第36話 後悔
リワン「カルファさん…! カルファさん!! しっかりして下さい!!」
リワンが 水浸しになったカルファを揺さぶった。
・・・・
流石のカルファも、この谷の高低差を落ちる間に、意識が飛びそうになった。
彼は崖から生えている木にワンクッションある形で水へ落ちたため、滝壺へ叩きつけられる衝撃が緩められた。
彼は死なないつもりで落ちたが、それでも思った以上の衝撃があった。
水流の渦巻く滝壺の中を、彼は懸命に上へ向かって泳いだ。
が、視界の悪い中でカルファは がばがばと水を飲み込み、浅瀬に這い出した所で不覚にも意識を手放してしまった。
リワンとエイジャは、浅瀬に両手を掛けて倒れているカルファに駆け寄った。
びしょ濡れになって目を瞑るカルファは、子供の目から見ても、なかなかに艶っぽい大人の男だった。
リワンは、うつ伏せになっているカルファを仰向けにしようとカルファの腕を引っ張ったが、なかなかに重かった。
リワン「手伝え」
二人はカルファを仰向けにした。彼の身体の背中の方は水に浸っていた。
リワンはカルファの鼻に、自分の耳を近付けた。
カルファは息をしていた。
リワンは安堵のため息をつくと、彼を揺さぶった。
リワン「カルファさん…! カルファさん!! しっかりして下さい!!」
カルファは、耳が水に浸かってくぐもっていたが、誰かが自分を呼んでいる事に次第に気が付いた。子供の声だった。
彼の意識は戻りつつあったが、目を開ける所までは上がれないでいた。
カルファ (あぁ、起きられない…!)
彼は、油断すると再び深淵に落ちそうになる意識を保つのに必死だった。
・・・・・
リワンとエイジャが滝壺の岸へ待機していたのは、ナザルの指示だった。
彼がラクダを走らせながら二人に指示を伝えた時、二人は耳を疑った。
ナザルがここへ、カルファを落とすという話だった。
落ちた所を助け上げて、どちらかのラクダに乗せて逃がせとの事だった。
リワン (殺さないんだ! 姫、カルファさん、死にませんよ!)
リワンは、思わず胸が温かくなった。
エイジャ (へー…)
エイジャも、チラリとナザルの顔を見た。
ナザルは、当座の食糧と金を詰めた袋をリワンに預けた。
エイジャは、抜け目なく横目でその袋をチロリと見た。
エイジャに渡したら、中身が幾分減ってカルファに渡るだろうと踏んで、ナザルはリワンに預けたのだった。
滝壺の岸に着くと、二人は上を見上げた。
エイジャ「なぁ、この高さって、落ちたら死ぬんじゃねーの?」
リワン「……。木が…、衝撃を緩めてくれたら良いんだろうけど…。ナザルさん、本当にこんな所 落とすのかな…」
二人は無言で、木が茂る上の 見えない崖を見上げた。
しかし、カルファは本当に落ちて来た。
下で間が抜けたように待っていた二人は、いきなりの展開に度肝を抜かれた。
・・・・・
リワン「カルファさん! カルファさん!!」
リワンは再び、仰向けにしたカルファの肩を揺らした。
エイジャ「ちょっとどけや」
エイジャは自分の身体でリワンを横へ押しやると、カルファの頬を小さな手で バチバチと叩き始めた。
別にそこまで酷く叩かなくてもいいんじゃないかという位、先輩に対して微塵の遠慮も無かった。
カルファ (お、いいぞ。もう少しで上がれる…! …けど…、何か腹立つな…)
カルファの頬はみるみる赤くなった。
リワン「……。」
リワンは隣で、バツが悪そうに見ていた。
カルファ「!」
突然、カルファは目を開けた。
リワン/エイジャ「!」
リワン「気が付きましたか?!」
カルファは身体を起こそうとしたが、
カルファ「う…」
目眩がして視界が暗くなり、額を手で押さえて 再び元のように仰向けになった。
リワン「まだ無理しないで下さい」
カルファは木が生い茂る崖の上を、額に当てた指の間から ぼんやりと見つめた。
カルファ「……。助けて…くれたのか?」
リワン「ナザルさんの指示です。あ、そうだ、ナザルさんから預かった荷物の中に、何かお菓子があったような…」
リワンはゴソゴソと袋をあさると、いつのだか分からない棗椰子の菓子を取り出した。
リワン「これ…、ナザルさんがいつもポケットに入れてるやつだ…。食べられるのかな…?」
リワンはクンクンと臭いを嗅いだ。
カルファは額に手を当てたまま笑うと、手を出した。
カルファ「貰おう」
リワンは菓子を手渡した。
カルファはそれを口に入れた。
カルファ「酸っぱい…。あいつ、こんなのを姫に食べさせてるなんて…。キュンまで食べさせられる所だった…」
カルファは額に手を当てたまま、また笑った。
水浸しだったから見間違いかもしれなかったが、手で隠したカルファの両目から、頬に涙が伝ったように二人には見えた。
ムニュムニュと菓子を噛んで飲み込むと、カルファは額に当てた手を外した。
崖から生える木々の葉の間から、陽の光がチラチラと漏れていた。自分がさっきまで居た崖の上は、葉っぱと木漏れ日で見えなかった。
カルファ (ユエ…。まだそこに居るのか? あなたは泣いているだろう。
俺は許されない事をして、今 死んだ。もう碧沿には戻れない。ここで…、お別れだ。あなたを置いていく俺を、どうか許してくれ…。
だが キュンの事は、きっと守ってみせる…!)
カルファは、陽の光を青い瞳に映して、見えない空を仰ぎ見た。
カルファはヨロヨロと起き上がると、リワンから当座の食糧や金の入った袋を受け取り、どうにかラクダに跨がった。
リワン「お気を付けて…」
エイジャは ぴょこりと頭を下げた。
カルファ「あぁ、ありがとう。恩は忘れない」
カルファは寄りかかるようにしながら、ラクダを走らせ始めた。
少年二人は、先輩を見送った。
・・・
数日後、隣国内で調子を整えたカルファは、ラクダを西に向けて出立した。
東ではなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
王妃が目が覚めたのは、何もかも終わった後だった。
あれから幾日が経ったのか、何があったのか、彼女は分からなかった。
ただ、彼女の傍に、ご機嫌な小さなキュンの姿は 見当たらなくなっていた。
ずっと傍に居てくれた腹心 カルファの姿も無かった。
朝、王妃は自室で起き上がると、一人、呆然とした。
白いカーテンが、明るい光に舞っていた。
キュンのご機嫌に笑う声が聞こえた気がして、彼女は後ろを振り返った。
彼女は部屋を見渡した。
揺籠が、無くなっていた。
王妃は寝台からゆっくり立ち上がると、自分の赤ん坊が居ないか、部屋中を探し回った。
寝台の毛布を剥いで、長椅子のクッションをどけて、カーテンを開け放ち、その裏も見た。
そんな所に居る訳はなかった。
王妃「キュン! キュン!! どこへ行ったの?! キュン!!」
廊下の椅子に座っていた護衛が、声と物音を聞きつけて扉を開けた。
護衛「王妃様。気が付かれましたか? ど…どうされたのです?」
彼は、王妃が部屋中を滅茶苦茶にしているのを見て、たじろいだ。
王妃「…カルファ?」
王妃は、扉からのぞく護衛が 一瞬カルファに見えたが、彼じゃない事に気が付いた。
王妃「あ…」
彼女の心は、一瞬でざーっと砂嵐が吹いたようだった。
それでも彼女は訴えた。
王妃「子供が…、子供が居ないの…!! 私の赤ちゃんが居ないの…!!」
護衛は気の毒そうに告げた。
護衛「キュン姫は、三日前に江へ参られました。その日、王様が無事 城へ戻って来られました」
王妃は首を少し傾けて、放心して彼を見つめた。
彼は、王妃の見開かれた目が ちょっと怖かった。
護衛「王妃…さま…?」
彼が そう声をかけると、王妃は胸を押さえ 浅い息を繰り返し始めた。
護衛「王妃様…? 大丈夫ですか?」
心配そうな護衛の横を、王妃はヒタヒタと通り過ぎると、寝巻きのまま廊下へ出た。
護衛「王妃様…?」
彼がもう一度呼びかけた時には、彼女は裸足で走り出していた。
王妃 (キュンが江に連れて行かれた…? また? 私の子供が連れて行かれた!! 苦しい! 息ができない…! だ…誰か…、カルファ! 助けてカルファ…!)
王妃は廊下を闇雲に走りながら、戻らぬ時を 悔いて悔いて、悔いた。
王妃 (一体どこからが間違っていたの?
どこから直せば、幸せでいられたの?
キュンを産まなければ、こんな事にはならなかったの?
カルファと恋に落ちなければ良かったの?
ならば、一番初めのまま…、そうだ、カルファが ただの目立たない護衛で、私は彼の思いに気付かないまま暮らしていて…。
そうしたら 今だってきっと、彼はそっと後ろに居てくれて、あの澄んだ青い瞳で優しく見守ってくれていて…)
王妃は、後ろを振り返った。
少し遅れて、カルファの交代の護衛が 小走りで追いかけて来るのが見えた。
王妃 (違う…、あの人じゃない…!)
王妃は、また走り出した。
王妃 (あぁ駄目よ、それでも駄目だわ。
もしそうなら、アイラが江に取られてしまうのだもの。
だったら、アイラも産まなければ良かったの?
それなら、王様と結婚したのが間違いだった。
そうだ、私は覚悟ができていなかった。
王家の子供は政治に利用されると、分かっていたじゃない…!
分かっているつもりで、いざそうなってみたら、耐えられる事じゃなかった。
自分の子供と引き離されるなんて…!!
栄誉心に絆されて、踊り子風情が王妃になんかなるから こんな事になったのよ!)
王妃は自分を責めた。
王妃 (苦しい! 苦しい! 息ができない…!! あぁ、頭がおかしくなりそう! どうしたら…? どうしたらいいの?!)
後悔が、彼女の心臓と脳を 死ぬ程に締め上げた。
王妃は、また はたと止まった。
彼女は いきなりスーッと血の気が引いた。
王妃 「アイラ…? アイラ?! アイラは居るの?! アイラ!! どこにいるの?!」
王妃は寝巻きのまま、二階の広間に飛び出していた。
会議に集まっていた一同は、驚いて王妃を見つめた。
王も驚いた様子ではあったが、落ち着いて声をかけた。
王「王妃よ、気が付いたか…。もう六日も熱にうなされたまま…」
王妃は王の言葉を遮った。
王妃「アイラは?! アイラはどこにいるの?!」
王妃は、いきなり金切り声で叫んだ。
皆は 狂気じみた王妃の様子を、目を丸くして見た。
ナザルは 見ていられないというように、息をつきながら俯いた。
王「アイラは医務室に居る。キュンを江に引き渡す時に また事件を起こしてな、怪我をして寝ている」
王妃は、夫の言葉の途中で走り出し、一階への階段を駆け降りて行った。
皆は口を開けたまま、王妃の背中を見送った。
遅れて護衛が その後を追って行った。
ナザル (おいカルファ…。お前が愛した女は、お前と子供が居なくなって、狂っちまいそうだぞ。
結婚なんて、そんなに深入りしないで 利害関係で結ばれる見合い位が丁度良いんじゃないのか? そんなに好きになっちまったら、失った時、あぁやって、再起不能になっちまうんじゃないのか…?)
ナザルは、ポケットから棗椰子の菓子を取り出して、そっと口へ入れた。
ナザル「酸っぱ…」
彼は項垂れたまま、ムニュムニュと噛み締めた。
・・・・
王妃は一階の医務室へ走ると、扉を開けて飛び込んだ。
アイラ「…母さま?」
娘は奥の寝台で、上体を起こしていた。その小さな身体には、至る所に包帯が巻かれていて、痩せていた。
母は目を丸くして、娘に飛びついた。
熱い涙が後から後から溢れた。
王妃「アイラ! アイラ!! アイラーっ!! わぁああああ!!」
王妃はアイラを抱きしめて、なりふり構わず大声を上げて泣いた。
アイラ「痛っ! いたいいたい、痛いよ、母さま…?!」
王妃は、娘が自分を正気に繋ぎ止めてくれる、たった一本の糸のように思えた。
アイラは母の様子に驚きつつも、小さな両手を母の背中へ回した。
アイラの両隣の寝台で寝ていたリワンとエイジャも、目を丸くして王妃を見た。
騒ぎを聞きつけて奥から出て来たリヤンとリファも、王妃の異様な様子に驚いた。
医務室の扉が静かに開いて、王とナザルがそっと中の様子をのぞいた。
アイラ「母さま大丈夫? アイラはここに居るよ。
キュンを連れて逃げようと頑張ったんだけど…。できなかったの、ごめんね。キュン 連れて行かれちゃって、ごめんね…」
母はそれを聞くと、首を振りながら、アイラをきつく抱きしめて声の限りに泣いた。
周りの者達は皆、目を見合わせた。
リヤンがリファに何かを指示して、リファは奥へ消えていった。
アイラは、細くなった手で母の背中をさすり続けた。
暫くするとリファは戻って来て、父に器を手渡した。
リヤン「王妃さま、少し気が昂っておられるようですね。心が静まる薬湯です。眠くなりますので、暫くお休みになられては…」
王妃は差し出された器を、険しい表情で跳ね除けた。せっかくの薬が床に落ちた。
王妃「嫌よ! もう眠りたくない! 私が眠っている間に、子供を連れて行くんでしょう?! 許さないんだから! 私の子供を…! 私の… 大事な子供を…!!」
王妃は リヤンの服に掴みかかった。
リワン/リファ (!)
リヤンは少し驚いたような顔をしたが、されるがままにした。
アイラ「か…、母さま…?!」
アイラは、母の変貌ぶりに困惑した。
母は、はぁはぁと苦しそうに息をしていた。
王妃「こ…、この部屋は空気が足りないわ…、息が…できない! そ…外へ行かないと…!」
母はそう言うと、 出口の方へ這うようにして行った。
扉を開けると、そこには夫が心配そうに立っていた。
王は、妻に 静かに聞いた。
王「私を…恨んでいるか?」
王妃は泣きながら、憎しみを込めた目で夫を見て言った。
王妃「恨んでいるわ! あなたと結婚しなければ良かった! あなたと結婚したから、私の子供が取られてしまうのよ! 私は人質を作る機械じゃないのよ! 愛しても愛しても、奪われて…! はっ、はっ、苦しい…! 生き地獄よ! もういっそ殺して頂戴!
あぁ、私はもっと、普通の結婚をしたかった! 王冠も栄誉も、何一つ要らない! 平凡で…、愛に溢れて…、笑いに満ちて…」
王妃は浅い息をキューキューと繰り返したと思うと、倒れた。
王は、妻の腹を腕で受け止めた。
アイラが見た父の横顔は、傷付いたように いつになく消沈していた。
アイラ (と…、父さま…)
母までもが医務室の寝台に寝かされ、王とナザルが去ると、アイラは悲しそうに俯いた。
リヤンとリファは、王妃の寝台の側から、アイラの様子をそっと見た。
アイラの両隣の寝台に居るリワンとエイジャも、彼女の様子を見た。
エイジャ「え、何、お前の母ちゃん、大丈夫?」
アイラはエイジャの言葉を聞くと、シクシクと泣き出した。
エイジャ「はっ?! ウソだろ? そこ泣く所だった?」
リワン「エイジャ…」
リワンが嗜めるように言った。
アイラは小さくしゃくりあげながら言った。
アイラ「だって…、ウチの家族って普通じゃないけど、あれでも家族なのに…。
母さまがあんな事言うなんて…。父さまと結婚しなけりゃよかったとか、殺してくれとか…、うぅ…うっうっ…、アイラのことも、要らなかったのかな? うっ…うっ…。母さまが壊れちゃったら、どうしよう…」
アイラは、何が起こるか分からない家庭の中でも、唯一 拠り所にしていた母という確固たる柱が壊れそうになっている事が、とてつもなく恐ろしかった。
リヤン「姫…。もし姫が居なかったら、王妃様は本当に壊れてしまっていたかもしれませんよ。
子供を二人も失ったのです。その上、たった一人の腹心も失いました。王妃様の心は、目には見えませんが、血を流しています。自分が傷だらけなのに、人を気遣う事なんてできません。今は取り乱して当然です」
アイラ「うん…」
アイラは、寄る辺なく萎んでいた。
エイジャ「メソメソすんなよ、らしくねーなー。おめーさぁ、こないだのあの気合いは、一体どこ行った訳よ」
リワン「エイジャ…!」
リワンはまた、嗜めるように言った。
・・・・・・・・・・・・・・・・
<六日前>
アイラは二人の腹心の帰りを、城でじりじりしながら待っていた。
特使「キュン姫が帰らなかったら、アイラ姫、あなたに江に来てもらいますからな」
特使はアイラを見下ろして言った。
アイラ「やだよ! アイラは江になんか行きたくないもん! キュンだってそうだよ!
行くなら父さまが良いよ! 父さま キュンに行けって言うなら、自分が行けばいいんだよ!」
特使はそれを聞いて一瞬止まり、爆笑した。
碧沿の要人達は、ガックリと頭を垂れた。
特使「それは…! それは面白いですな!! クッ、フハハハ! しかし王が居なくなっては、この国はお終いですぞ? それとも、あなたが王になるのですか? 七つで? 異民族の襲来が多いこの地を、あなたが守れるのですかな?」
特使は涙が出る程 笑った。
アイラ「……。」
アイラは奥歯を噛んで俯いた。
彼女は浅慮なりに、ある計画を企てていた。
アイラ (もしキュンが帰って来たら、カルファが逃げられなかったってことだ…。
そしたら、今度はアイラがキュンと一緒に逃げる!
カルファは、ナザルは真面目だから逃してくれないって言ってたな…。
じゃあ、リワンとエイジャは手伝ってくれるのかな…?
話したら、ナザルに告げ口されちゃうかな…?)
アイラは二階のバルコニーを、行ったり来たりして考えていた。
アイラ (いいもん。手伝ってくれなくても、一人でもやるもん!ゼダの時はできなかったけど、アイラ、前より大きくなったもんね!
アイラとキュンは、月と太陽、助け合うんだから! 妹を連れて行っちゃうなんて、絶対許さないよ!)
その時、バルコニーから ナザル達 十名程の捜索隊が帰って来るのが見えた。
アイラは急いで 一階の広間へ駆け降りて行った。
アイラ「母さま…! キュン!」
ナザルは 王妃を抱えていた。母は高熱にうなされ、うわ言を言っていた。
母のスリングの中のキュンも、もう殆ど泣く元気も無く、ぐったりしていた。
アイラは心配で、小さな胸が痛んだ。
ナザル「姫…。只今 戻りました」
ナザルは元気が無かった。
アイラはナザルの表情を見て、目を見開いた。カルファは居なかった。
アイラ (…!)
アイラは、ナザルの大きな歩調に 走りながら付いて行った。
一階広間の横の医務室へ入ると、キュンは取り急ぎ、城の乳母に渡され、母も寝台に寝かされた。
アイラ (もっと元気に帰って来ると思ってたのに…)
アイラはしょんぼりして医務室を出ると、リワンとエイジャを探した。
ラクダを厩に繋いだリワンとエイジャが一階の広間に入って来ると、アイラは駆け寄って行った。
アイラ「おかえりなさい」
リワン「只今 戻りました」
二人とも初めての遠出で、疲れた様子だった。
アイラ「カルファ、キュンと逃げ切れなかったんだね…」
リワン「そう…ですね…」
リワンは俯き加減で、目を逸らした。
アイラ「…カルファは…? どうしたの?」
アイラは不安そうに、二人をまっすぐに見つめた。
二人は、チラと目を見合わせた。
カルファが生きていると知っているのは、王とナザルと、この二人だけだった。
ナザルに、絶対に口外するなと言われていた。
二人は黙り込んだ。
アイラは二人の顔を見ると、ポツリと言った。
アイラ「ナザルが殺したんだね…」
アイラは、食糧庫の前で話した時の、カルファの真っ直ぐな優しい眼差しと抱擁を思い出した。
エイジャ「あー…、いや…」
アイラ「?」
エイジャは否定しようとしたが、リワンの視線に気付き
エイジャ「いや、見てねーから分かんねぇ」
と言った。
アイラ「見てない? どうして?」
リワン「別の所に待っていろと言われたので」
アイラ「そっか…」
アイラは俯いて、眉根を僅かに寄せた。
リワン/エイジャ「……。」
アイラ「二人とも行ってくれてありがとう。ゆっくり休んでね」
アイラはそう言うと、踵を返した。
アイラ (どうして? カルファは自分の子供を守ろうとしただけなのに…! そりゃ、母さままで連れて行っちゃったのはダメだけど…。でも、どうして殺さないといけないの? ナザルのバカ! お友達のくせに! こっそり逃がしてあげれば良かったじゃない!)
アイラは唇を噛んだ。
二人は、主人の背中を見送った。
リワン/エイジャ「……。」
エイジャ「あいつには…、教えていーんじゃねーの? あいつ、ナザルに噛みつきそうじゃね?」
リワン「……。姫に言ったら、全員に言うのと一緒だ。姫は隠し事ができない」
エイジャ「ま、な…」
リワン/エイジャ「?」
アイラは途中で はたと足を止めると、くるりと振り向き、眉根を寄せたまま また二人に近付いてきた。
リワン「どうしました?」
アイラは、リワンを上目遣いに見ると、腰の剣を指差して
アイラ「それ、見せて?」
と藪から棒に言った。
リワン/エイジャ「……?」
二人は、またアイラの読めない行動に固まった。
リワン「え…、何で…ですか?」
アイラは眉間に皺を寄せたまま暫く黙り込み、無い知恵を絞った。
アイラ「……。瓜を…切るから」
二人の護衛は、途端に半目になった。
エイジャ (どうせつくなら、もっとマシな嘘ねーのかよ! どっから瓜が湧いて出たんだよ!)
リワン「……。姫、ではその瓜、私が切りますから、持ってきて貰えますか?」
アイラ「今は…無いの…」
リワン「では、ある時に切りましょう。あと、できれば果物用のナイフが良いですね。剣は錆びたら嫌なので」
アイラ「果物用のナイフ…」
リワン/エイジャ「……。」
二人は不穏な空気を感じ、眉根を寄せた。
アイラ「分かった」
アイラは また踵を返して歩いて行ったが、またまた振り返って、スタスタと戻って来た。
リワン/エイジャ「?」
アイラ「ねぇ…」
アイラは、言いにくそうに下を向いてモジモジすると、二人にコソコソ話をするような格好をして言った。
二人は耳を寄せた。
アイラ「…手伝ってくれる?」
リワン「…何を…ですか?」/エイジャ「何を?」
アイラ「だからその…、アイラとキュンが逃げるのを。二人は私のふくしんでしょ?」
リワンとエイジャは、主人の 途方も無い考えを知り、遠くを見つめた。
疲れていたのが、更にどっと疲れてきた。
リワン「姫…、よく考えて下さい。カルファさんでも逃げ切れなかったのに、どうしてあなたが逃げきれる…」/エイジャ「お前さぁ、ホント馬鹿なんな。どうやって? え、ホントどうやって逃げるん? お前とキュンで、え? ホントわかんないんだけ…」
アイラ「分かった! やっぱりいい!」
アイラはそう言うと、また踵を返し、今度こそ医務室に入って行ってしまった。
二人は、生ぬるい目でアイラの消えた医務室の扉を見た。
エイジャ「やばい気がする…」
リワン「…だな」
エイジャ「また何か やらかす気がする…。どうやってキュンと逃げるつもりなんだろ?」
リワン「刃物に興味を持たれていたな」
エイジャ「キュンを連れてく江の兵と戦う気かな…。果物ナイフで」
リワン「それなら…、まぁ大した事にはならないんだろうけど…」
その日の夕食の後、果物ナイフが食卓から一つ消えている事に、残念ながら誰も気付かなかった。




