生命の木
王都に帰還したラーチェルが、調香府での生命の木の分析をヴィクトリスと共に行っている間、アベルがとても嬉しそうにエルゥについて調べていた。
「尻尾が燃えているのに、触っても熱くないんだねぇ。今は小さいけれど、大きくなるのだね。へぇ、すごいな」
『ラーチェル、この男の人は大丈夫なのかな』
「大丈夫です、悪い人ではないですよ」
熱心に触ったり抱き上げられたりしげしげ見つめられて、エルゥは困っているようだった。
ラーチェルの肩に逃げてきて、近づいてくるアベルをぱしっと尻尾で叩く。
「何もしないよ、怖くないよ」
「手つきが怖いのですよ、アベル。エルゥは女神様の眷属なのでしょう? ラーチェルの肩に乗っていていいのでしょうか。神殿に預けるべきでは」
「それが……ルーディアス様が、私とオルフェ様に預けるとおっしゃって」
ヴィクトリスの指摘に、ラーチェルは首を振った。
ラーチェルたちの前にある机では、煮出された生命の木の成分が、抽出用のフラスコの中から細いガラス管を通り、ビーカーの中に一滴ずつぽたぽたと落ちてきている。
「国王陛下がそうおっしゃるのなら構わないわね。私としては、調香府に可愛い生き物が増えるのは大歓迎よ。ヴィクトリスとラーチェルは可愛い、エルゥも可愛いわ」
「ルルメイアさん、僕は?」
「アベルも可愛いわよ」
「でしょう」
王都に帰還して、ラーチェルはオルフェレウスと共にルーディアスに村での出来事を話に行った。
ルーディアスは「それはすごい。汚染された土地を浄化できるというのは素晴らしいな。オルフェとラーチェルにエルゥのことは任せる」と、あまり深く考える様子もなく言っていた。
オルフェレウスは「兄上、エルゥは女神の御使い、国にとってとても大切な存在だ。もう少し真面目に考えて欲しい」と苦言を呈していた。
だが、ルーディアスに「だからお前たちに任せるんだ」と言われてしまっては、何も言い返せないようだった。
だから任せる──というのは、オルフェレウスを信頼しているからなのだろう。
『僕は、尽きぬ浄化の炎。それから、死者の声を代弁する者』
「古の昔我らは女神より炎を与えられた。聖典の一節です。それが、エルゥということですか?」
『そう。最初の炎。原初の炎。それから人々は炎を自分で産みだすようになった』
中々、神秘的な話だ。
ラーチェルは胸が躍るのを感じた。
古の時代本当に女神がこの地にいて、エルゥを生み出し、炎を人々に分け与えていたのだとしたら──。
それはとても、美しい光景だっただろう。
「どうしてエルゥはあの場所で眠っていたのですか?」
『人々を守るためだよ。僕たちは四獣。東西南北に別れて、それぞれの土地を守る者だった。でも、女神がいなくなって僕たちも眠りについたんだ。お腹がすいておきたら、すごく時間が経っていてびっくりしたけれど』
つまりはあと三体、エルゥのような存在が王国のどこかで眠っているということだろう。
長い年月の中で記憶は失われる。
失われないために記録を残すのだが、それも月日と共に書物が摩耗したり、石碑が紛失したりして残っていない場合も多い。
だからきっと、エルゥたちの存在は忘れられていたのだろう。
ただ聖典の一説に残るのみだった。
「興味深い話ですね。そんなエルゥの眠っていた場所にはえていた生命の木……あぁ、これはすごい」
「とてもいい香りだね」
「バニラの香りですね。でも少し、ちがいます。バニラビーンズから抽出した香りよりも、柔らかいでしょうか。森の香りが混じっています。深い森の、木々の香りですね」
ビーカーの中にぽたぽたと黄金色の液体が落ちるたび、研究室に香りが広がっていく。
それは甘く香しく、同時に光が降り注ぐ神聖な森を連想させるものだった。
長年人の手が入らずに守られてきた、豊かな自然。
沢山の命が眠りそして芽吹き、生命の営みが繰り返されている静かな場所だ。
「香水にするのもいいのですが、村の人々は生命の木を薬として扱っています。そちらの効能もあるのか調べたいのですが」
「そうですね。それがいいと思います」
ラーチェルの提案に、ヴィクトリスも同意してくれる。
ただの香水にしてしまうのは、勿体ない気がした。できることならよいものを作って、レイモンドたちにも喜んでもらいたい。
「今回の研究発表会では、オルフェ様にモデルをお願いしようと思っていて……できることなら、オルフェ様のイメージに合うものを作りたいのです」
「死神?」
「悪魔?」
「魔王?」
ヴィクトリスたちが口をそろえて言うので、ラーチェルは「そうではなくて……!」と否定した。
「あぁ、でも……それはそれで素敵かもしれません。神秘の森、生命の木、麗しの悪魔……? 原初の炎、エルゥ、薬木……」
ラーチェルが腕を組んでぶつぶつ呟き始めると、ヴィクトリスたちは「長くなりそう。お茶にしよう」と言って、研究室から出て行った。




