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砂漠の月  作者: kohama
37/37

第37話 逃亡

王妃は、暑さと、赤ん坊に乳を吸われる事による強烈な喉の渇きで 目を覚ました。

王妃「ん…」

意識がはっきりしてくると、視界に果物のかごが映ってきた。


それらは、カルファが荷馬車を買った農民から、逃亡用に更に買い付けた農作物だった。

カルファは農民の男を北大路近くの家まで送ると、道中で食べられそうな果物などを、相場よりかなりの高値で買い付けた。

そして馬をラクダに替えた。これは農民の男の方から進んで替えてくれた。


男の妻は、ウールのマントと毛布を 何も言わずにカルファに渡した。

お代としては、十分すぎる程の代金は支払ってあったが、これは妻の全くの善意だった。

彼女は、荷台に積んである大きな袋を見つめた。

そこに、彼の"守りたい人"が居ると彼女は思ったらしかった。

カルファ「ありがとうございます」

カルファは男の妻に心から礼を言った。

妻はやはり何も言わず、軽く頭を下げた。


農民の男「気を付けて行きなされよ」

農民の夫妻は、そろそろ日が傾く頃、青年に手を振った。

カルファ「本当に、ありがとうございました! ご恩は忘れません」

農民のなりをしたカルファは、とびきりの笑顔を夫妻に向け、頭を下げた。

それは、夫妻がドキッとする位 素敵な笑顔だった。


・・・


カンカン照りの中、王妃の胸には キュンがやや機嫌悪そうに母の乳房に吸いついていた。

母親の水分が足らず、彼女の乳は、両方共もう殆ど出ないのだった。


王妃「水…水…」

カルファは、王妃が気が付いたのを知り、チラリと後ろを振り返った。

荷台の麻袋がガサガサと動いていた。

王妃は、カルファが袋の中に一緒に入れておいてくれた水袋を鷲掴みにすると、狭い中で わらにまみれながら、一気にあおった。

信じられないくらいに美味しかった。

それでも キュンが再び乳房に吸い付くと、またカーッと喉の渇きが襲ってきた。


王妃は 袋の中から、そっと御者を見た。

すぐ前に居る御者は、農民の服装をしていた為に一瞬分からなかったが、もうずっと昔から知っている愛する男の背中だった。

王妃はホッとした。どうやら、人攫ひとさらいや何かのたぐいに連れて行かれている訳ではなかったらしい。



そう思った途端、これまでの事を思い出した。

王妃 (あれ…? どうしたんだったっけ…? 確か、ごうの特使が、アイラかキュンのどちらかを差し出せと…。 …? !!」

王妃は、カルファが自分とキュンを連れて逃げたのだと悟った。

王が、実子であるアイラを守ることは明白だった。

王妃は混乱した。どうしたら良いか分からなかった。


王妃「カ…、カルファ?!」

王妃は思わず袋から頭を出して叫んだ。わらが頭に沢山付いていた。

いきなり声を出したので、彼女の声はかすれていた。

カルファは後ろを振り向くと、ニッコリと笑って言った。

カルファ「水、まだありますから。授乳は喉が渇くんでしたよね」

王妃「え…? えぇ、ありがとう…」


カルファは暫く無言だった。

彼はラクダを走らせながら話し始めた。

カルファ「私は、自分が器用だと思っていました」

王妃「…え?」

カルファ「でも違ったようです。今やっと、アイラ姫が帰らなかったあの夜、あなたが街に飛び出して行こうとした気持ちが分かったんです。

もっと利口な方法があったのかもしれません。

なのに、私はこんな方法しか思いつかなかった。

その上、それを自分で止める事もできなかったのです。

愚かだという事は、分かっています」

王妃「カルファ…」

王妃はカルファの広い背中を見つめた。


王妃「これから…どうするつもりなの?」

カルファ「とりあえず隣の国へ逃げて、そしてまた隣の国へ逃げて…、この交易路の一番西の果てまで逃げたら、あなたとキュンと、普通の家族として暮らせるでしょうか…?」

王妃は胸が詰まった。

王妃「…! カルファ…。でも私には、アイラもいるわ。夫も…いるわ…。碧沿へきえんの人達も…」


カルファはそれを聞くと、ゆっくりとラクダを止めた。

カルファ「…本当ですね。私は…本当に…。あなたの護衛になる日に、は捨てると決めた筈なのに…」

カルファは前を向いたまま、自嘲するように続けた。

カルファ「王様に一生かけて恩を返そうなどと思っていたのに、いざ自分の子が取られるとなると、あの方を裏切ってしまうなんて…。

でも、渡せません。キュンをごうに渡すなんて、私には到底できません。気が変になりそうです!」

王妃「…えぇ、そうね…」

王妃は胸の中の我が子を見つめた。キュンは喉の渇きが癒えて、どうにかご機嫌を取り戻していた。王妃は、はだけていた胸元を直した。

カルファは苦しそうに黙った後、王妃を振り返り、真っ直ぐに彼女を見つめて聞いた。

カルファ「戻りますか? アイラ姫と王さまが、あなたをお待ちですね…」

カルファは、泣きそうな顔をしていた。


王妃は胸を打たれた。

王妃 (城に戻ったら、この人は無事では済まない。キュンもごうに取られてしまう。

じゃあ戻らなかったら? アイラが江に取られてしまう。それに、あんなに優しい夫と国を裏切ることになるわ…。私は…どうすれば…!?)

王妃は今更になって、東に居ながら西に行くことはできない という事を、身をもって理解する事になった。西に行くことは、東を"捨てる"事だった。彼女は決められなかった。


王妃は困惑して、首を振った。

王妃「分からないわ…。どうしたらいいか…、分からない…。決められないなんて…、どうにもならない主人あるじね…)

カルファは、地平線まで続く薄茶色の大地の遥か西を見ると、強い陽光をその青い瞳に映して言った。

カルファ「では私が決めます。あなたとキュンを、私のものにすると」

王妃「!」

カルファ「これは全て、私が決めた事です。あなたとキュンは、一方的に、私にさらわれたのです」

王妃「違うわ!」

カルファ「いいえ、違いません。一つも! 私はあなたとキュンと、この道の最果ての国で、普通の暮らしをします! 夫と娘から引き離した分、あなたを幸せにしてみせます!」

彼はそう言うと、困惑する王妃を他所よそに、前を向いて勢いよく また荷車を走らせ始めた。


・・・・・・・・・・


前日の夜。

アイラ「やだ!アイラも行く!」

アイラ達が 王へ報告に行った夜、アイラは、ナザルが厩舎きゅうしゃでラクダに水をやっている所までしつこく付いて行って、食い下がった。

ナザルは、いつもと様子が違い、暗かった。

彼は何も言わず、ただわずらわしそうに首を横に振った。

アイラ「ねぇ、ナザルってば!」

ナザル「駄目だって言ってるでしょう!!」

いきなり、ナザルは怒鳴どなった。


アイラ/エイジャ/リワン「!」

エイジャとリワンは、ナザルが怒鳴るのを初めて聞いて驚いた。勿論アイラもだった。

アイラは、強面こわおもてのナザルが本当に怖くて、知らない内に両目から大粒の涙があふれていた。

ナザル「あっ…」

ナザルはガシガシと頭をくと、苦しそうに言った。

ナザル「すみません…。姫、怒鳴って申し訳ありませんでした。…泣かんで下さい」

アイラ「う…ぅっ…」

アイラの胸は小刻みに震え、涙は止まらなかった。


ナザルは頭を掻きながら、ポケットからまた いつのか分からない棗椰子なつめやしの菓子を取り出して、アイラの目の前に差し出した。

アイラはそれを受け取って口に入れると、ムニュムニュと噛んだ。

アイラ「うっ…うっ…、やっぱりコレ、腐ってるよ。うっ…、酸っぱい…。うぅっ…」

ナザルはそれには答えず、大きく一つ息をつくと、アイラの前にしゃがみこんだ。


ナザル「姫、あなたを連れて行けないのは、あなたに見せたくないからです」

アイラ「知ってるよ? カルファを殺す気なんでしょ? それでキュンをごうに渡すんだよ」

アイラは、ムニュムニュと菓子を噛み、しゃくりあげながら言った。

ナザルは、目を見開いてアイラを見た。

アイラは、濡れた瞳に抗議の意を持ってナザルを見た。

アイラ「大人は、友達も殺すんだ」

ナザルは奥歯を噛んだ。目頭が熱くなって、自分が泣き出してしまいそうだった。


ナザル「違います!」

アイラ「大人は、嘘つきだよ!」

ナザルはそれを聞くと、頭を抱えて塞ぎ込んだ。

彼は項垂うなだれたまま言った。

ナザル「とにかく、あなたは今、この城から出る事はできません。キュンを取り戻せなければ、あなたが江に行く事になります!」


アイラ「だったら、リワンとエイジャを連れて行ってよ」

リワン/エイジャ「?!」

アイラ「アイラのふくしんだから、きっと役に立つよ。〈二人に〉ね?」

二人はいきなり話を振られて、反応が薄かった。

エイジャ「えっ? お、おー…」(役に立つって、何のだよ?)

リワン「……。」(姫は、カルファさんも無事に連れ帰って欲しいって事なんだろうけど、それは俺達の力では無理だな…)

ナザル「いや、子供だし…」

アイラ「父さまに聞いてくる! 江の詰所は東門の近くだったよね」

アイラは手の甲で涙をぬぐうと、走って行こうとした。

エイジャ (この時間から どうやって行くつもりなんだコイツは…)

エイジャは半目になった。

リワンは黙ってため息をついた。


ナザル「ちょっと!! 待った待った待った!!」

アイラはナザルから やや離れた所で立ち止まり、振り返った。

ナザルは、なかば投げやりになって言った。

ナザル「冗談も休み休み言って貰えますかね?! 冗談が本気だから怖いんですよ、あなたは!〈独り言のように〉ったく、何するか分かったもんじゃない…。

分かりましたよ! その代わり、あなたはここで大人しくしていて下さいよね?! こんな時に余計な仕事が増えたらたまりませんから! 〈リワン達を見て〉この二人だって、足手纏いだったら、途中で置いて行きますからね!」

アイラ「…分かった」

アイラは振り返ると、機嫌の悪いナザルをビクビクして見ながら、小さな声で了承した。



明朝、夜明けを待って、十名程の捜索隊が城を出発した。


・・・・


カルファが 前日の午後から抜け出したのは計画的だった。

彼は、逃亡が明るみになる頃、つまり日が暮れてからは、捜索隊が出ないだろうと踏んでいた。

荷車はスピードが遅いので、カルファは半日分 時間を稼いで、夜中の内に距離を稼ぎたかったのである。


カルファは星と月を見ながら進んだ。

夜の気温は、ぐっと冷え込んだ。

彼は、農民の妻が持たせてくれたウールのマントを羽織った。

王妃と子供の入った麻袋も、ウールの毛布で包んだ。

カルファは袋に毛布を巻きつけながら、こんな誰も居ない所で再び、農民の夫妻に感謝を口走った。

カルファ「ありがとう…」


満点の星空のもと、世界中に自分達 親子三人しか居ないのではないかと、カルファは思った。

それも悪くなかった。彼は一人、クスリと笑った。

城を抜け出し、国を抜け出して、こうして今 二人と一緒に居られることは、幸運が重なった奇跡的な事であったし、カルファにとって ありがたくてたまらない事だった。

カルファ「ありがとう…」

カルファは今度は、誰にという訳でもなく、白い月を見上げて また口走った。


・・・・


ナザル率いる捜索隊は、ごうの特使にキュン王女が行方不明になったという事情を伝え、北門を通過させてもらった。

北門は、朝早くから農民達が江兵に怯えながら、チラホラと作物を出荷していた。

カルファが警備の緩い北門から出ただろうという推測は、皆 同意見だった。

北門から出て、あとは東か西か。

北は雪解け水の恵みの元である山脈、南は荒涼とした砂漠が広がるばかりで、道は無かった。

ナザルは、カルファなら西へ行くだろうと思った。彼の見た目から、何となくそう思った。

それに、ごうに我が子を取られようとしているのに、わざわざそっちへ向かっては行かないだろうと思った。


ナザルは西へラクダを飛ばした。

子供が二人付いて来ている事は、この状況下で気にかけねばならない事ではあったが、二人ともラクダの扱いは上手だったので、まぁ足手纏いにはならなそうだった。

リワンとエイジャの乗るラクダは、なぜか頑強な個体が与えられていた。



西への道は、所々に隊商が行き、速度を出した使いと思われる者もあれば、隣国までくらいの装備で作物を運搬する荷車もあった。

早朝の涼しい風に吹かれながら、ナザル達一向は西へ向かって、それらの旅人や商人達を逐一見たり 声をかけて確認しながら、ぐんぐんと追い抜いて行った。

隣国へ入ってしまうと、見つけ出すのはまた難儀になる。

ナザルは、カルファ達を隣国へ入る前に捕まえたかった。


・・・・・・・・・


カルファは ひたすら西へ荷車を走らせていたが、このペースで行けばそろそろ追手が追いつくだろうと感じていた。


彼は小さなオアシスでラクダに水をやっている間、荷台の王妃と赤ん坊の様子を見るために麻袋の中をのぞいた。

二人は、袋の中で 暑さと疲労の為にぐったりしていた。

カルファ「…! 王妃様、大丈夫ですか…?」

王妃は目を瞑ったままかすかにうなずいた。

カルファは急いで二人を袋から出すと、荷台に積んである果物のかごから、葡萄を一粒ちぎって彼女の口へ入れた。

王妃は薄く目を開け、乾いた唇で葡萄をゆっくりと噛んだ。

キュンは目を覚ますと、珍しく不機嫌にギャンギャン泣き始めた。


カルファはキュンを抱き上げ荷台に寝かせると、自分の荷物の中に用意良く持って来ていたオムツを替えた。

カルファ「うわ、うんちだ…」

カルファは、キュンのヒヨコのように黄色いうんちのついたオムツを取ると、お尻周りを綺麗に拭いた。

そしてオアシスの水でオムツを洗うと、もう一度キュンのお尻周りを水拭きしてやった。

そして またそれをせかせかと洗いに行った。


王妃は薄く目を開けて、可笑しそうにその様子を見ていた。

王妃「いつから…、そんな事ができるように…なったの?」

カルファは彼女の顔色を素早く確認しつつ、自慢げに言った。

カルファ「父親ですから。あなたがやっているのを見ていました」

王妃はフフフ、と力無く笑った。


カルファは綺麗に洗ったオムツを荷台に干した。

汗も瞬時に乾いてしまう程の乾燥した空気と高温の為に、オムツは見る見る間に乾いた。


キュンは、オムツを替えてもらっている間も 終わってからも、ずっとギャンギャン泣いていた。

キュンの扱いについては、器用であるはずのカルファでさえ、本当にどうしたら良いか分からず、彼の神経を削った。


カルファは、赤子がギャンギャン無くことが、ぐったりして泣かない事よりもずっと元気な状態である事をあまり知らなかった。

彼は奇怪な大声を出す小さな怪獣を腕に抱いたまま、

カルファ「どどどうしよう? オムツ替えたのに…。どうしたら泣き止むんだろう…?」

と まごまごした。


王妃は、微笑んで父親からキュンを引き受けると、授乳を始めた。

彼女はクラクラしながらも 自分で荷台のかごから葡萄を引きちぎり、ムシャムシャと口に放り込んだ。

こんなに暑いのに、彼女は寒気がしていた。

カルファは、切迫感のあるギャン泣きが止まった事に、心底安堵した。

そして、こうして愛する母子を誰にも邪魔されずに見ていられる事に、つかぬ間の幸せを感じた。



カルファは王妃に言った。

カルファ「王妃様、もうすぐ隣国です。

ここからは荷車は置いて行きます。このスピードでは、そろそろ追手に追いつかれてしまいます。

隣国へ入れば、そこで暫くは身を隠す事ができます」

王妃は不安そうにうなずいた。


時間は、お昼時になっていた。

カルファは荷台の食糧を食べられるだけ食べると、葡萄を必要な分 ラクダに積み、残りは通りがかりの商売人に荷車ごとあげた。

王妃は元気が無く、あまり食べられなかった。

カルファは、胸のスリングにキュンを抱いた王妃をラクダに乗せ、再び西へ向かって速度を上げた。



・・・・・・・・・・・


碧沿へきえんの東門近くの江の詰所では、特使が王に、意地の悪い提案をしていた。

江の特使『キュン姫が行方不明とか…。どういう事ですかな。

別に、こちらとしてはどちらの姫でも構わん。アイラ姫でも良いのですぞ』

王『今朝 捜索隊が出発している。彼らが帰るまで、しばし待たれよ』

特使『フン』

特使は牢の中の王を嘲笑あざわらうように見た。


・・・・・・・・


王妃はラクダの上で、はぁはぁと荒い息をし始めていた。

どうかすると、胸元のスリングの中のキュンごと、ラクダから落ちてしまいそうだった。

カルファは彼女の額に手を当てた。

カルファ (熱…?!)

カルファは、昨日の夜中中よなかじゅう 荷台で眠っていた寒さと、日中の暑さと心労とで彼女が体調を崩した事に、唇を噛んだ。

カルファ(くそ…、無理させてしまった…。でもどうにか逃げ切らないと…)

カルファの表情は曇った。


隣国の仏塔が見えて来た。

カルファ「王妃様、もう少しで隣国です。頑張れますか?」

王妃は熱い息をしながら、コクコクと頷いた。



後ろから、速度のあるラクダの群れが近付いてくる音がした。

カルファは直感的に、それが追手であると分かった。

カルファ「王妃様、しっかり掴まっていて下さい。飛ばしますよ」

彼は、手綱を握りむちを持つと、遮るものが無い砂漠の中を、全速力でラクダを走らせ始めた。


カルファは、二人を乗せて必死にラクダを操った。

恐らくそれは、他の誰がやっても、彼ほど器用に二人を支えながらラクダを走らせる事はできないに違いなかった。


しかし、逃げる所も隠れる所も無い だだっ広い砂漠をこのまま行っても、単純な速さ比べでは、負けてしまうことは明白だった。


カルファは、隣国を間近にして、北の山脈の方へ進路を変えた。

カルファ (今 捕まる訳にはいかない…!)

彼は奥歯を噛んだ。

何としても、彼女と子供と、西の最果ての国まで辿り着かねばならなかった。

そこに、彼らを待つ 白い壁に青い屋根の小さな家を、彼は心の目ではっきりと見た。

カルファ (このひととこの子と、必ず幸せに暮らす!)

彼はそれだけを思って、起伏のある地形を巧みにラクダを走らせた。


後ろから、十頭程の追手がしぶとく付いて来た。

彼らの実力はよく知っていた。

城は近衛隊長が任されているならば、追手を率いているのは恐らく、一番手のナザルだ。



ナザル (カルファ、観念しろ。どうせ逃げ切れない!)

ナザルは 隣国のこの地を、何度か来て知っていた。

確か、滝のある渓谷があった筈だった。

ナザルは仲間に指示を飛ばしながら、カルファを巧みに渓谷へと追い詰めていった。

途中から、ナザルの指示でリワンとエイジャは姿を消していた。



とうとう カルファ達は、谷が後ろに迫った崖まで追い詰められてしまった。

谷には川がドォーと大きな音を立てて流れ落ちていた。

滝壺は木々に覆われ、虹ができていた。

カルファも王妃も、家族三人で逃げた この丸一日近い旅が、ここで終わりになる事を感じた。

カルファは口惜しそうに、ゆっくりとラクダごと後ろを振り返った。



ナザルが息を切らせて追いついた。

ナザル「カルファ、二人も乗せているのに流石だな。王妃様の護衛なだけある」

カルファは何も言わずにラクダを降り、スリングにキュンを抱いた王妃も下ろした。

王妃は荒い息をしながら ナザルを見つめた。

王妃「ナザル…、私が…頼んだのです…」

カルファ「!」

ナザル「それでも、許される事ではありません。彼のしたことは、王妃と王女の強奪です」

王妃「……。」

王妃は苦しそうにうつむいた。


ナザルは配下の者に少し下がるように手で合図し、崖っぷちに居るカルファに剣を抜いて近付いた。カルファも剣を抜いた。

王妃はカルファの前に無言で立ち、ナザルを懇願するように見つめた。

ナザルはため息をついて、一旦剣を下げた。

ナザル「全く…、度胸の良さは親子で似ていらっしゃる…」

後ろから、カルファが王妃の肩に手を当て、耳元で笑ってささやいた。

カルファ「心配しないで下さい。ナザルには負けませんよ」

そう言うと、彼は王妃を横に押した。


ナザルは上から振り落とした。

どこか芝居がかっていて、受けてくれと言わんばかりの太刀たちだった。

カルファ (…?)

カルファがナザルの剣を受けると、ナザルは声をひそめてカルファの耳元でささやいた。

ナザル「王様からの伝言だ。

お前の子供をごうに渡す事、本当に申し訳無い。が、こちらも譲れない。

お前はここで一度死んだものとして、今回の件は幕引きとする」

カルファ (?!)


ナザルはもう一度、振り落とした。カルファはまた受けた。

ナザル「頑健なラクダを用意しているから、どうにか江へ行って子供を見守れ。

お前達の事は 娘夫婦のように思っていたが、二人の幸せを叶えてやることまでは できそうにない。

王妃の事は、諦めてくれ」


カルファは ナザルの言葉を聞くと、信じられないという目でナザルを見た。

ナザルも、カルファを真っ直ぐに見返した。

子供の頃から一緒に育ってきた一つ下の友人と ここでお別れだと、ナザルは思った。


カルファの両目に涙が膨らんだ。

カルファ (あの人を、諦める…!)

彼は横にいる王妃を、目に涙をためて見た。

彼女は、はぁはぁと荒い息をしながら、心配そうにカルファを見つめていた。

カルファは胸が苦しくて、息が詰まりそうになった。


ナザルは一つ息をつくと、今度は横から振り入れた。カルファは惰性で止めた。

ナザル「そういう訳だからよ、俺にぶっ殺されるフリで、滝に落ちてくれや。死ぬんじゃねーぞ」

カルファ「…いや、その必要は無い」

カルファは観念したように言った。

ナザル「?」

カルファ「ナザル…。王妃様の事、頼んだぞ。それと王様に、感謝と謝罪を」

カルファはその体勢から 一度ナザルの剣を浮かせると、思い切りナザルを吹っ飛ばした。

ナザルは後ろに飛んだ。

配下が前に出ようとしたが、ナザルは手で制した。



カルファは剣を収めると、王妃と我が子の方を見た。

王妃は熱に浮かされながらも、一心にカルファを見ていた。

カルファは彼女の元へゆっくりと寄ると、キュンごと大きな胸に包み込むように抱きしめた。

そして王妃の耳元で、観念したように笑って言った。

カルファ「私は はっきり見たんですけどね、白い壁に青い屋根の小さな家を。

この道の果ての国で、あなたとキュンと暮らす家です」

王妃も、大好きなカルファの声を聞きながら、ありありとその家を想像した。

王妃「私も…、見えたわ。夕方、キュンが家の前で遊んでいて…、今あなたが帰って来た」

カルファ「あぁ、キュンが飛びついて来ましたよ。かわいいなぁ。夕飯は何ですか?」

王妃「お魚を焼いたの」

カルファ「キュンが喉にひっかけないように、むしってあげないと…」

王妃「そうね」

カルファ「そういうのは、私、得意ですよ」

王妃「知ってるわ」

王妃は、カルファの腕の中で、泣きながら笑った。


カルファは、王妃のスリングの中に居るキュンの小さな顔を、大きな両手で愛おしそうに包み込むと、その額に大事そうに口付けた。

カルファ「あなたとキュンを守れなかった私を、どうか許してください」

王妃はポロポロと泣きながら首を振った。

王妃「私、幸せよ。あなたを好きになって、あなたに愛されて、あなたの子供を産んで、私…!」

カルファはその言葉を聞くと、一瞬目を見開き、また柔らかく笑った。

カルファ「だったら、良かった…。私は…、生まれてきて、良かったです」

王妃「私も…」

別れが もうすぐそばに来ている。王妃はそう感じた。

どうにか、回避したかった。



彼女はカルファの服を力いっぱいに掴んだ。

王妃「待って…! 離れたくないわ! あなたと、離れたくない! お願い、どこにも行かないで! 罰なら全て私が受ける。何だってするわ。お願い! 私を置いて行かないで…!」


カルファは 青い瞳で苦しそうに、そして愛しさをこめて彼女を見つめた。

カルファ「ユエ…」

ユエは目を見開いた。


カルファ「ユエ、愛している。心から。

来世があるのなら、次こそは、俺と結婚してくれ」

カルファはそう言って彼女の顔を優しく両手で包むと、そっと口付けた。

ユエは目を見開いたままだった。両頬に涙が伝った。


唇が離れると、カルファは彼女を離し あとずさりした。

ユエ (待って…!)

引き止めねばならないのに、彼女は声が出なかった。

カルファは崖の下をチラリと見た。

そしてそのまま後ろへ下がり、ドォーと音のする滝壺へ落ちた。


ユエ「!? カルファ!! カルファ!!! カルファーーーー!!!」

ユエは取り乱して、そのまま崖から先へ落ちてしまう所だった。

王妃の胴体を、キュンごと 誰かが後ろへ引き留めた。ナザルだった。

キュンがスリングの中で弱々しく泣いた。

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