で見送ったニコは押し付けられた紙袋の中身をのぞいた。
紙袋に入っていたのは、先ほど鳥のせいでニコが食いっぱぐれた名物サンドイッチだった。
昼休憩から戻ったニコは、シミが残ったスラックスをあまり人に見られないよう、そそくさと自分のデスクについた。
それにしてもあのサンドイッチは本当に美味しかった。
食べる時にノアに対して一抹の罪悪感はあったものの、それはすぐに吹き飛んだ。
サクサクなカツとパリパリなレタス、酸味のあるソースにやわらかく香り高いパン。
あんなに美味しいサンドイッチを食べたのは初めてだった。
改めてノアに感謝しなければとニコは思った。
同時に、同僚と言っていいのかも分からないし、多分自分のことを知らない相手にわざわざお礼をするべきなのか否か、ニコは頭を抱えた。
それに鳥に昼食を奪われるまぬけなシーンの一部始終を見られたであろうことを思うと、今更ながら顔が赤くなってくる。
とりあえずハンカチは洗って返そう。ノアは捨てていいと言っていたけど、見るからに高そうなハンカチをおいそれと捨てるわけにはいかない。
「あらやだ、この辺なにか匂わない?ってやだ、ドーキンさんパンツがシミだらけじゃない!」
事務所内に甲高い声が響き渡る。
厄介なやつに見つかった。ニコは内心ため息をついた。
わざわざ周りに聞かせるみたいに大声を出すなんて、いい性格をしている。
「ソースつけちゃって。すみません、そんなに匂いますか」
「それはもう、どこのパン屋のサンドイッチなのかわかるくらいには」
同期で同い年のアンナ・ハリスは、長い黒髪を片手で払って座っているニコを見下ろしていた。ニコも黒髪だが、ここまで艶やかではなかった。右手の薬指にはこれみよがしにシルバーのシンプルな指輪が光っている。
丈の短いスカートにきらびやかなメイク。
毎日隙なく身なりを整えているところは感心せざるを得ない。
同い年の会を開催したのは彼女だ。
ニコの他にも何人か会に参加していない人もいたが、もれなく周りから爪弾きにされているような人たちだった。
つまり彼女にとってのニコも邪魔者なのだ。
こっちだって関わるのは願い下げだ、とニコは思う。
「消臭スプレー貸してあげます。これ本当によく効くんですよ」
「あ、ありがとうございます」
内心嫌味を言っていたので、思いがけず親切にされてニコは若干罪悪感にさらされた。
ありがたくスプレーを吹きつければ、本当に匂いがマシになった。
「……ありがとう、ハリスさん」
「いいのよこれくらい。それよりドーキンさん、絵が得意って言ってましたよね?」
「はい?」
急に話が変わってニコは動揺した。
絵が得意?
「ほら、趣味は読書と絵を描くことって言ってたじゃない」
「え?あ、ああ……」
そう言われてみれば、はるか昔の新人歓迎会の自己紹介の時に、そんなことを言った気がする。
趣味が読書じゃありきたりでつまらないから、絵を描くことも付け加えてみたという、今考えれば初々しいエピソードだ。別に絵を付け加えたところで何も変わらないから読書だけで良かったのにと今なら思う。
「あれは別に趣味として言っただけで得意というわけでは」
「でも絵は描くんですよね?じゃあ適任だわ」
「さっきから何の話ですか」
「今度騎士団で子供向けの交流日があるでしょう。あれのポスターをドーキンさんにお願いしたらいいんじゃないかと思って」
「え、そんな困ります。大体広報部の仕事じゃ」
「広報部は人が足りないみたいなの。大丈夫よ、軽く絵を描くくらいでいいんだから」
7年前に言ったことを引っ張り出されるとは。
実際ニコは絵が下手なわけではなかったが、得意というわけでもない。
軽くというのならそっちが描いてくれればいいのに。
どうにかして回避しようと思考を巡らせたが、どうやっても押し付けられてしまうとどこかではわかっていた。
「もっと向いている人がいると思います。それに今持ってる仕事だけで手一杯ですし」
「何の話だ?」
「部長……」
近くにいた部長が声をかけてきたとき、ニコは一瞬助け舟を出してくれると期待した。
「部長!今度の交流日のポスター、ドーキンさんがやったらいいと思いませんか?」
「ああ、あれか。いいじゃないか」
「ですが、本当に絵が得意というわけでは……」
「騎士団の広報誌に絵を描いたことがあっただろう。あれはすごく良かった」
ニコが広報部にいたとき、広報誌作成に携わっていた。
小さい挿絵だったので誰も目を止めることはないだろうと思っていたが、こうして褒められると素直に嬉しかった。
「あ、ありがとうございます」
「じゃあ決まりね!イベントは二ヶ月後だけど、なるべく早く仕上げてもらえると助かるわ」
「それと、総務部からも一つ催し物を出さなければならないんだが、それも考えてみてくれないか」
「え!そんな」
まだ絵を描くことも了承してないというのに、催し物まで任されてはたまったものではない。
「君ならいいアイデアを出せると思うんだ。他の仕事は私に回してくれていいから、頼まれてくれないか?」
部長はニコが入社してからずっとお世話になっている上司だった。
仕事を一から教えてくれたのも、ミスをしたとき助けてくれたのもこの部長だ。
ニコが部署移動で総務部から広報部に配属になっても、何かと気にかけてくれた。
3年前に再び総務部に戻ってきたときは、また部長のもとで働けることが嬉しかった。
アンナに言われただけでは仕事を押し付けられているとしか思えなかったが、部長に頼まれたとあっては断ることもできない。
「私でよければ……」
「ありがとう、ニコ君。何かあれば私も手伝うから遠慮なく言ってくれ」
面倒なことになった。しかし引き受けてしまったからにはやらなくてはいけない。
大きくため息をつきたいのをこらえながら、ニコは午後の仕事に戻った。
休日、ニコは市を訪れていた。
週末に開かれる市では、各地の行商人が構える出店のほかにのど自慢大会や制作体験などの催し物もある。
交流日の総務部の催し物のアイデアを探しに来たのだった。
ポスターを描こうにも、交流日の内容を把握しないことには始まらないと考え、ニコは仕事を任されてからすぐに各部署を回り、催し物で何をするのか聞き込みをした。
「広報部は展示で音楽隊はミニコンサート、騎士の人たちは軽食の出店……」
他部署と被らないかつ、子供が楽しんでくれる内容。
もう何年も前に子供じゃなくなった身としては考えるのが難しい。
自分が子供の頃、色々企画して楽しませてくれた大人たちに尊敬の念が湧いてくる。
そしてやるからには子供達に楽しんでもらいたい。
小さな使命感を持ちながら、賑やかな市を進んでいく。
こうして市に来ること自体数年ぶりで、ニコは懐かしさを感じた。
射的や紙芝居、アンティーク売り、自分が子供の頃と同じような内容だ。
「今も昔もあまり変わらないのね」
そう難しく考えなくても、他部署と被らないものを何かパクればいいじゃないか。
そう考えていた時、ニコを追い越して行った小さい男の子が手に持っているものが目に入った。
「あれは……」
男の子が手に持っていたのは本のように折り目のついた厚紙で、色とりどりのスタンプが並んでいる。
男の子はおもちゃの出店で小さなブリキの車を買うと、店先に置いてあったスタンプを手に持っていた厚紙に押して、再び元気に駆け出して行った。
気になったニコはおもちゃの出店の店主に声をかけた。
「すみません、このスタンプは?」
「ああ、スタンプラリーだよ。7個集めればお菓子が貰える」
「なるほど、スタンプラリー」
「なんだ、お嬢さんもやりたいのかい?子供向けだが年齢制限はなかったはずだ」
店主のおじさんは笑いながらスタンプラリーの台紙をニコに渡してくれた。
「そんなつもりは!いえ、その……ありがとうございます」
スタンプラリーをねだったと思われて顔が熱い。
が、思いがけず得たアイデアを前にちっぽけな羞恥心など取えるに足らない。
「どこの店にもスタンプが置いてあるだろ?何か一つでも買えば押せるから」
「……じゃあ、このオルゴールを一つ頂きますね」
親切に教えてくれたおじさんに感謝して、ニコは箱形のオルゴールを手に取った。
白い木に銀の花模様が箔押しされた蓋を開ければ、老若男女問わず口ずさめる童謡が流れる。
「おう、まいどあり」
ニコは台紙にスタンプを押すと、もう一度おじさんに礼をしてその場を去った。
「スタンプラリーね……」
ニコはいくつか出店を回った。
砂糖菓子や串焼きの店、アクセサリーショップ。お金がなかった子供の頃と違って、自分で稼ぐ今はこれくらいの出費なんともない。そのことに成長を感じる。
気づけばあとひとつのスタンプでお菓子がもらえるところまで行った。
アイデア探しのつもりが、いつの間にか普通に楽しんでしまっていた。
軽く咳払いして、最後のスタンプはどこの店にしようかニコはあたりを見まわす。
すると、人混みの向こうに見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「あ……」
ゆるくウェーブしたブロンドとすらっとした体躯。
道ゆく先で女性たちが顔を赤らめて振り返り、自然と道が開けてゆく。
ノア・シンクレアだ。
ニコは咄嗟に肩にかけていたバックに手を伸ばした。
花柄の可愛らしい紙袋を取り出す。
中にはあの日ノアが貸してくれたハンカチが丁寧に折りたたまれて入っている。
いつ返そうかと考えあぐねて、いまだに返せていなかった。
職場で返そうにもわざわざ騎士の訓練場まで行くのはハードルが高かったし、誰かに見られるのも嫌だった。
とすれば、今ここで偶然を装ってしれっと返すのが最適解のような気がしてきた。
装うも何も普通に偶然ではあるのだが。
別にやましいことはないのだ。
幸い?にも向こうは一人で、白を基調とした騎士服を着ている。市の見回りだろう。
仕事の邪魔はしないように、最低限の接触でハンカチを返す。
頭の中で軽くシミュレーションしてから、ニコはノアを追いかけた。
「あ、あの!そこの騎士の方!」
言ってからこの呼び止め方はなんだと自分で突っ込んだが、騎士の方はちゃんと気づいて足を止めてくれた。
「私ですか」
振り返った彼はやはりノア・シンクレアだった。
相変わらず冷たく整った顔をしている。
切れ長の目に見下ろされたニコは一瞬怯んだが、相手に迷惑をかけないよう最低限の接触が目標なのだ。
急いで本題を切り出す。
「あっ、あの、この間はありがとうございました。これ、お返しします」
「……」
勢いよく差し出された紙袋を怪訝な目で見ていたノアは、ニコの顔と見比べているうちに思い出したようだった。
「ああ、あの時のハンカチ」
「返さなくていいとおっしゃっていましたが、お高そうな品だったので……」
言ってから、ふとハンカチだけ返すのは無礼なのではないかとニコは思った。
サンドイッチをもらっているわけだし、お礼の品もつけたほうが良かったのかもしれない。
「あの、これもあげます。今買ってきた砂糖菓子と串焼きです。この螺鈿細工の箱もつけます」
ニコは持っていた袋もノアに差し出した。
差し出してから、やっぱりこれも変かもしれないと思ったが今更引っ込められない。
ノアは短く息を吐くと、ハンカチが入った紙袋だけ手に取った。
「勤務中ですので、このような贈答品は受け取れません」
「あ、すみません……」
「これだけ受け取っておきます。わざわざありがとうございました」
では、とノアは立ち去って行った。瞬く間に人混みに消えてゆく。
ニコはしばしその場に立ち尽くしていたが、じわじわと後悔の念に苛まれた。
迷惑をかけないようにと思っていたのに、普通に迷惑なタイミングで声をかけてしまったし、屋台で買ったものをあげようとするなんてすごく変だったかもしれない。
何より、ノアの素っ気ない態度に軽くショックを受けている自分が嫌だった。
ただハンカチを返すだけなのに、自分は一体何を期待していたのか。
男性と話すことなどほとんどないニコは、少しの交流でノアと繋がりができたと舞い上がっていた自分に気づいて、誰に向ける訳でもないのに猛烈に恥ずかしくなった。羞恥と後悔が最高潮に達したところで、むしろ気持ちが吹っ切れてきた。
「どうせもう関わりはないだろうし、考えるだけ無駄!」
そう無理矢理考えないと、ストーカーだと思われたかもしれないとか、ハンカチを入れた紙袋が花柄で気合い入りすぎていたかもしれないとか、どうでもいい後悔がどこまでも続きそうだった。
そうやって自分を励まして変なテンションになったニコは、そのままの勢いでスタンプをもうひとつ集めると、堂々とお菓子と交換しに行った。
受付の人には変な顔をされると思っていたが意外と普通に対応された。
リボンのついた可愛らしいラッピングのお菓子袋はどこまでも子供向けで、少し切なかった。
数日後、ニコは出来上がったポスターを持って部長のデスクに向かった。
「部長、今お時間よろしいでしょうか。交流会のポスターが完成しました」
「もう出来たのか。見せてくれ」
ニコは恐る恐るポスターを部長に渡した。
どう言われるのかが怖くて、目を瞑りたくなるのを我慢する。
ポスターには子供が好きそうな犬や猫、熊などの動物と騎士の絵を描いた。
味のある絵に開催日などの情報が文字で入れば、それなりなポスターに見える。
ニコ的にはまあ悪くはないかもといったところだ。しかし、他人から見てどう思われるかは自信がなかった。
部長はしばらく無言でポスターを見つめていて、ニコは今すぐポスターを取り返したい衝動に駆られた。
「……うん、いいじゃないか」
「本当ですか」
「ああ、すごくいいと思う。交流会の内容もわかりやすいし、何より絵がいいな。とてもかわいらしい」
「あ、ありがとうございます」
ニコはここ数日間の不安な気持ちが報われるような気持ちだった。頑張って良かった。
そこに会話を聞き付けたのか、長い黒髪をなびかせてアンナ・ハリスが近づいてきた。
「あら、やっと出来たの?」
アンナは部長が持っているポスターを覗き込んだ。
「すごくいい出来だと思わないか」
「ええ……悪くはありませんね」
部長の言葉にアンナはつまらなそうにした。
「そうだわ、他の人にも見せたい。部長、少し借りても?」
「あっ、ちょっとまっ」
ニコが止める前にアンナは部長の手からポスターを 取ると、他の同僚に見せに行った。
離れた席でアンナと同僚がポスターとニコを見比べてニヤニヤしているのが見えた。
ニコは途端に嬉しかった気持ちが冷めていくのを感じた。
今すぐポスターを回収して描き直したくなる。
「君の絵はやっぱりいいな。それにデザインがいい。広報部が君を離したがらなかったのもうなずける」
「そ、そんな、褒めすぎです……」
冷めていた気持ちが一気に沸き立った。我ながら単純で嫌になる。そうだ、部長がいいと言ってくれているのだからいいのだ。
ニコは過剰に卑屈にならないでおこうと思った。
「それで、出し物の方はどうだ」
「は、はい、ひとつ考えていることがあるのですが」
そうして総務部の出し物の話をすると、とんとんとやることが決まっていった。
さすが部長だ。仕事を任せても丸投げにはしない。昔から面倒見が良いところは変わらない。
部長が褒めてくれるなら、なんでも出来る気がしてくる。
交流会当日、騎士団内は慌ただしく人が行き交っていた。それぞれが準備に追われて、忙しない空気が漂っている。
ニコが考えた総務部の出し物は、騎士団内を巡るスタンプラリーだ。あの日市で得たアイデアが採用された。スタンプは各部署の出し物に参加することで押すことが出来て、全て集めると子ども騎士認定書とお菓子が貰える。
スタンプラリーの台紙や子ども騎士認定書もニコが作った。これも部長が褒めてくれた自信作だった。
交流会開始の時間になり、騎士団の詰所に続々と家族連れが訪れる。
ニコは入口に設置された受付ブースに座って、子供たちにスタンプラリーの台紙を配る係だ。
同僚のアンナも一緒だ。
ニコは隣で台紙を配るアンナを盗み見た。
「はいどうぞ。スタンプを集めるとプレゼントが貰えるからね。楽しんで!」
アンナはとても愛想がよくて、子供への対応も完璧だった。心無しかアンナの前に並ぶ列の方が長い気がする。
「あ、ドーキンさん、台紙と証明書無くなりそうだから取ってきてくれる?」
「……わかりました」
準備はあまり手伝ってくれなかったのにこういう所では生き生きしだすアンナに美味しいところを持ってかれた気持ちになったが、適材適所だとニコは思うことにした。
子供たちはスタンプラリーを楽しんでくれているようだし、子ども騎士認定書も好評だった。
子供たちが喜んでくれたのならそれだけで十分だ。
ニコは駆け足で事務所に向かった。
台紙と証明書、それと一応足しておこうとお菓子もつめた箱を持ちながら、ニコは台車を使えばよかったと後悔した。
交流会は賑わいを見せていて、今はミニコンサートの時間なのかどこからか音楽隊の演奏が聞こえる。
入場する人は落ち着いてきてはいるが、台紙が無くなってはいけないと思いニコは駆け足で受付ブースに戻った。
「お待たせしまし、た……」
そう声をかけかけて、ニコの足は止まってしまった。受付ブースには、椅子に座るアンナと、その隣のニコが座っていた椅子に部長が居た。
2人は長机の下で手を繋いで、音楽隊の演奏に耳を傾けていた。
ニコは気づかれないように一旦曲がり角を戻ると、わざと大きな足音を立てて歩いた。
そしてもう一度受付ブースに戻った時には、2人の手はほどかれていた。
「ああ、ニコ君。わざわざすまないね。ありがとう」
「やだ、そんなに持ってきたの?台車使えば良かったのに。そこに置いといてくれます?」
「はい、あの、休憩を取ってきてもいいでしょうか」
「もちろんだ。ここは私がやっておこう」
そしてニコは逃げるようにその場を後にした。
自分がどんな顔をしているのかわからなかった。
結局交流会が終わるまで、ニコは事務所にこもっていた。後片付けの時間になって会場に戻ったが、ニコが居なくて困っていた様子はなかった。そのまま片付けを終わらせて早く帰ろうとニコが手を動かしていると、アンナに声をかけられた。
「ドーキンさん、どこにいたんですか?」
「ちょっと事務所の片付けをしていて」
「ふーん。それより、この後打ち上げがあるんですけど、ドーキンさんも来ない?」
珍しく誘われて、普段のニコなら少し嬉しくなって行っていたかもしれない。しかし、今はそんな気分にはなれなかった。
「この後予定があるので」
「あらそうなの。そういえば今日は花の祭りだものね。楽しんで」
アンナはくすりと笑って居なくなった。
何かから逃げるような気持ちで飛び出したが、ニコを追いかける人は誰もいない。当然のことなのに、どこか寂しく思っている自分に嫌気がさす。片付けは最低限終わらせたから問題ないだろう。
日が暮れ始めた道をニコは歩いた。
大通りに近づくと、何やら賑わっているようだった。軽快な音楽や人の笑い声が聞こえてくる。そこでニコは先程アンナが言っていたことを思い出した。
「花の祭……」
花の祭は精霊のための祭で、若い娘たちは精霊を模した白いワンピースで参加する。そして、男性は気に入った娘の頭に花を一輪差す。そこで恋が成就すれば、2人は永遠に結ばれるのだ。
ニコはこの祭にあまりいい思い出はなかった。
学生の時、ドキドキしながら白のワンピースを着て参加したが、ニコは誰からも花を差されることは無かった。それ以降行くことはなかったが、今日はうっかりしていた。
間の悪いことに今日ニコは白のブラウスを着ていた。ワンピースでなくとも、白い服を着ていれば精霊の娘として参加していると思われるだろう。アンナに笑われた意味がようやく分かった。
来た道を引き返そうか考えたが、大分遠回りになるし、打ち上げをするという同僚たちと鉢合わせしたくない。
ニコは下を向いて大通りに進んだ。
「そこのお嬢さん、この花を差し上げても?」
「なんて美しいんだ。ぜひこちらを」
そこかしこで甘い口説き文句が聞こえてくる。
ニコは肩にかけたカバンを握りしめてひたすら早足で歩いた。
そうして誰からも花を受け取ることなく大通りを抜けた。あんなに賑やかだが、少し離れてしまえば別世界のように静かだ。
祭の喧騒を遠くに聞きながら、ニコは早足をやめてとぼとぼと歩いた。
なんとなくこのまま家に帰るのは嫌で、通りがかった売店に入ると酒瓶を買い込んだ。ずっしりと重たい紙袋を両手で抱えてフラフラと河川敷に向かうと、川の傍に腰を下ろす。
酒を買った時にサービスで貰った栓抜きで酒瓶を開けると、行儀悪くそのまま口をつけた。
強いアルコール感に瞬く間にくらりとする。もう一口喉に流し込む。
傍から見ればオヤジだなと乾いた笑いがこぼれた。
ニコは自分の名前があまり好きではなかった。
ニコ・ドーキンまぬけ。
家族以外の人は大体ニコのことをドーキンさんと呼ぶ。ただの名字だし、国中にドーキンさんは沢山いるのだからそんなに恥ずかしがる事でもないが、多感な時期は嫌で嫌でしょうがなかった。
学校を卒業してすぐに騎士団に就職して、部長がニコを名字ではなく名前で呼んでくれた時、こんなに優しい男性もいるのだとニコは感激した。それだけでなく、部長はずっと素晴らしい上司だった。いつでも助けてくれて、ニコの憧れだった。異性として好きだとか、そういうものでは無いと思っていた。
ニコの脳裏に昼間見たアンナと部長が映し出される。
長机の下でこっそりと手を繋いでいた2人。
部長の右手の薬指には、アンナが着けているのとよく似たシルバーの指輪がはめられていた。
「なんだ、そうだったんだ」
気づけば酒瓶が1つ空になっていた。
買いすぎたかと思ったが、案外飲める。このまま持って帰るのも骨が折れるので、ニコはどんどん酒を煽った。
「う、うう、うぁぁぁん」
勝手に涙が溢れてきた。
どうしようもなく酔っ払っているが、そのことにニコは気づけない。まだ酔いが足りないとさらに酒瓶を空けていく。
嫌いだ、アンナも、部長も、みんなみんな嫌いだ。自分のことはもっと嫌いだ。
「う゛っ、おぇ」
にわかに吐き気が込み上げてきて、ニコは四つん這いに川に近づいた。
胃から出たものが水に流されていく。
透き通った川の水を口にすると、身に染みる冷たさが気持ちよかった。
火照った身体を冷ましたくなって、ヒールを脱いでジャバジャバと足をつける。
「気持ちいい…」
体の芯まで冷えていくようだった。
もう少しだけ行ってみようと足を伸ばした先は、思っていたより底が深かった。
「あっ」
酔ってふらつく身体では咄嗟にバランスが取れなかった。もう抗う気もなかったのかもしれない。そのまま目を閉じて水に浸かろうと思った。
「何をしているんですか!」
「へ?」
全身が冷たい水に晒されるかと思っていたのに、何故か硬い感触に包まれていた。
閉じていた目を薄く開けると、至近距離に美しい顔が飛び込んでくる。
暗がりでもわかる艶やかなブロンド、 切れ長な目、通った鼻筋、ほのかに香る香水。
「ノア・シンクレア……?」
「君は……」
顔を見て相手が誰なのかノアも気づいたようだった。同じ騎士団で働く者としてではなく、あの日ハンカチとサンドイッチを渡した女として、だろうが。
ノアの顔を認識したニコは一瞬固まったのち、一気に酔いが醒めた。
ノアの体から離れると、岸辺に戻りずぶ濡れの足のままヒールを履いた。
「すみません、ご迷惑をおかけしました。助かりました」
その場から逃げるように早足で進む。
「ちょっと待て」
聞こえなかったことにしてそのまま進んだが、
「このカバンと瓶は君のか?」
「あ……」
振り返れば、自分のカバンと飲み散らかした瓶がそのまま投げ出されていた。
逃げることばかりが頭を占めて、他のことを忘れていた。
「すみません、私のです」
決まりが悪い。しかし放って帰るわけにもいかない。ただでさえ夜の岸辺で一人飲んだくれていたやばい女なのに、これ以上の醜態は晒したくなかった。
急いで回収しに向かおうとして、足がもつれた。酔いは醒めたつもりだったが、体が言うことを聞かない。
「きゃっ」
今度こそ倒れると思ったが、またもやノアが抱えてくれた。
「す、すみません」
またノアから離れようとしたが、ノアが腕に力を込めたのでさっきみたいに離れられなかった。
「あ、あの?」
このままじゃ向かい合って抱き合った状態だ。居心地が悪くて身をよじった。
「はぁ、酒くさい……」
「ひっ、ごめんなさい」
綺麗な顔をしかめられて、ニコは猛烈に恥ずかしくなった。本格的に離れたくてもがいたが、ノアは微動だにしない。
そんなに嫌そうな顔をするなら離して欲しい。
「君は死のうとしていたのか?」
「死っ!?ち、違います」
「この状況じゃ入水自殺を図っていたようにしか見えない」
「そんなつもりはなくて、ただ少し水に浸かりたかっただけで」
「そうかもしれないが溺れて死ねば同じことだ。それに」
ノアは転がっている空の酒瓶をちらりと見やった。
「飲みすぎだ。女性が一人で飲んでいい量じゃない」
「はい……」
何も言い返せない。
ニコは小さく縮こまるしか無かった。
「君も騎士団の一員だろう。こんな飲み方をすれば騎士団の評判も下がる」
「え」
ノアが自分のことを知っていたことが驚きで目を見開く。今までの恥ずかしさが一段と極まった気がした。
「えっと、このことは職場に報告とかは、ない、ですよね……?」
飲酒する際に上司へ報告義務が課せられているのは騎士の人たちだけだったはずだ。それがしがない事務員にまで適応されるとは思っていなかったが、この騎士なら報告しそうだ。
「わざわざ報告はしないがこのまま放ってもおけない。自宅に帰るまで見届けさせてもらう」
「えっ!?いや、大丈夫です。全然歩いて帰れますので」
「そんなにふらついて何を言っているんだ。君は帰れるつもりかもしれないが全くもって信用出来ない」
「いや、本当に!もう酔いも醒めてきたし」
「酔っぱらいはみんなそう言うんだ」
「私のは本当ですから」
「安心しろ。立派な酔っぱらいだ」
ノアは片腕でニコを抱くように拘束すると、空いている手で酒瓶を紙袋にまとめて、ニコのカバンも持った。
「行くぞ。君の家はどっちだ」
「は、離して!自分で帰れますから」
拘束する腕が一本減ったというのに全く離れられない。暴れながらズルズルと引きずられるようにしてニコは歩いた。
「本当に、大丈夫だから!お願い、一人で帰らせて。迷惑かけたくないの」
「今の状況のほうがよっぽど迷惑だとわからないのか。君ができるのは大人しく俺に送られることだけだ」
「迷惑ならほっといてよ!」
ニコは誰かを頼るのが苦手だ。
小さい頃から不注意で何かと面倒事を起こすことが多かった。人に迷惑をかけるなと言われて育った。
大人になって、ある程度自分のことはこなせるようになった。あの頃よりは普通の輪に紛れられていると思っていた。
やっぱりだめなのだ。自分はまぬけで、人より少し劣っている。誰かに迷惑をかけてしまうのならばいっそ一人でいたい。
「本当に大丈夫ですから、もうほっといて……」
みじめだ。憧れの上司は美人な同期とデキてるし、祭りでは誰からも花を貰えない。一人で泣くにも他人に迷惑をかける地味女。
こんなだからいつまでも処女を拗らせて私はいつまでも一人なんだ。
いたたまれなさすぎて消えてしまいたかった。
「それでこんなところで一人じめじめと泣いていたのか?」
心の中の声のつもりが、答える声があった。
離れようと暴れているうちに体力を使い果たしたのか、ニコの体からは次第に力が抜けていった。
「なによ、わたしみたいなのは一人で泣くしかないのよ。あなたみたいな人には分からないでしょ」
ニコの八つ当たりに、深いため息が響いた。
「行くぞ」
「え?」
どこにと聞く前に、ニコの体は地面から浮いた。ノアの片腕がニコの体をしっかり抱えていた。
「ちょっと」
「暴れるな。落ちる」
ニコはもうこれ以上抵抗するのをやめた。
ここで暴れても迷惑を上書きしていくだけだ。
今は潔く自分の愚かさ認めて、これ以降は迷惑をかけないよう一人で生きていこうと心に決めた。
背の高いノアに抱き上げられ、いつもとは違う目線の高さと速さで道の風景が流れていく。
「っ、う」
情けなさすぎて泣けてきた。
ニコは声を押し殺して泣いた。
無視してくれればこんなに苦しい思いをしなくて済んだのに、ノアの真面目さというか頑固さが恨めしい。
しばらく揺られていると住宅街に差し掛かかった。
「こ、こは…?」
ここがどこかニコは全く考えていなかった。
そもそも自宅の場所を教えていないのに、どこに来たのか。
ニコが把握する前に、ノアは一軒の平屋の前に立ち止まると鍵を開けて入った。
ノアがドアを閉める時に振り返った一瞬の間に見えた部屋の中は、薄暗かったがそれなりに広く見えた。正面の大きな窓から差し込む月明かりだけではよく見えない。
ノアは手に持っていた荷物を適当にその辺に置くと、ニコを抱えたまま入って左手にあるドアを開けた。
そこでやっとニコは降ろされた。
さっきの部屋と同じように窓から入った月明かりがニコたちのことを青白く照らしている。
部屋には簡素な机と綺麗に整えられたベッドが置かれていた。
「あの、ここは一体?」
「俺の家だ」
「おれの……俺の家!?」
目を白黒させていると顎をつかんで顔をあげさせられた。息が止まるくらいの美しい顔が至近距離でニコを覗き込む。
「男の家に来るのも初めてか」
顎を掴まれたままニコは頭を上下にブンブンと振った。
そもそも他人の家に上がるのが数年ぶりだ。
居心地の悪さに心拍数が上がる。
「なっ、なんで、あっ、ごめんなさい、私着いてきちゃって」
振りほどいて部屋を出ようとするが、腰に回ったノアの腕が離してくれない。
「君を抱くために連れてきた」
「だっ!?」
流石にこの状況での「抱く」がただの抱擁ではなく男女の交わりなのは分かる。
ただ自分とその行為が全く結びつかない。
「あの、なんのつもりですか。あなたの行動の理由が分かりません」
「いいのか?」
「なにがですか」
「処女でなくなる絶好の機会だ。逃していいのか」
「しょっ、処女で何か悪いですか」
「別に処女であることが悪い事だとは思わないが、君は嘆いていただろ」
「それは、あなたには関係ないでしょ」
「関係ないな。だが今度こそ君が溺れ死んだら寝覚めが悪い」
言いがかりだ。だけど冷静に話す青い目からニコは目が離せなかった。
「君が一人なのは君がそれを選んだからだ」
「ち、違う!好き好んで選ぶわけないじゃない」
「ならどうして君は一人なんだ?どうしてそれを割り切って受け入れない。なぜ一人でみじめに泣いている?」
「そ、そんな……」
そんなことはこっちが聞きたいとニコは思った。でも、本当は自分でもわかっていた。
「そんなの、私に魅力がないし、容量悪いし、地味で面白味もないからに決まってるでしょ」
言っていてあんまりみじめでニコは泣いた。どうしてこんなに悲しい気持ちにさせられているんだろう。一人で泣いていただけだったのに。
「なんでそんなにひどいことを言うの?私が嫌いなんでしょ。私のことが好きな人なんて誰もいない」
「では君は誰かに好かれる努力をしたのか?君の上司に近づけるよう行動したか?」
「そ、そんなの、だって」
「仕様がないことだとそのままにしてきたんだろう」
何か言い返したいが、その通りだ。
誰かと居る努力も、美しくなる努力も、していたかと言われればしていない。
これ以上ここに居たくなかった。
腕を突っぱねてノアの腕から逃れる。
「っ、帰る、んっ」
唇に柔らかい感触があたって、すぐに離れた。
ニコが目を丸くして固まっている間にもう一度それは唇に触れた。
「魅力ならある。肌は滑らかだし柔らかい。それに良い匂いがする」
「あ……」
首筋の匂いを嗅がれ、先程までのみじめな気持ちなどすっかり吹き飛んでしまった。
顔に血が集まる。
「今まで誰も手を出さなかったのが不思議だ」
ニコは自分の単純さに嫌気がさした。
さっきとは別の意味で動悸が激しくなる。
「君を殻に閉じ込めているのは君だ」
「あっ」
ノアの強烈な色気に足元がふらつき、ニコはベッドに倒れ込んだ。
その上に長身が覆いかぶさる。
「君ももう25だ。大人の遊びを知ってもいい」
ノアの手がニコの背に回ると、片手で下着のホックを外された。
「ん……?」
瞼の裏にまで届く眩しさと鳥の声でニコは目を開けた。
ぼんやりした視界は徐々にピントが合ってゆく。
横になったニコの視線の先には、白のワイシャツを着た広い背中が見えた。
ベッドに腰掛け、手首のボタンを留めている。
ニコは声無き悲鳴をあげた。それに気付いたのか、こちらを振り向く気配がしたのでニコは慌てて目を瞑った。
「……」
目を閉じてしまったが、ものすごく視線を感じる気がする。
だが今更目を開けられなかった。
「はぁ」
ため息が聞こえたと思ったら、ニコの体がベッドに沈み込んだ。
近くに呼吸する気配を感じる。
「鍵は机の上。シャワーは出て左。居たければ居ればいい。俺は仕事だからもう行く」
頬に柔らかいものがあたり、軽く音を立てて離れた。
ベッドが軋む音のあと、ドアが閉まる音が聞こえ、静寂が訪れた。
「……っはあっ!」
ドアが閉まって大分経ってから、ニコはようやく目を開けた。
無意識のうちに呼吸が止まっていたので苦しかった。
「え、どうしよう、うそ」
布団をめくると、ぶかぶかのワイシャツを素肌に着ていた。
ニコに着た覚えはないので、ノアが着せてくれたのだろう。
結局あのあと体勢を変えて何度もした。
騎士の体力についていけず、途中から記憶がない。
転がるようにベッドから降りると、混乱状態のまま部屋をキョロキョロと見回して自分の服を見つけた。
丁寧に畳まれたそれはノアがやったと思うといたたまれない。その隣にはシンプルな皮のキーホルダーがついた鍵が置いてあった。
急いで服を身につける。このまま家を出たかったが、ベッドをこのままの状態にしてはダメな気がした。
シワが刻まれたシーツは、男女の行為があったと思わせる。
「もうっ!」
シーツやカバーをひっぺがして洗いたかったが、勝手に洗面所を使うのもあれだし、新しいシーツを探しにあちこち探すのも無礼な気がする。結局シワを伸ばして、形を整えるのにとどめた。
着ていたワイシャツも同じ理由で綺麗に畳んでベッドの上に置く。
そして寝室を出るとソファに置いてあったカバンを掴んでニコは逃げるようにノアの家から出た。
「あっ、鍵!」
再び戻って寝室の鍵を掴んだ。
そういえば大量の酒瓶も回収しなければと思いあたりを軽く見回したが、昨夜ノアが放っていたと思われる場所にはおいていなかった。もしかしたらすでにノアが処理してくれたのかもしれない。ごめんなさいと思いつつ家を出て、今度はしっかり施錠してドアの郵便受けに鍵を入れた。ノアが出ていくときに鍵をかけた音が聞こえたので、合鍵を持っているはずだ。
家を出てからここがどこなのか分からないことを思い出したが、すぐに見慣れた大通りが見え、ノアが相当立地の良いところに住んでいることが分かった。
やましいことをした気分を抱えながらニコは人がまばらな早朝の道を早足で歩いた。
今日が休日でよかったとニコは思った。だからこそヤケ酒なんてしたのだが。
騎士は休日出勤もあるので、ノアに悪いことをしたと思った。
ニコの住処である集合住宅にたどり着く。階段を上がって三階の部屋だ。
中に入ると、やっと人心地ついた。
「……あぁー、何やってるの私」
酔っ払ってとんでもないことをしてしまった。
センチメンタルな気分なところに、美しい騎士が現れて一夜を共にする。
字面はロマンティックだが、同僚に醜態を晒した挙句に家に上がったというのが現実だ。
気まずい、気まずすぎる。ニコは深くため息をついた。
あの騎士は一体何を考えて自分を抱いたのだろう。ニコは分からなかった。そして最終的には流されてしまった。羞恥とやるせなさでいっぱいだが、不思議と嫌な気分は残っていなかった。
処女を喪失したところで世界は何も変わらないと思っていたが、どこか気分が軽くなった気がした。
憧れの上司が同期とデキていたことも、誰からも花をもらえなかったことも、今までずっと恋人がいないことも。昨夜散々ニコを悩ませた問題はちっぽけなものになって頭の隅に追いやられていた。
「この度、私とアンナ君は結婚することになった」
部長からの報告に事務所内が一瞬で湧いた。
歓声の中、部長とアンナが左手の薬指に光る指輪を見せて微笑んでいるのを、ニコは拍手をしながらぼんやりと眺めていた。
「そして春には新しい家族が増える。私事で悪いが、みんなもアンナ君を気遣ってくれると助かる」
あちこちから驚きの声が上がった。だが、結婚に関してはそれぞれ当然のごとくといった様子だった。
もしかしたら最近まで知らなかったのは自分だけかもしれないとニコは思った。
「ドーキンさん」
「ハリスさん、おめでとう」
「ありがとう」
アンナが本当に幸せそうな穏やかな微笑みを浮かべて近づいてきた。
「産休が明けたら別の部署に行くことになってるの。ドーキンさんには引き継ぎとか色々頼みたいから、一番迷惑をかけちゃうと思うけどよろしくね」
「あはは……」
ニコは曖昧に笑った。
「ニコ君」
「部長、ご結婚おめでとうございます」
アンナと話しているところに部長もやってきた。
「ニコ君がいつも助けてくれるとアンナから聞いていてな。感謝するよ。これからもアンナと仲良くしてやってくれ」
「あ、あはは」
ニコはまたも曖昧に笑ってやり過ごした。
部長とアンナにかけられる祝福の声はしばらく止みそうにない。
盛り上がる事務所からニコはひっそりと抜け出した。
大きく伸びをして外の空気を吸い込む。
昼休憩まであともう少しあったが、抜けても問題ないだろう。
少し早い時間なのであたりは閑散としている。
部長とアンナの結婚報告は、案外普通に聞くことができた。
少々胸が苦しくなったのも事実だが、明日には忘れそうなくらい小さいものだ。
幸せそうなアンナを、素直に祝福できた。そのことにニコは心底安堵していた。
もしあのとき部長とアンナが手を繋いでいるのを見なかったら、もしあのとき誰にも知られず一人泣いたままで終わっていたとしたら。
こんなふうに受け止めることができたか分からない。
こう思えるのは間違いなくノアのおかげだった。
誰からも興味を示されない愚図な自分。美しい男に抱かれたという事実が人としての自信を与えてくれた。そして自分の悩みもどこかちっぽけに思えてくる。
ニコはノアに感謝していた。
「あ、このパン屋さん」
気づけばパン屋の前までニコは来ていた。
こんなにパン屋が空いているのはあの日以来だ。
ニコは店内に入ると、迷わず名物サンドイッチを手に取った。
その隣に、新商品のコロッケパンが並んでいた。
たっぷりとバターを塗ったコッペパンに大きなコロッケが贅沢に二個も挟まっている。
思わず涎がこぼれそうになる。名物か、新商品か、悩みに悩んで、ニコは結局サンドイッチを選んだ。
店を出てからどっちも買えばよかったと後悔したが、また今度買うことにした。
あの日と同じ公園のベンチに腰掛けると、ニコは膝の上にランチョンマットを敷いた。
頭上を鳥が飛んでいないか入念に確かめてから、紙袋の中の名物サンドイッチを取り出す。
「はあ、また食べられるなんて。いただきま」
口の中に広がったのは極上のサンドイッチではなく新鮮な空気だった。
「へ?」
ニコは唖然として見上げた。
ニコの両手ごとサンドイッチを掴み上げて、彼はその綺麗な顔からは想像できないくらい大きな口を開けてかぶりついた。
サンドイッチを奪ったのは鳥ではなくノア・シンクレアだった。この大きなサンドイッチを、信じられないことにノアは一口で半分近く持って行った。
「あっ、そんな、私のサンドイッチが……」
突然サンドイッチを奪われてニコは半泣きになった。
せっかく今日は大丈夫だと思っていたのに、ノアが突然現れるなど誰が予想できるのか。ニコは食いかけのサンドイッチを見つめるしかできなかった。
ノアは口の端についたソースを親指で拭うとペロリと舐めた。
「これでこの前のサンドイッチと、最近俺を避けていたことはチャラだ」
「あ、この前のサンドイッチの分か……さ、避けてるというのは、何のことでしょうか」
「とぼけるなよ」
ノアはニコの両手を解放すると、当然のように隣に腰掛けた。長い脚を組む姿はどこかの俳優のようだ。
「散々俺から逃げておいて。書類を持って行っても対応してくれない、話しかけようとしたら奥へ引っ込む。これのどこが避けていないんだ」
「そ、それは」
書類の対応だって相手がノアならいくらでもやりたい人がいるし、わざわざ話すこともない。
前向きになれたことはノアに感謝しているが、それはそれとして普通に顔を合わせるのが気まずかった。それに今までだって別に会話する仲ではなかった。
「まあいい」
ノアは紙袋からパンを取り出してニコの口に押し付けた。
「むぐっ……っは、これはパン屋さんのコロッケパン……」
「君はこっちも食べたがってただろ」
パン屋で悩んでいるところを見られていた。ニコは恥ずかしくなった。
コロッケパンは先程のサンドイッチの代わりというわけだ。
ホクホクのコロッケ、衣がサクサクで、パンに塗られた芳醇なバターの香りが全体の味をまとめている。
「美味しそうに食べるな」
「あっ、ご、ゴホン」
ノアがいるのも忘れて夢中で食べていたニコは慌ててお茶で流し込んだ。
「美味しくてつい……」
「いいじゃないか、別に急かしてない。ただ見ていただけだ」
「……どうして私に構うんですか」
ノアのような華やかな人間からすればはぐれ者に気まぐれに声をかけてやっているくらいの感覚なのかもしれない。だがちょっかいをかけられるはぐれ者からしたら心底落ち着かない状況だ。なにか気の利いた事をしないといけないのかと考えるし、興味を失われる瞬間が怖くなる。ならいっそ最初から相手にしないで欲しい。遠くから見ているくらいがちょうどいい。
ノアの顔が見れなくて、ニコはコロッケパンに目を落とした。さっきは勢いでモグモグ食べたが、今は食べる気が無くなってしまった。
「君のことは前から知っていた。俺と同い年だと聞いていたからな」
「し、知っていたんですか」
「騎士団に入団してすぐにあった部署案内の時に聞いた」
ノアが入団したのはニコが2年目の時だ。
そんなに前から認識されていたことに驚いた。
「それなのに同い年の会に来なかっただろう」
「それは、私は誘われなかったから……」
「誘われなかった?主催は総務部の人だったのに、ひどい話だな」
ノアは背もたれに置いていた腕をニコの肩に回した。
この前からいつの間にか砕けて軟派な行動をするようになった。
こちらの一面も本当のノアなのかもしれないとニコは思った。
「あっ、あの……」
「まあ、別に楽しいものでもなかった。付き合いで行ったが次は参加しないな」
どきまぎするニコに構わずノアは続けた。
「それで、一人でいる君が目に入るようになった。君はよくここで昼休みを過ごしてるだろ」
「み、見られてたなんて気づきませんでした」
「そうだろうな。俺も遠くから見かけるくらいだったから。それであの日、鳥に襲われた君に声をかけたんだ」
視線を感じて、ニコは恐る恐るうつむいていた顔を上げた。思っていたよりも近くにあったノアの顔がさらに近づいてきて、唇が重ねられる。重ねるだけのそれは一呼吸の後、ゆっくりと離れた。
「君が一人で寂しそうにしていると、気になる」
「う、あ……」
何も言えずニコははくはくと口を動かすしかできなかった。
至近距離でこちらを見つめる目は、真摯な眼差しだった。
「あ、あの、パンいただきます」
ノアの視線を無理やり引き剥がすと、ニコは手に持っていたコロッケパンにかぶりついた。
いっぱいいっぱいで味がしなかったが、もぐもぐと咀嚼した。
隣から軽く笑う声がする。
ノアも紙袋からパンを取り出して食べ始めた。
「これもうまいな。ほら」
ノアが一口食べたパンをニコの口元に差し出してきた。
丸いパンの上にきつね色をしたチーズが載っているパンだ。
ニコが食べるまで、引っ込められなさそうだ。
ニコは観念して差し出されたパンに齧り付いた。
「お、おいしい」
「そうだろ。ほら、もう一口」
あまりのおいしさに目を丸くしたニコにもう一口食べさせながら、ノアは笑っていた。




