乗りかかった船
からかっているわけでもないのに、頑なにオルフェレウスはラーチェルと結婚をするという。
頭では理解できているが、心が追いつかない。
やはり、昨日の醜態を責められているようにも感じる。
「騎士団長様……怒って、いらっしゃいますよね、迷惑をかけてしまったことを」
「怒っていない。もし私が君を不愉快に思っているのだとしたら、すぐに部屋から追い出している。ラーチェル、私のことは名前で呼ぶように」
「そんな失礼なことはできません」
「夫を名前で呼ばない方が失礼だとは思わないか?」
確かにそれはその通りなのだが。
──本当に、オルフェレウス様は私と結婚するつもりなのかしら。
例えば貴族の結婚は、お互いの顔を釣書でしか知らないままに輿入れをする場合も多い。
あなたのことをよく知らないのでそれはできない、という言い訳は、言い訳にもならない。
ラーチェルは恵まれていた。
ルイに恋をし、ルドランと婚約するまで両親はラーチェルに自由を与えてくれていたし、今も自由を与えてもらっている。
本来ならさっさと嫁げといわれて、ラーチェルの立場であれば隣国に送られたり、有力貴族の後妻になることだってあり得たのだ。
王弟と公爵令嬢であれば、結婚するのはそうおかしなことではない。
そういう意味で、オルフェレウスはラーチェルとの結婚を受け入れたのかもしれない。
聖騎士団団長のオルフェレウスは、兄王ルーディアスと、それから女神ルマリエに忠誠を誓っている。
女神ルマリエは比翼の神である。その背中からはえる鷲の翼は、女神の夫である鷲王神デインのものとされていて、二人は永遠に一つであるという意味だ。
王国の法もこれに起因している。男女は結婚する相手以外とは契りを結んではならない。
その契りは永遠のものだからだ。
その教えを遵守しているオルフェレウスにとって、「結婚をする」という言葉を受け入れるのは、神の前での誓いと同じ。
あまりにも、重たいものだ。
(私は、オルフェレウス様の信仰を裏切ってはいけないわね)
羞恥と、罪悪感と困惑と不安がないまぜになっていたラーチェルは、腹の底に力を入れて、深呼吸をした。
醜態をさらしてしまった罪悪感で、冷静になっていたつもりでも、まだ混乱していたのだろう。
政略結婚だと同じだと思えば、戸惑うこともない。
そこに、愛や恋はないのかもしれないけれど──。
「オルフェレウス様と、お呼びしてもよいのですか……?」
「オルフェ、と」
「……オルフェ様」
「あぁ。以後、そのように」
「はい」
オルフェレウスは納得をしたように頷いた。
笑顔こそないが、不機嫌ではないのだろうなとラーチェルは思う。
ルドランと一年間婚約をしていたのに浮気に気づけなかったのだから、人を見る目には自信がないのだが──たぶん、そうだろうと思う。
元々ラーチェルは、皆が言うほどにはオルフェレウスを怖いとは思っていなかったのだ。
むしろ尊敬しているというのが本当で。
こうして話してみると、あまりにも隙がなく、正しいために、後ろ暗い何かを抱えている者たちにとっては『悪魔』というのも頷けるのだが、落ち着いて考えればそれはオルフェレウスの長所である。
愛や恋はないだろうが、ルドランのように浮気はしない。
ナターシャのように嘘はつかない。
(私には、もったいない方だわ……)
本当にそうだ。結婚を申し込んで、受け入れられたのが、何かに騙されているか、夢の中の出来事のように感じられる。
オルフェレウスは少し考えるように口に手を当てると、それからラーチェルの手を取った。
「挨拶を忘れていた。……おはよう、ラーチェル」
「オルフェ様、おはようございます。色々と戸惑ってしまって、申し訳ありません。昨日は、助けていただいてありがとうございました」
ごめんなさいと、帰りたいばかりを言っていた気がする。
罪悪感がラーチェルにそうさせていたのだが、あらためて考えると、先に言うべきは礼だろう。
あの場から、オルフェレウスはラーチェルを助けてくれたのだ。
まさかそのまま結婚することになるとは、思わなかったが。
「いや。構わない」
「お着替えも、ありがとうございました。迷惑ばかりかけてしまって」
「もう、礼はいい。食事が済んだら出かけよう。君の両親に挨拶をして結婚の承諾を得たいが、君の両親はどこにいる?」
「最近は、領地を兄に任せて、王都のタウンハウスで私と共に暮らしています。どうにも、その方が気が楽だといって。王都は流行の最先端ですから、人も多いですし、楽しいようです」
乗りかかった船である。最後まで乗り続けようと開き直ると、言葉がすらすらと出てきた。
オルフェレウスとの結婚については現実味がまるでないのだが。
「そうか。それは都合がいいな。先触れの手紙を出しておく」
ラーチェルの手を握りながら、本日の予定を確認するように、オルフェレウスはそう口にした。
それから、ラーチェルの手を引き寄せて、手の甲に唇をつける。
「あ……」
「すぐに戻る。手紙を書いて、届けるように頼むだけだ。傍にいたほうがいいか?」
「だ、大丈夫です……」
手の甲に触れる唇の感触は、革手袋をした手と違って、少し湿っていて柔らかい。
顔を真っ赤に染めるラーチェルの頬をさらりと撫でると、オルフェレウスは立ち上がり、部屋から出て行った。
後に残されたラーチェルは、その真っ直ぐに伸びた逞しい背中をただぼんやりと眺めていた。