浄化薬
汚染された土地というのは、王国内にはいくつか存在している。
例えば湿地帯ゾルデム。
死夜城ルザルト。
その周辺の土地がそれにあたる。
汚染された土地の穢れ──つまりは毒性は、植物をゆっくり変性させる。
土を腐らせて、その土で育った植物に毒性を付与するのである。
汚染が起こったのは、遠い昔にそこで討伐された魔物のせいだ。
魔物の血肉が毒となり土地を汚して、土地を腐らせる。
実際のところはどうなのか判明されていないが、そのように言われていた。
あるいは、シビレカガシのような毒性を持つ魔物の毒が土地を穢したのかもしれない。
ただ一つ幸運なことに、そういった汚染を浄化するための研究は、研究棟でなされていた。
「木の実や水が汚染されているのだとしたら、浄化をしなければやがて汚染は村まで広がります。アナベルさんは汚染された木の実を口にしたのでしょう、きっと。熱と、嘔吐。あなたも一緒ですね」
ラーチェルは動かない魔物に触れた。
「ラーチェル、危険だ。近づくな」
「大丈夫です。……大丈夫だという気がするのです。この子は、アナベルさんを襲わなかったのですから」
「しかし」
「オルフェ様を襲ったのには、何か事情があるのではいでしょうか。たとえば……シビレカガシを倒したから……?」
わからない。だが、魔物は理性を失っているように見えた。
「オルフェ様、シビレカガシを倒した時に怪我をしたとおっしゃいました。体に毒が回りましたか?」
「二、三日、動くことが困難だった。そうでなければ村に滞在などしなかった」
「オルフェ様の体に、シビレカガシの気配が残っていた……? 獣は敏感ですから、オルフェ様をシビレカガシと勘違いして襲ってきた……三年も経っているのに。あぁでも、この子にとっては月日など関係ないのですよね。ここが住処だとしたら、土地がシビレカガシのせいで汚染されていっていたのですから……」
ぶつぶつ言いながら考え込んで、ラーチェルは顔をあげる。
ごそごそと鞄の中から浄化剤を手にした。
それは、細い針のついた薬液の入った注射器である。汚染されて変性した植物毒というのは独特で、ただの解毒剤では歯が立たない。
毒を専門にしているヴィクトリスが、魔物研究府と薬剤府と共に開発をした浄化剤を使う必要がある。
原因が分かれば、対処は簡単だ。
ただ──土地の浄化自体は、非常に困難である。
広範囲にそれが広がってしまえば、とても手に負えない。
そうなる前に、全てを焼いてしまう必要がある。
植物を焼いて、土を焼いて──それから、汚染された土地を掘り起こし、壁を張り巡らせて禁足地とする。
そこまでしてやっと、汚染が広がるのを止められるのだ。
広範囲を浄化する浄化剤は開発中である。きっとそのうち、完成するだろう。
だが、今はまだどうすることもできない。
ラーチェルは注射器を手にすると、魔物の首にぷすりと刺した。
人間の大人に使用するには一本。魔物は、体の大きさからいって、三本は必要だろう。
いつも五本は常備している。魔物に使用しても、アナベルの分は足りる。
ふわふわの毛並みに手を突っ込んで、後頸部に刺して薬液を注入する。
鋭い針は簡単に魔物の皮膚を貫いて肉に届いた。
魔物は静かに眠っている。口からはだらだらと泡をはき続けている。
オルフェレウスに襲いかかっていたときは巨大に見えたが、毛並みの中にある体躯は痩せ細っていた。
オルフェレウスが体を起こして、ラーチェルに近づいてくる。
「オルフェ様、座っていてください」
「痛みが引いた。問題ない」
「痛みがひいても、怪我が治ったわけではないのですよ……!?」
「命に別状は」
「命が無事でも、怪我は怪我です!」
三本目の注射を終えると、ラーチェルは注射器を丈夫なブリキ缶の中にしまった。
そして、隣に立つオルフェレウスを睨み付ける。
だって──死んでしまうかと、思ったのだから。
「……怒っているのか?」
「怒っています。オルフェ様を失うかと思ったのですから……っ、命が助かったのに、体を大切にしないなんて。傷が悪化したらどうするのですか? 骨が折れていたら? 折れた骨が内臓に刺さったら? 傷から毒が回って、血が腐ってしまったら?」
「……すまない」
「謝らなくていいです、わかってくださればいいのです」
ラーチェルは消毒液と包帯を取り出すと、手早くオルフェレウスの血が染みているトラウザーズの上から消毒液を振りかけて、包帯できつく縛った。
先程冷やしていた火傷の跡には、軟膏を塗った。
火傷は広範囲に広がっていると思いきや、そこまで酷くはないようだった。
炎が直撃するまえに、避けたのかもしれない。そうでなければ、全身が焼けただれていただろう。
「……すまなかった、ラーチェル」
「謝らなくていいです……これでは、いつもの逆ですね」
「あぁ。君に、嫌われたくない」
「嫌いません。……私は、失いたくなかったのです。あなたを」
「君は誰にでも手を差し伸べる」
「困っている人がいたらそれは当然です。ですが……それだけではありません。私、怒るのはとても苦手です。……でも、オルフェ様がご自分を大切になさらないのは、嫌なのです」
オルフェレウスの上着のボタンを外して、前を開かせる。
火傷は首から胸まで及んでいた。軟膏をぬったあと、踏みつけられた腹を確認する。
逞しい腹筋の上に大きな痣ができていたが、切り傷はない。
胸の横に触れて、肋骨のある場所を軽く押した。
「痛みはありませんか? 呼吸の度に、激しく痛みませんか?」
「恐らく骨は無事だろう。内臓も問題ない。……これでも、鍛えている」
「……よかった」
外傷だけですんだのなら、治りははやい。
内部の傷は、治療が困難だからだ。
「──また、自惚れそうになってしまうな」
「どういう意味でしょうか」
「君が、私に……特別な感情を抱いてくれているのではないか、と」
「好きですよ」
ラーチェルはオルフェレウスをじっと睨み付けるようにしながら、そう告げた。
できることなら、その胸を叩きたかった。
今更──何故、気づかないのかと。
「好きだから嫉妬して、悲しくなって嬉しくなって、怖くなって……ぐちゃぐちゃです、私」
「いや。君はとても勇ましく……格好よかった」
「ふふ……ありがとうございます。格好いいと言われるのははじめてですが、嬉しいです」
「ラーチェル。私ははじめて、死にたくないと思った。君のお陰だ」
オルフェレウスは、ラーチェルの頬に触れて、そっと引き寄せる。
何かと思って見あげていると、ゆっくりと唇が重なった。




