怖くても、泣いてる場合じゃなかったから
空に、ふた筋の赤い光が伸びていた。
先に上がったほうを優先すべき? それとも、後から重ねて上がったってことは、そっちのほうが緊急度が高いの?
どっちに向かうにしても、急がなきゃいけないのに――頭がうまく回らない。
わたしの足は、その場に根を張ったみたいに動けなくなっていた。
――どうしよう。
空に伸びた赤い光を見上げたまま、数秒が過ぎていく。
「おい、嬢ちゃん!」
背後から飛んできた声に、肩がびくりと跳ねた。
振り返ると、解体班のグラットさんが、こちらへ駆け寄ってくるところだった。
「手前のほうは俺が行く! お前は奥の信号を見に行け!」
「えっ、あ……はい!」
咄嗟に返事をして、ようやく体が動き出す。
「突っ立ってる暇はねぇぞ。俺が森の外まで運び出す。戻りで拾ってくれればいい!」
そう言って、グラットさんはわたしのソリから応急処置用の道具をひとまとめに取り出すと、そのまま走り去った。
わたしもすぐに、奥の信号へと向かって駆け出す。
「誰かいますかーっ! 返事、できますかっ!」
返事はない。枝をかき分け、背の低い茂みをまたぎながら、信号弾が上がったあたりを目指して進んでいく。
そして、見つけた。
「……っ!」
木の根元に、倒れているひとりの人影。
そのすぐ近くに、もうひとり。さらに奥に、三人目。
全員、服は泥と血で汚れ、腕や脚は、ありえない方向に投げ出されていた。
その中のひとりは、腕が途中から――なかった。
息が詰まる。喉の奥で、声が凍りつく。
――うそ……。
思わず駆け寄って、倒れているひとりのそばにしゃがみ込む。
息は……ある。胸が、わずかに上下してる。心臓も、かすかにだけど、動いてる。
よかった……まだ――!
「……っ」
そのとき、不意に、背筋を撫でるような気配を感じて、わたしはそっと顔を上げた。
――いた。
木々のあいだから、静かにこちらを見下ろす、巨大な鹿。
でも、それはわたしの知っているどんな鹿とも違っていた。
昔、テレビで見たことがある。大きな角を持った鹿。車よりも大きくて、森の中を悠々と歩いていた姿。
けれど、目の前のそれは、さらに一回り――いや、それ以上に大きい。
枝のように広がった角は、木の中腹にも触れそうな高さで。全身を覆う白銀の毛並みは、ほのかに輝いているように見えた。
その巨体が、ただ黙って、わたしを見つめている。
森の静寂に溶け込みながら、まるで景色の一部のように動かず、ただそこに「いる」存在。
それでも確かに、重く、静かに、わたしの全身を包み込むような圧倒的な気配を漂わせている。
……観察している? そんなふうに感じた。
襲っては、こないの?
思わず、腰の銃に手が伸びかける。けれど、その指先をすぐに止めた。
――だめ。たぶん、効かない。それに……いまはまだ、動いてこない。
勝てるとも思えない。きっと、刺激しない方がいい。
わたしは息を整え、そっと口を開いた。
「……わたし、この人たちを助けたいだけ。なにもしないから」
震える声で、そう伝えた。
すると――
「……ォォ……」
低く、喉を鳴らすような唸り声が、静かにに響いた。
混乱、悲しみ――そして怒り。
気のせいかもしれない。でも、そんなふうに――聞こえた。
少なくとも、敵意は……感じなかった。
たぶん、きっと、ない。……そうであってほしい。
今のわたしには、それを信じるしかなかった。
「お願いだから、襲ってこないでね……」
小さくそう呟いて、ふたたび倒れたハンターたちへと向き直った。
呼吸は浅いけれど、確かにあった。心拍も微かに――でも、ちゃんと感じる。
生きてる。よかった……。
けれど、服の隙間からのぞいた傷は深く、血はまだ止まっていなかった。
わたしはカバンから止血帯を取り出し、太腿や上腕に巻きつけて、ひとつひとつをきゅっと締めていく。
見ただけで折れているとわかる腕と足は、すぐそばに落ちていた枝を何本か拾って添え、できるだけ動かないように固定した。
なくなってしまっている腕は、……探す? でも、そんな時間は――
「ごめんなさい……今は、とにかく、運ぶから」
小さくそう呟いて、切断部を止血し、布で丁寧にくるむ。
興奮剤――脳裏をよぎる。でも、この状態じゃ、無理に目を覚まさせない方がいいと思う。
必死で手を動かした。指の震えを押さえ込みながら、ひとつでも助かる可能性を上げるために。
その間ずっと、鹿は――あの巨大な鹿は、まるでこちらを観察するように、微動だにせず、じっとこちらを見つめ続けていた。
三人とも、ひどく似たような状態だった。
止血、固定――わたしに思いつく応急処置はやった。最後に、それぞれの腋にロープを通し、身体がずれないよう、しっかりと括りつける。
重い。けれど、そんなこと言っていられない。
担いで運ぶのは無理だ。引きずってでも、とにかく急いで運ばなきゃ。
さあ、行くぞ――ロープを強く握り直した、そのときだった。
「……ォ……オゥ……」
ふたたび、鹿が唸った。
今度は、さっきよりもずっと深くて、重たい声。
その響きと同時に、わたしの頭の中に、ふっと映像のようなイメージが流れ込んできた。
穏やかな村。整った畑。子どもたちの笑い声。
それが、次の瞬間には――すべて、消えた。
壊された家。踏み荒らされた畑。赤黒く染まった地面。
……これは、いったい。
わたしは振り返った。鹿は、さっきと変わらず、静かに立ち尽くしていた。
「……なにか、伝えようとしてるの?」
でも――
「ごめんね。今は、この人たちを運ぶから」
静かにそう告げて、わたしは森の外へと駆け出した。
鹿は、最後まで動かず、ただこちらをじっと見つめていた。
三人のハンターを、順にソリへ運び上げていく。
もともと積んでいた物資や道具は、荷台の外に片っ端から放り出した。とにかくスペースを確保して、この重傷者たちを載せていく。
一人、また一人。担ぎ上げるたびに、ソリの底がわずかに沈み込むのが分かる。
彼らの顔に、意識の色はない。呼びかけても、反応は返ってこない。
全員を載せ終えると、わたしはソリの取っ手を両手で握りしめた。
そして、森の外周をなぞるように走り出した。
腕に、脚に、ずっしりとした重みを感じる。
できるだけ揺らさず、間違っても落とさず、それでいて急がなきゃいけない。
わたしは必死に足を動かした。焦りと同様のせいか、何度もつまずきそうになったけど、それでも、走り続けた。
やがて、前方にふたつの人影が見えてきた。
グラットさんが、一人のハンターに肩を貸して森から出てくるところだった。負傷したハンターは片足に止血帯を巻かれ、顔をしかめながらも、痛みに耐えている様子だった。
「グラットさん!」
「おお……丁度だったな! そっちは三人か……」
ソリに横たわる重傷者たちを目にした瞬間、肩を貸されていたハンターが思わず顔をしかめた。
「くそっ……ずいぶんとやられたな……」
「荷物は途中で全部捨てました。スペースは空いてます、どうぞ乗ってください!」
「あぁ……悪いな」
ふらつきながらも、ハンターは自力でソリに乗り込み、三人の身体が揺れないよう、そっと寄り添って支えてくれた。
「俺は一人で大丈夫だ。嬢ちゃんは先に急げ」
グラットさんのその言葉に、わたしは小さく頷き、取っ手を握り直して再び走り出した。
さっきよりも、ソリの揺れが少ない。軽傷の彼が支えてくれているおかげで、格段に安定している。
すぐに、テントが見えてくる。入口の前には、医官のおじさんがすでに立っていた。
わたしがソリを引いて近づくと、おじさんは荷台をさっと見て、すぐに眼つきを変えて声をかけてくる。
「重傷者を優先しよう。運び入れてくれるかい」
その声はいつもより少しだけ早口だったけれど、やっぱりおじさんらしく穏やかだった。
そして迷いなく、腕のないハンターの身体をそっと抱え上げ、そのままテントの中へと運んでいく。
「……よいしょっ」
わたしも続いて、一人を抱えてテントへ向かう。
そのとき、背後から声が飛んできた。
「俺は歩けるから、気にしないでくれ」
ソリに残っていた軽傷のハンターが、少し気まずそうに、でもしっかりした口調で言った。
わたしは小さくうなずき、担いだ人を落とさないようにしっかりと支えながら、テントの中へと急いだ。
おじさんは、すでに運んだハンターの止血帯を巻き直し、点滴と縫合の準備を進めていた。
その隣のベッドに、わたしが担いでいたハンターを寝かせると、おじさんが手を止めずにこちらへ声をかけてくる。
「助かったよ。もう一人もお願いできるかい」
わたしはうなずき、最後の一人を急いでソリから運び上げ、空いていたもうひとつのベッドへと寝かせた。
おじさんはその様子を横目で確認すると、処置を続けながら、落ち着いた声で次の指示を出す。
「その人たちの服を破って、傷が見えるようにしておいて。マナパックも外してくれるかな」
「はい!」
わたしは声を返し、慎重にマナパックを外して、服を裂いていく。なるべく丁寧に――少しでも刺激を与えないように。
その間に、軽傷のハンターがふらつきながらも自力でテントに入り、空いていたベッドに腰を下ろしてから、そっと横たわった。
おじさんが一人目の処置を終えると、わたしの隣へやってきて手元を確認する。
「ありがとう、いい感じだ。もう一人もお願い」
わたしはすぐに三人目のマナパックも外して、傷が確認できるように服を破いていく。
それが一通り終わって、おじさんは手を動かしたまま、わたしに言った。
「外で待っててくれるかい。三人とも、すぐに病院へ運ぶ必要がある。君のソリに載せて、門までお願いするよ」
「……わかりました」
テントの外に出た瞬間、脚から力が抜けそうになった。
まだ手に残る、ぬるりとした血の感触。肩に残る、ぐったりとした人の重み。喉の奥が詰まり、目の奥がじんと熱を帯びる。
――でも、まだ終わりじゃない。しっかりしなきゃ。
もう一度、走らなきゃ。今度は、病院まで。
しゃがみ込んで、息を整える。手を膝に添えて、鼓動を落ち着かせる。
「カエデさん、準備はできてる?」
テントの中から、医官のおじさんの声が飛んでくる。
「……はい!」
わたしは立ち上がって、返事をしながら中へ戻った。
おじさんと一緒に、重傷者を三人、手早くソリに載せていく。最後に、小さな紙片を一枚、そっとわたしに手渡してくれた。
「病院への引き継ぎに書いておいたよ。これを医官に渡してね。……大丈夫、三人とも、ちゃんと助かるよ」
その言葉が、胸の奥の重たいものを少しだけ軽くしてくれた気がした。
わたしは、受け取った紙片をポケットにしまい込む。
あと少し。わたしはソリの取っ手を握りしめ、走り出した。
街の門が見えてくる。そこには門番の姿と――ギルマスが、腕を組んで待っていた。
「重傷者三名、意識なし! 病院に運んでください!」
声を張り上げると、ギルマスがすぐに駆け寄ってくる。
「よく運んでくれた、カエデ。……もう大丈夫だ。お前さんは、その場で待っていてくれ」
門の方から、担架を持った医官たちが駆けつけてきた。ソリから、三人の重傷者が手早く引き取られていく。
わたしはポケットからメモを取り出し、医官の一人に手渡した。
全員を引き渡し終え、静かに踵を返す。
――持ち場に戻らなきゃ。
そう思ったところで、背後から声がかかった。
「カエデ。今日はもう、休んでいいぞ」
ギルマスの、低く落ち着いた声。
けれど、わたしは足を止めて振り返る。
「でも、まだ……少しだけ、時間残ってます。わたし、持ち場に戻ります」
その言葉に、ギルマスはゆっくりと首を横に振った。
「戻るころには、もう終わりの時間になってる。もう十分すぎるほど、働いてくれたさ」
そう言って、わたしの顔をまっすぐに見つめる。
「……カエデ、お前さん、今、自分がどんな顔してるか分かってるか? 休んだ方がいい」
はっとして、自分の手元に視線を落とす。
手が、震えている。足にも、うまく力が入らない。
気づかないうちに、こんなに疲れ果てていたんだ……。
「……すみません、ありがとうございます……」
力なくそう言って、その場にどさりと座り込んでしまった。
自分の状態に気付いた途端、全身から力が抜けるような脱力感に襲われる。
「よく頑張ったな、カエデ」
ギルマスが、優しく柔らかく声をかけてくれる。
その一言が、胸の奥にじんと染みて。
こうして、わたしの――今日の仕事は、終わった。
カエデ「疲れてることにすら、気づかなかった。動かなきゃって、そればっかりで……。それにしても、あの鹿の魔獣……ほんとに、なんだったんだろう」




