埋められる外堀
王立学園のカフェテラスで、ラーチェルはルイとナターシャと共に三人で昼食をとっている。
王立学園に入学してからというもの、三人でいつも一緒にいた。
それは変わらない毎日の一ページにすぎなかった。
変わらないけれど、特別なものだ。
ラーチェルはルイが好きだ。
優しげな目元も、笑うと幼い顔になるところも、穏やかな声音も、癖のある黒い髪も。
好きだと気づいた時から、世界が輝いて見えた。
ルイを形作る全てが愛しく思えた。彼が紡ぐ言葉が、単語の一つ一つが、特別なもののように思えた。
「ラーチェル。話があるんだ」
「なにかしら」
いつもと同じ穏やかな声音で、ルイが言う。
ラーチェルは食後のカフェラテを飲みながら、その言葉を聞いていた。
ナターシャがちらちらと、なにか言いたげにルイを見ている。
愛らしいその様子に、恥ずかしげに染まった頬に、嫌な予感を感じた。
思えばその日は、朝からついていなかった。
ラーチェルの癖のある赤みを帯びたブルネットの髪は、朝から落ち着かずに跳ねていたし、髪型が決まらないあまりに出かけるのが遅くなり、少し慌てていたせいで階段で転びそうになった。
昼食に頼んだクロワッサンにはレタスと生ハムと一緒に、ラーチェルの苦手なパイナップルが挟まっていて、甘いのかしょっぱいのかが分からずに、口の中がしっちゃかめっちゃかになった。
悪いことは重なるものだ。
ラーチェルの場合は特にそうだ。昔から、よくない日というのはとことんよくないことが続くのである。
考えすぎかもしれないが。
「ナターシャと、婚約することになった」
「……こんやく」
「王立学園に入学してすぐに、僕たちは想いを確かめ合ってね。それで、お互いの両親に頼んで、婚約の許可がおりたんだ。学園を卒業したら、結婚する。ラーチェル、祝福してくれるよね?」
目の前が真っ暗になった。
青い空は曇天に変わり、ざああっと雨が降り出した。
美しい花は全て枯れて、飲んでいたカフェラテは泥水に変わった。
「はい、もちろん」
笑顔は、歪んでいたかもしれない。
ルイはにっこり笑って「よかった。ラーチェルなら喜んでくれると思っていたよ」と嬉しそうに言う。
ナターシャもとびきりの笑顔で「もちろんですよ、ルイ様。だって私、ラーチェル様にはずっと、相談していましたから。ルイ様のことが好きだって」と、嘘をついた。
ルイが好きだとナターシャに相談していたのはラーチェルである。
ルイが好きだと気づいたのは十五歳の時で、それからすぐにナターシャには伝えていたから、二年間も──ナターシャには欺かれていたということだろうか。
ナターシャのことが分からなくなった。
親友だと、思っていたのに。
それから二年間。十七歳から十八歳までの学園生活をラーチェルは静かに過ごした。
どれほど心が痛くても、ルイへの恋心をひた隠しにして、いつものようにナターシャとルイと三人で過ごしていた。
恋が人生の全てではないけれど、それでもルイ以外の男性のことを好きになることはできないだろう。
「……ん」
ゆっくりと瞼をひらき、ぱちりと瞬きをする。
目尻を涙がこぼれ落ちて、手の甲でこすった。
久々に嫌な夢を見てしまった。あれからもう数年経っているので、ある程度心は強くなったし、もう思いだして泣いたりもしないのだけれど。
夢の中の心は無防備で、まるでまだ子供だったあの時に戻ってしまうようだ。
ラーチェルはそろりと起き上がる。
見慣れない寝衣を身につけている。光沢と艶のある、腰紐をとめるタイプの黒い寝衣だ。
両手が余るほどに袖が長い。
ぶかぶかしている首元からは、胸が半分のぞいて見える。
慌てて前あわせをたぐって、寝乱れていた寝衣を整えた。
「……ここは」
ずきりと、頭が痛む。
その痛みと同時に、思い出したくない記憶が頭の中にあふれた。
「あぁ……っ」
昨日の、舞踏会。可愛らしい令嬢と腕を組んでいる元婚約者のルドラン。
相変わらず優しいルイと、親切なのか嫌味なのかよくわからないナターシャ。
苦手なのに飲んだ酒と──悪魔のような、オルフェレウス。
「起きたか、ラーチェル」
平坦で低い声に名前を呼ばれて、ラーチェルは警戒する猫のように体を緊張させながら、そろそろとベッドから降りた。
室内履きが置かれているのに気づいて、素足を通す。
ふわふわの室内履きに包まれて、足が気持ちいい。よく寝たせいか体もすっきりしている。
頭はまだ少し痛いけれど、吐き気はないし、ひどい二日酔いにはならなかった。
ベッドルームは、大きなベッドが一つ置かれているだけだ。
テーブルもなければランプもない。窓からは明るい日差しが差し込んでいて、青空に白い鳥が飛んでいるのが見える。部屋の壁には黒に金で草花の模様が描かれている。
ベッドは公爵家のそれと負けずとも劣らないぐらいの寝心地のよさで、ラーチェルの好きな香りがする。
それは、オルフェレウスから香るものと同じ。
甘くて少し清涼感のあるそれは、ラーチェルの好きなシナモンとバニラの混じった甘い香りだ。
寝衣からも同じ香りがする。ラーチェルは、袖を口元にもってきて、すんすんと匂いを嗅いだ。
そこまで強く香るというわけではないが、ラーチェルは昔から鼻がよかった。
まるで違う餌だと食べない猫のようだと、母からはよく言われる。きっとそれはあなたの長所だろうとも。
好きな香りに包まれていると、緊張が少しほぐれた。
昨日は酔っていたし混乱していたのでそれどころではなかったのだが、すっかり酔いが覚めて冷静になった今――余計に私はなんて大変なことをしでかしたのだろうという罪悪感に、両肩に岩石を載せられたようなずしんとした気持ちになった。
「吐き気はないか? 頭は痛まないだろうか」
「大丈夫です。ありがとうございます、騎士団長様。私……眠ってしまったのですね」
「眠ったというよりも、酒に酔って気絶をした」
「申し訳ありません……」
丈の長く、袖のあまる寝衣はきっと、オルフェレウスのものだろう。
ラーチェルよりもずっと早く起きたのか、オルフェレウスはきちんと身なりを整えていた。
昨日の白い軍服から、平時の騎士団の隊服である、黒い軍服に着替えている。
光を帯びたような金の髪をオールバックにしていて、よい形の額と意志の強そうな太い眉が露わになっていた。
「昨日のことも、申し訳ありませんでした。お世話になりました。正式な謝罪は後日させて頂きます。私は、家に帰らないと……」
「ラーチェル。違う」
「違う……?」
「昨日も話したな。君は覚えていないのかもしれないが。私たちは夫婦になったのだ。謝罪は必要ない。君の帰る家はここだが──結婚しても尚、兄の城に住むというのは問題だな。早急に家を用意しなくては」
「……か、からかっているのですか?」
ラーチェルは顔を真っ赤にして、それだけを尋ねた。
オルフェレウスに限ってそれはないとは分かっているのだが、一夜あけても同じことを言われるとは、さすがにからかわれている気がしてならない。
「何故そう思う?」
「騎士団長様が私と結婚をしたいと思うわけがありません。ひどい醜態を見せてしまったのに……突然結婚してほしいとあなたに詰め寄った、変な女です」
「詰め寄られたわけではない。変な女とは思っていない。君のことは以前から知っていた。その上で、結婚を了承したのだ。何か問題があるか?」
問題しかない。
ラーチェルの評判といえば、最近は『婚約者に浮気をされて捨てられた女』というぐらいである。
ルイへの恋心は隠していたので、それは噂になってはいないと思いたいが。
「やっぱり、からかっていらっしゃるのですよね。帰ります、私……」
「その格好で帰るのか?」
「それは……」
「ドレスが苦しそうだったので、私が着替えさせた。ラーチェル、妻の肌を見ることができるのは夫だけだ。私は君に触れて、素肌を見た。そこには責任がある。それに、結婚の約束を違えることはできない」
なんて――融通のきかない人なのだろう。
これでは悪魔と言われるはずである。確かにオルフェレウスの言っていることは頭から尻尾まで全部正しいのだ。
けれど、これでは、困ってしまう。
もちろん悪いのは全部、ラーチェルなのだが。
「こちらに。二日酔いに効く薬草茶を用意した。食事をとり着替えたら、君の家まで送ろう」
「送ってくださるのですか?」
「あぁ。君の両親に挨拶をしなくてはな。それから兄に結婚を伝えて、家を持つ許可を得る。騎士団本部は城の中にあるし、君も城で働いている。家は、王都の中に用意するのがいいだろう」
すごい勢いで、外堀を埋められているのを感じた。
これは冗談ではない、本気だ。
「金のことは心配しなくていい。使う必要もないのでな、今までの給金は全て貯めてある。兄のように国王になれるわけでもないが、これでも王族だ。君に苦労をさせるようなことはない。婚礼の儀式を早々に行い、女神の前に結婚の誓いを立てなくてはな」
オルフェレウスの提案を聞きながら、ラーチェルは青ざめた。
美しい姿をした悪魔は、一晩経っても悪魔のままだった。