第22話 危機
体格の大きなその男は、嗜虐的に笑って言った。
大男『そんなに急いで、どちらまで?』
男は弓矢を背負っていた。
リワン (射られなくて良かった…)
リワンは不幸中の幸いに、思わず胸を撫で下ろした。
男は鎧も纏わず、皮でできた服と帽子、そして長靴を履いていた。
彼の乗っている馬は比較的小柄で、ずんぐりとして脚が太く、栗毛色だった。
馬の背には、略奪してきた食糧の入った袋が幾つも積まれていた。
後ろからまた、蹄の音が二騎 近付いて来た。
仲間の男1『どうした?』
仲間らしき二人は、やはり馬に食糧を積み、替え馬を三騎ずつ連れていた。
エイジャ (終わった…)
木陰で見ていたエイジャは目を瞑った。
エイジャ (一人ならまだしも、三人も居たらどうにもならねぇ…!)
後から来た二人は、先に来た男の傍で馬を止めると、アイラ達を見た。
リワンは、ガタガタと震えるアイラを庇うように腕の中へ抱き寄せた。
仲間の男1『何だ、子供かよ。食えねーだろが。行こうぜ』
大男『……。』
返事をしない男に、仲間はチラリとアイラを見ると、呆れたように言った。
仲間の男1『お前、人買いのツテなんてあんのかよ? ったく…、タダでさえ日が暮れちまったってのに…。一人もんは気楽なもんだよな。ウチはこうしてる間にも、チビ達が死んでるかもしんねーのに…。先行ってるぞ!』
そう言うと、仲間は 体格の良い男の手から松明を もぎ取ると、二人とも行ってしまった。
大男『フン! 嫌味か!』
男は二人の背中に吠えた。
辺りはまた誰も居なくなり、白い月の光だけになった。
いかにも荒くれ者と言った体のその男は、顎のちょび髭を弄びながら、アイラを品定めするように見た。
大男『女の子か…』
アイラの瞳に、初めて間近で見る異民族のその男は、鬼か怪物のように映った。
アイラ (逃げなきゃ…!)
彼女はそう思ったが、地面につく両手の指がカサカサと震えるばかりで、身体が動かない。
リワンは、アイラの腰が抜けているのを見ると、唇を噛んだ。
リワン (どうする…!?)
大男『フン、なかなか可愛いじゃないか。身なりもいいし、江の奴隷商人に高く売れそうだな…』
男は目を細めながらブツブツと言うと、空の大きな皮袋を引っ張り出し、馬を降りた。
その瞬間、アイラの身体がふわりと浮いた。
アイラ「?!」
リワンがアイラを脇に抱えて、シュロの茂みに向かって走った。
大男『諦めないのは立派だが、残念だったな、坊主』
男は追いかけて走りながら刀を抜き、リワンの背中目がけて振り上げた。
リワン (くそ…ダメか…!!)
リワンが目を瞑ったその時、
大男『がっ?!』
すぐ後ろで、男の悲鳴が聞こえた。
リワン・アイラ(?!)
二人が振り返ると、男の後ろに土煉瓦が落ちていて、男は片手で後頭部を抑えていた。
男は かぶっていた皮の帽子のお陰で、流血せずに済んだようだった。
彼は 傍目から見てもはっきりと分かる程、みるみる顔が赤くなった。
怒りを顕に左右にゴキゴキと首を鳴らすと、彼は煉瓦が飛んできた後ろを、赤鬼のような顔で振り返った。
振り返った所へ、もう一つ飛んで来た。
大男『ぐ!…ぁ!』
今度は帽子が無いので顔面に直撃し、男は前屈みになって、額に手を当てた。
男が顔を上げた所で 更にもう一つ飛んできたが、今度は避けられてしまった。
飛んできた先を見ると、小さなエイジャがシュロの林から一歩出て、壊れかけの小屋に落ちていただろう土煉瓦の欠片を手に持っているのが見えた。
アイラ・リワン (エイジャ!)
エイジャは、二人に"逃げろ"と必死に手で合図した。
大男『小ッ僧!! ふざけやがって!!』
男は刀を収めると、背中の弓矢を目にも止まらぬ早さで取り、エイジャに向けて 立て続けに二本射った。
リワンはその隙に、アイラを脇に抱えたまま、エイジャが居るのとは違う方の茂みへ走った。
エイジャは猿のような身のこなしで、茂みの奥の方へ逃げ込んだ。
エイジャに放たれた矢は、一本はドスッと木に刺さり、もう一本は小屋に阻まれて カツンと地面に落ちた。
男は素早く振り返ると、今度は シュロの木陰に入ろうとするリワンに向かって弓を引いた。
脇に抱えられて後ろを見ていたアイラは、金切声を上げた。
アイラ「リワン!」
矢はリワンの美しい頬をかすめ、ドスっと右斜め前のシュロの木に刺さった。リワンの頬に血が滲んだ。
リワン「!」
リワンが矢の飛んできた方を素早く振り返ると、男はもうすぐ後ろに来ていた。
リワン「!!」
アイラ「〈悲鳴〉」
男は、いきなりアイラの一つ結びのおさげを引っ掴むと、ものすごい力でアイラを奪い取り、茂みの外へ投げ捨てた。そして、再び刀に手をかけた。
アイラ「!!」
アイラは跳ね起きて、刀を抜く男の手に無我夢中でぶら下がると、男の親指の付け根に思い切り噛みついた。
男『って!』
男は鬼の形相で アイラのまとわりつく腕を振り払い、彼女を地面に叩きつけた。
アイラ「〈悲鳴〉」
同時に後ろから再び煉瓦が飛んで来て、男の背に当たった。続け様に、また幾つか飛んできた。
男『ガキが!!』
男は再び後方を振り返り、弓を引いた。
リワンは茂みから、アイラの方へ駆け出して来た。
アイラ「来ちゃだめ!!」
アイラは起き上がりながら泣き叫んだ。
エイジャ「あっ!」
後ろからエイジャの悲鳴が聞こえた。
見ると、エイジャが上腕を押さえて倒れ込んでいる。押さえている手には血が滲んでいた。
アイラ「エイジャ!!」
アイラはまた金切り声を上げた。
瞬間、リワンが滑り込むようにアイラの手を握った。
男は すかさずこちらを振り向いた。
ギジッという弓を引く音が聞こえた。
アイラ「やめて!!」
アイラが叫んだのとほぼ同時に、男はリワンを至近距離から射った。
リワン「あ"っ!!」
矢はリワンの太腿に刺さり、彼はアイラの横に滑るように倒れた。
アイラ「リワン!!」
射られた腿は流血し、みるみる内に彼のズボンと乾いた地面が真っ赤に染まった。
体格の良い男は やや息を上げて、アイラ達の前に立ちはだかった。
男『…ガキのくせにちょこまかと…、手間かけさせやがって…』
今度こそ、男は二人の前に仁王立ちになった。
アイラはガタガタと震えながら、苦痛に顔を歪ませるリワンの上半身を、小さな腕で抱きかかえた。彼女はポロポロと泣きながら、怯えた目で大きなその男を見上げた。
男は、煉瓦をぶつけられたり噛みつかれたりしたのが裏目に出たのか、表情からは余裕が消えていた。幼いアイラの萎縮した瞳に対し、慈悲の色は全く無かった。
大男『終わりだ』
男は刀を引き抜き、振り上げた。
アイラは瞬間、リワンの腕が自分低く庇うのを感じた。
エイジャが男の向こう側で、肩から血を流しながら、それでも煉瓦を投げようとしているのが見えた。
アイラ (母さま!! 助けて!!)
アイラは目を瞑った。
ジン〈二十六歳。黒髪、茶色の瞳、右の首から頬にかけて刺青がある〉『やめろ!』
低音の声が 男の後ろから鋭く飛んだ。
見ると、黒い馬に乗った草馬人の男が、すぐ後ろに来ていた。
その後ろからもう一人、冷たそうな瞳の男〈タルカン、二十五歳。黒髪、茶色の瞳〉が、代え馬を三頭連れ、荷を積んだ馬に乗って近付いて来た。
刀を振り上げたままの男は、怒りに目をギラギラさせて言った。
大男『…何だ、ジン。邪魔すんな!』
ジンと呼ばれたその男は、斬られそうになって目を瞑っているアイラ達を一瞥すると、無感情に言った。
ジン『まだ子供だ。逃してやれ』
その男は 口ぶりは落ち着いているが、見た目からはまだ若いようだった。月明かりで、右の首から頬にかけて刺青があるのが見えた。
大男『冗談じゃねぇぞ! こいつら俺の頭に煉瓦投げつけやがって…!〈赤く腫れた額を指さして〉見ろよこれ! ぶっ殺してやる!』
ジン『おい…、子供にやられたなんて、言わない方が良いんじゃないのか? それに、略奪しているのはこっちだ。煉瓦くらい飛んでくるさ。子供なんてほっときゃいいだろ。矢の無駄だ』
大男『奴隷商人に売れば、良い金になるんだよ』
ジン『金か…』
刺青の男は思案した。
その時、後ろから情けない声が聞こえてきた。
スレン〈十五才。黒髪、茶色の目。明るく爽やか〉「せんぱーい、ちょっとこれ、やって下さいよー。僕 無理ですってー! 」
草馬人のその少年はラクダに乗り、隊商の積荷を丸ごと率いて、ノロノロと近付いて来た。
ジン『情けないこと言うな。お前もう十五だろが。できんだろ、そんくらい』
スレン『先輩がやればいいじゃないですか! ったく、人使い荒いんだから…!』
ジン『アホ! 経験を積ませてやってんだろーが! ありがたく思え!』
スレン『はぁ?!』
ブツクサ言う少年を他所に、刺青の男は 馬で隊商の荷へ近付くと、何やらガサゴソと取り出し、戻ってきて 体格の良い男の前にじゃらりと差し出した。
ジン『西国の宝石だ。〈アイラを見て〉その子より高く売れるぞ。お前んとこ、歳の離れた弟がいたろ。美味いもんでも食わせてやれ』
体格の良い男は、まんざらでもない顔で宝石を見つめた。
大男『チッ! っるせーなぁ!』
彼はそう言うと、剣を納めて宝石を受け取った。
大男『〈アイラ達に〉ハッ! 命拾いしたな!』
男は捨て台詞を吐くと、子供達を睨みつけ、ドカドカと馬を走らせて行ってしまった。
刺青の男は、馬の上から子供達を無言で見回した。
アイラはガタガタと震え、泣きながら刺青の男を見上げた。
ジン『おい、座ってないで早く行け。また同じ目に遭いたいのか?』
アイラ・リワン・エイジャ「…?」
ジン『〈息を吐き〉あー、通じねーよな』
男は三人に、シュロの林の方を指さしてシッシッと手を振った。
三人は意図を理解したが、リワンとアイラは立ち上がれなかった。
エイジャは地面に膝を付いていたが、肩を押さえながら どうにか立ち上がった。
二人が立てないのを見てとると、刺青の男は短く息を吐き、何か言いながら馬を降りた。
ジン『ったく…、世話の焼ける…』
タルカン『〈冷酷に〉ほっとけば良いだろ』
ジン『ま、可哀想だろ?』
男は、アイラとリワンに近付いて行った。アイラは怯えて、リワンの頭をぎゅっと抱きしめた。エイジャは警戒して煉瓦を握りしめた。
男はエイジャを煙たそうに見ると、疑わしげに何やら言って、また林の方へシッシッと手を降った。
ジン『おい、お前それ 俺に投げるなよな?』
男は、アイラとリワンに手を伸ばした。
アイラは震えて目を瞑った。
次の瞬間、二人はふわりと宙に浮いた。
リワン・アイラ「!?」
男は二人を両脇に抱えて、エイジャの方へ歩いて行った。
エイジャの近くを通る時、彼はまた何か言った。
ジン『お前は歩けんだろが』
男は首をクイッと林の方へ振った。エイジャは意図を理解し、まだ煉瓦を手に持ったままヨタヨタと付いて行った。
彼は林の少しだけ奥まで二人を運んでやると そっと下ろし、アイラの頭を少しだけ撫でて何か言った。
ジン『少ししたら自分で歩けよ。こいつら怪我してるからな』
アイラ「〈震えながら〉?」
男はアイラの顔をじっと見ると、少し笑って、彼女の濡れた頬を手の腹で拭いてやりながら言った。
ジン『フッ。確かに お前は高く売れそうだ。もう子供だけで出歩くなよ?』
アイラ (この人…、優しい人なんだ…。草馬人なのに、こんな人がいるの…?)
アイラは怯えながらも、男の茶色い瞳を覗き込んだ。その瞳は、広い草原を駆け巡っているのが映っているかのようだった。
男はリワンの腿に刺さった矢を見ると、懐から短刀を抜き、アイラの青緑色のスカートの裾を細長く幾つか切り、結んで繋げた。
アイラとエイジャは、その様子を目をパチパチさせて見た。
男は短刀を収めると、リワンの身体を押さえつけ、いきなり彼の腿に刺さった矢を抜き取った。
リワン「うぁっ!」
リワンは気が遠くなり、ぐったりとなった。
鮮血が流れる太腿に、男は先ほど細長く繋げた布をきつく何度も巻き付けて結ぶと、リワンの頬を往復で適当にペシペシと叩いた。
ジン『おい…、しっかりしろよ。ここで死にてーのか』
リワンは荒い息で薄く目を開けた。
男はエイジャの事も見ると、彼にも何か言った。
ジン『お前は大丈夫そうだな』
男は、最後に三人をチラと見ると、茂みから出て行き、また馬に乗った。
スレン『随分優しいんですね。他の人達なんて、手当たり次第に殺してるのに…』
ジン『…一番上の娘が、今 その女の子と同じ位だ』
少年は思い出して微笑んだ。
スレン『あぁ、そうでしたね。マナちゃん、でしたっけ?』
刺青の男は、口元を綻ばせて少年を見た。
ジン『何だ、名前まで覚えててくれてたのか』
スレン『へへ、可愛い子だったから。大きくなったらお嫁さんに下さい』
男の顔からは、途端に笑顔が消えた。
ジン『何ィ?! マナは俺んだ。お前なんかにやるか! お前、そんな目であいつを見てたのか! まだちっちゃな子供だぞ?! 近付くな気持ち悪い! 行くぞ! ハッ!』
男は、黒い馬の手綱を引いて去って行った。
スレン『あっ、待ってくださいよぉ! 大きくなったらって言ってるじゃないですかー!』
少年も 隊商を率いてノロノロと動き出した。
最後に残った冷たそうな男も、林の中を一瞥すると、手綱を引いた。
三人は、馬が掛けて行った後の砂埃を、シュロの木々の間から呆然と見ていた。
リワンは激痛に汗をかき、喘ぎながら言った。
リワン「草馬人に…あんなのがいるなんてな…」
エイジャも怪我をした肩を手で押さえながら、痛みを堪えて言った。
エイジャ「あいつ、草馬人じゃねーんじゃねーの?」
リワン「フッ」
苦しそうに笑ったリワンをエイジャが見ると、彼の腿の即席包帯はもう赤く染まっていた。
エイジャ「お前…、それ大丈夫か?」
リワンはできるだけ平静を装うものの、苦痛に息が上がっていた。
リワン「……。お前こそ」
エイジャ「へっ! こっちはかすっただけだ」
とは言ったものの、エイジャは緊張が解けたのと痛みとで、意図せず涙が溢れるのを止められなかった。彼は、腕でがさつに何度も涙を拭いた。
再び 何騎かの蹄の音が聞こえてきた。
三人はギョッとして、木陰で息を殺した。
リワンは震えるアイラを、弱々しい腕で抱き寄せた。アイラのすぐ傍に、リワンの苦しそうな息があった。
アイラ (しっかりしないと…!)
アイラは両手を前について、四つん這いから立ち上がって言った。
アイラ「私は大丈夫だよ! 怪我してないから」
エイジャも木に手を付きながら立ち上がると、二人はリワンの両腕を肩に掛け、持ち上げるようにして彼を立ち上がらせた。
アイラは、リワンの負傷した脚側に立って、両手で彼の胴を支えた。エイジャが反対側に付いた。
リワンは何か言う余裕も無く、苦痛に顔を歪めていた。
エイジャ「っし、行くぞ!」
三人は横一列になり、シュロの林の中を 城の裏門へ向けて歩き出した。
何騎もの蹄の音が、断続的に後方の北大路から聞こえてくる。
同時に、聞き慣れたチャプチャプという湖の波打ち際の音が、安堵を誘った。
頭上に光る月明かりを頼りに、三人は寄り添いながら、一歩ずつ帰路を進んで行った。




