第1話 プロローグ 黒い影
世界観は中世ヨーロッパ風ファンタジーです。
本編のヒロインの過去、ヒーローの前世です。
新月の晩。紅葉が広がりだした森の入り口の小さな集落に悲劇が起きた。
真っ黒い影に覆われた不気味な人間が松明を握り、民家に次々と火を放つ。家々は瞬く間に燃え上がり、辺り一帯を照らす。その人影は集落の家に手当たり次第火をつけながら奥へ進んでいく。
燃えている家屋の炎が謎の人物の全貌を明らかにした。全身が真っ黒なスライムのようなものに体が覆い隠された男で、その黒いスライムが蠢いていた。男が歩いた後に落ちた黒いスライムのようなものが地を這っている。
その黒いスライムは住民達の影に入り込むと、住民達が気が触れたように罵り合い、暴力的になったり、狂ったように笑い出したりと奇行に走り出した。
*
騒ぎを察知した二人の青年が集落の奥の家から飛び出した。一人は赤い髪の魔法使いだ。先端に水晶のついた杖を掲げ、水の魔法で消火作業を始めた。
もう一人は剣を携えた体格の良い銀髪の剣士だ。彼は住民達を押さえようとしている。さらに騒ぎが気になった赤い髪の女性が赤ちゃんの娘を抱いて出てきた。この女性は魔法使いの妹であり、剣士の妻である。
「来るな!!」
剣士と魔法使いが叫んだ。赤ちゃんを抱いた女性ではこの事態の足手纏いだ。狂いだした住民達に大切な二人が襲われるかもしれない。しかし剣士と魔法使いの想いは届かず、黒い男と住民達が家の前の女性に群がりだした。
「逃げろ!そいつらは人間じゃない!」
「え??」
兄が声を張り上げて警告する。明らかに住民達の挙動がおかしい。最悪の事態を想定し、妹は近づかない方がいいと判断した魔法使いは大袈裟とも言える内容で叫んだ。女性は火事で住民達が混乱していると思っていたが、事態は想像を絶するものだと理解した。
群がる住民達が口々に叫んだ。
「お前のせいで家が焼けた」
「親子を差し出せ」
「俺はお前が好きなんだ」
「あいつじゃなくて俺の女になれ」
「お前の娘も寄こせ」
「抱かせろ」
住民の男達が口々に女性に迫る。彼等の目は血走り、正気を失っていた。
*
一方で黒い男はうわごとのように「先生……先生……」と繰り返していた。魔法使いと剣士と女性はその声に覚えがあった。女性はこの集落唯一の薬士で、その患者の一人に声が似ていたのだ。その患者は女性に恋慕しているのが明らかだった。だがその患者が通うようになる前から女性には想い合う男性、剣士の夫がいたのだ。
魔法使いの兄と剣士の夫は思った。
──嫉妬か?
薬士の女性は思った。
──私が癒せなかったから?
あの男の思惑はよくわからないが、男は周りの声が聞こえていたようだ。赤い髪の女性が抱く赤ちゃんが娘だとわかると「先生……赤ん坊…娘……先生……娘…娘……」と呟くようになった。黒い男の『娘』の声から、黒い男が娘に向かって行くように見えた。
──娘が狙われた!?
女性は迫る男達から娘を守らなければと、走り出した。迷っている暇はない。
魔法使いは火消しのため、雨雲を呼び雨を降らせた。燃えている家に構っている場合ではなくなった。降雨を確認することもなく、風を纏い妹の元へ飛んで行く。消火作業で妹の家から離れた場所にいた魔法使いは移動しながら現状把握に思考を繰り返す。
──あの黒いのは何だ?触れた奴がおかしくなるのか?精神に作用しているのか?あの影に飲まれたら終わる。精神的に負けたら終わる可能性がある。
*
娘を守るという使命感は強いが、焦りと恐怖から躓いて女性は倒れてしまった。
「どけっ!」
追いついた魔法使いの兄が群がる男達を突風を起こし追い払う。
「お前達は逃げろ!」
「でも!」
「あれはお前らを狙っているんだ!行け!」
「なら私は残る!私が」
自分が行けば治まる。あの人を救えなかった責任がある。そう言えば兄も夫も自分を止めるだろう。考える時間足りない。伝えたいが時間が足りない。自分は犠牲になっていいから、皆を助けたい!
赤い髪の兄妹が言い争っている時、剣士が黒い男を止めようとしていた。剣士に斬られた男は人間ではなくなっていた。黒いスライムの塊となっていたのだ。何度も斬られて飛び散った一部の黒いスライムは、黒い塊となり次々と高波になり赤い髪の兄妹へ押し寄せた。魔法使いの兄は赤ちゃんに風を纏わせ空へ浮かべた。
「こいつは逃がすぞ。俺が必ず見つけるから。」
兄が妹に娘を逃がすように諭す。妹も理解した。この場にいたら危ないことを。そして生後7カ月の娘を泣く泣く手放す。
「ゴメンね……でもママはいつだって護っているから──」
思い付く限りのあらゆる守りの加護を去り行く愛娘に施す。別れも満足に出来ないまま、風に乗り遠くへ飛んで行く娘を見送った。
いつだってパパとママは愛してるよ…幸せだったよ…
だから愛する人に愛されて幸せになってね…
私達の愛する──
*
夜が明けたとある屋敷の裏庭で、4歳位の男の子が何かを見つけた。
「じいちゃん、きて!」
屋敷で執事をしている祖父の手の引き、先程見つけたものへ駆け寄る。
「みてみて!あかちゃん!」
そこには毛布に包まれ、すやすや眠る赤ちゃんがいたのであった。男の子はかわいいなと、初めて見る赤ちゃんに興味津々だ。
これが二人の記憶に無い出会いであった。