第27話 家出
アイラが、ボーイッシュになったリファを見たのは、その日の朝だった。
彼女がいつものように、中庭で母と舞の稽古をしていると、リファが恥ずかしそうに下を向き、父と手を繋いで医務室の手伝いに来た。リファは今日は、頭にピンク色の見慣れぬ布を被っていた。
アイラ「リファ、おはよう!」
アイラは中庭から声をかけたが、リファはコソコソと父親の陰に隠れてしまった。
アイラ「…? 母さまちょっと待ってて」
アイラはリファに近付いて行った。
リファはよく見ると、泣き腫らした目をしていた。
アイラ「リファ、…どうしたの?」
リファ「……。」
王妃も寄ってきた。
王妃「おはようございます」
リヤン「おはようございます、王妃さま」
リファは悔しそうに唇を噛んで、ひっくひっくと泣き出した。
リファ「エイジャに…」
リファの声は震えていて、あまり聞き取れなかった。
アイラ「え?」
リファ「エイジャに髪の毛を切られちゃったの…。うっ…うぅっ…」
アイラ・王妃「ええっ?!」
リファは、頭に被った布をするりと取った。
リファは男の子のような髪型になっていた。ざんぎりは、朝 母が急いで切り揃えてくれ、目立たなくなっていた。
アイラ・王妃「…?!」
アイラと王妃は、あんぐりと口を開けた。
少し離れた所に居たカルファも、驚いて目を丸くした。
カルファ (あのクソガキ…)
カルファは渋い顔をして、昨日と同じ事を思った。
アイラ「えっと…」
アイラは何と言っていいか、咄嗟に思いつかなかった。
アイラ「リ…、リファは髪が短くても可愛いんだね!」
リファ「アイちゃ〜ん!」
リファは、アイラにわぁーっと泣きながら抱きついた。
リファ「恥ずかしいよぉ〜! エイジャなんて大嫌い! うっ…、うぅっ…!」
アイラ「うん…。そうだね…。ひどい…。え…っと? そしたら、エイジャはどうしたの?」
リファ「あんな子 知らない!」
リヤン「今朝 居なくなっていました」
アイラ「ふーん…」
王妃「何だかすみません…。私 昨日お邪魔してエイジャと話したのに…」
リヤン「いえそんな! 王妃さまは関係ありませんよ!
私も、昨夜 妻から、エイジャがリファを虐めるのがエスカレートしていると相談を受けた所だったのに、翌日にこれで…。
寝る場所を工夫するとか、他にも色々、もう少し目を光らせなければいけませんでした…。リファがこうなるまで、子供なんて多かれ少なかれイタズラなものだと思って、対応が遅れてしまって…。
でも、まだ髪の毛で良かったです。また伸びますからね。
リファの枕元に羊の毛刈り用のハサミが置きっぱなしになっていたんですけど、今朝それを見たら、顔に傷付けられたり、どうかしたら命まで取られていたんじゃないかとまで頭をよぎって、ゾッとしてしまって…。
大人は。信頼はしても目は光らせておかないといけませんね。やられた方も、やった方も、未熟さ故に傷付いてしまいます。ウチは大人しい子ばかりなので、こういう事態が想定できてなくて…、本当に、反省しています…」
王妃「いえ、リヤンさんもミーナさんも、本当によくやっていらっしゃいます! エイジャったら、何でそんな事を…」
リヤン「……。」
リヤンは思案顔で小さく息をつくと、リファの短くなった頭を撫でてやった。
リファはまた頭に布を被ると、泣きべそをかきながら父と医務室に入って行った。
アイラ「……。あの…、母さま…。ナザルと一緒に、街にエイジャを探しに行っちゃダメ…?」
王妃「えぇ?! あんな事する子の側に、あなたを置けないわ。…やっぱり…、お友達になるのは難しいんじゃないの…?」
アイラ「うん…」
アイラは俯いたまま、首をくねくねと傾げた。
娘が納得していない様子を見てとると、母は小さくため息をついた。
王妃「お父様にご相談してみましょう?」
アイラ「うん…」
・・・・・・・・・・・
王「なるほどな…。確かにそれは、いたずらの度が超えているな…」
王妃とアイラは、広間に居る王の公務の隙間を縫って、相談を持ちかけた。
王「つまり、こちらの感覚や常識が通用する子ではないかもしれん、と言う事だな?」
王妃「はい…。昨日見た感じだと、そんなに悪い子には見えなかったのですけど…、こんな事をするなら、アイラやリファの側に置くのは心配です…」
王「そうかぁ…」
アイラ「で、でも…」
王「ん?」
父と母はアイラを見た。
アイラ「この前の襲撃の時、エイジャ、一人で逃げようと思えば逃げられたのに、アイラを置いて行かなかったんだよ? 昨日それを言ったら、こっちもその方が良かっただけだ、って言ってたけど、でも、私が危ない時に、何度も煉瓦を投げつけて助けてくれたんだよ? わざわざ出て来なくてもよかったし、一人で先に逃げることもできたんだよ?」
王「そうか…」
父は手元から顔を上げ、アイラをじっと見据えて言った。
王「お前は…、あの子を信用できそうなのか?」
アイラ「分からないけど…。でも何かわけがあるのかもしれないし…、聞いてみたいの。だから、父さまお願い、ナザルと街に探しに行かせて!」
王は暫く考えた。
王「どこに居るか、見当が付くのか?」
アイラ「あ…」
王妃「リヤンなら知っているかもしれませんわ。エイジャが路地裏で大怪我をして倒れていたのを見つけたのは、リファだったそうですから」
王「そうか…。では行ってこい。護衛をもう一人付ける。用が済んだら、すぐに帰って来るように。いいな」
アイラ「うん! ありがとう父さま」
王妃は、勇気を出して口を開いた。
王妃「あ…の…! 私も一緒に行きたいのですが…」
王は目を丸くした。
王「…どうした…? お前が街に行きたいなどと…。エイジャにそれ程 興味があるのか?」
王妃「いえ、そうではなくて…。
アイラと、お嫁に行くまで これからは沢山一緒に色んな所へ行こうと話したのです。ですから…。
それに、今 街の様子や皆の暮らしがどうなっているのかも、見て来たいのです」
王「そうか…。……。むむ…」
王は顎髭を弄りながら、眉間に皺を寄せて また暫く考えた。
それはかなり難色のように見えたが、
王「分かった。二人とも気を付けて行ってこい」
と眉間を指で抑えながら王は言い、王妃の後ろに控えるカルファを見て言った。
王「頼んだぞ」
カルファ「はっ」
・・・・・・・・・
アイラと母は、城の正門から、使用人のような地味な格好で街へ繰り出した。アイラは、食べ物を入れたカゴを持っていた。
二人の横には、それぞれナザルとカルファ、後ろにも一人ずつ護衛が付いていた。
母と子は手を繋ぎ、初めてのお忍びのお出かけに、リファの惨状は一旦忘れて、二人とも胸が踊っていた。
先日の草馬の襲撃以来、碧沿市民の 江に対する不満は、少しずつ形になって現れ始めていた。
それは、税の取り立てや言論統制などの締め付けに対する反発であり、食糧・物資の提供や、従順な対応にもかかわらず、自分達を守ってくれなかったという怒りだった。
少し耳をすませば、そこかしこで、誰が亡くなったとか、江の兵は何の為に駐屯しているのか、などという話が聞こえてきた。
アイラ「何か…、皆、怒ってるね…」
王妃「そうね…。当然だわ…」
王妃は、歩きながら申し訳なさそうに俯いた。
アイラ達が、南大路へ向けて バザールの立ち並ぶ城の前の広場を歩いていると、江本国と碧沿とを定期的に行き来する江の使者の一行が、東大路から馬で駆けてくるのが見えた。
王妃は、この格好なら王妃だと分からないだろうとは思ったが、念のため顔を背けた。
使者一行が 丁度アイラ達と通りすがる時、どこからともなく小石が飛んで来た。
それは幾つか飛んで来た。
ナザルとカルファは咄嗟に警戒して、それぞれの警護対象を庇い、後ろの二人の護衛も、剣に手をかけて警戒した。
江の使者一行の護衛達が、石の飛んできた方へ馬を向けると、それはすぐに止んだ。
現れた不満は、初めはその程度のものだった。
王妃は、カルファの腕の中で、鼓動の音が聞こえてしまうのではないかという程ドキドキした。
状況が落ち着いてカルファが手を緩めると、彼の腕の中には、真っ赤になって俯いた王妃が居た。
カルファは、彼女を見て 自らも目が泳いでしまい、パッと横の定位置に退いた。
ナザル「……。」
アイラ「……。」
ナザルと、彼に抱っこされたアイラは、二人の そのぎこちない様子を、目をパチパチしながら凝視していた。
アイラ「母さま、お顔が真っ赤…」
ナザル「姫、それ以上 言わんでいいです」
アイラ「ふーん…?」
ナザル (オイオイ。あの後どうなったか聞いてないけど、初恋ですか! お二人さん!)
アイラ達は、リヤンから教えてもらった南大路の街の診療所の近くまで来ると、付近の路地を一本一本見て回った。
王妃「確か、パン屋さんの横の路地って言ってたけど、お店が無くなっちゃってて、分からないわね…」
アイラ「うーん…」
アイラは、母と手を繋いでキョロキョロとした。
アイラ「あっ!」
アイラは斜向かいの路地に、見覚えのある人影を見つけた。
王妃も娘の視線の先にエイジャを見つけ歩き出そうとしたが、アイラは首を振った。
アイラ「皆で行ったら逃げちゃうかもしれないから、アイラとナザルで行ってくる」
王妃は、護衛の皆と目を合わせて意思疎通すると、
王妃「分かったわ…」
と言った。
アイラはナザルと一緒に 彼の居る路地の近くまで行くと、ナザルに表通りに立っていてもらい、一人でエイジャの前に立った。
エイジャ「?」
エイジャは地味な格好をしたアイラを見て、一瞬誰だか分からなかったが、彼女だと分かるとギョッとした。そして、キョロキョロと周りを見た。
アイラ「ナザルと来たの。今日はちゃんと、父さまに言ってから来たもん」
表通りから、ナザルが少しだけ身体を出してエイジャを見た。エイジャはそれを見ると、
エイジャ「あっそ」
と素っ気なく言った。
エイジャはリワンの"きちんとした"服を着たまま、片膝を立てて壁に寄りかかり、乾いた地面に座っていた。
王妃は、娘に来るなとは言われたもののやっぱり気になり、残った皆でソロソロと通りを渡って来た。そして、ナザルと同じように表通りの壁に張り付き、聞き耳を立てた。
エイジャは目を逸らして言った。
エイジャ「何? 何か用?」
アイラは、エイジャの隣に腰を下ろした。
アイラ「居なくなったって聞いたから」
エイジャ「……。」
アイラ「リファの髪、どうして切ったの?」
エイジャ「……。腹減ったから」
アイラは、持ってきた食べ物を詰めたカゴをエイジャに差し出した。
エイジャ「おーっ! 気が利くじゃーん!」
エイジャは嬉しそうに、早速 肉を手に取ると、ガツガツと頬張った。
アイラ「どうしてお腹が空いたら、リファの髪を切るの?」
エイジャ「ミーナが盗みはするな、って言ってた」
エイジャは忌々しそうに言った。
アイラはハッとして、エイジャの顔を見た。
アイラ「うん、それで?」
エイジャ「で、髪を売ってる店が目に入った。あいつの髪なら売れると思った。別にお前のでもいーんだけどよ」
エイジャはニヤニヤして、アイラの一つおさげを見流した。
表で聞いていた王妃は、目を見開いた。
アイラ「ダメ! それって、お財布じゃないけど、髪盗んでるじゃん!」
エイジャ「あー」
表通りで聞いていたナザル達は、うんうんと頷いた。
エイジャ「つかさー、俺、何かムカついて仕方ないんだわ、あいつ。虐めたくなる」
アイラ「リファ? 何で?」
エイジャ「わっかんね。別に髪の店が無くても、何かもう、あいつのこと めちゃめちゃにしてやりたいみたいのあって。実は今、結構満足してる。今頃どんな顔してんだろ、とか思うと、痛快」
アイラは眉間に皺を寄せて、暫く黙った。
アイラ「泣いてたよ」
エイジャ「だろ?」
エイジャは下を向いて小さく笑った。
アイラ「何で?」
エイジャ「……。俺さ、あんま合わねーのかな、ちゃんとした暮らし? ちゃんとした家族? 何か、居心地わりーんだよな。俺が居る場所じゃねー気がすんだわ。気後れするっつーか…。俺みたいのが居ちゃいけねーんじゃねーかって」
アイラ「ふーん?」
エイジャ「そこへ来て、あいつみたいに何もかも恵まれた奴見ると、腹立つんだよな」
アイラ「じゃあ、アイラの事も嫌いなの?」
エイジャ「んー…? …お前ってさ、王女とか言ってっけど、何かバカじゃん?」
アイラ「……。」
表通りで聞いていた王妃は、ぴくりと眉を動かした。
エイジャ「別にそんなに可愛くもねーし、全部持ってる訳じゃねー、つーか。
いや、どっちかってーと、お前 俺寄りだよな? でき悪くね? 何か、あんま持ってねーじゃん、踊れる位で。あと全部ダメじゃね? いや、よく知らねーけど、パッと見た感じ。
お前は、たまったま間違って王女に生まれたってだけで、中身で言ったら、リファの方がぜってー王女だよな?」
アイラ「……。」
カルファ (たまたま間違って王女に生まれただけ…)
ナザル (パッと見た感じ、踊れる位で あと全部ダメ! 厳しい…。厳しいが……、合ってる!)
ナザルとカルファ、他二人の護衛は、目だけ動かして王妃の顔を見た。
王妃は微動だにせず固まっていた。
エイジャ「しかも、お前言い返してくるじゃん。うぜーことに。
でもあいつはさ、可愛くて、性格も良くて、頭も良くて、頼れるかっこいい兄貴が居て、親も揃ってて、親は医者と美人で、全部持ってて、んで、何しても言い返せねーじゃん。気ぃ弱くってさ。だからもう、めちゃめちゃにしたくなる。引きずりおろしてやりてーよ! 俺の居る所まで」
アイラ「……。リファのこと、好きなの?」
エイジャ「はぁ?! いつそんな事言ったんだよ?! んな訳ねーだろが!!」
アイラ「可愛くて性格良くて頭も良いって言ってた」
エイジャ「ちげーしっっ!!」
アイラ「自分の居るところまで引っ張りたいって、一緒に居たいってことでしょ?」
エイジャ「はぁあ?! 何言っちゃってんの?! お前ホント、頭煮えてんじゃねーの?!」
アイラ「……。」
カルファ (頭煮えてる…)
ナザル (酷い…)
ナザルとカルファ、他二人の護衛は、再び目だけ動かして王妃の顔を見た。
王妃の美しい横顔は、一瞬だけ般若のように見えた。
アイラ「それで? これからどうするつもりなの? もう兵舎には戻らないの?」
エイジャ「いや、兵舎には戻りてー。メシ食えるし、居心地悪くねぇ」
アイラ「でも、あんたがリファの髪切ったこと、父さまも知ってるよ」
エイジャ「うわ…。誰だよチクったの…」
アイラは眉間に皺を寄せた。
アイラ「……。あんたさ…」
エイジャ「あ?」
アイラ「言い返すけどさ」
エイジャ「おー」
アイラが耳打ちするような格好をしたので、エイジャは耳を寄せた。
アイラは思い切り息を吸い込み、鼓膜が破れるような声で叫んだ。
アイラ「バカなんじゃないの!? あんなの誰がやったか、すぐバレるよ!」
アイラは、耳を抑えて突っ伏すエイジャを見もせずに、プンプンと路地裏を後にした。
アイラのあとに、王妃と護衛達が続く。
皆それぞれに、無言だった。
帰り道、また碧沿の市民達のヒソヒソ話が聞こえてきた。
市民1「後ろ盾が江だけだから、こんなにやりたい放題なんだよ」
市民2「そうだよな。もう少し草馬の力と拮抗させねーとなぁ」
市民3「そんな事できるのかな? 碧沿の軍も支配されてるんだろ?」
市民1「うーん…。何か…、軍事力以外で できること無いのかな…」
・・・・・・・・・・・・
城へ帰ると、王妃とアイラは王に、また彼の公務の隙間時間を縫って、今朝の事を手短に報告した。
王「そうか…。リヤンの所は、エイジャの境遇とは あまりにギャップが大きかったということか…。なら、兵舎なら居られそうなのだな」
王妃「そのようですわ」
王「では謹慎期間が明けたら、また兵舎で暮らして良いと伝えなければな。リファの件で気後れしているだろう」
アイラ「じゃあ、また食べ物を届けに行く時に、エイジャに言っとく」
王「…お前がまたが行くのか?」
アイラ「うん。エイジャ、ミーナおばさまに盗みをするな、って言われたから、リファの髪切って売っちゃったの。エイジャ、お腹空いたらまた悪いことしそうだもん」
王「そうか…。なるほど、確かに逸脱しているな…」
王は眉間に皺を寄せてアイラを見た。
アイラ「??」
王「危ういが、注意は受け入れているのだな。今後の教育で、倫理観の軌道修正ができると良いが…」
アイラ「?? いつだつ?」
王「外れている、ということだ。今回は髪の毛だったが、食べ物の為に身近な人を殺すような外れた感覚を持っているのなら、幾ら有能でもお前の傍には置けん。危ない」
アイラ「うん…」
アイラは くねくねと首を傾げた。
アイラ (エイジャは、リファの事を好きなのもあるんだけどな…)
王妃「リファの件でお咎めは無しですか…?」
王「リヤンと話したがな、罰は要らないそうだ。ミーナもそう言っているらしい。
だがリワンが怒っているそうだから、謹慎が明けて 二人がまた城に出入りするようになったら、まぁ一悶着あるだろう。
何分 子供同士だからな、何をするか分からん。よく見ておくようナザル達に伝えてくれ」
王妃「はい」
王妃は、後ろに居るカルファをチラと振り向いた。
カルファは、承知したというようにコクリと頷いた。
二人は目を合わせず、赤くなり、ぎこちなかった。
王「……。」
王は二人の様子を見ると、少し首を傾げながら 次の会議に行ってしまった。
・・・・・・・・・・・・・
その夜、王は疲労困憊して寝台に入ると、隣に居る妻に聞いてみた。
王「…カルファとは…、進んでいないのか?」
王妃「! な、何もありません! 変なことをおっしゃらないで下さい!」
王「ふむ…。あいつも器用なようでいて、意気地が無いなぁ。あそこまで言ってやったのに…。機会が無いのかなぁ…」
王妃「あなた! 意地悪言わないで下さい」
王「フフ、そうか? ふむ…」
王は優しく王妃を見ると、思案げに天井を見上げたが、疲労の為に間も無く瞼が落ちてしまった。
王妃は早くもいびきをかき始めた夫に、そっと毛布を掛けて微笑んだ。
王妃「あなた、お疲れ様です。
忙しいのに、いつも私の事を気に掛けてくれて、ありがとうございます」
王妃は、夫の横に猫のように丸くなって、満足そうに眠りについた。
それは、お父さんに なついて、その傍に眠る猫のようだった。
・・・・・・・・・・・・
城では、しきりと先だっての草馬襲撃の件について議論されていた。
碧沿の首脳達も、もう少し草馬に寄るべきだという市民らの考えと同意見だった。
王は、江に波風を立てないよう、じわじわと施策を始めた。
軍に関しては江に全て仕切られていたので、できる範囲の事を少しずつ進めることにした。
まずは、影の薄くなっていた城の草馬出身の常駐役人達に、少しずつ仕事を振った。
それは、草馬の馬や家畜や武器を優先的に買いつける仕事であったり、草馬からの品にかける税の割合を、優遇する仕事であったりした。
市場でも、草馬の品を売る店を人通りの多い場所へさりげなく移し、隊商達に草馬の品を優先的に斡旋した。
これらの施策は、できるだけ目立たないように進められた。
碧沿を流通する富は、じわり、じわりと草馬の商人を潤していくことになった。
・・・・・・・・・・・
数日後、アイラは母と一緒に、再びエイジャへ食糧のカゴを持って南大路へ向かっていた。
しかしエイジャはこの日、いつもの路地裏に居なかった。
アイラ「あれ…?」
表通りのドアが壊されたまま、細々とまた商売を始めたパン屋のおばさんが、見通しの良い出入口から丁度出て来た。太って、パンのようなおばさんだった。
パン屋「あぁ、いつもそこに居る男の子? 黒猫みたいな。
さっき顔なじみの若い大工が仕事に連れてったよ。北大路の地下水路 掘りとか何とか」
アイラ「ありがとう、お姉さん!」
パン屋「あいあい」
パン屋は笑って一旦引っ込んだが、また出てきてアイラに包みを渡した。
パン屋「昨日の売れ残り。チビのくせに力仕事して、腹空かしてんだろよ。行くなら持ってってやって」
アイラ「うん!」
アイラは、エイジャがなぜここを縄張りにしているか、理解した。
王妃「アイラ、北大路までは遠いわ。今日は諦めない?」
アイラ「でも、きっとお腹空いてるよ」
アイラはパン屋から貰った包みの中身を見た。欠けたり割れたりしたパンが幾つか入っていた。
ナザル「…馬、借りましょうか」
アイラ「うん!」
六人は近くで馬を借りると、アイラはナザルの馬に、王妃はカルファの馬に、他二人の護衛もそれぞれ一騎ずつ乗って、四騎で北大路へ向かった。
王妃は、カルファの前に乗っている間中、カルファの腕の中で真っ赤になって身を固くしていた。手綱を掴む逞しい腕が、俯き加減の彼女の視界に入る。
そもそも、馬に乗っけてもらう段階から彼女は真っ赤だった。
カルファが先に乗り、彼は王妃の手を取って引っ張った。
王妃はスカートをたくし上げ、鎧にどうにか足を掛けた所までは良かったが、引っぱり上げて貰う時に大分バランスを崩し、カルファの胸に前から飛び込む形になった。
王妃「きゃっ!」
カルファは後ろのめりになりながら、王妃を片方の腕で自分の胸にしっかりと抱き止めた。
王妃は、彼と密着した時、心臓が壊れてしまうのではないかという程バクバクした。
彼女は、それがカルファに伝わってしまうのではないかと思い、カルファの胸に手を当てて、自分の身体を離した。
実際には、王妃のバクバクは 彼女の胸が 彼の胸に密着した時に、カルファに伝わっていた。
そしてまた、王妃が彼の胸に当てた手からも、カルファの心臓のバクバクが伝わっていた。
カルファはハッとして王妃を見た。王妃も手から伝わる彼の鼓動にハッとして、カルファを見た。二人は、至近距離で一瞬見つめ合った。
王妃は彼の胸からパッと手を離すと、赤くなったまま俯き、前を向いて馬に跨った。
カルファの方は、彼の密かな努力により 殆ど表情を変えなかったが、彼も彼で 耳まで赤くなっていた。
アイラ「……。」
ナザル「……。」
アイラとナザルは、馬の上から ほおけた顔で二人を見ていた。
アイラ「母さま、お顔が真っ赤…」
ナザル「姫、それ以上 言わんでいいです」
アイラ「ふーん…?」
ナザル (王妃さま…、その初心っぽいの、ちょっとどうにかなりませんかね! 人妻ですよ! 国王のね! 噂になっちゃいますから!!)
四騎は馬を走らせ北大路へ着くと、人に尋ねながら、広大な農地の中から地下水路 掘りをするエイジャ達を見つけ出した。




