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砂漠の月  作者: kohama
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第16話 孤児

エイジャ〈六歳〉「あー……、はらへったなぁ………」

エイジャは いつも居る狭い路地裏で、干からびてしまったような声でつぶやいた。


六つになるエイジャは、日に焼けた小麦色の肌をして、ライオンのような巻毛の黒髪だった。彼の身体は、持続的な栄養失調の為に、痩せっぽっちで小さかった。掘りが深く、色素の薄い瞳は金色きんいろに光り、その飢えた目つきからも、野生の肉食獣を彷彿ほうふつとさせた。


エイジャは孤児だった。

別に彼は、その事をどう思った事もなかった。

親の居ない子供なんて、交易路の要衝とうたわれ、様々な国の人々が雑多に行き交うこの碧沿へきえんの都の路地裏には そこかしこに居たし、彼らと生きているエイジャにとって、おのが境遇を比較するべき相手もいなかった。

なぜ捨てられて、いつから親が居なかったのかも、彼の記憶には無かった。自分のとしも知らなかった。

ただいつも、誰かから 食べ物を貰うなりるなりして、運良く今日こんにちに至っていた。


彼は、大人達からゴミのような扱いを受けても、食べ物さえ手に入れば、後のことは別にどうでも良かった。どうかすると、行動に移した事はないが、他人の命と食糧の価値が同じ位で、彼の善悪は どこか逸脱していた。



乳歯が次々と抜け、上下の前歯が四本とも生え変わっている最中の彼は、この所 いよいよ腹が減ってどうにも我慢がならなくなってきた。

"幼児" から"子供"の体つき、知力、体力になるために、彼の身体は 常に貪欲に栄養を待ち構えていた。


エイジャ ( メシ! メシが食いたい!! )

彼は、人生の中で最も苦しいのは、空腹だと確信していた。



小さなエイジャは、よく盗みを働いた。

彼には、"金持ちそうなオッサン"からしからない、という、彼なりの流儀があった。

それは、空腹を知る彼が、相手も自分と同じ目に遭うのは可哀想だという、経験から得た 彼なりの"思いやり"によるものだった。


そして彼にはもう一つ、謎の習性があった。

どういう訳か、女が泣いているのを見るのが 嫌で仕方がないのだった。

幼い頃に何かがあったのか、何のトラウマなのかは分からない。がしかし、とにかく泣いている女を見ると「うっ…」となる。

エイジャ ( 俺がまだ捨てられる前、母ちゃんがよく泣いてたのかな? へっ! なぁんてな!)

エイジャはれたように自嘲した。


つまり、彼が"金持ちそうなオッサン"をターゲットにえるのは、っても空腹にならなそうで、かつ、悲嘆に暮れなそうである事が、彼にとって 最も精神的に敷居が低いためだった。



野生動物のような並外れた運動神経を持ち、要領も良いエイジャは、盗みにおいて 滅多に失敗しなかった。

がしかし、まれにしくじると、後ろ盾の無い彼は、それは"酷い目"に遭わされた。

時に、威圧的、嗜虐的な相手に捕まると、むちなんかを持ち出してきて、小さな子供相手に容赦無かった。


商人の男「〈エイジャの背にむちを振り下ろしながら〉こ…の、ドブネズミが!! お前のようなゴミくずが一人や二人消えた所で、別にどうにもならねぇんだよ! 後から後から湧きやがって! 盗みを働く奴なんざ、社会の蛆虫うじむしだ! 俺が駆除してやる!」

エイジャ「あっ! っぐ…!」

鞭は、幼いエイジャの痩せた背を容赦なく打った。

商人の大きな屋敷には他に沢山人がいたのに、誰も小さな彼を助けに来てはくれなかった。


エイジャは、打たれながら天を呪った。

エイジャ ( 神様とか何とかって、ふざけやがって! もしそんなもんがいるんなら、どうして俺は今 こんな目に遭ってんだよ! つか、殺すんなら一気にやってくれよ! こちとら、それでも構わねーし!)

エイジャは、この世界に何の頓着とんちゃくも無かったが、腹が減ったり痛かったり寒かったりといった、苦しいことだけは勘弁だった。

彼は、気絶して私刑しけいが終わるその時まで、まだ生え替わっていない奥歯を食いしばった。


悪運強いことに、強靭な身体を授けられた彼は、死んだと思われて裏路地に放られても、まだ生きていた。

暗い路地から見える狭い夜空には、欠けた月が小さく登っていた。

彼の小さな背中には血が滲み、全身が痛みで、もう何も分からないようだった。

エイジャ (一番辛いのは、腹が減る事より、やっぱ鞭で打たれる事かもしんねーな…。俺は鞭で打つのはしねぇぞ。一息に殺した方がまだいいや…)

彼の 経験による"思いやり"は、一つ増えた。



朝になると、誰かが呼びかけている声が聞こえた。

エイジャが辛うじて目を開けると、彼のぼやけた視界に、金髪の長いおさげと ピンク色の服がうつった。

リファ〈六歳〉「〈困惑して〉だ…、大丈夫…?」

それは、同じ年頃の、西方せいほうの人形のような女の子だった。

良く似た兄らしき少年と 父親らしき男が、表通りから路地へ入って来て、彼女の後ろから話しかけた。

リワン〈九歳〉「リファ、どうした?」

リファ「この子…」

リヤン〈三十六歳〉「こりゃあ酷い…。子供相手に全く、けしからん! 急いで診療所へ運ぼう」

父親らしき男がエイジャを抱きかかえた所で、彼の意識は再び途切れた。


・・・・・・・・・・


気がつくと、エイジャは生成きなりの敷布を引いた寝台の上に、うつ伏せに寝かされていた。

窓に白いカーテンが揺れ、その穏やかな空間は、彼にとってまるで天国のようだった。

エイジャはこれまで、寝台に寝た記憶が無かった。柔らかな寝台の寝心地が、じんわりと幼いエイジャの心にみる。


エイジャ (あれ…? 俺、死んだ…?)

エイジャが そう思って身を起こそうとすると、身体中に激痛が走った。

エイジャ「あ…! うぁっ…、っ…」

うめき声を聞きつけて、年配の男がやって来た。

医官「おや、気が付いたかい。二日も寝ていたよ。おとといの朝、当番の医官が君をここに連れてきたんだ。覚えているかな?」


エイジャは 気が遠くなるような痛みに 少ない歯を食いしばりながら、記憶を辿って どうにか頷いた。

医官「そうか。良かった、頭は大丈夫みたいだな。それにしても、子供に酷い事をするもんだ。怪我が癒えるまで、ここでゆっくりして行きなさい」

エイジャ「…俺…、金 無い」

年配の医官はエイジャをゆっくりと眺め、

医官「孤児かい? この診療所は金は要らないよ。心配しなくて良い」

エイジャはとりあえずホッとした。ホッとした途端、彼の意識は再び遠のき、また何も分からなくなった。


・・・・・・・・・・


次に目覚めた時、彼の前には、数日前に見た あの金髪でピンクの服を着た 人形のような女の子がいた。

彼女は、心配そうに エイジャの額の汗を拭いてやっていた。

エイジャは ぼんやりとした視界で彼女を見た。彼女はエイジャと目が合うと、びっくりして叫んだ。

リファ「父さま! おきたよ! この子、おきた!」

奥の方から声がした。

リヤン「すまん、今 手が離せない。リワン、見て来てくれ」

リワン「はい」


すぐに 彼女に良く似た兄らしき少年が来ると、エイジャの様子を観察しながら、首の脈と額に手を触れた。

リワン「熱がまだありますね。具合はどうですか?」

エイジャはかすれた声で答えた。

エイジャ「どうって 別に…、いてーし…」

リワン「薬湯は飲めそうですか?」

エイジャは、どうでもいいというように頷いた。

リワン「リファ」

リファ「はい」


リファと呼ばれたその女の子は、奥の方へ引っ込むと、暫くして 器に薬臭い飲み物を入れて持ってきた。

リファ「じぶんでのめる?」

エイジャは起き上がろうとしたが、激痛と熱にくらんだ。

リワン「飲ませてあげて」

リファ「はい」

リファは、さじで うつ伏せのエイジャに少しずつ薬を飲ませた。

エイジャはどういう訳か、居心地が悪くてたまらなかった。

これまでに、こんな扱いを受けた事は無かった。


匙を運びながら、リファが気付いて言った。

リファ「あ、歯が無い。歯抜けちゃんね。私もなの」

リファは ふふふと笑うと、いーっ、と自分の歯を見せた。

彼女の前歯は上下の斜めが一本ずつ無かった。

エイジャ (歯抜けちゃん…?! んだそれ!?)

リワン「じゃあ歳が同じ位かな…。いくつですか?」

エイジャ「…しらねぇ」

リワン「あ…、そっか、そうですよね。すみません…」

三人は無言になり、エイジャは薬湯を飲み終えた。


リファ「よかった。全部のめたわ」

女の子は笑った。その笑顔が本当に天使のようにまばゆくて、エイジャは何だか、石の下にいる虫が 光に当てられた時のように、どこかに隠れなくてはいけない気がした。

エイジャ (何かここ、俺の居る所じゃねー気がする…)

彼は思った。


リワン「お粥は、食べられそうですか?」

エイジャは おずおずと頷いた。

それを見て 彼女はまた奥へ引っ込むと、暫くして 粥を入れた器を持って来た。

兄のほうは、エイジャの下にクッションを置いて身体を少し起こしてくれた。

エイジャ「〈苦痛に顔を歪め〉っ…!」

リワン「あ、すみません。大丈夫…?」

エイジャはまた、黙って頷いた。

彼は、自分の服が新しいものに替わっている事に気付いた。身体に付いていた汚れや血も、綺麗になっていた。


エイジャ「…もしかして俺のこと、いた?」

リファ「上は私がふいたよ」

リワン「下は僕がきました」

エイジャはギョッとして赤くなった。

リワン「慣れてますから、大丈夫です」

エイジャ (俺が大丈夫じゃねーんだよ!)

リファ「だって、きたなかったし、くさかったから…」

リワン「〈声をひそめて〉こら!」

リファ「あっ…!〈消え入るように〉ご、ごめんなさい…」


エイジャは、赤くなったままうつむいた。

リファは、そろそろとエイジャのそばに寄ると、またエイジャの口の前に 匙で粥をすくって差し出した。エイジャの気分を害したのではないかと心配しているのが、彼女の表情からうかがえた。

エイジャは要らないとつっぱねたい所だったが、空腹に耐えかね、うつむき加減で食べさせて貰った。

エイジャ( 食えるのはありがたいが、こんなの何か…、恥ずかしすぎる…! )

恥ずかしいなどという感情は、エイジャはこれまでほとんど感じたことは無かった。

彼は食べさせてもらいながら、居心地悪く 目を左右に泳がせた。


リファ「よかった! おかゆも全部たべられたわ」

彼女はまた 光るように笑った。

リワン「こんなに酷い怪我なのに、食べられるなんて…。身体が頑丈なんですね」

兄らしき少年は笑った。緑がかった理知的な瞳には思いやりがあり、はっとするほど美しい少年だった。


エイジャはまた、なぜか自分が恥ずかしくなった。

エイジャ( やべぇ、帰りたい…。〈自嘲して〉ハッ! 帰るってどこにだよ? でもここには居たくない。何か俺…、俺…! )

エイジャはこの時、六つにして初めて 自分と違う境遇の子供とまみえた。

社会の最下層で コソ泥をしながら生きる彼にとって、比較の土俵に上がる事は、あまりに苦しかった。

この診療所に居れば、一番苦しいと思っていた空腹を満たせるにもかかわらず、彼は同世代のまぶしい彼らとまみえる事の方を忌避したのだった。


リファ「私達、ここには週に一回 お手伝いに来ているから、この調子なら、次に会う時には起き上がれるようになっているかもね!」

エイジャは リファから目をそらせて、黙ってコクリと頷いた。


・・・・・・


しかし、次の週にリファ達が来た時には、エイジャは居なくなっていた。

リワン「えっ?! 居なくなった?!」

年配の医官「そうなんだよねぇ。昨日の夜までは居たんだけど、今日 君達が来ると聞いたら、朝には居なくなってたんだ」

リヤン「まだ まともに動ける状態でもなかったでしょうに…」

医官「そうなんだけどねぇ…。どうしたんだか…。食事だけはもりもり食べていたから、見る見る元気にはなっていたんだけど…」

リヤン「そうですか…」

兄妹きょうだいは顔を見合わせた。

リファ「名前も…、聞かなかったね…」

リファは悲しげに言った。

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