講習を受けてきたよ。思ったより、大変だった……
朝、窓の外から差し込むやわらかな光に目を細めながら、わたしは布団のなかで寝返りを打った。
――コン、コン。
控えめなノックの音に、ようやく意識が浮上する。
「……んー……今行きますー……」
寝ぼけたまま玄関まで歩いて扉を開けると、そこには見慣れた顔が立っていた。
「おはようございます、カエデさん。寝起き、ですね」
「あ、エレナさん……おはよ……どうしたの?」
目をこすりながら尋ねると、エレナさんはいつもの優しい笑みを浮かべていた。
「おはようございます、カエデさん。講習、今日ですよ」
朝の空気とともに、エレナさんの明るい声が玄関先に響く。
「講習……、あっ!」
目が覚めたとたん、心臓が跳ねた。
「今日って聞いてたのに、うっかりしてた……! 寝坊するところだった……!」
わたしが焦って頭をかくと、エレナさんはくすっと笑った。
「まだ間に合いますから、大丈夫ですよ。私も送迎ついでに、ギルドまでご一緒しますね」
「そっか……ありがと。じゃあ、すぐに支度しちゃうから、中で待ってて!」
わたしが扉を開け直してそう言うと、エレナさんは嬉しそうに微笑んで、「おじゃましますね」と丁寧に答えた。
そのまま玄関脇の椅子に腰を下ろし、静かにわたしの支度を待ってくれる。
顔を洗って歯を磨いて、髪を手早く整える。ちょっと慌ただしいけど、手早く済ませる。
最後に服を着替えるために、裾に手をかけかけて、ふと玄関の方をちらりと見た。
……そこで、目が合った。
エレナさんが、にこにこと微笑んで、こっちを見ている。
「あの、あんまり見ないで」
「……すみません」
エレナさんはすぐにそう言って反対を向いた。
その声は至って穏やかで、いつも通りの落ち着いたものだったけど――ほんの、ほんの少しだけ間があったのは気のせい……かな。
背中を向けたのをちゃんと確認してから、ようやく着替えを始める。
……けど、なんとなく、落ち着かない。
気恥ずかしさなのか、妙な緊張感なのか、自分でもよくわからないけど――とにかく、さっさと済ませてしまおう。
一気に着替えを終わらせて、待ってくれているエレナさんの背中に向かって声をかける。
「お待たせ!」
「早いですね。では行きましょうか」
にっこりと微笑むエレナさんと並んで、わたしは玄関を出た。
朝の空気が肌に触れて、目が覚めるような気持ちになる。
ギルドに着くと、すでにハンターたちで賑わっていた。
話し声、足音、道具の金属音――さまざまな音が飛び交い、活気にあふれている。
そんななか、受付カウンターにひときわ不機嫌そうな顔で立っている、ギルマスのヴォルタンさんと目が合った。
「あー……来たか。講習、今日だったな」
片手に書類の束を抱え、疲れきった表情をしている。眉間のしわも、目の下のクマも、ちょっと心配になるレベル。
「あれ? ギルマスも受付やるんですね」
思わずこぼれた言葉に、ギルマスは肩をすくめて大きくため息をついた。
「やらざるを得ねぇんだよ、人が足りなくてな」
そう言いながら、手にした書類の束で、わたしの隣にいるエレナさんを指さす。
「そいつが抜けてから、事務が回らねぇんだよ。朝は特にな」
「え、えっと……ごめんなさい?」
思わず謝ってしまうけど、ギルマスはわたしじゃなく、横に立つエレナさんをじっと睨んでいた。
「ギルマス、そもそも私ひとりが抜けただけで、回らなくなる方に問題があると思うんですが?」
「それを言うか……」
ギルマスが苦い顔をして唸る。
「……まぁ、こっちが悪いのはその通りだな。エレナ一人に事務の大半を任せちまってたのは事実だし」
苦笑いを浮かべながら、書類の束をもう片方の腕に持ち替える。
「いっそ、今からでも戻ってくれりゃ助かるんだがなぁ」
「それは無理ですね。私はすでにカエデさんの秘書として終身契約を交わしていますので」
(……え、終身契約!?)
心のなかで思わず叫んでしまった。そんな話、初耳なんだけど。
でも――
ギルドやギルマスにはちょっと申し訳ないけど、エレナさんもわたしにとって必要な人だ。
だから……返すなんて、できるわけない。
「とにかく、講習は廊下の突き当たり右の部屋だ。まあ、そんなに難しい内容ではないし、おまえさんなら大丈夫だろ」
「うん、ありがとうございます」
ギルマスは受付の脇にある扉を指してそう言うと、また雑務の波に戻っていった。
エレナさんも「では、私はここで」と言って受付脇で立ち止まる。
「うん、行ってくる」
手を振って別れを告げ、扉を開けて廊下へと入る。
――がちゃん。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
廊下は静かで、空気の温度さえ違って感じる。
背後の扉越しに、さっきまでの賑やかな音が少しだけ漏れ聞こえてくる。
そのかすかな喧騒が、むしろこの静けさを際立たせているようだった。
わたしはひとつ息をのんで、まっすぐ前を見つめる。
(なんか、試験のとき思い出すな……)
廊下を突き当りまで進み、右手側にある少し大きめな扉の前で足を止める。
(突き当たりの右の扉……って、言ってたよね)
部屋の名前が記されたプレートがあったけど、確認はしなかった。
一度小さく息を吐いてから、その扉にそっと手を伸ばした。
扉を開けると、中は広めの部屋だった。
ギルドの会議室でやるって聞いていたから、だいたい想像通りの雰囲気。
長いテーブルがいくつか並べられていて、部屋の前方には、講師らしき男性が座っている。
ギルドの制服をきちんと着こなしていて、表情はどこか柔らかい。まだ二十代くらいだろうか。さわやかなお兄さん、といった雰囲気だ。
部屋のあちこちの席には、ばらばらと数人が座っていた。みんな大人で、わたしくらいの年の人はいない。
少し緊張しながら、わたしは部屋の前にいる講師っぽい人に声をかける。
「あの……ここって、物資支援員の講習で、合ってますか?」
講師の男性が、にこっと微笑んでうなずいた。
「はい、合ってますよ。席はどこでも大丈夫です。どうぞ」
とりあえず一安心だ。軽くお礼を言ってから、わたしは空いている席に腰を下ろした。
テーブルの端、隅っこの方。周囲の人たちとあまり目を合わせないようにしながら、こっそり深呼吸する。
わたしが入ってきた瞬間から、ちらちらと向けられる視線が、少しだけ気になっていた。
――やっぱり、わたしみたいな子どもはいないよね。
気圧されそうになる気持ちを押さえていると、講師の人が名簿を軽く確認して、手を叩いた。
「全員そろっていますね。予定より少し早いですが、始めましょうか」
そう言って、講習が始まった。
まず説明されたのは、今回の作戦の概要について。
森に流れ込んだウルフを一気に掃討する。
そのために、実際に戦闘する人たちに物資届け、倒したウルフを運ぶのがメインの仕事。
怪我人が出た際には、応急処置をして運び出すのも、わたしたちの役割になっている。
「実際の応急処置の方法や薬品の取り扱いに関しては、後ほど実技講習を行いますので、安心してくださいね」
講師の話し方は丁寧で優しく、説明の合間には、たまに冗談めいた言葉を挟んだりもしている。
まるで学校の先生みたいで、緊張していたわたしも、少しずつ落ち着いてきた。
――それから、具体的な担当範囲の説明に加えて、作業中の注意点や、支援員が自前で用意できる装備についての聞き取りなどが行われた。
覚えなきゃいけないことが思ったより多くて、わたしは必死にメモを取ってた。
周囲の人たちは慣れた様子で頷いていて、きっと、こういう現場に何度も関わっているんだろう。
それに比べて、わたしは今回が初めて。
でも――森で実際に戦う人たちにとって、そんなのは関係ない。
「カエデの担当範囲では、物資が満足に届かなかった」なんて、絶対にあっちゃいけない。
だから、しっかり覚えなきゃ。
そんな気持ちで、わたしは講師の言葉を一語一句、逃すまいと集中した。
「では、いったん休憩にしましょうか」
座学がひと通り終わって、講師の男性が手元の資料をまとめながら言った。
「このあとは主に応急処置に関する実技講習に移ります。少し準備の時間をいただきますので、そのあいだ皆さんは食事など、自由に休憩を取っていてください」
そう言って、講師は資料の入った鞄を持って部屋を出ていった。
周囲の受講生たちは、それぞれ持参した軽食を取り出したり、本を開いたりして、思い思いの時間を過ごし始める。
わたしも、バッグから持ってきたパンを取り出して、かじりながらメモを広げた。
(思ったより覚えることが多そうだな……)
内容をざっと見返しながら、覚えないといけない単語に線を引いて、忘れないうちに補足を書き足す。
時間は短いけど、今のうちにメモを整理しておけば、後でまた見直した時に役に立つ。
パンを食べきってメモの見直しも大体終わった頃、、扉が開いて先ほどの講師が、大きめの人形と鞄を両手に抱えて戻ってきた。
「お待たせしました。皆さん休憩できましたか? 実技講習を始めますね」
軽やかな口調で言いながら、講師は人形を部屋の前方に寝かせ、薬品の瓶と注射器を机の上に並べていく。
「こちらの人形で各種処置の練習をしていただきます。実際の人体とほぼ同じ硬さです。まずは胸骨圧迫の方法から確認していきましょう」
そう言って、講師は自ら見本を見せながら、胸骨圧迫の正しい位置や手の形、リズムなどを説明していく。
それから順番に人形に対して処置を行っていき、わたしの番になる。
お手本を思い出しながら、見よう見まねでやってみる。
「もう少し強くやってみましょう。肋骨が折れてしまっても構いませんよ」
「え、折れちゃってもいいんですか?」
「はい。心肺停止している状態では、心臓を物理的に押しつぶして血流を確保しなければなりません。骨折を恐れて弱い力で圧迫するよりも、骨が折れてもいいから命を維持する方を優先しましょう」
(……命か)
目の前の講習は、命を扱う現場のための準備なんだと、痛感した。
(わたしが怖がったり、躊躇ったりしたら――そのせいで、誰かが助からないかもしれない)
指先にじんわりと汗が滲む。わたしは一度、深く息を吸い込んでから、再び人形の胸に両手を置いた。
今度はしっかりと体重をかけて、思いきり押し込む。
「いいですね。そのくらいの力で続けてください」
講師の声にうなずきながら、何度も繰り返す。でも数回押しただけで、腕がぷるぷると震えはじめる。
(これ……続けるの、すっごく大変だ……)
隣の席に座っていた大人の男性も、終わった後は軽く息をついていたけど、それでもわたしほどは辛そうじゃない。
(わたし、やっぱり……まだまだ全然、力が足りないんだ)
やれるだけのことはやってるつもりでも、現場では通用しないかもしれない。
ふと、頭の中に最悪の光景がよぎった。
倒れている誰かを目の前にして、助けなきゃって必死になって――でも、手が動かなくて、力が入らなくて。
焦って、泣きそうになって、それでも誰も来なくて。
(……そんなの、だめだ……)
胸の奥がぎゅっと縮こまって、呼吸が浅くなる。
怖くて、悔しくて、どうしようもない感情がせり上がってきた。
こんな重傷者が実際に出るとは限らないけど、備えもできてないのに現場に出るのは、やっぱりよくないと思う。
続いて、講師は薬品の説明に入った。
「みなさんが扱う薬品はこの三種です。まずは傷口に直接かけるための消毒液。瓶からそのまま、傷にかける形で使用します」
そう言って、瓶の蓋を開けて人形の腕に液体をかける仕草をする。
次に、小さな注射器を二つ取り出す。
注射器と言っても普通のシリンダーやピストンのタイプではなく、針の根本に小さな袋がついていて、その部分を潰して中の薬液を出す使い捨てのやつだ。
二つの注射器には青とオレンジの二種類の液体がそれぞれ入っている。
「次に、こちらの青い方が強力な鎮痛剤です。必要に応じて重傷者に注射してください。脱力感や強い眠気が出るので、これを投与した場合は、必ず医療支援まで運んで引き継いでください」
青い薬液の入った注射器を見つめながら、わたしはそっと息をのんだ。
一体どれだけの痛みを消せるんだろう。
これが必要になるほどの怪我人は出ないで欲しいけど、いざというときに使えるようにしっかりと覚える。
「そして最後に、こちらのオレンジが興奮剤です。意識がもうろうとしている場合など、持ち直させるために使用します。こちらは、一時的な錯乱や幻覚などの副作用があります」
順番に注射の使い方を説明したあと、一人ずつ人形相手に練習することになった。
「どちらも打つ場所は厳密じゃなくて大丈夫です。肩でも腕でも、筋肉のあるところなら十分効果があります」
針を刺すのはちょっと怖かったけど、緊張しながらなんとか刺し込む。
(本物の人間だったら、もっと怖いんだろうな……)
人形相手の練習だけど、なるべく実際の人間を想像しながらイメージして覚悟を強くする。
続いて、止血帯の使い方や、怪我人を運ぶ手順なども学んだ。
けど……全部、やってみると、やっぱり力が足りない。
心臓マッサージだけでも腕はパンパンなのに、止血帯の固定や体の持ち上げなんて、何度かやっただけで、もう限界。
(腕が……プルプルする……。やっぱり、思ってたよりずっと大変だ)
しっかり覚えるのはもちろんだけど――体力的な問題もなんとかしなきゃ。
最後に、包帯の巻き方と、簡易的な固定の仕方を学び、わたしはそれもしっかりメモを取りながら覚えた。
夕方になったころ、講師が手元の時計を見ながら言った。
「予定より少し早く始められましたので、本日の講習はこれで終了です。皆さん、お疲れさまでした」
わたしは席を立ち、ぐるぐると肩を回す。
手も腕も重くて、正直ぐったり。でも、やり切ったという実感はあった。
講習はこれ一回きりで、あとは作戦当日に現地で顔を合わせ、そのまま本番に入るらしい。
周囲の受講者たちが次々に部屋を出ていく中、わたしはもう一度、メモ帳を開いて復習する。
課題はまだまだあるし、覚えるべきことも山ほどある。
――気がつけば、他の人たちはとっくに退室していて、部屋に残っているのはわたし一人だけだった。
メモ帳を閉じて、わたしもギルドの入口へと向かう。
外に出たところで、見慣れた姿が目に入った。
「……エレナさん?」
まさか待っていてくれるとは思わなくて、思わず立ち止まる。
「ちょうど終わる頃かと思って来てみたんです。あ、でもずっと待っていたわけじゃありませんよ? アイリちゃんのところで授業とお店のお手伝いをしていましたので」
「えっ、そうなんだ。……じゃあ、ほんとにぴったりだね」
まるで見計らったみたいなタイミングで迎えに来てくれたエレナさんに、ちょっと驚かされる。
並んで歩き始めてから、エレナさんが尋ねてきた。
「講習はどうでしたか?」
「うーん、覚えることは多かったけど……なんとかなる、かな」
そう言いながら、ふと聞いてみた。
「でもね、応急処置とか、怪我人を運ぶのとか、思ったより力が必要でさ。何かいい方法、ないかなあって」
「ふむ……」
エレナさんは少しだけ考えるように黙ってから、わたしの足元に視線を落とした。
「……でしたら、ブーツと同じように、握力や腕力を補助する魔法器を用意してみるのはどうでしょう?」
「あー、それ、いいかも!」
確かに、それが一番シンプルで確実な方法だ。なんで自分で思いつかなかったんだろう。
「では、さっそくアイリちゃんに相談しに行きますか?」
「うん。エレナさんも一緒に行ける? 市場で何か買ってから行こうと思ってるんだけど」
「はい、もちろんご一緒しますよ」
エレナさんがにっこりと笑って答え、わたしたちは並んで市場に向かって歩き出した。
今日も台所、使わせてもらおう。
夕飯の食材、何がいいかな。
カエデ「講習のメモ、日本語で書いてたんだけど……エレナさんに見せたら、すごく不思議そうな顔された」




