第33話 勉強
王は、執務室で額を机に付けて突っ伏していた。
会議の為にノックをして入って来た側近は驚いた。
側近「王…さま? ど…どうされましたか?」
王は突っ伏したまま言った。
王「何でもない。そうか…、会議だったな…」
王は十歳位老けた顔で、ゆっくりと顔を上げた。
彼は額が丸く赤くなっていた。
続いて、わらわらと大臣達が入って来た。
側近「…王妃様がいらっしゃらないようですが…」
王「良い。王妃は暫く欠席だ。体調が優れぬ」
側近「そうですか…。では来週の隣国からの来客対応は…?」
王「欠席だ。王妃の予定は全てキャンセルだ!」
・・・・・・・・
母はこの所、横になってばかりいた。
光が眩しいと言って、中庭に出るどころか、カーテンを閉め切って部屋に引きこもっていた。それでも眩しいと言ってもう一枚カーテンを付けてもらっていた為、部屋は薄暗かった。
アイラ「母さま、どうしたの? 病気になっちゃったの?」
アイラは、ぐったりと長椅子に横になっている母を、心配そうに見つめた。
王妃「少し体調が悪いだけなの…。心配しなくて大丈夫よ」
アイラ「うん…」
王妃「さぁ、お稽古に行ってらっしゃい」
母は、娘の頭を優しく撫でた。
アイラ「うん…」
母が体調を崩してから、アイラの舞の稽古は 母ではなく 城の舞い手達に混じって練習するようになっていた。年齢的にも、彼女はそろそろ見習いに入れる歳だった。
アイラは心配そうに母を見ながら、部屋を出て行った。
部屋の外には、カルファが椅子に座っていた。
カルファはアイラを見ると、ニコッと微笑んだ。
アイラは彼に軽く手を振って、トタトタと走って行った。
彼はアイラを見送ると、部屋の外からそっと声をかけた。
カルファ「王妃様、入ってよろしいでしょうか…」
王妃「えぇ」
カルファは、そっと扉を開けて長椅子に寄り、心配そうに彼女を見つめた。
彼は跪くと、俯いて一つ息をついた後、顔を上げて言った。
カルファ「王妃さま…。その…、申し訳ありません…」
王妃「…なぜ謝るの?」
カルファ「あなたに…、このような身体の負担を強いてしまって…」
王妃は首を振った。
王妃「私が望んだ事だわ」
カルファ「あなたが望んだのは愛までで、子供までは望んでいなかったでしょう」
王妃「そうね、考えてはいなかったけど、でもこうしてあなたの子供がお腹にいると思うと、幸せなの」
彼女は安らかに微笑んだ。
カルファ「…!」
王妃「あなたは? 子供は望んでいなかったわね?」
カルファ「私は…、もし生まれ変われるなら、あなたと平凡な家庭を気付いて、子供ができて、などと空想していた位で…。今生ではとてもそんな…」
王妃は一度目を見開くと、少し悲しそうに微笑んだ。
王妃「素敵ね…、その空想」
カルファは、ハッとして彼女を見た。
昼間なのに薄暗い部屋の中で、王妃の眼差しは柔らかな愛で溢れていた。
カルファ「はい…」
彼は はにかんだように笑って、残念そうに目を伏せた。
王妃は、大きく息を吸うと言った。
王妃「私、産みたいの」
カルファ「えっ?!」
カルファは度肝を抜かれた。当然、堕胎するものと思っていた。
王妃「あなたの子供、産みたい」
カルファ「そんな…、あり得ません。一体どうやって…」
王妃「分からないけど…。王様に言ってみるわ」
カルファ「そんな…」
"そんな図々しい…"カルファはその言葉を飲み込んだ。
・・・・・・
王は何も言わなかった。
締め切った執務室の中で、彼は例によって、王座の前をウロウロした。
王妃「あ…の…」
カルファは、彼女の後ろに控えながら、到底 無理な要求だと思った。
どうかすると、今すぐ堕胎薬を飲めと言われるのではないかと思った。
王「少し考えさせてくれ」
王は、やっとそれだけ言った。
王妃「…!」
カルファ「?!」
二人は、半ば諦めかけていた望みが 一蹴されなかった事に驚きながら、執務室を出て行った。
一人 執務室に残された王は、王座に座ると、窓からの乾いた風を感じてぼんやりと肘をついた。
王「愛人の子供、か…」
彼は呟いた。
禿げかけた ごま塩頭が熱い風に揺れた。
・・・・・・・
元々(もともと)、アイラの父は王ではなかった。
彼には、すぐ上の姉の上に、更に三人の兄が居て、五人兄弟の末っ子だった。
兄が三人もいるのだからと、アイラの父は 幼い頃から気楽に過ごしていた。
頑強で闘争心の強い兄達と比べられ、武術も勉学も からっきし振るわない彼は、密かに"うらなり"などという不名誉な呼ばれ方もされていた。
だが その闘争心が災いしたのか、兄達は勇猛果敢に戦場に出て、短期間の内に次々と亡くなってしまった。
王座に就いていた一番上の兄はといえば、流行病でポックリと逝ってしまい、男が三人も居たのに、誰も居なくなった。あっという間だった。
それで、アイラの父は四十を超えた頃になって、いきなり王座が転がり込んで来るという、まさかの事態に遭遇する事となった。
彼は、自らも"うらなり"と自認していたため、本当に何の準備も無かった。
彼は元来 心優しかったが、多少"こだわり"が強く気難しかったため、その年まで結婚もしていなかった。
アイラの父 (俺…いや、わ、私には無理だって…!)
彼は思った。
彼は、おっかなびっくり初めて王座に座った時、何故か痺れた。
王「しゃっ?!」
新たな王の小さな悲鳴を、周りの従者達は聞こえなかった事にしてくれた。
座ったら座ったで、今度は元から弱い胃がキリキリと痛んだ。
ありていに言えば、アイラの父は あまり"器ではない"男だった。
彼は急ぎ、王妃を迎えなければならなかった。
大臣の娘など、周りからは散々色々と勧められたが、彼には実は、好きな娘がいた。
宴の席で光るように舞う、城の踊り手の一番手だった。二十二歳 年下だった。
大臣「踊り手などと! 何の教養もございません!」
周りは、自分の利害も絡んで大反対だった。
王「教養が無いのは私も同じだ。誠実ならばそれで良い」
王は反対を他所に、彼女に打診した。娘は"謹んでお受けする"と返答してきた。
夫婦は、王子と王女に恵まれた。二人の子供の内、幼い王子は異国に取られてしまった。妻は泣いた。
その内に、若い妻は恋をしたようだった。
相手は、彼女が少女の頃から、宴の席でいつも焦がれるような切ない視線で彼女の舞を見つめていた少年であり、今は彼女の護衛だった。
王は、妻の恋を許した。
以来 彼は、男女としての関係や思いは変化したが、それでも、彼女を愛していた。
それは人間としてであったし、友人のようでもあったし、どうかすると娘としてのようでもあった。
彼は今でも、彼女の幸せを願っていた。
彼女の行きたい所には、できる限り連れて行ってあげたかった。
彼女の望む体験は、できる限りさせてあげたかった。
彼女の喜ぶ姿を見るのが、彼は今でも好きだった。
王 (愛人の子供か…)
彼は目を瞑り、ゴシゴシと眉間を手の腹でさすって頭を抱えた。
王 (いや、彼女にカルファとの関係を認めた時、想定はしていた。これは感情的なものだな)
彼は、煮え切らない胸の内を吐き出すように一つ息をつくと、茶色の瞳を薄く開いた。
王 (私の子供は、もうアイラ一人か…。いや、悪くない話なのかもしれん…)
彼は、夫でも父でもなく、王としての目でそう思うと、ゆっくりと王座から立ち上がり、窓際まで歩いた。
王 (それとも、私はただのお人好しなのか?)
彼は窓の外の明るい光を見ながら、老兵のような顔で自らを笑った。
・・・・・・・・・
翌日、王妃とカルファは執務室に呼ばれた。
王「その子は、私の子という事で産むと良い。それでどうだ?」
王は、妻と その後ろに控えるカルファをじっと見た。
王妃「あ…ありがとうございます!」
カルファは、信じられないというように青い目を見開いた。
・・・・・・・・・・・
安定期に入ると、王妃の妊娠が公表された。
カルファは交代で兵舎に戻って来ていて、またいつもの階段に座っていた。
彼は、ぼんやりと遠くを見つめていた。
ナザルが後ろから寄って来て、隣に座った。
ナザル「………。」
カルファ「………。」
二人は、どちらもなかなか口を開かなかった。
初めに喋り始めたのはナザルだった。
ナザル「王妃様、ご懐妊だってな」
カルファ「……。」
ナザルは、横に座る友人の顔をチラと見た。
何だか彼は、この所 感情が揺らいでいるのが外からも見て分かり、あんなに影が薄かったのに、存在感が増してきていた。
悩める友人は、ぼんやりと前を見たまま口を開いた。
カルファ「なぁナザル…」
ナザル「ん?」
カルファ「俺は…、あの方に今生をかけて、恩を返さないといけないな」
ナザル「あの方って…、王妃様か?」
カルファ「それもそうだけど…、王様だ」
ナザル「おう…」
ナザルは口をへの字に曲げ、頬杖をついてナザルと同じ方を見た。オレンジ色の太陽が沈もうとしていた。
二人はその後、何も話さなかった。
・・・・・・・・・・・
アイラ「やだもん! お勉強行かない!」
エイジャ「はぁ?! お前さぁ、勉強できんのって、普通 無料じゃねーんだぜ? 無料で習えるって意味、分かってんの?」
エイジャの目は、銭になっていた。
エイジャとリワンは、午前中の訓練という名の下働きが終わり、兵舎で昼ごはんを済ませた所だった。
アイラが、ルンルンと兵舎に二人の様子を見に来た。後ろからリファも付いて来ている。
午後から、エイジャはアイラの勉強に一緒に付いて行く筈だった。
アイラ「アイラ、困ってないもん」
エイジャ「そりゃ、城でチヤホヤされてっからだろーが! つかおめーさ、字書けんの?」
アイラ「少し書ける」
エイジャ「じゃあ、自分の名前書いてみろや」
アイラはしゃがみ込むと、指で地面に書いた。
リワン「…姫、読めませんね」
アイラ「えっ?!」
リファ「アイちゃん、もう六歳だし、そろそろお勉強始めた方が良いよ…」
アイラ「……。」
リワン「僕は、読み書き計算ができる方が好きですよ」
リワンはアイラを見て、ニッコリと笑った。
アイラ 〈ガーン〉
アイラ「じゃあ、リワンも一緒にお勉強しようよ」
リワン「僕はもう字は書けますし、計算もできます。リファもまぁまぁできますし…。
今後は、江と草馬の言葉を覚えようと思っています。外国語なら一緒に習えますよ」
アイラ「う…。じゃあ、ただ付いて来てくれるだけでもいいから…。 アイラ、先生がイライラするの、怖いんだよね…」
リワン「僕らは今日の午後は医務室の手伝いで、父や医官の皆さんに習いますので…」
アイラ「……。」
アイラは、しょんぼりと俯いた。
リファが、アイラの後ろから半身を出すようにして、おずおずと言った。
リファ「エイジャ、アイちゃんの事、困ってたら助けてあげて?」
エイジャ「はぁ?! んな事、できる訳ねーだろ! こっちだって初めてだっつの!」
リファは言い返されてビクビクしつつも、黙って自分の頭を指差して、
リファ「約束」
と言った。
エイジャは途端に表情を曇らせた。
エイジャ「う…。分かったよ! クソ…。〈アイラに〉ホレ、行くぞ!」
アイラはどんよりと沈んだ。
アイラ「行きたくない…」
エイジャ「俺は行きてーの! 読み書き計算、ぜってーできるようになりてーの!
お前付きって事で、俺も習えるんだからよ! 俺の為に横に座っとけばいいから!」
エイジャは、アイラの手を強引に引っ張って行った。
アイラは俯いて、連れて行かれる子牛のようだった。
二人を見送りながら、リファは目をパチパチして言った。
リファ「大丈夫かしら…」
リワン「いや、あの二人、意外に相性が良いかもしれないぞ?」
リワンは、ちょっと可笑しそうに笑った。
・・・・・・・・・
結論から言うと、エイジャは大変に優秀だった。
文字も計算もすぐに理解し、すぐに覚えてしまった。
今日が初めてなのに、足し算引き算の、繰り上がり繰り下がりまで行った。
先生「ほう、これは大したものだ。機会が無ければ、宝の持ち腐れになる所だったな」
初老の先生は、驚いたように笑った。
エイジャ「っす」
エイジャは、ぴょこりと頭を下げた。
態度はすかしていたが、気分は最高だった。
エイジャ (やっべぇ! これで仕事の幅めっちゃ増えたぞ! 身体張らなくても頭だけで稼げるようになるかもしんねぇ! とりあえず、この計算をゴリッゴリにやれば、ここクビになっても、宿屋の帳簿役にはなれる! こいつにマジ感謝だぜ!!)
エイジャは横に居るアイラを、キラキラして見た。
そのアイラは座礁していた。
先生「姫、七と三で幾つですか?」
アイラは手の指を使って数えていた。
エイジャ (うわ、マジか…。そんなん覚えちまえばいいのに。こいつ本当にできないんだ…)
エイジャは横目で、難しそうな顔をしているアイラをじろじろと見た。
アイラ「十」
先生「そうです、そこまでは ずっと前になりますがやりましたね。
では六は、三と あと何でできていますか?」
アイラ「?」
先生「三たす何が六ですか?」
アイラはまた指を使って数えた。
アイラ「三」
先生「そうです。ですから、七たす六は、そうなるとどうなります?」
アイラ「…どうして三が出てきたの?」
エイジャ (うわ…)
エイジャは顔をしかめた。
先生はちょっとイラついてきた。
先生「…ですから、六は 三と三でできていますよね?」
先生は細い木の棒で、地面に丸を六つ書いた。
アイラ「え? は…い…」
先生「で、七と三が十でしたでしょう?」
先生はまた、地面に七つ丸を書き、六の内の三つを、七と一緒に囲った。
アイラ「う…ん…」
先生「そうしたら、十と、あと何が残りました?」
アイラ「…?」
アイラは目をパチパチした。
先生「こ・れ・です!」
先生は六つの丸の内、囲まれていない三つの丸を、木の棒でペシペシと叩いた。
アイラ「…三?」
先生「そうです。ですから、七たす六は、つまりどうなりますか?」
アイラ「……三…?」
先生はがっくり来た。
エイジャ (マジか…)
エイジャは愕然とした。
アイラ「あ、違う違う、そんな訳無いか。えぇと…」
アイラは、また指で数え始めた。
アイラ「十二?」
彼女は 指で数えたのに、数え間違えていた。
エイジャ (ウソだろ…?!)
エイジャは、アイラの横で目を見張った。
先生「……。」
先生は、暫く何も言わなくなってしまった。
そして、大きく深呼吸をすると、もう一度初めから説明しようとした。
先生「ですから…」
エイジャ「せ、先生!」
エイジャは割って入った。
アイラ「こいつ…じゃない、姫はまだこういうの、難しいのかもしれませんよ。時期的に? 俺 後で一緒にやりますから! その代わり、俺 もっと先 習いたいっす!」
先生はため息をついて頷いた。
先生「そうだな、その方が時間の使い方としては賢そうだ…」
アイラは、エイジャが隣でスイスイ理解していくのを横目で見て、しょんぼりと俯いた。
彼女は何もする事は無く、暇潰しに地面に渦巻きを書いた。
それはまさに、アイラの心中だった。
・・・・・・・・
お茶の時間になると、二人は先生の前を辞して、中庭を帰っていた。
下を向いたままトボトボと歩くアイラの後ろから、エイジャが頭の後ろで手を組んで付いて来た。
エイジャは、アイラのしょんぼりした顔を見て言った。
エイジャ「お前さ…」
アイラは卑屈な顔でエイジャを振り返った。
エイジャ「……。いや、何でもねーけど…」
アイラ「なによ、言いたいことがあるなら言ったらいいよ。どうせバカだとか言いたいんでしょ!」
アイラは眉根を寄せて、泣きそうな顔になった。
エイジャは ため息をつくと、そこら辺から小石を拾ってきて、東屋にアイラを引っ張って行った。
彼は、小石を七つと六つで置いて、動かしながら今日の復習をした。
ついでに、その小石で数を違えて、反復と応用もした。
それでも、アイラの理解は怪しいものだった。発達段階的に、という部分も多少あった。
いつの間にか、そろそろ夕方になってきていた。
エイジャ「字は何とかなってたよな? ヘタだけど」
アイラ「どうせヘタだもん」
エイジャ「あ…、いや…、そーじゃなくてよ…」
エイジャ (コイツがヘソ曲げたら、俺 習えなくなっちまうからな…)
エイジャは柄にも無く何かフォローを入れようと考え、頭をポリポリと掻いた。
後ろからリワンとリファが、医務室の手伝いを終えて やって来た。
リワン「どうでした? 姫。久々のお勉強は」
アイラは、リワンの声を聞くと、彼の言葉を思い出した。
<回想>
リワン「僕は、読み書き計算ができる方が好きですよ」
<回想終わり>
アイラの頭の中に、リワンの言葉がこだました。
彼女は唇を噛むと、ダーッと駆けて行ってしまった。
リワン「あっ…」
リファ「アイちゃん…?」
アイラの背中を見送ると、リワンは振り返ってエイジャを睨んだ。
エイジャ「ちげーって! あいつ、あんまりできねーから、今まで今日のおさらいしてたんだよ!
ったく、あいつがヘソ曲げちまうと俺まで習えねーのに…」
リワン「……。」
リワンは、エイジャをじっと見つめた。
エイジャ「あいつ…、ホント持ってねぇのな。俺 今まで、貴族とか王族とかって、全部持ってるんだと思ってた」
リワン「……。姫は…持っているものが違うだけだ」
エイジャ「ま、な。それは俺もそう思う。
ただよー、ほーんと、何で?!って位、できねんだわなー。特に計算。もうホント、からっきしダメ!」
リワン・リファ「……。」
三人は黙り込んだ。
・・・・・・・・・・
結論から言うと、エイジャはこれで、すこぶる頭が良かった。
読み書きと計算以外にも、歴史、外国語、地理など、何を習ってもすぐに理解し、すぐに覚えてしまった。
四人で一緒に外国語を習った時などは、その要領の良さに、リワンとリファは密かに目を見張ってエイジャを見た。
当のエイジャは、集中していて彼らの視線には全く気付かなかった。
エイジャは、勉強が楽しくて楽しくて堪らなかった。
元々彼は、知識を得る機会が殆ど無かった。いつも身体を使うばかりで、別にそんなものだと思っていた。
が、ここへ来て、彼の環境は一変した。
彼は、聞いたことがある事や、街で見かけた事などを思い出し、"あぁ、あれはそういうことだったのか"とか、"なるほど、だからあぁなっていたのか"などと、スパーンと明快に納得した。
彼の世界の色は、今までと比べものにならない程、鮮やかで詳細になった。
エイジャは、砂に水が染み込むように吸収し、更に貪欲に知を求めた。
もっともっと、もっと知りたかった。
対してアイラは、劣等感という新たなる感情を知る事になった。
今までは、先生一人に自分一人だけだった。
"お勉強、嫌い"で逃げれば済むことだった。
が、あの三人と一緒に習うと、アイラは 自分が"壊滅的に"出来が悪い事を、認識せざるを得なかった。
あとの三人が"並外れて"出来が良すぎるのも、また祟っていた。
アイラは勉強に行きたくなかった。
が、エイジャの希望に燃える生き生きとした瞳を見ていると、自分のせいで彼が行けなくなるのは悪いと思った。
それで 我慢して行って、針のむしろのような所にじっと座っていた。
しかもこの所は、エイジャが じゃんじゃん学びたがるので、午後は毎日のように先生の所へ行っていた。
するとその内に、図太いようで神経の細いアイラは、また胃痛でご飯が食べられなくなってきた。
そこへ来て初めて、エイジャは気が付いた。
彼が勉強へ行く時に引っ張るアイラの手は、いつの間にか骨ばっていた。
エイジャ「あ…れ…? …お前、痩せてね? いつからこんなだった?」
エイジャはいつも、胸を躍らせて前を向いてアイラを引っ張って行っていた為、彼女を振り返る事など無かった。
この日はたまたま、手を取る時に彼女の手を見たのだった。
アイラは俯いたままそれには答えず、ポツリと言った。
アイラ「お勉強、行くんでしょ」
エイジャは、アイラを穴の空く程 じっと見つめた。
良く見ると、彼女の腕や脚は、いつの間にか細くなっていた。
エイジャ「…! いい、行かない」
エイジャはそっぽを向いて言った。
アイラ「別にいいよ? 座ってればいいし」
エイジャ「こっちだって、別にいい。……。お前さ、ちゃんとメシ食えよ」
アイラ「うん…。食べたいんだけど…」
アイラは俯いた。
エイジャは これはいけないと、また直感的に思った。
それは、地下水路にアイラを一人置いて行こうとした時と同じ感じだった。
エイジャ「ちゃんとメシ食えよな! ……もう…、勉強行かなくて…いーからよ…」
エイジャは、本当はすごく残念だった。その気持ちが、彼の最後の方の言葉を萎ませた。
彼はそっぽを向いたまま、目を伏せてそう言った。
アイラは、目を見開いた。
ぶわっと涙が溢れた。
彼女は、出来の悪い自分が、情けなくて悲しかった。
そしてまた、あの劣等感から解放されると思うと、心底安堵した。
アイラは、後から後から溢れる涙を、痩せた両手で猫のように拭った。
エイジャはギョッとした。
そして、アイラの苦しめられている劣等感は、自分も知っている筈なのにと思った。彼のポリシーに反した。
エイジャ「泣くなよ…。悪かったって、無理に引っ張って行ってよ」
アイラ「別に…、あんたに引っ張られたから行ったんじゃないもん」
アイラはヒックヒックとしゃくり上げた。
・・・・・・・・・・・・・
リワン「すまない、僕も気付かなかった…」
リワンは、エイジャやナザルと情報共有する中で、大いに反省した。
エイジャ「いや別に…、あいつに くっ付いてんの、殆ど俺だし…」
ナザル「王様や王妃様も、今は手一杯で気が付かなかったんだろうな…。かく言う俺もだし…。
まぁ、これからは しばらく勉強行かないんだろ? 少しずつ食べられるようになるだろ。王様と王妃様には、俺から報告入れとく」
リワン「はい」/エイジャ「っす」
ナザルは行ってしまった。
エイジャも行こうとした。
リワン「おい」
エイジャは振り返った。
リワン「お前は学びたいんだろ?」
エイジャ「……。別に…」
エイジャは口をとんがらせて、そっぽを向いた。
リワン「俺とリファが習っている時に来たら良い。先生に頼んでおく」
リワンは、エイジャと話す時は、一人称が"俺"になっていた。
エイジャ「?! お前、俺の事 嫌いなんじゃねーのかよ?!」
リワン「嫌いだ」
エイジャ「……。」
リワン「だが、お前が優秀である事と、俺がお前を嫌いな事は、関係無い。
俺達が王族だから学べて、お前が一般市民だから学べないという理由は無い筈だ。やる気があるならな」
エイジャ「…!」
リワン「午後に先生に習う日は伝える。ナザルさんに言っておけば、姫のことは外出でもしない限り、問題無い筈だ」
エイジャ「!」
エイジャは目を見開いてリワンを見た。
リワンは、エイジャを緑がかった目で見流すと、ニコリともせずに行ってしまった。
エイジャ (何だあいつ…?! え? あいつ、何?!)
エイジャは、感情よりも論理を優先する今まで接した事の無い人種に、唖然としてその背中を見送った。




