結婚報告
ラーチェルの父、グラド・クリスタニアは、髭の似合う紳士である。
細身ですらりと背が高く、持ち手の部分が獅子の顔になっている杖をいつも手にしている。
芸術と研究をこよなく愛していて、これはと思った芸術家や研究者たちに金を注ぐことで有名で、彼にパトロンになってもらうと大成するというジンクスまでまことしやかに囁かれるぐらいだ。
ただ、自分がグラドとは名乗らないし、直接顔も見せることはない。
芸術家たちの間では『幻夢の君』と呼ばれているらしい。
ラーチェルは直接声をかければ皆喜ぶのにと思っているが、それはしたくないのだそうだ。
ラーチェルの母、ルーミア・クリスタリアは、ラーチェルとよく似た色合いの、派手さはないものの可愛らしい雰囲気のある女性だ。
元々はとある伯爵家の次女だった。
政略結婚により父に嫁いだが、嫁いだ当初は芸術家や女優やら、踊り子やらにグラドが入れ込んでいるように思えて、鬱屈した気持ちを抱えていたらしい。
なんて浮気性の男に嫁いでしまったのか──と。
けれどグラドの場合、それはただの趣味にしかすぎず、美しい者や優れた者を愛でることに関しては下心が全くなかった。
それに気づいてからは、夫婦仲は良好で、今では二人で大成した劇作家の観劇や、踊り子の舞踏や、絵画展の見学に勤しんでいる。
ラーチェルにうるさく何かをいうこともなく、いつも穏やかで楽しそうにしている、どことなく浮世離れした両親だ。
ラーチェルの兄が嫁を娶ってから、タウンハウスに夫婦で引っ越しをしてきて、少し早い隠居生活を楽しんでいる。
「お父様、お母様、騒ぎをおこしてしまい申し訳ありません」
「僕たちに謝罪をする必要はないよ、ラーチェル」
「そうよ、ラーチェル。オルフェレウス殿下、娘がご迷惑をおかけしました。それで、手紙には私たちに挨拶をと書いてあったのですけれど……本当でしょうか」
「クリスタ二ア公爵、そして奥方様。お久しぶりです」
オルフェレウスは二人に騎士の礼をする。
「殿下はすっかり大人になられましたね」
「どうにも小さい男の子の印象が強くて。こんなに大きくなって」
にこにこしながらオルフェレウスに声をかける両親は、オルフェレウスのことを古くから知っているような口ぶりだった。
グラドは今は亡き前王の友人であったようなので、オルフェレウスと会うこともあったのだろうか。
そのあたりの話は詳しく聞いたことがない。
父も母も、あまり思い出話などはしない。出てくる話といえば、どこのカフェのケーキが美味しいだの、今回の劇場の演目は大変よかっただの、そんな話ばかりだ。
こんなところではなんだからと、ラーチェルたちは奥の部屋に通された。
長年暮らしていた自分の家だが、今日はまるではじめて来た場所のように、ラーチェルの目には他人行儀に映った。
応接間に紅茶と茶菓子が準備される。
ゆったりと椅子に座る両親の前に、ラーチェルはオルフェレウスと並んで座っている。
父も母もラーチェルに怒っている様子はないが、これからどういう話になるのかと思うと、少し緊張した。
「手紙には書かせていただきましたが、ラーチェルと結婚したいと考えています」
「どうぞ」
「ええ。どうぞ。むしろありがとうございます、殿下。ラーチェルをよろしくお願いしますね」
オルフェレウスの申し出に、両親はあっさり頷いた。
数分で話し合いともいえない話し合いが終わってしまい、ラーチェルは困惑する。
「あの、お父様、お母様。私の失態の話は……説明をしようとしていたのですけれど」
「酒を飲んで酔うことなどよくあることだよ、ラーチェル。頼った相手が殿下でよかったね」
「そうよ、ラーチェル。殿下に結婚をすると宣言をしたのでしょう? 昨日、あなたを乗せないで馬車で帰ってきた従者や護衛から、事のあらましは聞いているわ」
「それで、殿下が君を娶りたいと言ってくれているのだから、よかったじゃないか。僕たちにできるのは祝福することぐらいだよ」
「ラーチェルも、結婚を知らせるつもりで帰ってきたのよね? 私たちとしては大歓迎だわ。殿下ほど真面目な方はいないもの」
二つ返事で娘を嫁に出そうとしている両親に、ラーチェルは何も言えなかった。
もちろん、ありがたいことだと思う。
同時にこれでいいのかとも思う。
結婚とは、こうもあっさり決まるものなのだろうか。
「早急に、王都に家を用意してラーチェルとそちらで暮そうと考えています。公爵と奥方様にとっては、ラーチェルと離れることは辛いのではないかと危惧しています」
「王都の中なら、お隣さんのようなものだしね」
「そもそも、私たちはほとんど出かけているの。旅行に行くことも多いし。ラーチェルは働いているし。今更、娘と離れたくないなんて駄々はこねないわ。殿下、娘をよろしくね」
とても和やかに、話が進んでいく。
結婚式の日程や、新しい家の場所に至るまで。父は全面的に協力をすると言い、母はドレスなら何着もあるから心配しないでねと言う。
何故何着もあるのかと尋ねると「いつか着てもらおうと思って、たくさん準備したのよ」ということだった。
母はラーチェルに、ルドランとのことがあってからは、結婚しろとは言わないが、結婚して欲しかったらしい。
「それでは、ラーチェル。明日は兄上に挨拶に行くつもりだ。全ての準備が整ったら迎えに来る」
「陛下への挨拶は、私も共に行きます。それが礼儀だと思いますので」
「……そうか、分かった。明日また、迎えに来る」
挨拶を終えたオルフェレウスは、ラーチェルの手をとってその甲に口付けると、公爵家から帰って行った。
ラーチェルは口付けられた手をぎゅっと握りしめて、その場にぺたんと座り込んだ。
すぐさま、侍女たちが駆け寄ってくる。
「ラーチェル様、大丈夫ですか?」
「ラーチェル様、お具合が悪いのですか?」
長年仕えてくれている侍女たちが、心配そうにラーチェルを覗き込んだ。
「違うの。少し、緊張していたのよ。それで、気が抜けてしまって」
「殿下はとてもすばらしい男ぶりでしたからね」
「それは、腰がくだけてしまう気持ちもわかります」
嬉しそうに、侍女たちがいう。
ラーチェルは顔を真っ赤にして、俯いた。
そういうつもりはなかったのだが、口付けられた手の甲が、熱をもったように熱かった。