第36話 捕縛
カルファは、執務室からの足で 一階の医務室へ寄った。
そこには、リワンと 医官が一人居るだけだった。
カルファ「リヤンさん達は?」
リワン「街の怪我人の対応へ出ています。どうされましたか?」
カルファ「王妃様の安眠薬を貰いたい。気が昂っておられるから…。よく眠れるものを…」
リワン「…承知しました」
カルファ「あ…」
リワン「?」
リワンは振り返った。
カルファ「安眠薬は、母親が飲んだら、母乳を通して赤ん坊にも効いてしまったりするのかな? 害にはならないのか?」
リワンは微笑んで答えた。
リワン「王妃さまにお渡しする安眠薬は、赤ちゃんの身体に入っても大丈夫な物をお出しします。授乳をすれば、赤ちゃんにもある程度 効いてしまうかと思います」
カルファ「そうか、分かった」
リワンは軽く会釈して医官に報告しに行くと、暫くして小瓶を持って戻ってきた。
リワン「どうぞ」
カルファ「ありがとう」
カルファは行こうとしたが、一度リワンを振り返った。
カルファ「…リワン」
リワン「はい?」
カルファ「アイラ姫の事、頼んだぞ」
カルファは、透き通るような笑顔をリワンに向けた。
リワン「は…い…」
カルファは、キョトンとしたリワンの頭を 少しだけくしゃくしゃと撫でると、医務室を出て行った。
リワン (カルファさん…、何かいつもと様子が違うような…。気のせいかな…?)
リワンは、カルファの出て行った扉を見つめた。
・・・・・
次に、カルファは食糧倉庫へ寄った。
北門の制圧人員が少ないのもあり、食糧庫にはこの状況下でも 農民がチラホラ作物を納品しに来ていた。
農民達は目を白黒させて 城の表側の混乱を見ると、そそくさと帰って行った。
納品に来る農民の中に、カルファは運良く顔馴染みの男を見つけた。
カルファはその男に近付くと、事情を話した。
カルファ「どうしても今、碧沿から外に出なければならない。守りたい人が居る」
嘘は無かった。
農民の男は、一途なカルファの瞳に心打たれた。
そもそも この男は、以前 カルファに助けてもらった事があった。その時からの顔見知りで、彼はカルファに好意的だった。
カルファはかなりの金額で、彼の農業用の荷馬車と着ている服を買うことを取り付けた。
そこには、危ない橋を共に渡ってくれる彼への礼が、多分に含まれていた。
カルファは 食糧庫の隅の方へ一旦荷馬車を置くと、
カルファ「荷台で昼寝でもしていてくれ。暫くしたら戻る」
と言って、納品し終わって空になった大きな麻袋を二枚 持つと、それを重ねて、緩衝材に使っていた藁を適当に中に詰めた。
残りの麻袋は、荷台に乗った農民の男を隠すようにバサバサと掛け、カルファは足早に行ってしまった。
男は荷台の上でキョトンとしていたが、彼なら自分を悪いようにはしないだろうと思い、呑気に 午後の うたた寝を始めた。
・・・・
カルファが持ち場へ戻ろうとすると、城の前で 王が江の兵に両腕を掴まれて、連れていかれる所だった。市民と江兵とがせめぎ合い、酷い騒ぎになっていた。
ナザルに抱っこされたアイラが、泣きそうな顔で叫んでいた。
アイラ「父さま!? 父さま!!」
父は、一度だけ娘の声に振り向いた。
アイラの横には、エイジャとリワン、リファとリヤンも居た。
アイラを抱っこするナザルは、元気が無かった。
友人の、生まれたばかりの娘を 江に送るという知らせを、聞いたばかりだった。
王は馬車へ押し込まれた。
押し寄せる民衆を江兵が制する中、馬車はゆっくりと動き出した。
行き先は東門近くの江の詰め所だったが、城の前や、城を出た所の中央広場は大混乱で、馬車はなかなか前に進まなかった。例によって、大小の石が飛んでいた。
アイラは戦慄した。
アイラ (父さまが…、父さまがつかまっちゃった…!!)
アイラは、三年前に父王が江の特使へ頭を下げた時より 更に衝撃を受けて、目を見開いて騒ぎを見ていた。
リファ(アイちゃん…)
リファは、友人の父が乗せられた馬車と、絶句して見送るアイラの顔を、心配そうに交互に見た。
リワンもエイジャも 子供達は皆、王が捕えられた事に息をのみながら、騒動の一部始終を見ていた。
カルファも、後ろの方から目を見張ってその様子を見た。
カルファ (混乱か…。今がチャンスだ…!)
彼は足早に王妃の部屋へ戻った。
城の中は案の定、騒乱に皆が集中していて、人気が無くひっそりとしていた。
彼は、藁の入った麻袋を 中庭に向かって窓がある王妃の部屋の、窓の下に置いた。
カルファは部屋の前の見張りを交代すると、王妃の部屋の扉を静かに開け、中をのぞいた。
王妃はまだ眠ったままだった。
王妃の隣には、まだ寝返りの打てない我が子が、わたわたと手足を動かしていた。
カルファが キュンを揺籠ではなく母親の隣に寝かせたのは、その方が赤ん坊が安心してあまり泣かないと、この短い期間で学んでいたからだった。
カルファは部屋にするりと入った。
キュンは父親を見つけるとフワァと笑った。
カルファは娘に微笑み返すと、キュンの寝ている近くへ腰掛け、彼女を抱き上げた。
キュンは嬉しそうにフガフガと笑った。
カルファは苦しそうに娘を見つめると、もっちりとした彼女の垂れそうなほっぺに口付けた。キュンはまた笑った。
カルファ (この子は、絶対に渡さない…!)
彼は再び決意した。
彼は 窓の外に置いた麻袋を部屋の中に入れると、リワンから貰った安眠薬を口に含んだ。
カルファ (これは…、犯罪だ)
カルファは思った。窓からの光が彼の青い瞳にぼんやりと映った。
彼は硬い表情で、無防備な王妃に何度かで薬を移した。
王妃「ん…」
途中、彼女が起きるのではないかとヒヤヒヤしたが、どうにか眠ったまま眠ってくれた。
カルファは、王妃の服を緩めると、キュンを抱き上げ 母親の乳房に吸い付かせた。
キュンは、グイグイと乳を飲んだ。
片方を飲むと もう片方の乳房からも乳が滴り落ちるのは、何度見ても不思議なものだと 彼はぼんやり思った。
両方の乳からたっぷり飲むと、キュンはお腹がいっぱいになって、満足そうに眠り始めた。
カルファは一つ息をついた。
カルファ (さぁ、ここからだ)
彼は王妃のジャンパースカートを地味な物に手早く替え、装飾具を外し 枕の下に隠した。
そして、大きな二枚重ねの麻袋へ母子をそっと入れて、上に藁を被せた。
昼間なのにひっそりとした城の中を、使用人が通る道を通って、彼は影のように食糧庫まで急いだ。
城の表側からは、人々が騒いでいる声が聞こえてきた。
それは暴動に近い位の勢いだった。
・・・
城の一階でナザル達と父を見送っていたアイラは、何となく、ふと後ろを振り返った。
カルファが大きな袋を持って食糧庫へ入って行くのが見えた。
アイラ (あれ…? カルファ…? そうだ、カルファに言わなきゃ…)
アイラは、ナザルの抱っこを下ろしてもらった。
そして暫く、気落ちしてぼーっと街の混乱を眺めているナザルや、騒ぎに熱中しているエイジャとリワンを見て、そっと抜け出した。
・・・
カルファは無事に食糧庫まで辿り着いた。
ここまでがまずは第一関門だったが、ありがたいことに、騒ぎのお陰で誰にも会わずに済んだ。
彼は倉庫へ入ると、大きな麻袋を一旦 隅の荷馬車の近くへ下ろし、脂汗を拭いて安堵の息を吐いた。
そして表の様子を確認しようと、彼は入口から そろりと顔を出した。
アイラ「カルファ?」
後ろから、彼はいきなり幼い声に呼ばれた。
カルファは心臓が飛び出る程驚いた。
カルファ (アイラ姫…! 見られていた…?!)
彼はそう思うと、平静を装って振り返り、やっとの事で言った。
カルファ「姫…、こんな所へ お一人でどうされたのです? ナザルはどうしたのですか? 江軍が城の中まで入っておりますのに、一人で動き回っては危ないです」
アイラ「うん…。何かナザル、元気無かったから…。凄い騒ぎで、きっと皆 気付いてないよ」
カルファは半目になった。
カルファ (リワンもエイジャもまだまだだな…。ナザルまで、何やってんだあいつは)
カルファ「そうですか…」
アイラ「カルファに言いたいことがあるから来たの」
カルファ「え…?」
アイラ「江に連れて行かれるの、父さまがキュンにしたって、さっき聞いたよ」
カルファは僅かに目を見開いた。
アイラ「カルファ…、ごめんね…」
カルファ「!」
カルファはまた、目が潤みそうになった。
カルファ (この子は、俺がこれからやろうとしている事を知らない。俺はこの子から、母親を取り上げようとしているのに…!)
カルファは奥歯を噛み締めると、しゃがんで言った。
カルファ「そんな…、あなたが謝る事ではありません…!」
彼は目頭が熱くなって、それを彼女に見られまいと、不意にアイラをそっと抱きしめた。
アイラは、ちょっとびっくりした。
彼女は、大人の男にこんな風に抱擁された事は無かった。父に抱きしめられた事があったのだろうが、彼女の記憶には無かった。
カルファの顔は アイラの顔の後ろにあったが、アイラは彼が涙を堪えているのが分かった。彼の胸は小さく震えていた。
アイラ「カルファ、へんだよね。どうしてアイラやキュンの事を、他の人が決めるの? アイラもキュンも、居たい所に居られないなんて、へんだよ!」
カルファ「!」
カルファは目を見開いた。
カルファ「本当に…そうですね…。変です」
彼は涙を堪えて、奥歯を噛んだ。
アイラは抱擁を受けたまま、バシバシとカルファの背中を叩いた。
アイラ「カルファ、逃げたらいいよ! キュンと逃げなよ! ゼダみたいに、連れて行かれちゃっていいの?! もう二度と会えないんだよ?」
彼は、また目を見開いた。
そしてアイラを離すと、可笑しさを含んだ瞳で彼女を見つめた。
カルファ「あなたには…、いつも驚かされてばかりです。キュンが居なくなったら、あなたが江に連れて行かれるのですよ?」
アイラ「アイラも逃げるもん」
カルファは一瞬呆気に取られて、最後には笑い出した。
カルファ「そうですか…。フフフフ、姫が逃げるのなら、私も逃げようかな」
カルファは笑いながら、瞳を伏せた。
アイラ「うん。アイラ、ナザルに頼んで逃げる」
カルファは また笑った。
カルファ「あいつに相談したって、きっと逃がしちゃくれませんよ。真面目ですから」
アイラ「じゃあ、カルファは? アイラが逃げるの、手伝ってくれる?」
カルファは少しの間黙って、アイラを真っ直ぐに見つめた。
彼の瞳は澄んでいて、優しくて、それなのに強くて、なぜ母がカルファを好きなのか、分かる気がした。
カルファ「私があなたを逃がしてしまったら、王様が悲しみます…」
アイラ「…そうかな…? 父さまはアイラのこと、いつか しとじちに使おうと思っているんじゃない?」
カルファ「!」
カルファ (この子は…、そんな事をもう感じ取っているのか…?)
アイラ「カルファ?」
カルファ「〈ハッとして〉…すみません。王様はあなたを愛していますよ。江に送るのをキュンに決めたのは、あなたを渡したくないからです」
アイラ「うん…」
カルファは、口を尖らせている小さなアイラを見て思った。
カルファ (あぁ、やめようか…。この子は本当に良い子だ…)
それでもカルファは、許しを乞うようにアイラを見つめ、そして目を伏せた。
カルファ「あなたに、謝らねばなりません」
アイラ「?」
カルファ「到底許せる事ではないと思います。申し訳…ありません。許してくれとは、申しません」
アイラ「? …どういうこと?」
カルファは何も言わずに首を振ると、そっと立ち上がった。
カルファ「さぁ、もう行って下さい。ナザルが青くなっていますよ」
アイラ「うん…」
アイラはカルファを振り返りながら、ナザル達の居る城の表の方へ 戻って行った。
カルファは彼女の背中を、唇を噛んで見送った。
カルファ (姫、申し訳ございません…! 本当に…)
倉庫の中に戻ると、カルファは大きな麻袋の中の藁を避けて、中をのぞいた。
そこには、愛する女と我が子が眠っていた。
カルファは二人の様子を確認すると、またそっと藁を被せた。
彼は麻袋を荷台へそっと載せた。
荷台で居眠りをしていた農民の男が起きた。
カルファ「待たせたな。出発だ」
カルファはそう言うと、男と服を交換し、荷馬車を閑散とした城の北門へと向けた。
カルファ (もう、後戻りはできない)
カルファの青い瞳は、また鈍く光った。
・・・・・・・・・・
この日の夕食に、王妃は現れなかった。
この日、王妃は特段予定が無かったので、誰かが呼びに行くことは無かった。
彼女はこれまで時間を破る事は無かったし、護衛もいるのに 一体どうしたのだろうと、侍従は首を傾げながら呼びに行った。
すると、部屋の前に護衛の姿は無く、部屋の中には 所々藁が散っているばかりで、王妃とキュンの姿も無かった。
侍従は夕暮れの中、江の兵がうろつく中庭を探したり、アイラの部屋や王の寝室など 色々な所を探し回った挙句、血相を変えて近衛隊長の所へやって来た。
侍従「隊長! 王妃様がおりません! キュン姫も、カルファ殿もおりません!」
隊長/アイラ/ナザル「!」
エイジャ/リワン「……。」
皆は度肝を抜かれた。
・・・・・
隊長とナザルは、東門近くの江の詰め所へ、やっと収容されたばかりの王の元へ報告に行った。
アイラも、ナザルに付いて行った。
ナザルは初め、アイラが付いて行くと言うのを全く相手にしなかったが、
アイラ「父さまがどんな所に連れて行かれたのか、知りたいの!」
という彼女の懇願に折れた形だった。
アイラが来るとなると、エイジャとリワンもくっついて来る形になった。
アイラはナザルの馬に乗せてもらい、エイジャとリワンはそれぞれ自分で馬に乗って、江の詰め所まで来た。
父は牢の中に入れられていた。
アイラ「父さま…!」
アイラは胸が痛んだ。
父が牢に入れられているだけで、涙が出そうになった。
格子越しに近衛隊長の報告を聞くと、王はポツリと言った。
王「そうか…」
王はそう言って俯き、暫く何も言わなかった。
そして ふと立ち上がって、牢の中の小さな窓の近くまで行くと、外をぼんやりと見て言った。
王「王妃とキュンを、連れ帰ってくれ」
一同「…?」
皆は目を見開いて、はたと王を見つめた。
アイラ「…カルファは? ねぇ父さま、カルファは?」
王は、外を見たまま何も言わなかった。
ナザル「…!」
エイジャ/リワン「……。」
王「この件はナザルに一任する」
王はゆっくりとナザルを振り返って言った。
ナザル「…は」
ナザルは動揺しながらも、頭を下げた。
ナザルの握る拳が震えているのを、アイラ達三人は見た。
王「隊長は引き続き、城の方を任せる。頼んだぞ」
隊長「は」
隊長は、礼をして立ち去った。
ナザルも重い表情で出て行こうとすると、王は静かに言った。
王「ナザル、少し残ってくれ。話がある」
ナザルは、救いを求めるような目で王を見た。




