第25話 母の恋
この所、母は上の空だった。
午前中の舞の稽古の時間でさえ、母はぼんやりしていた。
アイラ「母さま? 母さま! 母さまってば!!」
王妃「へっ? あ、あぁ…、…何だっけ…?」
アイラ「えぇっ?! 母さまこの頃 変だよ! ぼーっとしてばっかりだよ」
王妃「えっ? そ、そうかしら? ごめんね…」
アイラは訝しげに母を見上げた。
母はたじたたじと目を逸らせて言った。
王妃「さ、さぁもう一回やってみましょ。えっと…、何してたんだっけ…?」
アイラ「えーっ?!」
アイラは目をパチパチして、困ったように母を見上げた。
アイラが無事に帰って来た日のあの夜の後も、王妃の護衛カルファは、まるで何事もなかったかのようだった。
王妃はカルファを見る目が泳いでしまって、彼と二人きりになる時はいつも、意識的に距離を取るようにしていた。いつもは何気ない会話もちょこちょことするのに、今は最低限必要な話だけになっていた。
カルファは密かにため息をついた。
カルファ (避けられてる…。〈自嘲して〉そりゃそうか。王様はいつも通りだな…。まだ何も言ってないのかな…)
王妃は、王に何か言わなければならない気がしていた。
気がしてはいたが、それは夫の心を傷付ける事だと思った。
そしてそれは、信頼を寄せる腹心を失う事だとも思った。
それで彼女はまだ何も言えずにいたが、隠し事をしているようで夫に後ろめたかった。
王妃は、あんな事があって初めて、カルファについて考えてみた。
いつも卒なく、いわゆる"普通"の彼は、特段に秀でた所があるかと言えばそうでもなく、何か欠点があるかと言えばそうでもなかった。尖った所も凹んだ所もないキャラ立ちしない彼は、存在感が薄く影のようで、王妃はあまり意識した事が無かったというのが本当の所だった。
<回想>
カルファ〈十九歳〉「初めまして、カルファと申します。分からないことや御用は何なりとお申し付け下さい。どうぞよろしくお願いいたします」
<回想終わり>
王妃が十八の時に碧沿王と結婚した時、一つ上の彼は淡々と、ごく標準的な挨拶をしてくれた。
それ以来ずっと、いつも静かに斜め後ろに控え、傍に居てくれた。
彼は常に、にこやかに安定していて、感情の起伏を見せる事など、殆ど無かった。
物腰は柔らかく、眼差しはいつも優しかったが、それは全ての人にそうであり、彼がまさか自分に好意を抱いているなどとは、微塵も感じさせなかった。
カルファについて考えながら、王妃は先日の夜の強い腕と、熱い口付けを思い出した。
それは、二十二歳年上の夫とは違った、同世代の若く力強い熱だった。
彼女は途端に顔が熱くなった。
夫の事は愛していた。
王から求婚された時、これ程の栄誉はないと思った。
彼は多少偏屈ではあったが、根本的には心優しかったし、何ものにも代え難い二人の可愛い子供も授かった。不満は無かった。
だが、カルファの腕の中で感じた事は、夫が与えてくれるものとは また違うものだった。
あの日の事を思い出すと、王妃の胸はきゅんとして、内蔵が浮くような感覚がした。
彼女は悩ましげにため息をつくと、自分の両肩を抱いた。
が、はたと我に返り、ブンブンと頭を振るのだった。
ある夜、王は寝室で、隣で横になっている上の空の妻を見て言った。
王「この所どうした? 何か心配事か? 先日の襲撃の事か?」
王妃「えっ?! い…、いえ別に…」
王妃はそうは言ったものの、今が打ち明ける時かもしれないと思った。
王妃「あの…、あなた…」
王「ん?」
王妃「私の護衛を…代えてくれませんか?」
王「……。カルファをか? どうした? 何かあったのか?」
王妃「いえ…、何も無いのですけど…」
王妃は言い淀んで、泳いでしまう目を伏せた。
夫は妻の様子を見ると、すぐに察した。
王「私は、お前のそういう所が好きだな」
王妃「えっ?」
王「もっと上手に嘘をつける女もいるだろうに。言わない事だってできる。〈苦笑して〉アイラはお前によく似ている」
妻は消え入りそうな声で言った。
王妃「なっ…、何のお話でしょう…」
王はまた苦笑した。
王「別に構わん。護衛との恋など、よくある話だ」
王妃「えっ?!」
王妃はびっくりして夫を見た。
王「カルファがお前を好きなのだろう? お前と結婚する前から知っていた」
王は得意そうに言った。
王「あいつは上手く隠してきたつもりなんだろうがな、私の目は誤魔化せんぞ。
お前を手に入れられたのは、私の権力 故だ。立場が逆なら、あいつがお前を手に入れていた」
王妃は暫く目を丸くしたまま夫を見ていたが、とつとつと話を切り出し始めた。
王妃「……。あ…の…、違うんです、彼とは本当に何も無いんです。けど、その…、このままでは、あなたを傷付けてしまうと思って…」
夫は頭の下に両手を組んで、天井を見上げた。
王「そうさなぁ…」
彼は大きなため息混じりにそう言い、かなり長い間、天井を見上げたまま黙っていた。
王妃「……あなた…?」
王「うん…」
王は残念そうな顔をすると、隣に寝ている王妃を自分の胸に抱き寄せ、大事そうに腕の中に包んで目を閉じた。
王妃「!」
王妃はびっくりした。
ゼダが生まれてからこのかた、夫はいつも倒れ込むように寝てしまう為、自分に触れる事など まるで無かったのだ。
王妃は久々の夫の温もりに、初めはギュッと身を固くしたが、しばらくすると身体を緩め、夫の首にするりと頬擦りした。
王は はっと目を開けたが、苦しそうにまた伏せた。
王「すまんなぁ…」
王はため息混じりにそう言うと、意を決したように再び目を開け、妻から手を引いて、諦めたように言った。
王「まぁ…、私はもう中年だしなぁ。疲れ切っている上に、胃まで痛くって、とてもそんな気も起きない。女盛りのお前をずっと放ったらかしだ。それに…、私はお前を満足させた事も無いしな…」
王妃「そ…、そんな事ありません! 私はあなたの傍に居られるだけで、大満足です!」
王「そうか?〈苦笑いしながら〉まぁ、そう言って貰えるのは嬉しいんだが…。
奴は…、お前の一つ上なら、…二十七か…」
王は、そこでまた一つ、息を吐いた。
王「人を愛する心は、誰かを傷つけるのでなければ、悪いことじゃないさ。こうして打ち明けてくれたから、私はそれで良い。了解した」
王はそう言うと、妻を申し訳無さそうに見て、微笑んだ。
王「お前の心は自由だ。色々体験してみろ」
王妃「…?!」
王妃は、想像もしていなかった夫の見解に、呆気に取られて口を開けた。
王「ただなぁ、子供ができるのは不味いな。無かったことにできないからな。そこだけ、気をつけてくれ。…と言ってもなぁ、二人とも若いからなぁ…。リヤンに協力してもらわんとならんかなぁ…」
最後の方は、王はモニャモニャと独り言のように言った。
・・・・・・・・・・
カルファ「はぁ〜〜〜……」
交代中の休憩時間、カルファは兵舎の階段に腰掛け、片手で頭を抱え 大きなため息をついた。
ナザルが面白そうに、後ろから近付いてきた。
ナザル「どうした? 珍しいな、お前がそんな大きなため息つくなんて」
カルファはチラとナザルを振り返ると、また沈んで前を向いた。
ナザルは隣に座りながら、可笑しそうに口元を上げて切り込んできた。
ナザル「スキャンダル、か?」
ナザルはいたずらっぽくカルファを見た。
カルファ「……。ナザル、俺、王妃様の護衛を辞めたいと申し出ようと思う」
ナザルはポカンとして言った。
ナザル「はっ?! いや俺、冗談で言ったんだけど」
カルファ「俺、もうどうにかなりそうだ。このままだと俺、いつかあの人を押し倒してしまう」
ナザル「……。」
ナザルは目をパチパチとした。
ナザル「あの人って…、あの人って まさかとは思うが…、えっ? 王妃様じゃねーだろな?!」
カルファは無言で またため息をついた。
ナザル「…オイオイオイオイ…、それ絶対ダメなやつだろ?! いや、絶対ダメだって! 侍女とかにしとけよ。何、お前、死にたいの?!」
カルファ「死んでもいい」
ナザル「…!?」
ナザルは目を見開いた。
ナザル「え? ちょっと待てよ。え…? どこまで…っていうか、え?! 何かあった…わけ?」
カルファ「抱きしめて、キスした。気持ちも伝えた」
ナザル「?!…!!…!?」
ナザル (王妃様に?! 首飛ぶだろ!! こいつが?!)
ナザルの強面は、色々に変わった。
カルファ「そしたらもう…、全部欲しくなった。毎日あの人の後ろ姿を見ているだけで、苦しくてたまらない。後ろから思い切り抱きしめてしまいそうになるのを抑えるだけで一杯で、全く仕事にならない。俺 今、横から何か飛んで来ても気付けない。あの人しか目に入ってない。あの人がほしい…!」
ナザルは、ピシャッと雷に打たれた。
ナザル「うん、配置換えだ。お前が正しい。そりゃもう、全面的に辞めないとダメなパターンだ」
カルファ「だろ?」
カルファは泣き出しそうな儚い顔で、ナザルを見た。
ナザル (うわ…、こいつ、こんな顔すんの?!)
ナザルは、カルファの変貌ぶりに面食らった。
ナザル「お前さ…、何か全然、そういう感じじゃねーのにな…。誰にでもニコニコしてて、器用で卒なくて安定してんのに、そういう激情? みたいの? あったんだ…」
カルファ「あった…。俺の心の中にはあったけど、無いことにしてた。でも、一旦 現実になったら、もう止まらなくなった」
ナザル「へぇ…?」
ナザルは困惑して、強面に業務用のスマイルを浮かべた。
カルファはゆらりと立ち上がった。
カルファ「行ってくる」
ナザル「どこに?」
カルファ「配置換え…、申し出てくる」
カルファは目が潤んでいた。
ナザル「お…、おう…。首が飛ぶ前にな。賢明だぜ」
カルファ「……。」
カルファは切ない瞳でナザルを見ると、トボトボと歩いて行ってしまった。
ナザル (…俺、あいつが"失敗"してんの、初めて見たかも…)
ナザルは、悲哀に満ちた同僚の背中を、唖然とした顔で見送った。
・・・・・・・・・・・
カルファが王に呼ばれたのは、次の日の午後だった。
王は広間ではなく、締め切れる王の間に彼を呼んだ。
カルファ (来た…)
彼は、王妃からどこまでどう話が伝わっているのか分からなかったが、覚悟を決めた。
王「昨日 近衛隊長から、お前が王妃の護衛を辞めたいと申し出ていると聞いた」
カルファ「はい」
王「……。なぜだ?」
カルファ「この所 集中ができず、業務に支障があると思ったからです」
王「そうか…」
カルファ「はい」
王は、王座を立ち、前を行ったり来たりした。
王「実はな、王妃からも同じ申し出があった。護衛を変えてほしいと」
カルファは青い瞳を伏せたまま、目を見開いた。
カルファ「そう…でしたか…」
彼は信じられない位、悲しかった。じわりと目に涙が溜まった。
王「それでな、それで…、これは相談なんだがな…」
そう言うと、王はまたウロウロと王座の前を行ったり来たりした。
カルファ「はい…」
王は行ったり来たりしながら、時々
王「むむ…」
などと小さく唸り、言葉を探しているようだった。
そして突然こう言った。
王「日干し煉瓦でな」
カルファは、おもむろに顔を上げた。
カルファ「……は?」
王「つまり…、お前は私の妻が好きなのであろう?」
カルファは、よく分からない話の流れから、いきなり直球で言及され、死ぬかと思った。
カルファ「!!」
王「王妃は何も言わなかったがな。前から知っておった。まだ我々が結婚する前、お前が妻の舞をどんな目で見ていたか、私は覚えておる。私は出来は悪いが、人を見る目だけはあるぞ」
カルファ「!」
カルファは、青い瞳を見開いて王を見つめ、口がきけなくなった。
王「お前を妻の護衛に勧めたのは、お前の気持ちを知っての事だ。お前には酷であろうが、必ずや彼女を支え、守ってくれるだろうと思った。私の目に狂いは無かったと思っている」
カルファ「……。」
王「それでだ。それでだな…、ずっと干しっぱなしなのだ」
カルファ「?」
王「自分のものにしておいてお前には悪いが、私は妻を囲っておくばかりで、干しっぱなしということだ」
カルファは、ようやっと理解した。理解して、驚愕した。
王「ゼダが生まれた後、私はどうにも疲れてしまって、胃痛も酷くて、だな…」
王は言いにくそうにゴニョゴニョと言った。
カルファは何も言わず、驚いた顔が見られないよう、再び下を向いた。
王「これがもっと同年代なら、まぁそんな歳かなとも思えるが、あれはまだ二十六、女盛りだ。干されるには、まだ瑞々(みずみず)しすぎる。
それで…、妻には、お前の心は自由だと伝えた」
カルファ「…!」
カルファは顔を上げ、王の真意を探った。これは罠なのではないかという考えが、彼の頭をかすめた。王はどうも居心地悪そうに、首を何度も傾げていた。
王「そういうことで…、まぁつまり、そういう訳だ。それで…妻の護衛は続けられそうか?」
カルファ「……。」
カルファは、口がきけなかった。
王「まぁ、やはり支障があるようなら言ってくれ。引き続き、彼女を守ってほしい。それと、妻の意思に反することはしないでくれ。よいか?」
カルファは乾いた口でやっと声を出した。
カルファ「そ…そんな…、滅相もありません…!」
王「そうか。それなら良かった。私が言えた事ではないが…、大事にしてやってくれ。あぁあと、"痕跡"を残さぬよう、気をつけてくれ」
カルファは一瞬分からなかったが、理解した。
彼はまた頭を下げたが、やはり声は出なかった。
・・・・・・・・・・
アイラは、三日間の謹慎が解けると、母とカルファと一緒に、リワンの家へお見舞いに行った。
母は、相変わらず上の空だった。
いつもは、母は折に触れて、カルファとにこやかに話をするのに、今日は必要な話をするだけだった。
アイラ「母さま? カルファと喧嘩したの?」
母は飛び上がるほど驚いて娘を見た。
王妃「えっ?! そ、そんな事無いわよ」
母の声は裏返っていた。
アイラ「ふーん?」
母は顔を赤らめると、また無言で歩き始めた。
カルファ「……。」
カルファは特に表情を変えず、親子の後ろから果物の沢山入ったカゴを持ちながら付いて行った。
三人が湖畔のリヤン宅へ着くと、アイラは元気に挨拶をした。
アイラ「こんにちはーっ!」
ミーナが玄関へ出迎えた。
ミーナ「あら! まぁまぁ、王妃様とアイラ!」
王妃「こんにちは。お忙しい所、突然 押しかけてすみません」
ミーナ「やだそんな! よく来て下さいました」
リファが母のスカートの後ろにくっついている。
リファ「こんにちは…」
リファは聞こえない位の声で挨拶した。
王妃「こんにちは、リファ」
王妃は微笑んでリファに挨拶した。
母「あの…、この度はウチの子が お宅のお子さんに酷い怪我をさせてしまって…、本当に申し訳ありませんでした。あのこれ…、良かったら…」
母はカルファから果物のカゴを受け取ると、ミーナに差し出した。
アイラもペコリと頭を下げた。
アイラ「おばさま、ごめんなさい」
ミーナはカゴを受け取りながら、驚いて言った。
ミーナ「えぇえ?! そんな…、何仰ってるんですか! 姫様を黙って連れ出したんですから、それはこちらの台詞ですよ!
ささ、良かったら入って下さい。散らかってますけど…」
母・アイラ「お邪魔します…」
親子が扉を入る時、カルファは影のように言った。
カルファ「外に居ます」
母「えぇ」
アイラは、目を合わせない母とカルファを交互に見上げた。
カルファは、アイラを見るとニコッと微笑み、外に待機した。
王妃とアイラは、リワンの様子を見に 彼の寝台に寄った。
ミーナは台所へ行ってお湯を沸かし始めた。
リファは母のスカートから離れ、アイラの隣にちょこちょことやって来た。
リワンはまだ苦しそうに息をして眠っていた。
王妃は彼の額に手をやると、小さく息をついた。
リワンは薄く目を開けた。
リワン「…王妃さま…?」
王妃「リワン…。大丈夫? ごめんなさいね、あなたをこんな目に遭わせて…」
リワン「いえ…、とんでもないです。こちらこそ…、申し訳ございません…」
王妃は首を振った。
王妃「エイジャは?」
リワン「水浴びに行ってます」
王妃「そう。元気になったのかしら…?」
台所から、ミーナが憎たらしいように言った。
ミーナ「うるさい位に元気ですよ。〈お茶のセットを持って〉王妃さま、天気も良いですし、外でお茶でもいかがですか?」
王妃「えぇ、是非」
二人は出て行った。
リファは、アイラと手を繋いでキャッキャと外に出て行った。
王妃とミーナは玄関から出ると、家の外のお茶の席に座った。
カルファは王妃達をチラリと見ると、二人が話しやすいように、視界に入れながらやや距離を取り、アイラ達が遊ぶ近くに腰掛けた。
王妃はそれを見て、密かにほぅと息をついた。
ミーナは王妃の顔をチラと見ると、スパッと言った。
ミーナ「王妃様、何か悩み事ですか? 心ここにあらずですね」
王妃「えっ…?」
王妃は相談したかった。
王妃は、ミーナの中身が男のようで、お喋りでない事を知っていた。そして、人の悪口を聞いても反応しない事も知っていた。相談できそうだと思った。
しかし、流石に王のプライベートは話してはいけないとも思った。
そこで彼女は、友人の話ということで、アイラが帰って来た日の事から、夫の提案までをざっくりと話した。
ミーナは、それが王妃の事だと大方分かっていたので内心驚いたが、またスパッと言った。
ミーナ「そのご友人は、夫の愛を受け取っていいと思いますね」
王妃「え?」
ミーナ「自分はできないから、できる人に託したって事じゃないですかね。深い愛じゃありませんか」
王妃「なる…ほど…」
ミーナ「因みに、そのご友人は、ほったらかされる前までは、満足されていたんでしょうかね?」
王妃「満足…ですか?」
ミーナ「そう、満足。…あれ?」
王妃「どう…なんでしょうね…」
王妃は苦笑いすると、俯いた。
実際、王妃は"満足"が何たるかを知らなかった。
夫は子作りにおいて、大変に手際が良かった。
それはまさに、王妃が
王妃「あっ」
と言う間だった。
正確には、
王妃「あっ」
と言って、
王妃「えっ?」
という間だった。
王妃としては、比較対象が無かったので、そんなものだと思った。
実際に、この上なく可愛い子供を二人授かった。そんなものだと思った。
ミーナは唸った。
ミーナ「やっぱりそれは、受け取っといて良いんじゃないですかね、せっかくですから」
王妃「そう…ですか…」
ミーナ「でも、覚悟を決めねばいけないでしょうね」
王妃「覚悟?」
ミーナ「そうです。夫の愛を失うという覚悟です」
王妃「……。」
ミーナ「東に留まりながら、同時に西に行くことはできません。東に居る事をやめると決めた時に初めて、西への道が開けるのです。
そのご友人が西へ行くと決めたならば、東は捨てねばなりません。
逆に、東に留まる事を選び続けるならば、西に着く日は来ません。
どちらを選ぶにせよ、無傷ではいられないのです。
留まるなら可能性を、新天地を目指すなら安定を失います。傷を受け、場合によっては誰かをも傷付ける覚悟を、決めねばなりませんね」
王妃「なる…ほど…」
王妃は小さく息をつきながら、本日 何度目かの相槌を打った。
王妃「あの…」
王妃は"普通の"夫婦が、どうやって夫婦になるのか、聞いてみたかった。
王妃「ミーナさんご夫妻は、どういう流れでご結婚されたのですか? 私は選ばれただけで、自分で決めた訳じゃないから…」
ミーナ「ウチは…」
ミーナは可笑しそうにケラケラと笑うと、
ミーナ「初めて会った日に、私が一目惚れして押し倒しました」
王妃「えっ?!」
王妃は驚いた。そんな事があり得るものなのかと思った。
王妃「欲しいものがあるなら、与えられるのを待っているだけでは手に入りませんわ。交渉したり要求したりするんですよ。そのやり取り自体が、楽しいのです。上手くいけばね。
やりとりが上手くいかなければ、修羅場です。あたくし、その修羅場も経験したんですよ? 〈苦笑して〉一ヶ月でしたけど。
あたしは、その気の合わない男と居ることをやめると決めたんです。西へ行くのか、南へ行くのか、どこへ行くのかは決めていませんでしたけど、東に留まる事をやめると決めたんです。別にそう深く考えて決めたんじゃありませんよ? 気付いたらそうなってたんですけど」
ミーナはまたケタケタと笑った。
王妃「そう…ですか…」
王妃は目を白黒させながら、ミーナを見た。
ミーナ「それに王妃さまだって、何も決めてない訳じゃありませんよ?
王様の求婚を受けると決めたのはご自身です。どうしても嫌なら、城を追い出される覚悟で、断っていた筈です。例え、職を失うという打算があったとしても、そこを天秤にかけて、選んで、決めた、ということですから。手錠をかけられて結婚させられた訳ではないのでしょう?」
王妃「確かに、そうですね…」
王妃はまた、控え目にうんうんと頷いた。
王妃 (私が選ぶ…? 私が決める…?)
王妃は、自分の胸に生まれた初めての"ときめき"が、水に垂らした一滴の墨汁のように、日毎に自らの血に馳せて行くのを感じていた。
彼女は、この先も勿論、一つの道しか無いと思っていた。
しかし彼女の血に広がるそのチラチラと煌めく期待は、無自覚に、もう一つの道を作りつつあった。




