緊急事態
さっと、血の気がひいたようだった。
どこかの誰かが強引に、生命の木を盗んでいった。村人たちは泣きながら、オランドル家に助けを求めてきた。
──などと、ナターシャは声高にうそぶいている。
「もうしわけありません、リュシオン様。私が、迂闊だったせいで……」
「こうなってしまったものは、仕方ないよ。君は知らなかったというだけだろう。俺はルドランから聞いているんだ、君が男好きの酷い浮気者だということ」
「そんなことは」
「もちろん、嘘だよね。知っているよ。問題は誰がルドランにその嘘をふきこんだかという話だ」
「まさか」
「妖精令嬢とはよく言ったものだよね。俺は内面の美しさを見るのが好き。外見はその付属品にしか過ぎないのだけれど……彼女は少しも綺麗じゃない」
ラーチェルは唇を噛んだ。
どれほどの恨みがそこにはあるのだろう。
そこまでするほどに、彼女になにをしてしまったのだろうか。
記憶を探ってみるが──何も、思い当たらなかった。
幼い頃に共に遊んだときも、ゲームで負ければすぐに泣き、お菓子が欲しいと泣き、歩き疲れたと泣くナターシャになにもかも譲ってきたし、妹に接するように接してきたように思う。
それがいけなかったのだろうか、
彼女がルイと結ばれたときもできる限りの笑顔で祝福をした。
自分の恋心などなかったように振る舞ってきた。
ナターシャは友人だ。だから、仲良くしようとできる限りの努力をしてきた。
それは、ただのひとりよがりだったのかもしれない。
「ラーチェル、君の作った香水は、あんな偽物に負けるようなものではないよね。大丈夫、このままいこう。あの香水、誰が作ったんだろう。酷いものだ。ここまできつい匂いがする。鼻が曲がりそうだ」
『うん。すごく嫌な匂い』
リュシオンが袖で鼻を押さえて、ラーチェルの肩に乗っているエルゥも、嫌そうに呟いた。
確かに──生命の木のむせかえるような甘い匂いの中に、嫌な刺激臭が混じっている気がする。
甘ったるい匂いのせいで気づかなかった。
けれどその香りの奥にある──この、目が痛くなるような嫌な刺激臭は何なのだろう。
「……っ、駄目!」
ラーチェルは舞台袖から飛び出して、ナターシャの元へ駆けた。
ただ匂いのきつい香水というだけではない。
この不愉快になる刺激臭は──。
「ナターシャ! その香水、何を入れたの!?」
「……っ、な、なんですか、ラーチェル様……! やめて、痛い、離して……!」
ラーチェルはナターシャに真っ直ぐ突き進んでいくと、その腕をきつく握りしめた。
これ以上、誰かにこの香水を使ってはいけない。
近づくと、先程よりもはっきりと刺激臭に気づいた。甘ったるい匂いの奥に隠れている、腐った果実から香るような腐敗臭だ。
「私、知っているんですから……! ラーチェル様が生命の木を盗んだこと! 昔からラーチェル様はずっとそう、人のものをすぐに欲しがるの!」
「何を言っているの?」
「私の夫に色目を使って、ルドラン様と結婚するというのに、ルイと浮気をしようとしたわ! オルフェレウス様と結婚をしたくせに、ルイが忘れられなくて、わざわざオランドル家の領地から香木を手に入れて、ルイに近づこうとしているのよ!」
ざわざわと、会場の人々がラーチェルの醜聞について眉をひそめて何かしら悪口を言い合っている。
ただナターシャがそう主張をしているというだけなのに、その言葉には妙な説得力がある。
──でも、今のラーチェルにはそんなことはどうでもよかった。
もっと大切な、そして切実な問題が、ラーチェルの目の前にある。
「ナターシャ、あなた、この香水を使ったのは今日がはじめて?」
「そうよ、それがどうしたの?」
「試してもいないのね」
「匂いの確認はしたわ。当然でしょう?」
「肌にはつけていないのね? きちんと答えて、大切なことだわ」
「そうよ。それがなんだっていうのよ! ラーチェル様、痛いです、離してください……っ、何をなさるのですか……? 誰か助けて……!」
挑むような口調からうって変わって、ナターシャはしおらしい泣き顔で皆に助けを求めた。
ラーチェルはナターシャから香水の瓶を強引に奪い取る。
ラーチェルの不安が正しいのなら、これは──。
「淀みの鈴蘭を、香木と一緒に香水に入れましたね。エルゥが浄化してくれたあの地に、僅かに残っていたのでしょう。香木に巻き付いていましたから、採取した方が香木の花だと勘違いしても仕方がないのでしょうが、それはとても危険なものです」
「何を言っているの? 言いがかりはやめて。何の話?」
「口にすれば毒が回り、手で触れれば皮膚が爛れます。ナターシャ、香水を作った方々は無事ですか? 体調を悪くして寝込んでいるのでは? あなたは不調はありませんか、吐き気は発熱は?」
「ラーチェル様、自分の罪が皆に知られるからと、嘘をつくのは……!」
ナターシャを取り囲んでいた令嬢たちから、耳をつんざくような悲鳴があがったのはその時だった。
「いやぁぁっ! 痛い……っ」
「腕が、首が……っ」
「痛い………っ、誰か……!」
ナターシャから香水を振りかけられた首や腕に、赤いただれが広がっていく。
やはり──嫌な予感が的中してしまった。
ナターシャは口を押さえると「気持ちが悪い」と、小さな声で呟いた。




