第19話 初めての街
<一ヶ月後>
朝、アイラはいつものように、中庭で母に舞の稽古をつけてもらっていた。
母が政務に行ってしまうと、彼女は鼻歌を歌いながら、一人で好きに踊り始めた。
エイジャ「ふ〜ん? 何、お前、見世物でもすんの?」
植え込みの木の上から、聞き覚えのある声がした。
アイラがビクッとして声の方を振り返ると、猫科の動物、殊に豹のような少年が木の枝に横になって、金色の目でニヤニヤとこちらを見ていた。
アイラが彼を見るのは、一月前の"勝負"以来だった。
彼女はそれまでの楽しそうな表情を一気に崩して、エイジャを睨んだ。
エイジャ「クッ! ハハハハハ! お前、分かりやすいな。そんなに睨むなよ。今日は喧嘩しに来たんじゃねーって」
アイラ「……。あんた、怪我は治ったの?」
エイジャ「おー、メシ食ってるからな!」
下働き兼見習いとして 兵舎に寝泊まりする事が許されたエイジャは、不安定な路上生活から脱して衣食住が安定し、見違えるほど健康そうな少年になっていた。栄養が行き渡り 清潔になった彼は、意外にも なかなかに美しい顔立ちをしていた。
アイラは目を逸らしたまま言った。
アイラ「訓練に行かなくていいの? ご飯貰えないよ?」
エイジャ「今日は昼からなんだよなぁ。それなのにメシは貰える。天国だな、ここは!」
アイラ「あっそ。よかったね」
エイジャ「な、おもしれーことやろーぜ! お前さ、今までこの城の中だけで、外に行ったことねーんだって?」
アイラ「〈目を逸らしたまま〉……。」
エイジャ「連れてってやるよ。この都の事なら何でも知ってるぜ! な、お前、この国の姫のくせに 街に出たこともないなんて、恥ずかしくねーの?」
アイラ「〈眉間に皺を寄せて〉……。」
エイジャ「昼までに戻れば良いだろ? 俺も昼から訓練だしよ。裏口から出ればバレねーって。ちょっと行って、屋台で揚げパンでも食って、帰って来んのさ」
アイラ「〈エイジャを見て〉揚げ…パン…?」
エイジャ「あんまくて、うめーぞぉ!」
アイラ「……。ナザルを呼んで来る」
エイジャ「バカだなぁ…! 言ったら、行かせてくれる訳ねーだろが! すぐ帰ってくっから大丈夫だよ」
リワン「ダメだ」
エイジャの居る木の後ろから、聞き慣れた声がした。
アイラ「〈驚いて〉リワン…」
近付いて来たリワンを見て、エイジャは怪訝そうに言った。
エイジャ「……。何だ、今日は妹 連れて来てないのかよ?」
リワン「お前には関係ない」
アイラ「リファ、どうしたの?」
リワン「少し体調を崩して寝ています。大した事じゃないので、大丈夫です」
アイラ「ふーん…」
エイジャ「つかさ、おめー何なん? 誰だよ!?」
リワン「お前こそ誰だ」
エイジャ「〈鼻をほじりながら〉エイジャ」
アイラ「ふーん。えいじゃ…」
エイジャ「お前さ、〈アイラを見て〉こいつの何?」
リワンは目を逸らし、口を閉ざした。アイラが代わりに答えた。
アイラ「リワンとリファは、アイラのお友達だよ」
エイジャ「友達?〈リワンを見て〉じゃあ、お前にどうこう言われる覚えねーよな?」
リワン「何かあったらどうするんだ! この子はこの国の姫なんだぞ?!」
エイジャ「あったま かってーなぁ! 裏口から北大路をつっきりゃ、すぐ街の路地に出られるだろが。スグだよ、ス、グ」
リワン「ダメだ!」
エイジャ「かーっ!!」
アイラ「リワンあの…」
リワン「?」
アイラは困ったようにおずおずと口を開いた。
アイラ「わ、私…、行ってみたい…」
リワン「はっ?!」
アイラ「あの…、私、一度もここのお城と、裏の湖の畔から、出た事が無いんだもん…」
リワン「〈呆気に取られて〉……。姫、もう少し大きくなったら出られますから…。今はまだダメです」
アイラ「だって…、リファだって同い年だけど、お父様と一緒に 街の診療所へ行ったりするんでしょう? アイラも…、街に行ってみたい…」
リワン「リファとあなたは立場が違います。もしものことがあったら、どうするつもりなんですか?」
アイラ「〈うつむき、ため息を吐く〉……。」
リワン「さ、この話はお終いです。エイジャ、今度こんな話を姫に吹き込んだら…」
アイラ「リ…、リワンも付いて来てくれたら、そしたらいいんじゃない?」
リワン「…はい?」
アイラ「お願いリワン! ちょっとだけだから! 裏口から出てすぐなんでしょう? ちょっとだけ! ね? 本当にちょっとだから、見て来たい」
リワン「いやいやいや…」
アイラ「父さまが私をここから出してくれるのなんて、いつになるか分からないもん。もしかして、お嫁に行く時までこのままかもしれないもん」
リワン「そんなことありませんって。あなたの護衛が決まれば、出られますよ! そういう話があったのでしょう?」
アイラ「〈困ったように〉…アイラ、ごえい いらないんだもん。だから 今、その〈恥ずかしそうに〉あ、揚げパン食べてみたいの!
ね、お願い! リワン、付いてきて! あなたも街の事、詳しいんでしょ? ね? ちょっとだから。お昼までには帰るから。リワン、お願い!」
アイラはリワンを熱く見つめ、手をスリスリと合わせて懇願した。
リワン「…?!」
リワンは面食らった。
三人が裏口を出て リワンの家とは反対側へ湖畔を行き、北大路を突っ切ると、街外れに着いた。
土煉瓦の家々の間を少し行くと、細長い迷路のような路地に続いていた。
アイラ「うわぁ!」
アイラは初めて見る景色に、目をキラキラとさせた。
三人が路地をくにゃくにゃと幾つも曲がりながら進むと、西の目抜き通りに出た。
碧沿の都は、城を中心に東西に大きな目抜き通りが走っている。
東西の大路は、南北の大路よりもずっと幅が広く、旅人や隊商がごちゃごちゃと行き交っていた。食料品から 交易路に点在する異国の物品まで、様々な露天が所狭しと立ち並んでいる。
リワン「へぇ、西大路までこんな行き方があったのか…」
エイジャ「〈皮肉っぽく〉金持ちは知らねー道だよ」
リワンは不機嫌に聞き流した。
三人は、人々のひしめく西大路を歩き始めた。
路上は様々な商売の口上や、見世物で活気に溢れていた。露店にはゴミゴミと色々な物が置かれ、通りには人だけでなく、ラクダ、馬、羊などの家畜も、商人に独特な掛け声を掛けられながら通っていた。
色とりどりの布、香辛料の香りと色、鮮やかなフルーツに、道行く人々の様々な民族衣装。
女達のつける腕輪がシャンシャンと鳴り、家畜の首に付けられたベルがカランカランと鳴った。
長い隊商が、やいのやいのと掛け声を飛ばしながら 往来を進む。荷台には、美しいガラスの器や花瓶、陶器、色とりどりの絹織物、革、小麦や果物の入った麻袋などが積まれていた。綿花の入った大きな袋を幾つも積んでいる隊商もいた。ごっつい護衛を幾人も連れた宝石商の指には、羽振り良さげに 大きな宝石がギラギラと光っている。
アイラ「うわぁ…!!」
アイラは目を丸くして興奮した。
エイジャ「どうよ! これが砂漠の入口、碧沿の都さ!」
エイジャは、得意げに鼻を鳴らした。
アイラ「きゃっ?!」
不意に、アイラが人ごみにさらわれそうになると、リワンは慌てて彼女の手を握り引っ張った。
リワン「迷子になりますから、僕と手を繋いでおいて下さい」
アイラ「〈嬉しそうに〉うん!」
三人は西大路の人混みを、エイジャを先頭にして縫って歩いた。
アイラ「ねぇ! 私、こんな国の王女だったの?! すごくない?!」
エイジャ「ケッ! 別にお前の実力でなった訳じゃねーだろ! 棚ボタのくせに偉ぶるなよな!」
アイラはエイジャの悪態を完全に無視して、目を輝かせて周りをキョロキョロと見回した。
アイラ「あ…! 音楽!」
アイラは、ざわざわとした往来から聞こえてくる音楽を、耳ざとく聞きつけた。彼女はエイジャを追い越し、吸い寄せられるように歩を早めた。
リワン「姫?! ちょっとどこへ…」
リワンはアイラと繋いだ手を、ぐっと引っ張った。アイラは、引っ張られて、おっと、というようにリワンを振り返った。
エイジャ「〈リワンに声を潜めて〉オイオイ、ここで姫はやめた方がいーんじゃねーか? 〈アイラを見て〉おめーも、王女とか言ってっと、連れてかれるぞ?」
アイラ「あぁ、そうだね。〈リワンにニッコリと笑い〉名前で呼んで? ですますもダメだよ」
リワン「えっ?! …分…かりました…」
アイラはまた前を見ると、音楽の聞こえる方へ小走りに進んで行った。あんまりわくわくして先を急いだため、彼女はリワンと繋いだ手を離してしまった。
リワン「ひ…め…、アイラ! ちょっと待って!」
リワンは人混みで見失わないよう、必死に追いかけた。
エイジャは、リワンの後ろから かったるそうに付いて来た。
アイラが見世物の人だかりを押し分けて楽師達を見つけると、彼女は その真ん前まで行き、目をキラキラさせて聞き始めた。
リワンとエイジャも追いつき、アイラの隣に来た。
リワン (見失うかと思った…)
リワンは思わずため息をついた。
アイラ「♪♪♪〜♪♪♪〜」
アイラが足で拍子を取りながら目を輝かせて聞いているのを見て、男子二人は思わず微笑んだ。
リワン (あんな楽しそうな顔するんだ…。来て良かった…かもな… )
リワンは思った。
その内に、アイラが足で拍子を取っていたのが 身体も動きだし、ついには その場で踊り始めた。
リワンはギョッとした。
エイジャ「おっ? いーねぇ!」
エイジャは口笛を吹いて盛り上げ始めた。周りの観客達も手拍子を初め、アイラはいよいよ悦に入って、思い切り踊り出した。
青緑色のジャンパースカートがヒラヒラと舞い、小さな踊り手を際立たせた。
小さいながらも魂のこもったアイラの踊りは衆目を集め、人だかりも拍手も大きくなった。楽師達も熱が入る。
アイラ (あぁ、楽しい!!!)
アイラは毎日の中庭の練習が何のためにあるのか、合点がいった。
リワンとエイジャは、彼女の躍動する才能に目を見張り、ぽーっと魅せられた。
エイジャ「おっと! こうしちゃいられねぇ!」
曲が終わって大喝采に包まれる頃には、エイジャは ちゃっかり楽師達の前に置いてあったタライを持って、客席を練り歩いていた。
タライには、小銭がみるみる投げ入れられた。アイラは、左右、前にお辞儀をした。
タライの金をそっくりそのまま持って行こうとするエイジャから、アイラがタライを取り上げて元の場所に戻すと、そこでまた一笑いが起きた。
タライの前に居た楽師は小銭をがばっと掴むと、アイラのジャンパースカートの両方のポケットに じゃらりじゃらりと入れてくれた。
アイラ「?! ありがとう!」
感激して礼を言うアイラに、楽師達はにっこりと微笑んだ。
リワン (目立ちすぎだろ!?)
リワンは周りをあわあわと見回し、困惑した。
アイラはリワン達の元に、はぁはぁ言いながら汗だくで戻って来た。
リワン「い…、行こう」
リワンは目を白黒させてアイラの手を掴むと、人だかりの外へ向かった。
道を開けてくれる観客達が、まだ口笛を吹いたりして、ニコニコと小さな演者を賞賛してくれる。
エイジャ「やぁ〜、どうもね〜! どうも〜!」
エイジャはまるで自分の手柄のように四方に手を振りながら、前を行くアイラ達についていった。
三人は人だかりを抜け、往来を少し走って見世物から離れた。
アイラ「あぁ! 楽しかった!」
彼女は、今まで見た事もないような嬉しそうな顔をしていた。
リワン「ひ…、アイラ…! 目立ち過ぎだよ!」
アイラ「そう? 私、人前って大好き!」
リワン「〈面食らって〉えぇっ?!」
エイジャ「俺も嫌いじゃねーな」
リワン (お前には聞いてない)
アイラ「 ねぇ! お金! お金貰ったよ! すごい! 私、初めて お金貰った! 楽師さん達と、あなた達二人と、お客さんにありがとうだね!」
エイジャ「〈ドヤ顔で〉な? 来て良かったろ?」
アイラ「うん!〈キラキラとエイジャを見て〉ありがとうエイジャ!」
エイジャ「〈得意げに〉フン」
リワン「〈仏頂面〉……。」
アイラ「〈両ポケットの小銭を少し取り出して〉これで揚げパン買えるかな?」
エイジャ「買える買える」
エイジャは揚げパン屋に向かって往来を歩き始めた。
リワンが、すかさずまた アイラと手を繋ぐと、彼女は嬉しそうにリワンを見た。
彼は、アイラの先程の踊りを見た後だったからか、何だかドキッとした。
揚げパン屋の露店に着くと、辺りには甘い香りが立ち込めていた。
アイラ「〈目をキラキラさせて〉何、この匂い! 何なのこれ!! 嗅いだ事ないよ!こんな匂い!」
エイジャ「ぐだぐだ言ってねーで、早く買ってこいや」
アイラはリワンと手を繋いで、揚げパン屋の太った女将に恐る恐る近付いて行った。
アイラ「じ…、じゅっこ下さい」
リワン「〈ギョッとして〉えっ?! 十個? か、買いすぎじゃない? 僕はこういう甘いの、あんまり…苦手だよ?」
アイラは満面の笑顔でムフフと含み笑いをした。
アイラ「アイラ大好きだもん!」
リワンはまた面食らった。
リワン (こ…、こんな顔もするんだ…。何か 城に居る時より、ずっと色んな表情になるな…)
アイラと揚げパン屋の女将の間に、エイジャがいきなり横から滑り込んで来た。
エイジャ「〈商売人の顔で〉お姉さん! 十個買うから、少し負けてくれませんか? ここのが美味しいって評判聞いて、こいつわざわざ買いに来たんですよぉ。いやぁ、ここは美味しいって評判な上に、女将さんまで綺麗なんですね! 最高!」
リワン「〈半目になって〉……。」
女将「〈まんざらでもなさそうにケタケタと笑って〉ったくしょーがないねぇ! 江の締め付けがキツくなってからここんとこ、上前はねられちまうってのにさ! ま、ガキんちょだからね、負けといてやるよ!」
エイジャ「〈いきなり可愛らしく〉ありがとう、お姉さん! 〈アイラを肘でつつく〉」
アイラ「いたっ! 何すんのよ!」
エイジャ「〈低い声で〉金! 早く出せよ!」
アイラ「〈ポケットから小銭を手に取って、小さい声で〉お金…どれ出せばいいの?」
エイジャは呆れた顔でアイラを見ると、彼女の手の中から小銭を幾つか取り、女将に手渡した。
女将「あいよ。ホレ! 持ってきな、おチビちゃん」
女将は大きな包みをアイラに手渡した。
アイラ「〈嬉しそうに〉おばさん、ありがとう」
エイジャは間髪入れず、アイラの小さな足を思い切り踏みつけた。
アイラ「いたっ! なっ、何?!」
エイジャ「〈アイラの耳元で〉お姉さんだろ、ボケ!」
アイラ「〈引きつった笑顔で〉ありがとう、お姉さん…」
リワン「〈半目になって〉……。」
女将「ハハハハハハ!〈笑いながらシッシッと手を振り〉さ、もう行った行った! 商売の邪魔だよ」
三人は人の行き交う往来から外れて 路地裏に入ると、乾いた地面にアイラを真ん中にして座った。
アイラが胸に抱く揚げパンの包みは温かく、幸せな匂いが三人を包んだ。アイラとエイジャは早速、熱々の揚げパンを頬張り出した。甘さが身体に染みる。
アイラ「あんまぁ〜い! 何コレ! 美味しい!! こんなのお城で食べたことない!」
エイジャ「フッ。だろ?」
エイジャは嬉しそうなアイラを流し見ると、鼻を鳴らして自分も ほっぺいっぱいに頬張った。
リワンも、幸せいっぱいに頬張るアイラを見てそっと微笑むと、自分もかぶりついた。
リワン「うわっ、これは…、随分甘いな…」
アイラ「〈幸せそうにモハモハ食べながら〉リワン、甘いの嫌いなら食べてあげるよ?」
リワン「〈しれっと〉いい、食べる」
アイラは、口はまだモグモグしているのに、早くも二つ目に手を伸ばした。
リワンは目を丸くした。
リワン「こんな甘いの、よくそんな食べられるな…」
アイラ「? 甘いからおいしいんだよ」
エイジャも二つ目を無理やり口の中に押し込むと、三つ目を手に持ちながら言った。
エイジャ「〈モハモハしながら〉お前もさ、二日食わなかったら、甘いのが神になるぜ?
〈手をパタパタと叩きながら〉よし! 残った金、分けよう!」
リワン「〈呆れたように〉野育ちの逞しさというものがあるようだな」
エイジャは、三つ目をかじりながらリワンを睨んだ。
エイジャ「んだそれ、バカにしてんのか?」
リワンは頬張りながら、涼しい顔で言った。
リワン「いや、純粋にすごいなと思っただけだ」
エイジャは、しかめっ面でリワンを見た。
アイラはモグモグしながら、両方のポケットから小銭をじゃらじゃらと取り出した。
エイジャがそれを三つに分けたが、リワンはそれを見て、すかさず是正した。
エイジャ「何すんだ!」
リワン「等分だ」
エイジャ「ちょっと待て、今日は俺が言い出しっぺだから、俺の取り分が多いのは当たり前だろ?! 全っ部、俺のおかげだろが!」
エイジャが抗議を始めた所で、アイラの目は 通りの向こうに釘付けになった。
男子二人が気付いてアイラの視線の先を追うと、往来の喧騒の奥に、物乞いの女の子が 路地の入口にひっそりと座っていた。彼女はアイラと同じ位の年頃で、裸足で汚い身なりだった。
アイラ「あの子…」
リワン「物乞い…だね」
アイラ「私と…、同じ位だね」
リワン「親が居ないんだろう」
アイラ「ふーん…」
アイラは自分の分の金と、パンの包みを持つと、すっくと立ち上がり、往来の方へ歩いて行った。
リワン「あっ、ちょっと!」
リワンも慌てて金を手に持って後を追った。
エイジャは二人の背中を煙たそうに見流した。
エイジャ「ケッ」
アイラは人通りの多い往来を縫って横断すると、女の子にそろそろと近付いた。リワンもやや息を切らせて、彼女の横に追い付いて来た。
アイラ「あの…、これ…、食べる…?」
アイラはおずおずとパンの包みを彼女に差し出した。
物乞いの女の子は、驚いたように目を見開いた。すみれ色の美しい瞳の少女は、恥ずかしそうに包みを受け取ると、消え入りそうな声で礼を言った。
女の子「ありがとう…」
そして路地の奥の方へ向かって叫んだ。
女の子「イェルダ! イェルダ!」
奥の方から、弟らしき四、五歳の男の子が出て来た。アイラは何だか驚いた。
アイラ (姉弟が居るんだ…! 私とゼダみたい…。二人とも、親が居ないんだ… )
アイラは目を泳がせながら、咄嗟に手に持っていた小銭を全て、女の子の前に置かれたお皿に置き、顔を赤くして、また往来を足早に引き返した。
リワン「あっ、ちょっと、待ってってば!」
リワンも持っていた小銭を彼女の前の皿に置くと、姉弟に軽く会釈して、急いでアイラの後を追った。
女の子の前に置かれたお皿には、小銭が山盛りに積まれて溢れていた。こんな事は未だかつて無かった。
姉弟は大きなパンの包みを持ち 目を丸くして、 往来の人混みに消える二人の背中を見送った。
アイラとリワンが人ごみを縫って戻って来ると、エイジャは路地裏から出て来ていて、ニヤニヤしてアイラを見た。
エイジャ「え、何? あーゆーの初めて見た系?」
アイラは顔を赤くして俯いた。
エイジャ「やー、やっぱ来て良かったろー? この国の本当のこと知らねーってのもなぁ!」
アイラは、俯いたまま、眉間に皺を寄せた。
エイジャ「つか俺、アレだったから、ついこないだまで。何なら今からでも そうなるかもしんねーし」
エイジャは、財布をじゃらじゃらさせながら、嘲るように言った。
アイラ「…? 何そのお財布?」
エイジャ「〈ニヤニヤして〉え? 今 暇だったから、貰った」
アイラ「貰った?」
エイジャ「安心しろ。俺は金持ちそうなオッサンからしか貰わねー主義だ」
アイラ「…その人、どうしてくれたの?」
リワン「〈軽蔑して〉盗んだって事だよ」
アイラ「!? 何で?! どうしてそんな事するの?! あんたって…」
エイジャ「〈財布をジャラジャラと放りながら〉これだから箱入りはよー。これが俺らの生きる道なんだよ。こうでもしなきゃ、親のいない俺らが、どうやって今まで生き残ってきたと思ってんの?」
アイラ「で…でも、悪い事だよ!」
エイジャ「その台詞、三日メシ食わなくて言ってみろよ? あいつらにあんな はした金あげた所で、四、五日の内には食べきっちまうさ。それよか、財布のスリ方でも教えたが、どんだけ役に立つか知らねーよ」
アイラ「…!」
リワン「……。」
アイラは何も言い返せなかった。リワンも目を伏せたまま、何も言わなかった。
アイラは小さな声で、自信なさそうに言った。
アイラ「本当に…、今日は来て良かったよ…」
エイジャ「〈皮肉に笑って〉へっ!」
リワン「〈ため息をつき〉さ、そろそろ帰ろう。お昼には着ける。
それからアイラ、興奮しているのは分かるけど、僕の手を離さないでもらえる? さっきから何度もヒヤヒヤしてるんだけど。はぐれたらどうするんだ」
アイラは怒られているのに、まじまじとリワンを見つめた。
リワン「…何?」
アイラ「〈嬉しそうに〉ううん。何だか今日はアイラ、リファになったみたいだなって。ですますじゃないと、いつもよりずっと仲良くなったみたい」
リワンは鼻息を一つ吐いた。
リワン「僕の話、聞いてました?!」
アイラ「〈しゅんとして〉あ…、戻っちゃった。リワン、アイラと仲良くなりたくないの?」
リワン「いや、仲良くとかそういう話じゃなくて…、そもそもあなたはこの国の…」
いきなり通りが騒がしくなった。
アイラ「? 何だろ…」
人々「草馬だー! 草馬人が来たぞーっ!!」
人々「逃げろー! 皆 早く逃げろーっ!」
露店商「何だって?! 江がガッチリ守ってくれるんじゃなかったのかい!? 一体どうなってんのさ?!」
西大路は騒然とし、多くの人々が慌てふためき始めた。
地元の人々は、逃げ道を知っている為、皆 散り散りに路地裏へ逃げ込んでいった。
露天商は、稼いだ金をまとめて懐に入れると、商売道具はそのままに逃げ始めた。
家畜商人の中には、商品である家畜を捨てて逃げるかどうか、未練がましく行ったり来たりしている者も居た。
沢山の馬の蹄の音が遠くから聞こえてきたと思ったら、その音と 地を伝う振動はあっという間に近くなった。
アイラ「草馬…?! …草馬人が…おそって来たってこと…?!」
リワン「〈驚愕して〉まさか…! 今日に限って…!」
エイジャ「いーじゃん、丁度帰るとこだったし。っし、ズラかるぞ!」
エイジャは薄笑いを浮かべたままそう言うと、ごった返す往来から薄暗い路地裏へ向かって、我先に走り出した。
リワンは、立ち尽くすアイラの手を素早く取った。
リワン「逃げますよ!」
彼は鋭くそう言うと、アイラの手を引いて、走ってエイジャの後を追った。




