あの時とは真逆の
何度も触れては離れていく唇の感触に、ラーチェルは自分の顔がこれ以上ないほどの情けなくなっていることに気づいていた。
血が沸騰してしまったかのように熱い。頬が熱い。触れあう体や唇が熱い。
重なり合う手のひらや、絡み合うように繋がれる指。
吐息からは微かに酒の匂いがする。
平素よりも赤く染まったオルフェレウスの頬や潤んだ青い瞳が──彼が酔っていることを伝えてくる。
そうじゃなければこんな風に、大胆に触れあうことなどないだろう。
「ラーチェル。……君は柔らかく、あたたかい。こんな風に触れることができる日がくるとは、思っていなかった」
「オルフェさ……っ、ん……っ」
唇を熱を持つ柔らかいもので撫でられる。
促されるままに薄く唇を開くと、ぬるりとした感触のものが唇を割り開くようにして中へと入ってくる。
(お酒の味がする……)
どれぐらい、飲んだのだろう。
オルフェレウスは仕事中は酒を飲まない。今まで彼の騎士団長としての姿しか見たことがなかったラーチェルは、当然ながら彼が酒を飲んでいる姿を見たことがない。
村人たちに囲まれて勧められるまま杯を重ねている彼が微笑ましかった。
けれど──今のオルフェレウスは、いつもの冷静で落ち着きのある彼とはまるで違う。
野生の獣に、食べられているようだった。
口腔内の粘膜を舌先で撫でられる。呼吸ができないほどに深く、唇が合わさっている。
奥に引っ込めていた舌を誘うようにして絡め取られて、ぬるりと合わさった。
「……っ」
背中が、ぞくりとする。
気を抜くと妙な声をあげてしまいそうで、ラーチェルは眉を寄せた。
どこで呼吸をすればいいのか分からなくて、息が苦しい。
身じろぐと、オルフェレウスの体に自分の体が触れて擦れるようになってしまうのが、たまらなく恥ずかしい。
キスは、はじめてだ。
触れあうだけのそれもはじめてだったのに、こんな──激しくて淫らなものは、知らない。
苦しくて、体中が切なくなって、ラーチェルはオルフェレウスの服を掴んだ。
オルフェレウスの唇が、名残惜しげに何度か触れて、離れていく。
ラーチェルは陸に打ち上げられた魚のように酸素を求めて、はぁはぁと促迫した呼吸を繰り返した。
「……愛らしいな」
うっとりとそう呟いて、オルフェレウスは艶やかに笑う。
彼を囲っている冷たい檻のようなものがとれてしまい、剥き出しの感情がそこにはあった。
「オルフェ様……」
完全に、酔っている。
これではあの時とは逆だ。ラーチェルがオルフェレウスに勢いで求婚してしまった、あの日とは。
「ラーチェル、ずっと君が好きだった。昔から、ずっと。だが、私は幸福を得てはいけない。罪深い。罪人だ。……君が私の手を取ってくれたから、私は君に手を伸ばすことができた」
「オルフェ様……私はそんな風に言っていただけるような特別な何かがあるわけではありません」
隠していたものをさらけだすように、オルフェレウスは囁いた。
それは痛みを伴う感情で、ラーチェルは少し悲しくなる。
彼は罪人などではない。
オルフェレウスの母も彼の父も、そしてルーディアスの母も。
彼に罪を背負わせて、傷つけたまま、亡くなってしまった。
それはとても、卑怯だ。身勝手だと、腹立たしく思う。
けれど──オルフェレウスとラーチェルには深い関わりなどなかったはずだ。
ナターシャのような美貌があれば、彼の気持ちも少しは納得できるが、そうではないのだから。
「私にとっては、君だけが特別だ。君は私の、妖精。私を救ってくれた」
唇が首筋を辿り、軽く鎖骨を噛んだ。
薄い寝衣が心許ない。オルフェレウスが何の話しをしているのかわからなくて、少し混乱する。
「……オルフェ様は昔、クリスタニア家にいらっしゃったと聞きました。でも、私は覚えていなくて」
「それは、そうだろうな。私は部屋から出ることがなかった。誰とも会わなかった。あの時の私は、心が壊れてかけていた。……死を求めて外に出て、公爵家にある林で妖精と出会った」
「……あっ」
ラーチェルはオルフェレウスの腕を強く掴んだ。
彼は嬉しそうに目を細めて、ラーチェルの首筋を強く吸った。
僅かな痛みと共に、赤い跡が首筋に残る。
「ん……っ、待って、オルフェ様……っ、待ってください……私、覚えています。お腹を空かせた男の子が、毒草を食べようとしていたこと。どこからか迷い込んだ、迷子の子だとばかり……」
「あの日からずっと、私は君を見ていた。ルイ殿に秘めた恋心を抱いている君のことも。調香府で働き始めたあとの君も、不実な婚約者に傷つく君も……それでも仕事をし始めると、周りの雑音が全て消えていくように集中して、歩きながらよく壁にぶつかったり、転びそうになる君も全て」
「そ、それは見ないで欲しかったです……」
恥ずかしことばかりだ。
全て、見られていたなんて──。
あぁでも。
あの時の──顔は思い出せないけれど、今にも死んでしまいそうな様子で毒草を食べようとしていた少年が、オルフェレウスだったなんて。
「オルフェ様……私が傍にいます。ずっといます。ですから、もう、あんなことは……」
どれほど辛かったのだろう。
どれほど痛かったのだろう。
身勝手な大人たちの死が、どれほど、オルフェレウスを傷つけたのだろう。
ラーチェルの瞳に涙が滲んだ。こんなに幸せなのに、胸が高鳴っているのに、切なくて苦しい。
「私の命は君に救われた。そして兄に、救われた。兄と女神に命を捧げた。……だが、君にも捧げさせて欲しい。……幸せだな。こんな風に君に伝えられる日が来るなんて」
「命は……いりません。私と一緒にいつまでも、一緒に……生きてください」
ラーチェルが手を伸ばすと、オルフェレウスはその手をとって、手のひらに口付けた。




