第8話 難産
呼びに来た リワンと同い年位の男の子は、診療所に程近い小さな家へ、リヤン達 親子を案内した。
家の前には父親がオロオロと立っており、呼びに来た子の妹らしき女の子が、泣きべそをかきながら 父親の足にへばりついていた。
リヤン達が家へ入ると、そこは血の匂いで満ちていた。
リファ「〈動揺して小さな声で〉兄さ…」
リワンは、自らの動揺を辛うじて隠しながら、妹の口の前に そっと人差し指を立てた。
狭い家の中には、ぐったりとした妊婦と、その横に 産婆が妊婦の膨らんだ腹に手を当て、無力感の滲んだ顔で座っていた。
リヤン達の後に続いて、父親と妹も家に入って来た。
リヤンは、母親の下半身を覆う布の中を診て言った。
リヤン「出血が酷いですね」
産婆「うん…。何でかね、出ないよ…」
リヤンは妊婦の首の脈に触れた。
リヤン「……。大分衰弱していますね。陣痛は二日と聞きましたが…」
産婆「おとといの明け方からだから、二日半になるね」
リヤン「腹の子は? 生きていそうですか?」
産婆「今朝方までは動いていたけど…、〈表情を曇らせ 小さく首を振り〉どうかな…」
リヤン「そうですか…。リワン、替えの布を」
リワン「はい」
リヤンは息子から替えの布を受け取ると、彼は産婆と一緒に 妊婦の腰の下に敷いてあった布を取り替えた。
リワン「〈父親に〉あの…、お水、使わせてもらっていいですか?」
父親「ん? んあぁ。そ、その水瓶だ」
リワン「ありがとうございます。リファ、桶の水を変えてきて」
リファ「はい」
リファは、リヤンの近くにあった桶を外に持って行った。
リワン「〈父親に〉あの…、お湯を沸かしていいですか?」
父親「ん? あぁ。薪はそこに…」
リワン「はい」
リワンは薪を台所に焚べると、お湯を沸かし始めた。
リヤン「お母さん、すみません、ちょっと失礼しますね」
リヤンは桶の水で手を洗うと、母親の腹の上に手を置き、もう一方の手で 布で覆った母親の下半身にぐっと指を入れた。母親は意識朦朧としたまま小さく息をしている。
リワンとリファは固唾を飲んで見守っていた。
迎えに来た男の子の妹が、不安そうにリワンに言った。
娘「お母たんを助けて!」
父親「ど…どうなんですか…? こいつを助けて下さい。こいつが居ないと、俺らどうしていいか…」
リヤン「〈桶で手を洗いながら父親に〉子宮口があまり開いていません。これでは、下から引っ張る事もできません…。いずれにせよ この体力では、もう下から産むのは難しいと思います。
赤ん坊が生きているかは分かりませんが、お腹を切って赤子を取り出しますか?」
父親「えっ…? それって…」
リヤンは、父親に小さな声で言った。
リヤン「……。その後 お腹は縫いますが、出血も多いので、間も無くお母さんは亡くなってしまうと思います」
女の子は、父親にすがりついて不安そうに言った。
娘「なくなるって何? 死んじゃうの?! やだ! お母たん、死んだらダメ!」
父親「ナラ…」
娘「弟か妹ができるっていってたよ! 楽しみにしててって、いってたよ! おかあたん、きのうのきのうのきのうまで、元気だったよ…!」
呼びに来た息子も 妹の後ろで拳を握り、下を向いて奥歯を噛み締めていた。
リワンはいたたまれず、母親の頭の方へ行くと、手拭いを絞って そっと顔を拭いてやった。
リヤンは努めて冷静に言った。
リヤン「或いは、このままにしておく事もできます。その方がお母さんの命としては、腹を切るより もう少し長くなると思います」
父親「赤ん坊は…」
リヤン「生きているか死んでいるか、分かりません。〈腹の上に乗せた自分の手を見て〉この感じだと…、時間的にも難しいかもしれません…。どうしますか?」
父親は震えた。
いずれにせよ、妻との別れが迫っていると知った為だった。
父親「お前…、なぁお前、しっかりしろ! 聞こえるか?」
母親は ようやっと目を開けて、夫を見た。
父親「なぁ、どうする? 腹の赤ん坊…、切ってもらって出すか?〈目に涙を溜めて〉もう死んでるかも…しれねぇって…」
母親はぼんやりと狭い家の天井を見た。
彼女は、今朝方から赤ん坊が動かないのを感じていたが、それでも一縷の希望を持っていた。
母親「でも…生きてるかも…しれないんでしょう? 出して…もらって…。私と…あなたの子よ?
それに…このままじゃ…苦しい…わ…」
父親「分かった。そ…、そうだよな。分かった…」
父親は、最後は自分自身に言い聞かせるように言った。
父親は娘と息子を見た。
父親「お前達…、だ…、出してもらうから…な…」
娘「?」
息子は、唇を噛んで俯いた。
父親はリヤンに頭を下げた。
父親「先生、頼んます」
リヤン「分かりました。リワン、小刀を」
リワン「はい」
リワンは父の鞄から小さな小刀を出し、台所の火で炙って父に手渡した。
リワン「リファ、その桶の水、捨ててきて」
リファ「はい」
リファはまた外に水を捨てに行き、桶を兄に渡した。
リワンは台所へ行くと、リファから渡された空の桶にお湯を入れ、水瓶の水で薄めてぬるま湯を作ると、リファに言った。
リワン「父さまの横に」
リファ「はい」
リファは言われた通りに、桶を持って行った。
リワンは、台所で沸かした残ったお湯に薬草を入れ、煎じ始めた。
リヤンはリファの持ってきた湯の温度をサッと確認すると、素早い手捌きで母親の腹を切った。母親は悲鳴も上げずに気絶した。
娘「お母たん?!」
リワンは 母親の首の脈を取りながら、驚いた女の子に言った。
リワン「生きてるよ」
娘はうるうるしながら母親の手を握った。
リヤンは その手を血に染めて、母親の腹から赤子を取り出したが、赤子に触れた瞬間、その表情は険しいものになった。
リヤン〈臍の緒を切りながら〉(あぁ、もう死んでいる…)
彼はぬるま湯で赤子を軽く綺麗にして、小さな背中をパタパタと叩いた。
もう一度、もう一度。
父親と二人の兄妹が泣きそうな顔で見つめている。
リヤンは厳しい表情を隠しきれない。
リワンとリファも祈るように見ていた。
リヤンは、小さな赤子の心臓に耳を当てたが 既に心音は無く、母親の身体から出した赤子の体温は、あっという間に下がっていった。
リヤンは、冷たくなりつつある赤子を父親に渡しながら言った。
リヤン「可愛い男の子でしたのに…、残念です」
父親は、自分より冷たい赤子を抱きしめると、口をへの字に曲げて、奥歯を噛み締めた。
女の子が不安そうにリヤンに聞いた。
娘「お母たんは…? お母たんは…?」
兄は、自分も不安に押しつぶされそうな顔をしながら、妹を抱きしめた。
リヤン「今、切ったお腹を縫うよ」
娘「お母たん、元気になるよね? ねぇ、ねぇ!?」
リヤンは女の子を見れずに、素早い手つきで腹を縫い合わせ始めた。
娘「ねぇってば、おいしゃさん…!」
リヤンは小さく唇を噛んだ。
彼は軟膏を幹部に塗り、包帯をぐるぐると巻いた。
リヤン「リワン、気付け薬を」
リワン「はい」
リワンは既に用意してあり、父に手渡した。
リヤンは、母親を何度か軽く揺さぶって呼びかけ、辛うじて意識が浮上した辺りで、匙で薬を飲ませた。母親はうっすらと目を開けた。顔色は蒼白だった。
産婆は、さっと死んだ赤子を父親から受け取り、布に包んで外に連れて行った。
父親「お前! 気付いたか?」
母親「…赤…ちゃんは…?」
父親は、一瞬 戸惑ったが、明るく言った。
父親「…ん? ん? あぁ、お前によく似た元気な男の子だったぞ」
母親「泣き声…聞こえないわ? 抱か…せて?」
父親「ん…? 今な、ちょっと産婆さんに預かって…貰ってて、外に…」
父親は涙を堪えながら言った。
涙が溢れそうになったので、また口をへの字に曲げ、咄嗟に上を向いた。
母親は 夫のその様子から、赤ん坊の死を悟った。
夫の優しい嘘に報おうと微笑んだが、涙が頬を伝った。
母親「そう…、良かった…。
あなた…ごめんね。ジュンとナラも…、ごめんね。
母さん、あんた達の傍にもっと居て…、あんた達が…大きくなるのを…見…たかったん…だけど…」
娘「お母たん?! お母たん!」
女の子は母親にすがりついて泣きじゃくった。
兄の方も、ずっと涙を堪えていたが、涙が溢れ落ちた。
息子「母さん! 母さん死なないでよ!」
母親「ごめんね…。二人とも、大好きよ…。大事な大事な、私の子…。ごめん…ね…」
リヤン「お母さん、お腹は縫い合わせましたし、よく効く薬を塗りましたから、良くなりますよ。これからこの子達を育てないといけませんから、しっかりして下さい」
父親は驚いてリヤンを見た。
父親「…えっ…? だってさっきは…」
リヤンは父親の方に少しだけ顔を向け、もう一度 まっすぐに母親を見て微笑んだ。
母親「先生…、お腹…、楽に…なりました。痛みも…あんまり無くて…、手術…お上手…なんですね。ありがとう…ございまし…た」
リヤンは感情的になるのを抑えて言った。
リヤン「いえ…。お母さん、よく頑張りましたね。ゆっくり休んで下さい。
お父さん、台所に痛み止めの薬湯を置いていきます。匙で少しずつ飲ませて下さい」
リヤンは立ち上がった。リワンとリファも父の鞄を持って立ち上がった。リファは泣いていた。
父親は出口まで送りに来たが、涙と鼻水ばかりで言葉が出てこなかった。
リヤンは父親の目をじっと見て、唇を噛み、少しの間 頭を下げた。
そして低い声で言った。
リヤン「お役に立てず、申し訳ありません」
リワンとリファも父に倣って頭を下げた。
父親は無言のまま頭を下げた。
土の玄関に、涙と鼻水がポタポタと落ちた。
外へ出ると、産婆が布に包んだ死んだ赤子を抱いて立っていた。
リヤンは産婆にも、低い声で言った。
リヤン「申し訳ない」
産婆「いいや、命は神様の采配さ。こればかりは、仕方のないことさ」
家の中から、女の子の声が聞こえた。
娘「お母たん? お母たん?! わぁあああ!! お母たぁああん!!」
リヤンは震える息をひとつ吐いて、産婆と家へ一礼して足早に去った。
リワン達も父に習って一礼し、小走りで父に続いた。
リファは、涙が止まらなかった。
リファ「あの子達、私達と同じ位だったわ…」
リワンも泣いていた。涙を袖で拭った。
リワン「そうだな」
リヤン「俺達は非力だ。死にゆく人の殆どを救えない。
もしお前達がこの道を行くなら、お前達も打ちひしがれる日が来る。毎日だ。
それでも、例えたった一人でも救えるのなら、俺達が居る意味があるだろう?
時代が進んだら、もっと多くの人を救える日が来るかもしれない。
我々は 一つ一つ積み上げていくしかない」
・・・・
三人は再び診療所に着いた。もう午後を回っていた。
患者「あぁ! 先生やっと戻ってきた! 見てくれよこれ! 手元が狂って鎌が刺さっちまったんだよ! 早くどうにかしてくれよ!」
リヤンは、脚から流血している患者をざっと観察した。
リヤン「症状が重い人から診ます」
リヤンは緊急度の高い患者が居ないか、列全体を見回した。
取り急ぎ、死んでしまいそうな患者は居なかった。
患者「えーっ! 嘘だろ?! もう待てねーよぉ!!」
男は苦しそうに息をした。
リヤンは、訴えるその患者の傍へ行ってひざまずき、顔色と脈をさっと診た後、額に手をやった。
リヤン (発熱…。体力はありそうだな。救えそうだ)
リヤン「では診察室に入って下さい。付き添いの人は?」
患者「いねぇよ」
リヤン「〈鼻息荒く〉分かりました」
リワンとリファは既に涙が乾き、新しい緊張に包まれた。
リワン「リファ、持って来たパンを適当に口に入れとけ。倒れられてもお前に構えないぞ」
リファ「うん」
リファはパンの包みを持って、父と兄に配った。
三人はそれを口に突っ込んだ。
・・・・・・・・
日が暮れて辺りが夕闇に覆われると、リヤンは診療所を出て、疲れて途中から寝てしまったリファを背負い家路についた。
リワンは父の鞄を持って、黙って後ろから付いて行った。
湖畔の自宅に明かりが灯っているのを見ると、リワンは何とも言えない安堵感を覚えた。
家へ入ると、母が夕食の支度をして待っていた。
美味しそうな匂いが、忘れていた空腹を急激に掻き立てた。
リヤン「ただいま」
ミーナ「おかえり。あら、リファ寝ちゃった? 相当疲れたんだね。ハハハ、そりゃそうか」
リヤンは、妻のいつもの明るい笑い声に ほっと心を落ち着けた。
彼は娘を寝台に寝かせて、毛布を掛けてやった。
リワンは明るい母の顔を見ると、何だかわからないが、無性に抱きつきたくなった。
彼は、お玉を持って鍋にかかっている母の腰に、いきなり抱きついた。
ミーナ「?! どうしたの? リワン?」
リワンは何も言わずにに、恥ずかしそうに更にぎゅっと母を抱きしめた。
父はリワンの様子に小さく息をつき、妻の淹れてくれたポットからお茶を注いだ。
ミーナは 夫のその様子をチラと見て、目を丸くして言った。
ミーナ「リワン? 珍しいね、あんたが甘えてくるなんて」
リワンは、母に抱きついたまま何も言わなかった。
母は お玉を置いてリワンの方に向き直り、リワンの腰に手を回し、ひょいと抱っこした。
ミーナ「うわぁ、こんなに重くなっちゃって!」
ミーナは 七つになった息子の足を、自分の腰骨に乗っけ、リワンの背と尻の下に手を当てて安定させた。
ミーナ「よい…しょっと! もう、やぁだぁ、いつの間にこんなに大きくなっちゃったの? あんなにぷよぷよしてたのに、なんかゴツゴツしてきてるし…。
あぁ、それに、〈くんくんとリワンのほっぺを嗅いで〉赤ちゃん臭も もう無くなってる…! えーっ! あんた、赤ちゃんだったのよ?」
言いながら、母は自分も一緒にユラユラと揺れながら、赤子をあやすようにリワンの背中をトントンと叩き、頬擦りしてほっぺに何度も口付けた。
ミーナ「可愛い私の子供。んー! 可愛いでしゅねー。いつまでこんな風に甘えてくれるんでしゅかねー」
母は幸せそうに、我が子を抱っこして揺れた。
父はその様子を、お茶を飲みながら優しく見守ていた。
ミーナの後ろでスープが吹きこぼれると、母は息子をポイと放し、鍋つかみで鍋を持ち上げた。
母「うわぁああ! 最悪! 嘘だろ?! 焦げたし! もう!」
リワン「…何かする?」
母「あっち行ってて! 邪魔!」
リワンはすごすごと食卓に座ると、父が可笑しそうに目を合わせ、お茶を注いでくれた。




