落ち着かない朝
オルフェレウスの唇が、手のひらから指先までを撫でるように辿り、手首に軽く歯を立てる。
ラーチェルは寝衣の袖を口元にあてて、うつむいた。
聖典によれば、ただ一人の相手と愛し合う行為というのは神聖なものだ。
その逆で、多数の恋人を作るような行為は邪悪なものとされているのだが。
神聖な行為なのだから堂々と受け入れていいのだと、頭では理解している。
けれどオルフェレウスの髪が降りていていつもと雰囲気が違うことや、寝衣からのぞく太い首やぶあつい胸板、触れられる皮膚から伝わる甘い感触にどうにも胸が高鳴ってしまい、困ってしまう。
「ぁ……っ、オルフェ様……っ」
大きな手のひらが、すくうように胸に触れて、ラーチェルは思わず名前を呼んだ。
その声は、阿るような響きを帯びていて、かえって羞恥心が煽られる。
「……ラーチェル、あたたかい。柔らかい。……眠いな」
「え……っ」
「眠い」
「あまり、眠れていないのですか?」
「君が部屋の隣にいると思うと、眠れなかった」
「……眠ってください、オルフェ様。大丈夫、触っていていいですから」
それは──もしかしたら、昨日だけではないのかもしれない。
心に深い傷があると、人は眠れなくなるものだ。
安眠のための香りも、だから王国では人気がある。
それでも、それさえも効かない人も多くいる。
髪が降りているために幼く見えるオルフェレウスの頬を撫でて、ラーチェルは微笑んだ。
まさか胸に触れられて、眠いと言われるとは思っていなかったけれど、それがなんだか──面白かった。
オルフェレウスは獣が獣の子を抱きしめて眠るように、ラーチェルの体をすっぽりと背後から抱きしめる。
規則正しく響いてきた寝息が、深い眠りを教えてくれる。
ラーチェルはそっと吐息を吐き出して、目を閉じた。
柔らかい疲労感が体を包み込み、やがて眠りの淵に落ちていった。
ふと目覚めると、太陽があかるく室内を照らしていた。
目覚めのいいラーチェルは、ぱちりと目をひらくと、まず体に絡みついている逞しい腕に驚いた。
そういえばオルフェレウスと共に眠ったことをすぐに思いだし、僅かに身じろいでその腕から抜け出した。
寝起きの恥ずかしい姿を見られなくてよかったと思いながら、身支度を調えるためにベッドから降りようとした。
ぐいっと腕がひかれて、ベッドに戻される。
「わ……っ」
「……ラーチェル」
どこかふわふわした声音である。
起きていたのかとオルフェレウスを覗き込むと、薄らと目を開いてぼんやりしているようだった。
とてつもなく珍しい姿だ。
しげしげとオルフェレウスの様子を眺めて、ラーチェルはくすくす笑った。
飲み過ぎたせいだろうか。半分起きているのに、半分はうとうとしている。
無意識で名前を呼んで腕をひいて引き留めてくれたことがなんだか嬉しくて、ラーチェルはオルフェレウスの艶やかな金の髪を撫でた。
「おはようございます、オルフェ様。急ぐ用事はありませんし、もっと寝ていていいですよ」
「ん……」
「私は、顔を洗って着替えてきます」
「ラーチェル。……いい香りがする。甘い」
「え……あ、あの、オルフェ様……っ」
昨夜は──オルフェレウスが酔っていたから、恥ずかしいことも受け入れられた。
けれど今は朝だ。腕の中に閉じ込めるように抱きしめられて、首筋に顔を埋められると、恥ずかしさのあまり逃げ出したくなってしまう。
「……ん?」
「オルフェ様、私、支度を……」
「支度……? ……ラーチェル、朝、か?」
「は、はい。朝です」
「とてもいい夢を見た気がする。君と共に眠ったような……」
「私はここにいますよ」
「本物か?」
「は、はい」
オルフェレウスは目を見開いた。
それからぱっと、ラーチェルから手を離して、額に手を当てるとうつむいた。
「オルフェ様、どうしましたか?」
「……私は、君に何かしただろうか」
「え……あっ」
「……すまない、ラーチェル。酒を飲んだせいで、酔っていた。怖い思いをしたのではないか、すまない」
ラーチェルの首筋に残っている赤い跡に気づいて、オルフェレウスは更にうつむいた。
やはり、酔っていたのだ。わかってはいたが、ここまで落ち込む彼を見るのもはじめてだ。
新しい一面を知る度に、心が近づいていくようで──胸の奥がきゅっと疼いた。
「オルフェ様、私たちは夫婦になるのですから……だから、大丈夫です」
「……酔った私が君に触れたと思うと、腹立たしい。昨日の私を殺したい」
「落ち着いてください、オルフェ様……」
オルフェレウスはまだ寝ぼけているのかもしれない。
「昨日のこと、覚えていないのですか?」
「曖昧に覚えているからこそ腹立たしい。……君には情けない姿ばかり見せる」
「そうは思いませんけれど。でも、恥ずかしい姿を見せているのは私も同じです。お揃いですね、オルフェ様」
「……あぁ。私は君に、どこまで触れた?」
「えっ、あ……すぐに眠ってしまわれたので、なにも、それほどは」
「そうか。ならば、よかった」
具体的なことなど言えずに、ラーチェルは誤魔化した。
オルフェレウスはどこか安堵したように、小さくため息をついた。
『お腹がすいたよ。ご飯が食べたい』
ラーチェルとオルフェレウスの間に、ちょこんと、エルゥがやってきて座る。
「おはようございます、エルゥ。よく眠れましたか?」
『うん』
「……そういえば、共にいたのだったな」
『うん。僕はずっと寝ていたけれど、二人は喧嘩をしたの?』
「違います。喧嘩はしていませんよ」
「あぁ、違う」
『よかった』
ラーチェルはエルゥを抱きあげた。
それからふと思いだしたようにじっとオルフェレウスを見つめる。
「おはようございます、オルフェ様」
「おはよう、ラーチェル」
それはとても、特別な言葉のように思えた。




