第4話 夢の世界
翌日の朝、リワンは一人 湖畔を歩きながら、昨日の事を思い出していた。
主人の機嫌は最悪だった。
母の出立を聞き 取り乱した主人は、あろうことか王女のくせに草馬兵に蹴りを入れて地べたに組み伏せられた後、大声で泣き散らかした。
あの刺青の男が取りなしてくれて離してもらうと、今度は自分の部屋まで、砂だらけのまま、十三にもなって幼子のように泣きじゃくって廊下を歩いて行った。
部屋に入っても、激しくしゃくり上げしゃくり上げ、なかなか泣き止まなかった。
リワンは部屋に入り、主人の突っ伏した寝台の側まで行くと、心を寄せて聞いた。
リワン「何か…心の落ち着く薬湯でもお持ちしましょうか…?」
主人は激しくしゃくり上げながら首を振った。
リワン「分かりました。…とにかく…、一旦お休みになって下さい…」
彼はそう言うとアイラに毛布をかけてやり、そっと部屋を出た。
エイジャはウンザリした顔で、アイラの部屋の前の椅子に座っていた。
彼は手をヒラヒラと振って、リワンに言った。
エイジャ「お前、戻って良いぞ、家」
・・・・
リワンは朝の湖畔を歩きながら 昨日のアイラの騒ぎを思い出し、朝からまたどっぷりと疲れてきた。
何をしでかすか分からないアイラには、彼女に付いてからのこの七年というもの、事あるごとにヒヤヒヤさせられっぱなしだった。
リワン (逆に、あの度胸がすごい。リファなら、姫の表した反意の一つだって、表に表しきれないだろう。自己肯定感が高いのか、ただのバ…じゃない、天真爛漫なのか…)
事実は後者だった。
美しい湖を見ながらこうして歩いている分には、この国に血生臭い政変があったなんて、まるで信じられなかった。
朝日がキラキラと水面を照らし、棗椰子の葉が乾いた風にカサカサと揺れた。
リワン (リファ、大丈夫かな…。さっきは落ち着いていたけど…)
リワンは何となく、早めに散歩を切り上げることにして 踵を返した。
家の方から母が、らしくなく悲壮な顔で走って来るのが見えた。
リワン「母さま…? どうし…」
ミーナ「リワン! リファが! リファが何か、死にそうなんだけど!」
リワン「えっ?!」
リワンは驚いて、走って家に帰った。
リワンが妹の寝台へ走り寄ると、リファは苦しそうに額に脂汗をかいて、虫の息になっていた。
リワンは妹の首の脈に触れた。
それは不定期で、今にも止まってしまいそうだった。
リワン「どう…して…。だって、さっきまでは…!」
リワンは手に汗が滲み、指先が一気に冷たくなるのを感じた。
彼は、患者を前に冷静でいることには慣れていたが、身内となると感情が動くのを押さえきれなかった。
ミーナ「あんたが散歩に出て暫くして見たら、急にこんな感じになってて…」
ミーナに残された少ないながらの母性は、子供を失うかもしれない恐怖で彼女をいっぱいにしていた。それは彼女にとって、じゃぶじゃぶのアドレナリンで前線に出ていた頃よりも、遥かに恐ろしいものだった。
リワンがリファの腹を露出させて見ると、内出血で青黒くなっていた。
リワン (今の俺に出来ることは、何も無い…!)
リワンは小刻みに震えながら妹の腹に手を当て、奥歯を噛んだ。
リワン「どうしよう…! 父さまは城で手一杯だし…。今呼びに行っても、この状態じゃ間に合わない…! あぁ、どうしよう?! リファ! リファ…! 頼む、しっかりしてくれ…!!」
リワンは無力感に打ちひしがれながら、既に苦悶の表情が消えつつある妹の顔を見て、必死に呼びかけた。
リファ「ハッ………ッ……ハ……………」
リファは、兄の腕の中で不定期に小さく何度か呼吸したかと思うと、首をカクンと落とし、動かなくなった。
リワン・ミーナ「…!!」
二人は目を見開いた。
妹の白く細い首の脈は、忽然と消えた。
リワン「リ…ファ…?」
ミーナ「…!」
母は呆然と立ち尽くした。
リワンは震えながら、腕の中の青白い妹の顔を見た。
リワン「う…そ…だろ…? 俺は…、お前達を守るために…力を…つけたのに…。お前を…殺す…ためじゃない…!」
リワンは三日前の夜、体重をかけて打ち込んだ肘鉄を思い出した。
最終的には、敵を殺すつもりだった。
リワン「違う…、違うんだ! お前をこんな目に合わせたかったんじゃない…!」
リワンは動かなくなった妹を抱いて、首を振った。
彼の中をいっぱいにしていた罪悪感が、今度は自分の細胞を殺し始めるように血の中を冷たく巡った。
<回想>
リファ「ふぇええ」
剣を仕込もうと木の棒を持った母に、リファが尻餅をつかされて泣いている。
リファの泣き声は小さく、はぁはぁとへばっている。
ミーナ「ったく、あんたはどうしてそんなに弱っちいのかねぇ? 生き残れんのかな…」
リワン「〈リファを背に庇って〉母さま、リファは運動は苦手だよ。僕がその分 頑張るから、リファにはやめて?」
ミーナ「ったく…。ま、仕方ないね…」
リファ〈兄の袖を後ろから掴んで、緑がかった目でじっと見つめる〉
リワン「〈振り返って〉リファはリファのできる事をやったらいいよ」
リファ「う…ぁ…」
ミーナ〈ため息をついてリファを抱き上げ、ポヨポヨした頬に口付ける〉
・・・・・
別の日。
リファ「〈ノロノロと追いかけてきて〉兄さま待って…!」
リワン「ついて来るなよ! たまには一人で遊びたいんだから!」
リファ「〈ショックを受けて〉…! 分かった…」
夕方。
リワン「え? 帰ってないの?」
ミーナ「あの子ったら、熱中したら時間忘れちゃうからなぁ…」
暗くなり始めた棗椰子の林を、ミーナとリワンで手分けして探しに出ると、案の定、薬草をカゴいっぱいに詰んで、木の根元に鼻血を出して倒れている妹を、リワンが見つける。
リワン「〈駆け寄って〉リファ!」
リファ「〈眠そうに目を開けて〉兄さま…。一人で遊べた? リファも一人で遊ぶの好きだから、これからも一人でいいよ」
リワン「! バカ! ちゃんと家に帰れよ! 心配するだろ?!」
リファ「…兄さま、リファのこと嫌いになったんじゃないの?」
リワン「そんな訳ないだろ!」
リファ「〈笑って〉よかった。リファは兄さまのこと、大好きだよ」
・・・・・・
三日前の夜。
痛みに喘ぎながら、リファ、兄の頬に手を伸ばす。
リファ「兄…さ…」
リワン「ん?」
リファ「す…き…」
リファ「私と…、ずっと… 一緒…に…」
<回想終わり>
リワンの頬を涙が伝っていた。
リワン「リファ…? 死ぬなよ…! ずっと一緒に居ただろ? これからだって…、お前が薬師で、俺が医官で、一緒に仕事するんだろ? ずっと…、一緒に…。リファ…!!」
リワンは泣きながら妹を揺さぶった。
妹は穏やかな顔をして、動かなかった。
リワン (あ…ぁ…! 俺は…、何てことを…!)
吐き気のするような罪悪感に、リワンは奥歯を噛み締めて項垂れた。
リワン「リファ…! すまない…。すまない…! 許して…くれ…!!」
リワンは、妹の亡骸を抱きしめ、嗚咽した。
魂が去ったばかりのその身体は、まだ温かかった。
ミーナは呆然として、大きく成長した自分の二人の子供を見ていた。
窓の外から、椰子の葉の揺れる音が聞こえた。
ミーナ (あの子は身体が弱いから、そんなに長生きできないと元から思っていたじゃない。死因は違っても、想定通りだった。覚悟していたことだ。なのに…、どうして…)
ミーナは動悸がシンシンと耳で鳴り、頭は混沌としていた。
ミーナ (あぁ、あたしのせいだ…)
ミーナは思った。
ミーナ (リワンに武術なんて教えなければ良かった…! リヤンみたいに医術だけやっていれば、こんなことにはならなかったのに…!)
母は激しい後悔に飲み込まれながら、妹の命を奪った息子の心中を思い、やっとの事で口を開いた。
ミーナ「あんたに武術を教えたのはあたしだよ。あんたの…せいじゃない」
リワン「……。」
息子は何も言わず、妹の亡骸を抱きしめたまま、声を押し殺して泣いていた。
ミーナは、娘を失った事実が まだよく分からなかった。
ミーナ (あぁ、どうしてあたしは、普通の母親になれなかったんだろう…? 他の母親がやるように、あの子をありのまま、ただ愛するだけで良かったのに。一体、他の何を与えようと思ったんだろう? それでも、私はこれで精一杯だった。これが、私ができる精一杯の母親だったんだ…!)
ミーナは失った娘と 打ちひしがれる息子を前に、呆然として立ち尽くした。
息子の啜り泣きが、椰子の葉音と一緒に耳に入るだけで、涙は出なかった。
・・・・・・・・・
アイラは、母の出立を聞かされた翌朝、朝食に出て来なかった。
王妃は、チェンと草馬兵に伴われながら、娘の部屋を訪ねた。
エイジャ「寝てます」
扉の前の椅子に座ったまま、エイジャは王妃に言った。
王妃「そう…」
王妃は、ほうと息を吐いて暫く俯いた。
アイラ (母さま…!)
アイラは毛布から顔を出して、外から聞こえてくる声に耳をすませた。
王妃はエイジャの前にしゃがんだ。
エイジャ「?」
王妃「お礼を、言ってなかったから…」
エイジャ「? 何のすか?」
王妃は暖かい眼差しでエイジャを見つめた。
王妃「エイジャ、あの子が六つの時から今まで七年間、あんな気性なのに 見放さないであの子の傍にいてくれて、本当にありがとう」
アイラ (あんな気性って…)
エイジャ「…え? …いや別に…、飯貰ってますから。別に…それだけっす」
エイジャは目を逸らして、わざと素っ気なく言った。
アイラ (……。)
王妃「それでも、感謝しているわ。口では何とでも言えるもの。でもあなたは、いつもあの子を助けてくれた。ありがとう」
王妃はエイジャを真っ直ぐに見つめて、優しく微笑んだ。
すぐ傍で見るアイラの母は、光るように美しかった。
エイジャは何だか急にソワソワと居心地が悪くなり、俯いて目を泳がせた。
エイジャ「っす…」(あいつ、父ちゃんに似ちゃったんじゃねーの? 母ちゃんこんなに美人なのに…。何から何まで、残念なヤツ)
王妃は懐から包みを取り出し、エイジャに差し出した。
エイジャ「?」
エイジャは受け取ると、中身を見た。
それは、何の装飾もない木の鞘の短刀だった。
後ろで見ていた草馬兵は、王妃がそんな物を持っていた事にちょっとギョッとしていた。
王妃「木を彫るのが上手と聞いたわ。あなたを守ってくれるように…」
エイジャ「あ…りがとう、ございま…す」
エイジャはぎこちなく礼を言った。
アイラ (? 何だろ? 何あげたのかな?)
王妃はエイジャに、華奢な手を差し出した。
エイジャは初め何かと思ったが、握手だと分かると挙動不審にぴょこりと頭を下げ、差し出された手を そっぽを向きながら握った。
王妃の手はひんやりとして、絹のように柔らかかった。
エイジャは横目で、王妃の茶色の瞳を怪訝そうに見つめた。
エイジャ (何だよ…、何か…、死にに行くみてーじゃんかよ…)
王妃はにっこりと笑うと手を離し、立ち上がった。
王妃「アイラ…? 入るわよ?」
アイラは急いで毛布に潜り込んだ。
返事が無いので、母は扉をそっと開け、娘の部屋に入った。
母は 毛布を頭まで被ってこんもりしている娘の寝台に、ふんわりと腰掛けた。
母のつけている東方の香油が、微かに香った。
アイラ (あぁ、母さまの匂い…!)
アイラは毛布の中で、また悲しくなった。
王妃「おはよう。今朝ね、あの刺青の草馬の人…ジンさんっていうそうなんだけど、街の視察に出るんですって。こんな状況だけど、あなたと私と、一緒に街を歩いて良いって言ってくれたわ。…行く?」
アイラ「…………行く」
アイラは毛布の中からボソリと言った。
王妃「〈嬉しそうに〉そう。じゃあ、広間で待ってるから。急いで支度して来てね」
アイラ「うん…」
母は部屋を出て行った。
アイラは母が出ていくと、寝台から這い出し、窓の外の光を恨めしそうに見た。
いつもと変わらない朝だった。
瞼が、殆ど開かなかった。
部屋の外に出ると、エイジャがアイラの泣き腫らしてパンパンに腫れた瞼を見て吹き出した。
エイジャ「顔、やばくね? すんげーブス」
アイラは何も言わず、広間へ足を向けた。
エイジャ「ありゃ…? おい、待てよ…」
エイジャは肩透かしを食らって目を丸くしながら、主人の後に続いた。
・・・・
視察には、ジンと、その仲間らしき冷たそうな男と年若い青年、その他 アイラと王妃の監視役に一人ずつの、草馬人 五人、それに アイラと王妃、エイジャと王妃の護衛チェンの、碧沿人 四人で行くことになった。
ナザルは人手不足の為、城を出る訳にいかなかった。
アイラと王妃は、目立たない街着を着て城を出た。
街は争いの傷跡が生々しく、荒廃していた。
碧沿人達は皆、家の中に息を潜め、ジン達 草馬人を隠れながら恐れて見た。
片付いていない遺体が、所々にゴロッとあった。
三日前から突如 孤児になった子供達が、路地裏に怯えたように座っていた。
アイラ (な…、何よこれ…!)
アイラは怯える子供達を見て、胸が潰れる思いがした。
エイジャ「おー、俺がいる」
エイジャは自嘲気味にボソリと呟いた。
王妃は悲しそうに目を伏せた。
アイラ「食べ物と、おうち…」
王妃は、横を歩く娘の顔を見た。
アイラ「ねぇ母さま、食べ物とおうち、どうにかしないと…」
王妃「そうね…」
エイジャ「住所不定って、辛いんだわなぁ…」
アイラの斜め後ろから、エイジャがしみじみと言った。
スレン〈二十二歳〉「そう? ぽくらなんて、いっつも 住所不定たけと…」
前を行く年若い草馬人の青年が、話に加わって来た。
所々、濁点の習得がなっていないようだった。
タルカン〈三十二歳〉『スレン、馴れ合うな』
ジンの仲間らしき冷たそうな男は、若い青年に無機質に言った。
スレン『あ、ハイ』
スレンと呼ばれた青年は、注意をされても あっけらかんと返事をした。
ジン「住所は不定だが、俺らは 皆、家の中には居るだろが」
先頭を行くジンも、話に加わってきた。
タルカン『おい、ジン!』
ジン「まぁ…、ちょっと位 良いじゃないか。〈目でアイラ達を指して〉そのお二人さんにとっては、残された貴重な親娘の時間なんだし…。少し位 和やかにしたって…」
タルカン『全く…、お前はいつも甘い!』
スレン『だから好きなくせに』
タルカン『うるさい! 子供は黙ってろ!』
スレン『〈当てつけるように〉もう成人しましたー。結婚だってできるんですから。先輩より早く結婚しちゃいますよ? 僕』
タルカン『……。』
タルカンは不機嫌に黙り込んだ。
ジン『別に…、結婚が人生の全てじゃない。結婚したって相手が死んじまったら、どうせまた独身だ』
スレン『まぁ…、そうですけど…』
アイラ以外の碧沿人は、ジン達の会話を 内心驚いて聞いていた。
エイジャ (何か…、フツーの会話してんすけど…。鬼畜のくせに…)
草馬語をバッチリ習得していたエイジャは、驚いて周りの碧沿人の顔を見た。
アイラは言葉が全く分からず、開かない目でぼーっとした顔をしていた。
エイジャ (めでてーヤツ…)
エイジャは半目になった。
王妃はエイジャと同じように、残虐非道と言われる彼らのギャップに驚いているらしかった。
王妃の斜め後ろにいるチェンは、ポーカーフェイスのまま何を考えているか分からなかった。
エイジャ (アイツなー、読めねんだよなー。男か女か分かんねーし…。いや男だけど…)
いきなり、チェンはエイジャに漆黒の瞳を向けた。
エイジャ「!」
エイジャはびっくりして、急いで目を逸らした。
チェンは微かに妖艶な口元で笑うと、また前を見た。
エイジャ (な…、何アイツ…? ちょっとこえーんだけど…)
エイジャは一人、冷や汗をかいた。
ジン「食べ物と家、孤児ですか…」
ジンは歩きながら、前を向いたまま言った。
アイラ「……。でも…」
ジン「? 何です?」
アイラ「あなた達なら…、あの子達を殺してしまうんじゃないの?」
王妃・エイジャ「!」
二人は、あわわ、という顔でジンの背中を見た。
チェンは僅かに片眉をピクリと上げた。
冷たそうなジンの仲間らしき男は、振り返ってアイラを睨みつけた。
スレン「へぇえ?」
年若い青年も振り返ると、面白そうに目を見開いてアイラの顔を見た。
ジンは前を向いたまま笑った。
ジン「全く…、危なっかしい娘さんですね、王妃様。ちゃんと躾けないと、いつか首が胴体から離れてしまいますよ?」
王妃は申し訳なさそうに俯いた。
王妃「非礼をお詫びします。…私も、それだけが心残りで…」
ジン「そんな諦めてないで、彼女の事を思うなら、この一週間でよく言い聞かせて下さい」
王妃「はい…」
アイラは申し訳なさそうな母を見て、唇を噛んだ。
アイラ「か…、母さまは悪くないわ。何度も、言っちゃいけない時に言っちゃいけない事を言ってはダメよ、って教えてくれたもの。私が…、その…ダメな子だから…できないだけで…」
アイラは顔をしかめて、母とは反対側へ顔を背けて俯いた。
エイジャ(鬼不細工…)
斜め後ろから見ていたエイジャは、アイラの瞼の腫れた しかめ面をしげしげと見た。
ジンはチラリとアイラの顔を見ると、また前を向いて言った。
ジン「そうでしたか」
アイラ「……。」
母は、俯く娘にそっと言った。
王妃「アイラ、あなたはダメな子じゃないわ。あなたがどうあっても、私の自慢の子なのよ」
アイラ「う…ん…」
アイラはうるうるした。
母がそんな風に言ってくれるのも、あと少しだった。
タルカン「そうやって甘やかしてるから…」
ジン「やめろタルカン。お前だって できない事くらいあるだろ」
タルカン「フン」
ジン「〈王妃を軽く振り返り〉すみません」
王妃「いえ…、おっしゃる通りですわ…」
王妃はまた俯き、チラリと娘を見た。
娘は目に涙を溜めて、自分の出来の悪さに 酷い顔で奥歯を噛み締めていた。
母はそっと、娘と手を繋いだ。
アイラは、ハッとして母を見た。
母は、にっこりと笑って娘を見た。
アイラの目からポロポロと涙が溢れた。
アイラ (行かないでよ、母さま…! 行かないで…! 私にはまだ、母さまが必要だよ…!)
斜め後ろに居るエイジャは、呆れたように言った。
エイジャ「おい、それ以上ブスになってどうすんだよ? 泣くなや」
リワンの居ない今日、エイジャは言いたい放題だった。
・・・・・
一向は、南大路にやって来た。
通りには ちらほら人が歩いていたが、皆 武装した草馬人だった。
王妃はハッとして、通りを見渡した。
アイラ「母さま…?」
王妃「あぁ、何でもないの。実家がこの辺りだから、懐かしくって…」
アイラ「え、そうなの? 初めて聞いた」
王妃「そう、びっくりする位 狭い家なの」
母はイタズラっぽく笑った。
ジンは足を止め、王妃を振り返った。
ジン「我々はもう、大体の様子は掴めました。あとは帰るだけですので、良ければご実家に寄ってみますか?」
王妃は大きく目を見開いた。
王妃「え…、良いのですか…?」
ジン「はい」
王妃は今まで見せたことがないような、少女のような嬉しそうな顔になって言った。
王妃「ありがとうございます!」
・・・
くねくねとした路地に入り暫く行くと、壁が繋がった家の前に着いた。
アイラは、キョロキョロとして辺りを見回した。
スレン「…貧民 街?」
ジンはそっとスレンを見た。
スレン「あ、すみません」
王妃「〈笑って〉いいえ、その通りですわ。ここに…、母と二人で暮らしていたんです。そう、丁度〈アイラを見て〉あなた位の頃まで…」
アイラ「その後は?」
王妃「忙しくなって、お城に住むようになったの。ちょこちょこ帰って来てたんだけど、十八で王様と結婚してからは、殆ど帰らなくなってしまって…」
アイラ「ふーん?」
王妃は粗末な扉の前に立ちすくみ、そっと扉を開けた。
王妃「わぁ…!」
部屋の中は、母を旅に送り出した十年前のまま、何も変わっていなかった。
王妃は中に入って、懐かしい狭い部屋の中をぐるりと見回し、切なくて胸に手を当てた。
彼女は後ろを振り返ると、皆に言った。
王妃「良かったら、どうぞ。本当に狭いですけど」
アイラと王妃の監視役の兵、タルカン以外の六人が中に入ると、もう部屋は一杯だった。
狭い部屋には、隅に小さな台所があり、寝台が一つ置いてあるだけだった。
エイジャ (このボロ屋から王妃って、どんだけの出世よ! 芸能人ってのは夢があるねぇ…)
スレン「へぇ…。〈独り言、悪気無く〉僕らのテントより狭いかもな…」
皆は粗末な部屋の中を、物珍しそうに見回した。
王妃は寝台に、子供のように勢いよくドサっと腰掛けた。ホコリが舞った。
王妃らしからぬ立ち居振る舞いに、皆は密かに驚いた。
王妃「〈アイラに〉ここで一緒に寝ていたのよ、母ちゃんと」
王妃は少女のように笑った。
アイラ「母…ちゃん?」
アイラは目をパチパチとして、嬉しそうな母を見た。
母のこんな無邪気な表情を、アイラは初めて見た。
王妃「そうよ。あなたのおばあさま。農園で働いててね、一緒に綿花を詰んでたのよ。母ちゃん一人で、一生懸命 私を育ててくれたわ」
アイラ「そう…なんだ…。若い頃の母さまのこと、私、あんまり知らなかったんだね…」
王妃「そうね、話したことも無かったし…。行く前に話せて良かったわ」
アイラ「うん…」
アイラはまたキュッと胸が痛んだ。
アイラ「おばあさまは、もう亡くなったの?」
王妃「分からないわ…。ゼダが生まれた後、旅に出ると言って、それきり音信不通なの…。あぁ、母ちゃんがもし帰ってきても、その頃には私はこの国に居ないんだわ。やっぱり…、傍に居て欲しかったな…。〈寂しそうに笑って〉アイラ、あなたみたいに、駄々をこねてでも引き留めれば良かった…!」
アイラ「母さま…」
王妃「母ちゃん、寂しがり屋なのに、私ったら母ちゃんをこの部屋に一人置きっぱなしにして…。あぁ、行く前に、せめて一目でも…会いたかったわ…」
王妃は、この寝台で母の温かい胸に包まれて眠った事を思い出した。
王妃 (あぁ、あの頃は幸せだったな…。母ちゃん、会いたいよ。今どこに居るの? 昔みたいに 私を抱きしめて…! そしたらどんなに…、あぁどんなに…、安心するだろう…!)
王妃は、急に部屋の空気が薄く感じられた。
心臓はドクドクと不規則に打ち、息苦しさに そっと胸に手を当てた。
アイラ「母さま…?」
アイラは心配そうに母の隣に腰掛けた。
ジン・スレン「…?」
チェン「王妃様、大丈夫ですか?」
ずっと黙っていたチェンが口を開いた。
ジン「やはり…、胸が悪いのですか?」
王妃「いいえ…、少し…疲れただけです。実家にまで来られるとは…思っておりませんでした。ジンさん、あなたのおかげです。何と…感謝を申し上げれば…よいか…」
ジン「いえ…」
ジンは苦しそうに息をする王妃を、注意深く観察した。
チェン「王妃様、そろそろ参りましょうか。もう…、よろしいですか?」
王妃は、母と一緒に眠った寝台を愛しむように撫でると、もう一度 狭い実家を見渡した。
王妃「えぇ。もう…、いいわ」
チェンは王妃の肩に手を回すと、支えながら立ち上がらせた。
一同は 狭い家を出た。
一番最後に王妃が出ると、彼女は名残惜しそうに 部屋を振り返った。
そしてハッとした。
王妃 (あぁ…!)
部屋の中には、まだ若い頃の母が居た。
そして母の前には、習ってきたばかりの舞いを 嬉しそうに披露する小さなユエが居た。
ユエ「ねぇ母ちゃん見てて!
一歩くるり 二歩くるり
くるくるり
背骨は吊られて またくるり
手は背から生える翼
脚は溝落ちから下 水鳥さん
掌から散らすのは
花か夢か星屑か
指先は遠くを通ってを翻し翻し
見えない足跡を
引いて描いて かき消して
指先一つ
目線一つに意思持って
一歩くるり 二歩くるり
くるくるり
背骨は吊られて またくるり」
母「〈目を細めて嬉しそうに〉上手上手。あんたはきっと、良い舞い手になるよ」
王妃の耳には、懐かしい母の声が確かに聞こえた。
母の胸に抱かれた温もりと、甘い匂いを感じた。
王妃 (母ちゃん…!)
王妃は苦しい胸に手を当てながら、思い出の中の二人に 精一杯 微笑んだ。
王妃 (さようなら、母ちゃん。さようなら、ユエ。幸せな時間を、ありがとう)
王妃はゆっくりと、もう二度とは戻らぬ思い出の扉を閉めた。
踵を返すと、草馬人の先の曲がった刀が目に入った。
道で見た転がった遺体が、脳裏をかすめた。
王妃は苦しそうに瞳を閉じ、一瞬気が遠くなったのを、チェンが支えた。
アイラ (母さま…!)
アイラは咄嗟に、チェンが支える母の反対側へ来ると、動悸で冷たくなった母の手をギュッと握った。
アイラ「母さま? ねぇ、母さまのおうちの場所、ちゃんと覚えたよ。おばあさまが帰って来たら…、そしたら、母さまにきっと教えてあげるから。そしたら…、そうしたら、三人で会おうよ?」
母は 潤んだ目を丸くして、自分と同じ位の背丈に成長した娘をじっと見た。
エイジャ (んなん、できる訳ねーだろ?! 誰がこの家で見張っとくんだよ!)
超現実派のエイジャは、すかさず心の中で突っ込んだ。
アイラも母も、そんな日が来ない事は分かっていた。
それでもアイラは、崩れてしまいそうな母を元気付けずにはいられなかった。
母は溢れるような笑顔で言った。
王妃「うん。ありがとうアイラ。あなたは…優しい子ね」
アイラも、泣きそうな顔で 精一杯 笑った。
母は胸がいっぱいで、涙が溢れてしまいそうだった。
王妃 (あぁ、私は幸せだったわ。もう十分、幸せだったわ)
王妃は涙が溢れないように、青い空を見上げた。
それは、幼い頃 この小さな家の前で、母と一緒に 夢一杯に見上げた空と、何一つ変わっていなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ガラガラガラガラ…。
廊下を担架が足早に運ばれている。
若い女性の乗った担架に、救命士が馬乗りになって心臓マッサージをしている。
救命士「二十四歳、女性。バイクに跳ねられ、心停止です」
医師「代わります」
医師は担架に馬乗りになると、救命士と交代した。
金髪を後ろに束ねた二十代後半の医師は、患者の胸をグッグッと圧迫しながら、顔色を観察した。
肌は蒼白になり、唇が紫色になっていた。
医師 (…何かこの女性…、俺と似てるな…)
彼は切迫した状況の中、不思議とそう思った。
医師 (戻って来い! 戻って来い、俺…!)
彼は患者の胸骨を押しながら、非科学的だと分かってはいるが、念じた。
これまで、どれ程手を尽くしても、命の行方は神の采配だと思い知らされる事が沢山あった。
ピッピッピッピッ…。
バイタル音が規則的に響き出した。
看護師「戻りました!」
医師は大きく息を吐くと、額の汗を腕で拭い 担架から降りた。
女医「麻酔、入りましょうか?」
こげ茶色の髪で、緩いカールのボブの女医が、運ばれていく担架に付き添いながら、金髪の医師に尋ねた。
医師「頼みます」
・・・
手術の用意が整うと、金髪の医師は美しい手捌きで患者の腹を開けた。
ボブの女医が患者の頭の方について、バイタル全般の様子を見ている。
額の ど真ん中にホクロのある先輩外科医が、血を吸引しながら落ち着いて言った。
先輩医師「範囲は狭いな。損傷もギリギリ…、出血を止められればどうにかいけそうだ」
医師「はい…」
金髪の医師はピンセットで針を持ち、スッスッと手早く患者の腹の中を縫っていった。
・・・・
何日か経って、患者は目を開けた。
見知らぬ天井が見えた。
繋がれた機械から、ピッピッと電子音がする。
パタパタと行き交う足音や、「お食事ですよー」などと、他の患者へ声をかける看護師の言葉が廊下から聞こえてくる。
どうやら、病院らしかった。
身体に意識を向けると、彼女は腹部の痛みに気付いた。
彼女は震えるように、小さく息を吐いた。
足音が近付いて来た。
彼女は目だけそちらへ向けた。
白衣を纏った、自分より少し年上の男性の医師だった。
彼は自分と同じ金色の髪の毛を、後ろに一つにまとめていた。
医師は患者の目が空いているのを見つけると、足早に寄って来た。
そして腰を屈め、患者の顔を覗き込んだ。
医師「あぁ良かった、意識、戻ったんですね。三日前に交通事故に遭われたんですよ。覚えていますか?」
患者は何故か、涙が流れた。
医師「……。」
医師は、彼女を観察して言った。
医師「お腹、痛みますか?」
患者は、穴が開くほど医師の緑がかった瞳を見つめた。
患者「兄…さ…ま…?」
医師「え…?」
医師は初めて、微かに驚きを顔に出した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
リファ「っっ…! …ハッ…! っ…!」
ミーナとリワンは、目を見開いてリファを見た。
さっき止まったリファの息が、小さく苦しそうに吹き返していた。
リワン・ミーナ「!!」
二人は、自分たちの方が心臓が止まりそうになった。
ミーナ・リワン「リファ?!」
リワン「リファ……?! …リファ?!」
リワンは、妹の身体を抱き抱えたまま、大声で呼びかけた。
リファは驚いたことに、薄く目を開けた。
リワン「リファ!」
リファ「兄…さ…」
リファは苦しそうに息をしながら言った。
リワン「リファ、分かるか? リファ!」
リワンは妹の顔を覗き込んだ。
リファ「ッ…ハ…ッ…」
リファは懸命に息をしながら、兄に話しかけた。
リファ「治して…貰ったの…よ…。兄…さ…に。変な…服…着…て、私の…お腹…開い…て…、縫って…くれた…の…」
リワン「?!」
リファ「だか…ら、治っ…た…わ。元通り…に…。ねぇ…、兄さ…の…、夢…見た世界が…、本…当に…ハッ…ッ、あった…のよ…? ぅっ…ぁあぅ…ッ」
リファは目を瞑り、苦痛に顔を歪めた。
リワン「! リファ、もう喋るな」
リファ「だ…から…、母さ…、心配…しない……で…」
ミーナ「…!」
リファはまた、真っ暗な意識の深淵に落ちた。
リワンは苦しそうに息をする妹を、信じられないという顔で見つめた。
リワン (腹を開いて、縫っただって…?! 俺が?! どうして死なないんだ?!)
どうしたって、何から何まで全て、信じられなかった。
リワンは酷く混乱したまま、妹をきつく抱きしめた。
リワン「あぁ、神様…!」
リワンは普段、神頼みなどしないのに、熱い涙と共に口走っていた。
微かな吐息が、後ろから聞こえてきた。
リワンがドロドロの顔で振り返ると、母が大きな両手に顔を埋めて肩を震わせていた。
リワン「母…さま…?」
ミーナは床にしゃがみこむと、千切れそうな声を上げて泣き始めた。
ミーナ「うわぁああああああ! リファアアアアアア!! あぁあああああああ!!」
リワンはギョッとした。
リヤンが、徹夜続きの疲れた顔で帰ってきた。
リヤンは部屋の中のただならぬ状況を見ると、急いで家族の元に寄って来た。
リヤン「ミーナ…?〈驚いてリワンに〉ど…どうしたんだ?」
ミーナは泣き顔を見られることも憚らず、大きな身体を震わせて大声で泣き続けた。
夫も息子も、ミーナが泣くのを初めて見た。
ミーナは、子供を失う事がこれ程辛いとは、思っていなかった。




